【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
藤襲山に朝が訪れ、その名の通りに重なり合うごとく連なる藤の花の森に入ると、目の前に巨大な人影が見えて、
なんで、藤の花の中に鬼がいる?
いや、しかし鬼が藤の花が苦手といっても、あくまで『苦手』なだけで、頑張って我慢すれば多少は歩いたりもできるのだろうか……?
しかし前を歩いていたその男は、後ろで
額に大きな傷跡、首には朱い数珠が幾重にも巻かれている。
こちらを見る目は白濁していて、目が合っているのかどうかはわからなかった。もしかすると盲目なのかもしれない。
律歌は刀に手をかけつつ、そろそろ近づいた。
「………私は鬼ではない」
男はつぶやくように言った。その目から涙がツツーっとこぼれ落ちる。
律歌はあわてて駆け寄ると、早口に言い訳をした。
「あっ、ごめん、ごめん。ごめんねー。いやー、あんまり大きいから熊か鬼かと思ってさー。そんな泣かないでよー。大の男が」
「……涙は光に目が染みて出ているだけだ。泣いているわけではない」
「あぁ、そうなの? って、アレ? 目、見えてるの?」
「見えない。……が、光はわずかに感じる」
「あぁ、そうなのね。えーと……あの、あなたも受験者?」
「………」
男は無言で鳥居の方へと向かっていく。
律歌も後をついて歩きながら、周囲を見渡したが、どうやら二人だけだった。入る時には二十人近くはいたのだが、皆、殺られてしまったのだろうか。
鳥居を出ると、前面に朝焼けの空が広がっていた。紫と朱色の雲が混ざり合って、周囲の山々の間を渡っていく。
「綺麗ねぇ……でも、今日は雨ね。朝焼けが綺麗な時は雨だものね?」
律歌は同意を求めるように言ったが、当然のことながら盲目の男に見えるはずもない光景だった。
「お帰りなさいませ。おめでとうございます。ご無事でなりよりでございました」
そこで頭を下げていたのは白髪の美しい女の人だった。
七日前に行くときにも、「ご武運を…」と送り出してくれた人だ。その時いた数名の受験者達が「奥方様だ」と囁きあっていたのを思い出す。
律歌は手を上げた。
「あのー」
女の人が「なにか?」と問いかける。
「あなたは、奥方様なんですか? お館様の」
不躾かな……とは思ったが、好奇心が勝ってしまった。
女の人はフワリと笑んだ。
「えぇ。左様でございます」
「あ、そうなんですね。やっぱりお館様の奥方様になられる人は綺麗な人なんですねぇ…」
律歌が言うのを、お館様の奥方 ―― 産屋敷あまねは返事することなく、また少しだけ笑って、この後の説明をした。
「御二方には、刀を造るため、まず
机の上に大小十個ほどの、形も、浮き出る色も様々な石が並んでいた。
律歌は目についた一つを取り上げて、「はい、これ」とあまねに示した。
即断即決。
そそそ、と横から現れた隠の人が、手に持った手拭い越しに受け取って、そのまま丁寧に包んだ。
男は机の上に並べられた石を一つ一つ手に取っていた。
律歌は近くにあった大きな切り株にペタンと腰掛けて、その様子を見ていた。
見ていると……七日間の緊張感が途切れ、自分が生き残ったという安堵と、疲れと、空腹感が一気にやってくる。
その男が二つの石を比べて、最終的に一番大きな玉鋼を取ったところまでは見えていた。
なんだぁ、大きさで選んだのか。じゃあ、教えてあげればよかったなぁ……と思っていたのも覚えている。
だがその後に鎹鴉が支給されたこと、すっかり寝入ってしまった律歌をその男が背負って、、選別後の休養場所になっている藤家紋の屋敷まで運んでくれたことは、まったく知らない。
半日近く眠りこけて、目を覚ましたのは夕暮れ近く。
雨の降る音でだった。
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「ごめんねー。なんか。運んでくれったって?」
縁側で巨体を縮めていた男に声をかける。
