【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第一章 鬼殺の人々(五)

「夕涼みにはまだ寒すぎじゃないのか?」

 風呂屋から帰ってきて、道場裏にある小川のほとりで佇んでいた薫に声をかけてきたのは匡近だった。

 

 どこからか梅の香りが仄かに香ってくるが、まだ夜は冷える季節だった。

 縞の着物の上から葡萄茶(えびちゃ)色のショールを巻いただけの薫は寒そうに見えた。

 

「いえ。大丈夫です」

 薫は言いながら、肩からハラリと落ちかけたショールを首に巻き直した。

 

「あの、粂野さん」

「ん――?」

「すみません。なにか、気分を損ねてしまったみたいで」

 匡近は少し困ったような笑みを浮かべた。

 

「さっき聞いたよ。なんか最近、薫が隊士を下の名前で呼ぶようになったって」

「あ……はい」

「ちょっと不用意だったねぇ」

 言いながら、匡近は足元の石を拾っては川に向って投げた。

 

「不用意?」

「なんでまた、いきなりそんなこと始めたの?」

「それは……」

 

 薫は少し言い淀んでから、佐奈恵のことを話した。

 亡くなった佐奈恵が少しでも早く隊士達と仲良くなるために、下の名前で呼ぶようにしていたこと。実際に自分も実践してみたら効果覿面(てきめん)で、共同任務でも早くに打ち解けられるため、士気が上がるのだと。

 匡近は佐奈恵の名前を聞くと、懐かしそうに目を細めた。

 

「そういやぁ、日村のヤツ、俺のことマッさんとか呼んでたな。そのせいで同期の連中は俺のことマッさんって呼ぶんだ」

 薫は笑顔になった。

 ようやく佐奈恵の話を楽しく、懐かしくできることが嬉しかった。

 

「そうですね。佐奈恵さんって、呼び名を考えるのが上手だったみたいで」

「あいつはそういうふうに人の懐に入っていくのが上手(うま)いっていうか……自然だったんだよなぁ。だからあんまり嫌な気もしなくて」

 

 一瞬閉じた瞼の裏に、明るく少々騒がしかった後輩の姿が浮かぶ。

 鬼殺隊士としての技量は今ひとつではあったが、人望はあった。ズケズケと言いたいことを言っているようでいて、案外と口も堅く、思慮深い性格だった。

 

「粂野さんは、なんて名前なんですか?」

「は? 俺?」

「すみません。以前に教えてもらったとは思うんですけど、忘れてしまって。マッさんってことは……まさ、むね? 違いますね。えーと、まさ、し? まさ……」

 必死に宙を見つめて思い出そうとする薫が可愛かった。

「匡近だよ」

と言ってから、しまったと気付くと同時に、薫が無邪気な笑顔を浮かべて呼んできた。

 

「あぁ、匡近さん。そうでした。匡近さん、でしたね」

 いきなり二度も呼ばれて、匡近は俯いた。

 顔を手で隠しながら、溜息をつく。夜でよかった…と、心底思った。

 

「匡近さんは、今回はこちらで任務があるんですか?」

 ふぅーっと深呼吸をして、心の準備をしてから匡近は顔を上げた。

 

「薫。あの…な」

「はい」

「そうやって、あんまり男に下の名前で呼びかけるのは、どうかと思う」

「……え?」

 

「いや。もちろん、お前の気持ちはわかる。日村みたいにやりたいっていうのは、まぁ、立派なことだと思う。でも、お前と日村だとな……ちょっと違うんだ」

「どこが、違うんでしょう?」

「うーん。それはなぁ……どこがどうって指摘できるもんじゃないんだけど……」

 

 匡近は腕を組んで、どう言うべきなのか考えあぐねた。

 

「今日、実弥が怒ってたろ?」

「……はい」

「あれは、ここに入ってきた途端に男共の気持ちが弛んでるのが目に見えてわかったからだ。こんなんじゃ、鬼の討伐どころじゃない」

「……つまり、気持ちの弛みの原因は、私だということですか?」

「まぁ、そうだな」

 

