【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第二章 変調(四)

薫子(ゆきこ)さん、お見合いをするのですって?」

 

 会うなり、浮き立った様子で言ってきたのは、薫のピアノの先生であるところの明見(あけみ)侯爵夫人・千佳子(ちかこ)だった。

 

 志津らの()()から、一ヶ月。

 まだ少し肌寒さの残る早春の午後のこと。

 

 ピアノの稽古に訪れた薫は、挨拶する間もなく問われて、

 

「え? ……あ、はい」

 

と、戸惑いつつも頷いた。

 

 千佳子はパンと手を合わせて、うっとりと喋りだす。

 

「まぁ、ステキ。私、心配でしたのよ。あなたのお生まれだと、なかなか貰ってくださる殿方はいらっしゃらないのじゃないかしら、って。でも、よかったわ。見る方はちゃんと見ていてくださるのね。十二でもうそんなお話が舞い込むのですもの。もし、破談になったとしても、きっと卒業までにはお相手が見つかりますよ」

 

 後ろで控えていた付添のスヱ子は、無邪気にひどいこと言っている千佳子にいい気分はしなかったが、薫は笑っていた。

 

「そうですね。もし、決まったとしても、私、卒業まではいるつもりですし」

「あら、そうなの? どうして?」

「色々と学びたいこともございますし……」

「まぁ、薫子さん。おやめなさい。貴方(あなた)も、例の騒々しい女達のように、やれ自由だとか言い出すのではないでしょうね? ご自分の容姿に引け目のある方に限って、やたらと頭でっかちになって、声が大きいこと!」

 

 千佳子は当年二十九になるが、未だに立てば芍薬…と形容されるほどに、麗しい美貌の主である。

 小さい頃から可愛い、美しいと持て囃され、本人も何一つ謙遜することなく、自分が美人であると思っている。

 なので、言っていることはまったく痛烈な皮肉であっても、当人にはまるでその気はない。

 

 薫は苦笑しながら、鞄から楽譜を取り出すと、譜面立てに並べた。

 

「千佳子様のような才能があれば、よろしいのですけれど、私は何もできませんから」

「あら、そんな。随分と上達されましてよ。ピアノ以外にもお琴だとかも習っているのでしょう?」

「あくまで習い事程度、です。千佳子様のようにはできません」

 

 天は二物を与えず…とは言うが、千佳子にかかっては、その美貌に神様も陥落したのか、ピアノは今もこうして薫に教えることができるくらいであるし、絵を描かせても上手で、実際にもらっていく人も多い。

 

 お金に困っていれば、絵描きとなり、売り(ひさ)いで稼ぎとしていたであろうが、千佳子のような環境ではお金をもらうなどはしたないと、欲しがる人にはあげてしまっているらしい。

 

「それこそ、勉強なんてつまらないものをしているからですよ。私は十七の歳には結婚して、今の生活でしたのよ。存分にピアノも弾けて、絵も描けて。薫子さんも早々に結婚なさって、そうしてご覧なさい」

「……左様でございますね」

 

 薫はとりあえず返事をして、椅子に浅く腰掛けると、鍵盤に指を置いた。

 

 千佳子に言われておさらいしたところを弾き始める。

 父母の要望で始めたピアノだったが、初めてその音色を聴いた時には、世の中にこんな愛らしい音色と恐ろしい音色で鳴る楽器が存在するのか、と驚いたものだった。

 

 その時、千佳子が弾いてくれたのはベートーヴェンの『悲愴』というソナタだった。

 最初、荘厳で厚みのある音の洪水に薫はびっくりし、父の腕に掴まって固くなっていたが、やがて優美な曲調になると、その穏やかで美しい旋律に、一気にピアノが好きになった。

 いつか自分も千佳子のように弾きたいと、数ある稽古の中でも特に時間を費やして練習をしている。

 

 弾き終えると、千佳子は腕組みして頷いた。

 

「まぁ、いいでしょう。大したものよ、薫子さん。ここまで来れば弾ける曲も増えてきますよ。練習曲だけでは面白くないでしょうから、ドビュッシーなぞも弾いてみるとよろしくってよ。古典派と違った表現が楽しめますからね…」

 

 千佳子は言いながら本棚からいくつかの楽譜を取り出してくる。

 

 薫は窓の外に目をやった。

 

 こぶしの白い花がもう咲いている。

 春まだ浅く、桜の開花前の時期に咲くこぶしの花は、桜のような華やかさはないが、可憐であった。

 

 志津の家に行く時に、道中、咲いていたことを思い出す。

 そういえば、あの家を初めて訪ねたのは、ちょうどこの時期だった。……

 

「そういえば、貴方、ベートーヴェンのソナタで気に入ってらっしゃったのがあったわね」

「はい。『悲愴』の第二楽章です。初めて千佳子様の演奏を聴いてから、ずっと弾いてみたいと思っていて…」

「そう。じゃあ、レパートリィに加えなくてはね。新しい練習曲にしましょうか」

 