同時に男の胡座の中で気持ちよさそうに寝入っている猫二匹を見つけて、律歌は「やだ。可愛いじゃない」と隣に座り込んだ。そろそろと頭を撫でると、猫は一瞬、目を開いたが、害意はないとわかって、また目を閉じる。
「気持ちよさそうに寝てるわねー」
男は少しバツが悪そうに、身じろぎしようとしたが、律歌は止めた。
「せっかく寝てるんだから、もうちょっとそのままでいなさいよ。あ、でも
「ち、違う……」
「じゃ、そのままでいてあげてよ。せっかく気持ちよさそうに寝てるじゃない」
理不尽なことを言われながらも、男は結局言われるままに動かなかった。
律歌はフフフと笑って猫を見つめた後、思い出したように顔を上げた。
「そういえば、自己紹介まだだったわね。私は
「……悲鳴嶼行冥」
「お坊さんみたいな名前ね」
「……寺で育てられたから」
「あらそう。いくつ? 私十七歳」
「……十八」
「えっ? そうなの? 見たままだったのね。鬼殺隊に入るのって十四、五歳が多いから、てっきり老けて見えるだけで年下かと思ってたけど、十八なら年相応……でもないか。老けてるか、やっぱ。でも珍しいわね。私、自分が一番年上だと思ってたのに」
「………………」
悲鳴嶼行冥は少しばかり混乱していた。
自分の人生の中に、こんなにも賑やかな雰囲気の人間を
子供達と過ごしていた時も、もちろん毎日が騒がしく、甲高い声に囲まれていたのだが、どうも律歌から感じる空気はそれとは違う。
生き生きとして陽気で、そこにいるだけでなにか明るい。
そのせいで、少々失礼なことも言われている気がするが、あまり嫌味に聞こえない。
しかし悲鳴嶼はどう言えばいいのかわからず、とりあえず呼びかけた。
「………
「なに?」
「隊服の寸法は測ったのか?」
「うん。さっきね。鎹鴉にも挨拶してきたよ。名前つけてもいいっていうから、百合って名前にした。あー……それにしても、よく降ってるねぇ、雨。あ、でもここから藤襲山見たら、なんか紫の霧雨みたいで綺麗。ねぇ、そう思わない?」
「……見えないからわからない」
「あぁ、そうだった。いつから見えないの?」
「……赤子の時に熱を出して、見えなくなったようだ。よくは知らない」
「あー…じゃあ、色とかもわからないのね。残念。紫ってさぁ、そうだなぁ。雨の日のお線香みたいな感じかな。
「…………」
「あ、ごめん。私もよくわかんない」
律歌は自信がなかったのかすぐに謝ると、隣で無言になった。
悲鳴嶼は胡座の中で眠る子猫を撫でながら、どうにか言葉を押し出した。
「……雨、降ったな」
律歌が首をかしげて悲鳴嶼を見ると、あわてて付け足す。
「あんたが朝に……言ってた」
「あぁ…そうね。そういえば、今日は綺麗な朝焼けだったものね。奥方様も綺麗な人だったなぁ……。悲鳴嶼くん、見たらきっと一目惚れだよー」
「馬鹿なことを言うな……お館様の奥方に」
「ハハハハ! そうね。さすがに失礼か」
言いながら律歌は立ち上がると、うーんと伸びをした。
「あー、お腹減ったぁ。夕飯まだかなぁ……」
そのまま廊下を歩き去っていく。
去っていく足音を聞きながら、悲鳴嶼は奇妙な女と同期になってしまった……と、少しばかり嘆息した。
翌朝、すっきりと晴れ渡った空の下で、悲鳴嶼と律歌は別れた。
別れ際、律歌は手を差し出すと、ボンヤリ立っている悲鳴嶼の右手を取った。
「じゃ、お互いがんばろー」
ギュッと握手してから、パチンと手の平を打ってくる。
「じゃあねー、悲鳴嶼くん。元気でねー」
その声を聞きながら、悲鳴嶼は手を振った。
おそらく律歌も振っている。大きく何度も振っているだろうと思った。
見たこともない笑顔が、なぜか胸中に浮かんだ。
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一年後 ――――
同期ということもあってか、最初は二人で共同任務にあたることも多かったが、半年ほど過ぎると、悲鳴嶼の階級がどんどん上がり、その間に律歌が怪我で療養することもあって、いつのまにか会わなくなっていた。
久しぶりに律歌に会えた時、悲鳴嶼はホッとしていた。
