【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
あの
鬼殺隊の女の中ではおそらく一番、男を含めても十指に入るほど大柄な信子だったが、不思議と気配を消す業に長けていた。そのせいで斥候を任されることも多い。
辺りを注意深く、そろそろと歩いていると、どこからかうめき声が聞こえた。
声のする方に向かうと、翔太郎の鴉がフワリと上空から降りてきた。
鴉も探していたらしい。
うめき声はさらに先の方から聞こえてくる。
クマザサを踏み分けて、暗い森の奥へと進んでいくと、カエデの木の下に誰かが立っているのが見えた。否、立っているのではない。
信子は慌てて走り寄った。
翔太郎が木の幹に縫い付けられるように、左肩を刺し貫かれていた。
薫の言っていたように、右腕は斬り落とされていた。
「翔太郎、大丈夫か?」
信子は見つからぬように、小さく声をかけた。
白い顔の翔太郎が辛うじて頷く。
信子が渾身の力で刀を引き抜くと、翔太郎はガクリと信子の正面へと倒れ込んだ。
「しっかりせぇ」
励ましながら、信子は羽織の袂を破り、翔太郎の右腕があった場所を覆ってキツく縛る。
「あの野郎……」
翔太郎はガクガクと震えながら、信子が引き抜いた刀に手を伸ばした。それは翔太郎の日輪刀であった。
「翔太郎、やめとけ。出血がひどい。これ以上動いたらあかん」
「あいつだけは……あいつだけは殺らないと……」
念仏のように唱えながら、翔太郎は闇に消えた鬼の姿を睨みつけた。
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―――――時は半刻ほど前に戻る。
土色の鬼は当初、翔太郎達のしかけた波状攻撃により簡単に倒せると思ったのだが、存外にしぶとかった。
斬ることはできるのだが、ブヨブヨした肉のせいで肝心の首が斬れない。だが、だんだんと翔太郎達の勢いに押されたのか、逃げ始めた。
「待てっ、この野郎!」
追いかけた赤川が、いきなり胴体から真っ二つになった。
「え?」
二番手だった
「合田ぁっ!」
駆け寄った下野の右腕が落とされた。
ボタリ、と音をたてて転がった自分の腕を見て、しばらく下野は呆然としていた。
上空では鴉が騒いでいる。
けたたましい鳴き声が闇の中に不気味に響き渡り、やがて鴉が一匹、空から落ちてきた。
首が落とされていた。
「ヤァ」
凄惨な現場に不釣り合いなほどの、のんびりした声。
片腕を失った下野の横に、音もなく、その鬼はまるで最初からそこにいたかのように立っていた。
「四人仲良く鬼退治しに来たの? えらいねぇ」
灰白の顔。赤の隈取。揺らめく長い髪。
異常に盛り上がった右肩から伸びた腕には、一面に入れ墨のような黒の渦巻紋様。
その手には薄緑の血管が浮き出たような不気味な刀が握られていた。
鬼は落ちていた下野の腕を拾い上げると、上を向き、口を大きく開いて吸い込むように飲んでいく。指の部分だけ咀嚼してパキパキと骨の折れる音が聞こえた。
「うあぁぁぁぁ!!!」
下野が悲鳴を上げる。
それは自分の腕が食べられているのを見たからではない。もう片方の腕もまた、斬られたのだ。
押さえて止血することもできぬまま、膝をつく。
「痛いィ? 可哀想に」
やさしげなことを言いながら、次の瞬間には下野の首は落ちていた。
ドサリと胴が倒れ、首がゴロリと翔太郎の足元に転がってきた。
「………」
翔太郎が呆然と立ちすくんでいると、いつのまにか鬼が目の前にいた。
―――――殺られる!!
全身が硬直して動かない。
翔太郎は覚悟した。
しかし、鬼はじいぃと見つめている。視線の先は翔太郎の胸元にある、羽織の家紋だった。
「オマエ、名前は?」
鬼に名前を問われたことなどない。
翔太郎は驚いたのと、恐怖で口がカラカラであったために、すぐに答えることができなかった。
鬼は羽織を掴んで、再び問うてくる。
「ナ・マ・エ」
「………風…見」
聞くなり、鬼は首を傾げた。
「風見? 違うだろ。
「……今は……風見、だ」
「今は? 今は? ………へぇぇ。今は、ねぇ」
鬼は不自然に身体を揺すって哄笑すると、いきなり抜刀した。
ほとんど無意識に避けられたのは、薫との修練の成果だった。
しつこいほどに、この身除けの技を叩き込まれたのだ。
だが、
「………やるじゃないか」
鬼はベロリと緑色の舌を出して、唇をねぶった。
翔太郎は刀を構えながら、鬼を睨みつけた。
その時、不意に後ろから頭を掴まれた。
さっきまで翔太郎達が追っていた土色の鬼が、咆哮を上げて、翔太郎を頭から潰そうとしている。
「くっっ!」
翔太郎は息を吸い込む。全集中の呼吸―――――
風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹
嵐のような暴風と共に切り裂かれた鬼が、悲鳴と共に翔太郎を離した。
地面に転がった翔太郎はそのまま後方へと三回転して、鬼達と間合いをとる。
隈取の鬼はニイィと笑った。
その鬼に土色の鬼がおゥ、おゥ、と呻きながら、赤ん坊のように四つん這いで寄っていく。
スッと隈取の鬼から笑顔が消えると同時に、手に持った刀が唸る。
風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹
翔太郎とは比べ物にならない斬撃。
土色の鬼は皮一枚を残し、首から下はただの肉塊となった。
そのまま隈取の鬼は翔太郎に向かってくる。
咄嗟に刀を振り上げるものの、呼吸の技を出す間もない―――――。
ガキィッ!