 千佳子は楽譜を譜面台に置いて、ニッコリと微笑む。

 西施楊貴妃もかくやという笑顔だ。

 だが、ただ美しいのではなく、こうして薫の好きな曲を覚えていてくれたりもする細やかな心遣いが千佳子の美しさのゆえんだと薫は思った。

 

「はい」

 

 返事をして、ピンと背筋を伸ばす。

 ようやく自分の目標としていた曲が弾けることが嬉しかった。

 柔らかく鍵盤に指を下ろす。

 

 たどたどしい旋律が窓から漏れ出していた。

 

 

◆◆◆

 

 

 石塀にもたれかかりながら、実弥はその音色をしばらく聴いていた。

 上手いのか下手なのかは、よくわからない。

 

「おーい。どこ行ってんだよ。探したぞ」

 

 のんびり呼びかけられ、実弥が閉じていた目を開くと、黒い詰襟の、奇妙な服を着た同じ年頃の男が近づいてくる。

 

「なんでこんなトコいるんだ?」

 

 男はキョロキョロと落ち着きなく辺りを見回した。

 

 屋敷…と呼ぶに相応しい豪邸ばかりが並んだ高級住宅地だ。

 雑多な声が飛び交う下町と違い、人影のほとんどない閑静な道。聞こえるのは鳥のさえずりと、木々の葉擦れの音。時々、遠くから大工が木槌を打つ音が響いてくる程度。

 完全に場違いだ。

 警察官にでも見つかって、職務質問など受ければ面倒になりかねない。

 

 早々に立ち去りたかったが…

 

「別に……」

 

 実弥はそう言って、動かない。

 

 たまたま、だった。

 目の前の男に言われた待ち合わせ場所に向かって歩いていると、先の方に見知った顔が見えた。

 

 ―――――薫…?

 

 薫は女中を連れて、どこかに向かっていた。

 

 声をかけるつもりはない。

 志津からも言われたように、元から声をかけられる間柄でもなく、今はもっと遠くにいる。

 

 それでもなんとなしに後を尾けてしまったのは、自分でも面倒な感情だった。

 

 一度、志津の忘れ物を届けに行った時に見た森野辺の屋敷よりも大きな、巨大な門構えの家に入っていく。

 もしかすると例の婚約者とやらの家なのだろうか。

 じくり、と腹の奥底が鈍く痛んだ。

 

 どうすることもできないまま、門から続く石塀伝いに歩いていたら、聞き慣れぬ音が聞こえてきた。だが、耳障りではない。むしろ、ずっと聴いていたいような…懐かしさすら感じる音色。

 

「………これ、なんの音だ?」

 

 実弥が問いかけると、急に訊かれた男は「えぇ?」と、聞き返す。

 

「聞こえてくるだろ、なんか」

 

 男は静かに耳を澄ませた。

 鳥の鳴き声にまじって、流れるような音曲が聴こえてくる。

 

「これって……ピアノじゃないか?」

 

 男は昔、学校かどこかで聴いたことのある音色を思い出す。

 

「ピアノ……?」

 

 実弥はつぶやいて、そういえば寿美が話していたことを思い出した。

 

 ――――知ってる? 薫子お嬢様はね、ピアノが弾けるんだよ。とっても綺麗な音色なんだって。今度、聴かせてもらうんだ。

 

 そんなこと叶うわけもない、と思ったが、今はもしかするとどこかで妹達は聴いているのかもしれない……。

 

「確かオルガンに似たやつだったけど……でも、ぜんぜん違うな。こっちはなんか、もっとすずやかな音色だ」

 

 男は風にのって聴こえてくる曲の節をフンフンと鼻歌で歌う。

 

「下手くそ」

「なんだよー。いい曲じゃないか。やさしい感じの」

「………そうだな」

 

 実弥が静かな声で同意するのを、男は意外そうに見つめた。

 

 会ってからずっと、触れるものをすべて斬って棄ててやると言わんばかりの尖りようだったが、今は少し穏やか…というか、落ち込んでいるようにも見える。

 人混みの中、実弥の姿を見つけてなんとか尾いて行ったのだが、その実弥もまた誰かの後を追っているようだった。

 

「なぁ。誰か、会いたい人とかいるんだったら…」

 

 男が言いかけると、実弥は憮然として否定した。

 

「いねぇよ、そんなもん。行くぞ」

 

 きっぱり言って、スタスタと歩き始める。

 

「おい、いいのか?」

 

 男はあわててついて行き、尋ねたが、返事はなかった。

 

 途切れ途切れにピアノの音が聴こえてくる。

 さっきはやさしいと思ったが、よく聴くと、なんだか物悲しい響きだった。

 

 

 この後、不死川実弥は鬼殺隊に入るため、育手のもとに向かう。

 その育手を紹介したのがこの男、粂野匡近であった。

 

 この時、実弥は確信していた。

 

 もう二度と、薫に会うことはないだろう…と。

 

 あまりにも隔たってしまった。

 届かないほどに遠くに。 

 

 

 その別れは、実弥の覚悟だった。

 

 

 

<つづく>

 

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