任務中に鬼に殺される隊士は少なくない。また殺伐とした職務を続ける中で、精神を病む者も多かった。だが、律歌は相変わらず元気でおしゃべりだった。
その日、久しぶりに共同任務にあたることになった時、悲鳴嶼は話の流れで気付くと自分が鬼殺隊に入った理由を話していた。
「……じゃあ、悲鳴嶼くんが間違われて捕まっちゃったってこと?」
「そうだ」
「あらまぁ、大変。とんだ勘違いされちゃったわねぇ…」
「………」
とんだ勘違いどころか、もし沙代の言葉のまま物事が進んでいっていたら、悲鳴嶼は処刑されてここにいない。
「子供というのは、そういうものだ。いざとなれば己の弱さのまま、暴走する。自らの行いが残酷なことを知ることもなく、無自覚に人を傷つけ、そのことを知ることもない。私の言うことを聞かずに逃げた子も、沙代も、所詮は私を信じていなかったのだ」
「………」
隣で歩く律歌は頷かなかった。うーん、と納得いかない様子だ。
「本当にそうかなぁ……?」
「………何がだ?」
「だって、その子達、悲鳴嶼くんと一緒に暮らしてたんでしょ? もちろん悲鳴嶼くんがその子達の面倒を見てもいたんだろうけど、目の見えない悲鳴嶼くんのことを手伝ったりもしていたでしょう? そういう子達がそんな薄情かなぁ?」
「………普段はわからないだけだ。いざとなれば皆、本性が出る」
「その本性はいつも裏切るだけ?」
悲鳴嶼は戸惑った。
律歌の声は少し怒っているように、苛立っているように聞こえた。
「……間違っているのは私だというのか?」
「それはわからないわよ。その場にいた悲鳴嶼くんがそう感じるのなら、それが一応の正解なんでしょう」
「一応?」
「私は悲鳴嶼くんの性格をある程度わかってるつもりで言うけど、悲鳴嶼くんと一緒に暮らしていた子達がそんなに薄情者だったとは思えない…ってだけよ」
その声音の中に、少しばかり憐れみが入っているように思えた。
悲鳴嶼は眉を顰めると、足を早めた。
わかったようなことを言う。何も知らないくせに。
あの時、どれだけ自分が必死に子供達を守ろうしたか……!
ただ一人残った沙代を助けるために、気味の悪い感触に吐き気すらおぼえながらも、ただただ拳をふるい続けた。
夜明けまで。
それなのに沙代は断罪したのだ。「アノ人ハ化ケ物」と。
隊士になって以来、いつも沈着冷静に鬼と対峙してきた悲鳴嶼が、その日は少しばかり感情的になっていたかもしれない。
現場に一般人がいたことに気付かず、戦闘を始めた悲鳴嶼を止めることのできなかった律歌は、巻き込まれた人を
「房前!」
自分の失態に気付いた悲鳴嶼は動揺し、あわてて律歌に駆け寄ろうとしたが ――
その背後で鬼は悲鳴嶼にやられた腕を再生して振り下ろそうとしていた。
十本の毒の爪が飛び、悲鳴嶼を切り裂く前に、律歌は跳躍して技を繰り出した。
花の呼吸 陸ノ型 渦桃
空中で身体をひねりながら、渦巻いた斬撃で鬼の爪を
不十分であることはわかっていた。
庇ったときに攻撃を受けた足が痺れて、跳躍が足りない。
これでは鬼の首は斬れない。
あくまであの毒の爪から悲鳴嶼を守り、こちらに鬼の注意を向けさせる程度だ。その間に悲鳴嶼が攻撃体勢に入るだろう。
律歌はかろうじて着地すると、ガクリと膝をついた。
左足がビリビリと痛みを増すと共に、足先から徐々に痺れが広がっていく。
「クッ………」
顔を上げると、続けて攻撃を行ってくれると思っていた悲鳴嶼が、呆然とこちらを見ている。
「馬鹿!」
律歌は怒鳴った。
「なにやってんのよ! さっさとやっつけなさい!」
発破をかけられ、悲鳴嶼はハッと我に返った。
一気に息を吸って集中を高めると、呼吸の技を繰り出す。
岩の呼吸 弐の型 天面砕き
その凄まじい威力を前に、鬼の首どころか上半身が砕け潰れた。
返り血が派手に散る。
見る間に鬼の姿は塵となって霧散していった。
悲鳴嶼が血塗れの顔で振り返ると、律歌に助けられていた男が「ヒッ!!!」と裏返った声を上げて
律歌は腰を抜かした男の前にしゃがみ込むと、
「大丈夫だから……」
と、やさしく声をかけたものの、男はその律歌の顔を蹴りつけた。
「
「……貴様!」