刃が噛み合って、そのまま翔太郎は地面の上を滑るように、後ろに押されていった。
ツタが千切れ、枝が折れ、ようやくカエデの木の下で、その太い幹に押し付けられるようにして止まった。
そのわずかな時間の間に、翔太郎は信じられないものを見た。
鬼の持った刀。
刀身は血管のようなものが浮かび上がり、脈動する不気味な刀。
だが、その鍔。
八枚の風切羽の意匠。
それは風波見家に伝わる、風波見家で修行し鬼殺隊士となった者だけが持つはずの……鍔。
「その鍔……」
翔太郎がつぶやくと、同じことを考えていたのか、鬼が言った。
「ようやく見つけた。最近の風の剣士は、この鍔でないんだよなァ」
「お前……」
翔太郎は迫りくる刀を押し返しながら、頭の中がすっかり混乱していた。
どうしてここに……
鬼は困惑する翔太郎を楽しげに見ながら、ぐ、ぐ、と刃を押し付けてくる。
明らかに遊んでいた。本当に殺る気ならば、合田達のように瞬殺できたろう。
「大きくなったなぁ、
鬼が揶揄するようにその名前を呼んだ時、翔太郎はゾッと血の気が引くのを感じた。
それは父の名前だ。
一体、この鬼は何なのだろう? なぜ父のことを知っている?
しかし今はそのことについてゆっくり考えている暇はない。
息を吸い込んで、再び技を放つ。
風の呼吸 参ノ型 晴嵐風樹
鬼は軽やかに後方へと飛び退り、翔太郎は間合いをとった。
余裕の笑みを浮かべていた鬼の顔が歪んだのは、避けきれていなかったのか、手の甲に傷が出来ていたからだった。
「ホゥ……俺に傷をつけるとはな。晃太郎、お前の育手は誰だ? あの男か?」
「うるせぇ! 俺は翔太郎だ! 晃太郎は俺の父親だっ!!」
鬼は目をカッと見開いた。
ギリギリと歯軋りしながら、焦点の合わない目で、恍惚としてあらぬ方を見つめた。
「フ、フ、フ…。そうか、そんなに俺は…。長かったな、長かったよ。地べたを這いずり回って、蛆虫のように…長い長い…何十年経ったんだろうなァ……」
つぶやくように言ったかと思うと、鬼は無造作に刀を振るった。
翔太郎は横へと避けて、その不意の攻撃を避ける。
しかしわずかに肩を斬られていた。並の鬼の爪では傷つくことない隊服も、この鬼の振るう奇怪な刃を防ぐことはできないようだ。
鬼の視線がゆっくりと翔太郎に戻ってくる。
ニヤリと笑い、刀をべろりと舐めた。
「いい動きだ……」
翔太郎はその場で構えた。
威圧してくる空気がずっしりと重く、汗が噴き出してくる。
技を繰り出そうとする翔太郎を、鬼はニヤニヤと笑って見ていた。
息を吸い込む。深く、長く。
コイツが何者なのかはわからない。
けれど、殺さなければならない。
この鬼だけは絶対に殺さなければならない。
理由もなく翔太郎はそう思った。
それはただの直感だったが、確信でもあった。
ブゥンと翔太郎の日輪刀が唸り声を上げる。
風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐
気がつくと、翔太郎は地面に突っ伏していた。
何が起きたのかわからない。
自分が攻撃したはずなのに、どうして地面に叩きつけられたのか? ツツツ、と左耳から血が流れた。音が…遠い…。
鬼は翔太郎の傍らにしゃがみ込むと、グイと頭を引っ掴んだ。
「オマエは師匠に似ているなぁ…。そう、その太い眉とか、睨みつけた時の目とか。懐かしい……」
目を細める鬼の顔が、本当に懐かしそうで、妙に人間臭く翔太郎は困惑した。一体、こいつは何がしたいのだろう?