 匡近はぽりぽりと耳の後ろを掻いた。

 薫は途方に暮れたような顔になった。泣かれるのではないか、と一瞬匡近は焦った。

 

「いや、つまりな。男共ってのは、きれいなお嬢さんやら可愛い女の子から自分の名前なんか呼ばれたら気持ちが浮き立ってしまうもんなんだ。それは別にいやらしい意味とかじゃなくて、そういうモンなんだよ。日村はその点、例外で……」

「わかります」

 薫は自嘲した笑みを浮かべた。

 

「私は佐奈恵さんのようには振る舞えませんから。一緒にいるだけで元気になって、皆が思わず笑ってしまうような冗談も言えないですし。どうしても形ばかりで、やっぱり上辺だけ真似しても駄目なんでしょうね」

 そうじゃなくて――――と言いたい一方で、それもまた間違いではない。

 

 佐奈恵には『マッさん』と呼ばれようが、『匡近』と呼び捨てにされようが、特に何も感じないが、薫に名前を呼ばれると、さっきもそうだったように、妙に気恥ずかしい気持ちになってしまうのだ。

 

 それに他の男が薫のことを『薫さん』と呼んでいることも、妙に胸をザワつかせた。

 それは実弥も同様だろう。明らかに不機嫌だった。道場の男共が薫の話題で盛り上がることも、親しげに名前を呼ぶ事も。

 

 やたらと薫に執心しているらしい、あの宗家のお坊ちゃん、風見翔太郎。もし彼が本当に篠宮門下の弟弟子だったら、あの時点で一発入って半日失神していたに違いない。

 

「なかなか難しいですね」

 薫はしゃがみこんで、小川の流れを見つめた。

「昔からそうなんです。良かれと思っても、空回りしてしまって…」

 

 しゅん、と肩を落とす薫に手を伸ばしかけて止めた。

 思わず後ろから抱きしめそうだった。

 自分がその役目でないことは重々わかっているのに。

 

「頑張り屋なのは、変わらないな」

 

 匡近は手持ち無沙汰になった手で、軽く薫の頭をポンと叩いた。

 薫なりに一生懸命だったのだ。それを責めることはできない。

 

「勝母さんには、頑張りすぎるからちょっとサボれって言われました」

 薫は振り返って笑った。

「ハハハ。あの人なぁ……」

 豪快に笑う勝母を思い出した途端、前に会った時に言われたことが頭の片隅から飛び出してきた。

 

 ―――――お前さんがあの子を嫁にしたけりゃ、すりゃあいい。

 

 匡近は口を押さえた。

「粂野さん?」

「いや、なんでもない。そろそろ帰るぞ。冷えてきた」

 ブルッと身を震わせて、匡近は踵を返す。

 脳裏で勝母が囁いてくる。

 

 ―――――あんた、あの娘が好きなんだろ?

 

 鬼殺隊を目指すようになって以来、フザけてそんな話をすることはあっても、実際のところ自分の恋愛など、遠い遠い遥か彼方の水平線の向こうに飛ばされて行ったと思っていた。

 だが、こんな近くで、気付けば笑いかけられるだけで、幸せを感じている自分がいる。

 

 ―――――アンタがアイツを貰ってやりゃァ、いいんだ……

 

 投げやりに言った実弥。本当はそんな事、露ほども思っていないくせに。

 

 今でも憶えている。

 薫が作ってくれたおはぎを、怒ったような顔で食べながらも、耳を真っ赤にしていたこと。

 いまだに薫の作ってくれたという、ボロボロのの道中財布を持ち続けていること。

 

 わかりやすくて、こちらのつけいる隙もないくらいだというのに、どうしてこの二人はここまでこじれてしまったのだろう……?