悲鳴嶼は鎖を掴み上げて、見えない目で男を睨みつけた。
「ハ、ハ……なんだテメェ……めくらかよ」
男は悲鳴嶼が盲目であることに気付くと、半笑いを浮かべて逃げていった。
悲鳴嶼は腸が煮えくりかえる思いであった。
自分が馬鹿にされたことよりも、律歌を足蹴にしたことが許せない。いっそ鉄球で男の頭をかち割りたいくらいであったが、今はあんな男に構っている場合ではなかった。
すぐさま踵を返して律歌のそばに行くと、クスクスと笑っているらしい様子に、悲鳴嶼は困惑した。
「おい……大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。なんつー男よ、ねぇ? 助けてもらっておいて、女の顔を蹴るってさー。ありえないわー。ほんっと」
「………怪我は?」
律歌は笑いを収めると、冷静に今の状態を説明する。
「毒ね、おそらく。薬は飲んだけど……足が変色してきてる。血を抜かないといけないから、さっき太腿を切った。隠が来て助かるか、失血死するか……ってとこかな」
「…………近くに藤家紋の家がある。すぐに処置すれば間に合う」
珍しく早口に言って、悲鳴嶼は律歌に背を向けて
「乗れ」
フッと律歌が笑みを浮かべる。
「大丈夫? 悲鳴嶼くん。そんな重いの持ってるのに」
「……あんたをおんぶするくらいは、大した違いはない」
「お、言ったね」
律歌は軽口を叩くと、起き上がろうとして痛みに顔を顰めた。が、歯を食いしばって身を起こし、悲鳴嶼の広い背に倒れ込むようにおぶさった。
藤家紋の家までの道は満月に照らされていた。
昼でないが、明るい。
冬に入る前の冷たい風が頬を撫でてゆく。
「……人の本性が出たね」
律歌がつぶやくように言った。「あれは確かに……傷つくよね」
悲鳴嶼は黙っていた。任務前にそんな話をしたせいで、自分がいつになく落ち着きを失い、律歌にいらぬ怪我を負わせてしまったことを悔いていた。
「でも、あんな奴と……悲鳴嶼くんが一生懸命世話してた子達が一緒だと思う?」
「……房前。その話はもういい」
「なんかしゃべってよ。なんか……話してないと気を失いそうだし……そしたらそのままアッチにいっちゃいそうだし……まぁ……行ってもいいんだけど」
「………」
「おーい。悲鳴嶼くーん。聞こえてますー?」
「……どうして……鬼殺隊士になった?」
死にかけている人間にする話なのかどうかわからなかったが、悲鳴嶼はそれしか話題が思い浮かばなかった。
いつも明るく元気で、さっきのような
律歌はしばらく黙り込んだ。
「おい?」
少し焦って呼びかけると、「生きてるよ」と少し笑ったような声が聞こえた。
「私は…私はねぇ……旦那を殺されたのよ」
一瞬、悲鳴嶼は足が止まり、息を呑み込んだ。
が、すぐにまた歩き始める。
「……熊みたいにデカイ人でさー。村一番の大男で、力持ちで……そのくせ涙もろくって、お人好しでさぁ。ウドの大木だーなんて馬鹿にする奴もいたけど、あの人の周りにいる人間はみんな幸せだった。……私も、そう。お見合いだったけど、大事にしてくれたし……私、頭で考えるより先に口が動いちゃうからさ。けっこうキツイこと言ったりすることもあったんだけど……優しいから、許してくれるから、好きだった。大好きだったの……」
そこまで話してから、一瞬、律歌の意識は途絶えた。
「おい、房前! 房前! おいっ……おいっ……律歌ッ!」
必死に呼ぶ悲鳴嶼の声に、律歌の意識がまた戻る。
誰に話しているのかもうつろになりながら、律歌は懐かしい人の話を続けた。
「人の本性でいうなら、あの人は善人だった。鬼を目の前にして、私を庇って死んだの。鬼の爪で背中を何度も掻き切られながらね……ずっと守ってくれてたから。とうに息絶えてたのに、ずっとね。……本当は、本当はね……鬼殺隊に入るつもりは…なかった……。でも、子供がさ……流れ…ちゃっ…て……」
ポタポタと律歌の足から血が流れ落ちる。
とうとう気を失ったらしい。
悲鳴嶼はもう呼びかけなかった。考え始めると混乱して叫びたくなってくる。
とにかく早く藤家紋の家へ ―― !