 

 お陰で、匡近は――…自分の立ち位置が決まらない。どうかすれば、実弥に抜けがけして、薫を手に入れようとすら思ってしまう。

 

 案外と腹黒いんだな、俺は。

 自分でも気付かなかった自身の心根に、匡近は苦笑してしまう。

 口の端にらしくない笑みが浮かんで、気付いた薫が不思議そうに見た。

 

「どうしました?」

「いや……」

 

 匡近は胡麻化そうとしたが、ふと薫をまじまじと見つめた。

 いっそ、はっきりとフラれた方が楽なのかもしれない。

 

「薫、頼みがあるんだけど…」

「はい?」

「もし、俺がいなくなったら、実弥のこと頼むな」

「えっ?」

 

 薫の顔色がサッと変わる。

 

「まぁ、こういう仕事だし。ありえないことじゃないだろ?」

 匡近は軽く言ったが、薫は立ち尽くして、ショールをギュッと掴んでいた。

 

「どうして…いきなり?」

「うん、まぁ……俺も階級が上がって、わりと厄介な案件を任されるようになってきたし。アイツ、あんまり友達とかいないからさ。ああいう感じだから皆、怖がって声かけないし。薫ぐらいしか、アイツのこと気にかける人間いないだろ? それに同門だし、俺より昔からの知り合いでもあるし」

 

 匡近が言えば言うほどに、薫の顔は曇った。

 眉間に皺を寄せ、淋しげに俯いた。

 

「……私は、無理です」

 絞るように呟いた声は、あまりにも自信なさげで、哀しそうだった。

 

「粂野さんみたいに、実弥さんに頼られるようにはなれません」

「えぇ? 頼られてるかなぁ、俺」

「それは、もちろん。そうです。実弥さん長男ですから、ずっと気を張って生きてきたと思いますけど、粂野さんの前でだけ、安心して自分をさらけ出してる感じがしますから」

「うーん…それは喜ぶべきかぁ?」

 

 薫は淡く微笑んだ。

「実弥さんにとって、粂野さんは特別だと思いますから、ずっと一緒にいて下さい。私は――――実弥さんの何者にもなれませんから」

 諦めきったように言って、薫は匡近の横を通り過ぎようとする。

 

 匡近は驚いた。

 思わず薫の腕を掴んで、語気荒く問いかける。

 

「本気でそんなふうに思ってるのか!?」

 

 薫は目を丸くして匡近を見つめた。

 どうしてそんな事を聞くのだろう? と、言わんばかりに。

 

「思ってますよ。今日だって、相変わらず辞めろって…」

「………違う!」

 匡近は大声で否定した。「実弥は……」

 言いかけて、匡近は口を噤んだ。

 

 薫はあまりにも悲しげに、いっそ苦しそうに見えながらも、笑っていた。

 腕を掴んだ匡近の手をとると、やさしく両手で包み込んだ。

 

「匡近さん、やめましょう。鬼殺隊にいる以上、誰が先に死ぬかなんて、わかりようがないんです。頼まれた私が、先に死ぬことだってありえないことじゃないでしょう?」

 

 そう言われた時に、匡近はいよいよ実弥の気持ちが痛いほどに理解できた。

 そんな未来を想像するのも苦しいから、実弥は必死で薫を辞めさせようとしているのだ。例え、そのせいで誤解されたとしても。

 

 それなのに自分は卑怯で、薫を失いたくない気持ちは同じくらい持っているくせに、嫌われたくないし、あんな悲しい顔もさせたくないから、理解ある兄弟子のフリをして、側にいたまま信用を得ようとしている。

 

 俺は実弥のようにはなれない。

 本当に薫を大事に想っているのは、自分じゃない。

 そう伝えて、潔くフラれれば、まだしも自分も捨てたもんじゃないと思えるだろうに……。

 

 ―――――なんで、言えない?

 

 薫は手を握ったまま、匡近を見上げてニッコリと笑った。

「行きましょう。匡近さん。本当に寒くなってきましたよ」

 

 そう言って、手を放す。

 冷たい風が、温もりを奪っていく。

 匡近は握り拳をつくって立ち尽くす。

 

 顔を上げると、先を歩いていた薫が振り返って「早く」と、手で招いていた。

「匡近さん、早く。風邪引いちゃいますよ」

 

 名前を呼ばれたことに気付いて、少しこそばゆい気持ちになったが、これくらいはいいかと思うことにした。

 

 ゆっくりと歩きながら願う。

 もう少しだけ、このままで―――――。

 

 

 

<つづく>

 

 

 






次回の更新は2021.04.17.土曜日の予定です。

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