何も考えず、ひたすらに悲鳴嶼は走った。
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数カ月後 ――――
悲鳴嶼が吉野にある
「お、来た来た。岩柱、おめでとー」
挨拶もなしにいきなり拍手され、悲鳴嶼はどう答えればいいのかわからなかった。
「どう、柱って? 大変? 大変だろうねぇ……今、悲鳴嶼くん以外って何人いたっけ? 五人だったっけ? この前、また殺られたって聞いたよ」
「……あぁ」
「あー。私も早く復帰して、おっ
悲鳴嶼は驚いた。
律歌の左足はもはや使い物にならないと、あの時、診察した医者は言っていた。
なんとか足の切断はせずに済んだものの、神経をやられて自分の意志で動かすことはできなくなっていた。
「房前、お前……復帰するつもりなのか?」
「そりゃそうよ。だって正味一年も隊士やってないのよ。弟子の期間の方が長いなんて、笑い話だわ。何年かかるかはわかんないけど……いつかはね。戻るつもり」
「………」
悲鳴嶼は沈黙すると、頭を下げた。
「なに?」
律歌が鋭い声で問うてくる。「頭下げられるようなこと、私、した?」
「……悪かった。あの時は……申し訳ないことをした」
律歌はしばらく無言だった。
ズ、ズと足を引きずってこちらに向かってくる音がする。
止まると同時に、ベチっと額を打たれた。
「馬鹿じゃないの」
明らかに怒った声音だった。睨みつける視線も感じる。
「私は、私なりに最善の手を尽くしたと思ってるわよ。そりゃ、助けてああいう態度に出られて多少はヘコんだけど、まぁ、ない話でもないわよ。悲鳴嶼くんは私の行動に問題があったと思う?」
「違う……あの時は冷静でなかったんだ、俺は。それで……」
「そうねぇ……ちょっとばかしボケッとしてたわね。ま、あの場にいた人間はみんな無事なんだし、それで良しとしなさいな。それで、私の足一本分くらい活躍してくれればいいわよ。私が戻るまで」
律歌は軽い調子で言い、ポンポンと悲鳴嶼の肩を叩いた。
また、ズ、ズと足を引きずって中へと入って行こうとして振り返る。
「お茶でも飲んでくでしょ?」
「……いや。すぐに出る。寄っただけだ」
「あら、そうなの?」
「あぁ……」
そのまま立ち去ろうとする悲鳴嶼を、律歌は呼び止めた。
「あぁ、そういえば悲鳴嶼くん。あの時さ、呼んだ?」
「………呼ぶ?」
「おんぶして、藤の家まで運んでくれたじゃない? あの時、私の名前呼ばなかった? 『律歌』って」
「…………」
悲鳴嶼はしばらく返事が出来なかった。
律歌が自分をじっと見ているのがわかった。
その目は本当のことは既に知っていると告げていたが、悲鳴嶼には見えない。
「……いや。呼んでない」
ようやく返答すると、律歌は黙り込んだ後、「……そっか」と笑った。
「じゃあ、
「……あぁ。そうだろう」
「そうね……。じゃ、頑張ってね」
また、ズ、ズと足を引きずる音がする。
だんだんと遠ざかっていく。
悲鳴嶼はグッと唇を引き締めると、再び踵を返して歩き始めた。
屋敷の中に入る前に、律歌は振り返った。
悲鳴嶼の姿はもう小さくなっていたが、夕焼けの中、長く大きな影が伸びている。
その影に向かって、律歌は小さくつぶやいた。
「ばーか……」
<見えない瞳 了>
次回は2021.03.31.水曜日の更新になります。
▼作中にて登場人物の台詞の中に差別的表現が出ていますが、あくまで人物を描く上での表現としての言葉であり、筆者がそうした差別的な意向を持って書いたものではありません。