何も言わない翔太郎に、鬼は独り言のようにブツブツとつぶやいた。
「あの婆ァめ…約束を破ったな。こうしてオマエが鬼殺隊にいるってことは反故にされたということか……」
「約……束……?」
鬼の声がどこか遠く聞こえた。
いったい、何を言っている? 約束? 婆…というのは、曾祖母のことだろうか……?
―――――鬼狩りになるなど…許しませぬぞ!
翔太郎が鬼殺隊に入ることに断固として反対していた曾祖母。
その理由は息子を喪ってから、これ以上、身内を失うことへの
今になって、翔太郎は自分が取り返しのつかない選択をしたことを、ひたひたと迫る恐怖の中で感じていた。
「晃太郎の息子のオマエがここにいるということは、今、あの家には誰がいるんだ? 晃太郎と、オマエの母親、それに兄弟もいるのかな?」
「誰もいない!」
翔太郎は即座に叫んだ。くっきりと母と妹の姿が瞼に映る。
「父は…晃太郎は既に死んだ。大お
「えらく必死じゃないか。まるで、何かを庇っているようだよ」
鬼はクツクツと笑う。
翔太郎は奥歯を噛み締めた。
もう、どうでもいい。どうでもいい。とにかく、自分はなんとしてもこの鬼を殺さねばならない。そうしなければ―――――
ゾワリと、冷たい感触が全身を走った。
恐怖に軋んだ右腕を無理に動かし、自分の頭を掴む鬼の腕を斬りつける。
鬼が手を放して飛び退ると同時に、翔太郎はすぐに起き上がって渾身の技を放った。
風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐
ぼとり、と鬼の巨大な右腕が落ちた。
「へえぇぇぇ」
鬼は腕を拾い上げると切り口を眺めて、垂れた血を啜った。
「なかなか…やってくれる」
さっきまでの楽しそうな気配は消え、苛立ちがかすかに混じっていた。
自分の腕を食い千切って肉片を呑み込むと、斬られた部分の肉が蠢き、再生を始める。
「その目…」
鬼は口の端を歪めて、翔太郎を睨みつけた。
「師匠にそっくりだ。その睨み……」
「うるさいっ!」
ゴウ、と翔太郎の刀が唸り、鬼を切り裂かんと風の刃が飛ぶ。
だが、すでにその時には鬼は無傷で樹上に立っていた。
「残念だな。師匠と似てるのは見てくれだけか。技が粗い……賢太郎にも及ばない。風波見の血も落ちたな」
「黙れ!」
怒鳴りながら、翔太郎は技を繰り出すが、鬼は楽々と避けていく。
当然だった。
技を乱発したせいで、すっかり息が上がっている。
ひどい耳鳴りと頭痛。心臓が口から飛び出てきそうなほどに拍動している。もう既に翔太郎の限界は超えていた。
「…どの技も単調だな。それに少しばかり足捌きが不自然だ。誰もオマエに忠告はしてくれなかったのか?」
言うなり、鬼の姿が消えた。
ゴウ、と音だけが横に来たと思った刹那に、振り上げた刀が翔太郎の意志と関係なく、地面に落ちた。
同時に右肩が熱く、すさまじい痛みが襲ってくる。
「…っぐああぁぁぁーっっ!!!!!!!!」
叫び声を上げ、うずくまる翔太郎の前で、鬼は落ちた翔太郎の腕を拾い上げ、その手にあった日輪刀を取り上げた。
若葉色の刀身を月にかざして見ていると、やがてゆっくりと刀は色を失くしていく。
その時、バサバサと鳥達の飛び立つ音が聞こえ、夜空を横切っていった。
鬼は紅い目を細め、森の暗闇の中を見つめる。
「………フン、また来たか」
つぶやくと、グイと翔太郎の襟を掴み上げた。
「か、返せ……」
「もちろん。返してやる」
言うなり翔太郎の体を持ち上げると、後ろの木に押し付け、持っていた刀を突き刺した。
「…ぐああぁぁあっっっ!!!!!!」
左肩を自分の刀で刺し貫かれて、翔太郎は凄絶な悲鳴を上げた。
鬼はグリグリと刀を捻り、痛がる翔太郎を愉しそうに見ていた。
「
「……殺…す……き…さま」
「あぁ、そうだな。俺を殺さねば、オマエの家族は皆殺しだ」
「て…ンめ…え……っっ!!!!」
ガタガタともがく翔太郎を嘲笑い、鬼は闇の中に消えていく。
ザザザと風が森の中を吹き抜けた。
翔太郎は必死で刀を外そうとするが、左手は柄に届かず、右手はもはやない。
体を揺すろうとすれば激痛と、出血がひどくなり、やがて意識が朦朧としてきた。
自分は、間違っていたのだろうか?
父の遺志を継いで、自分もまた追い求めて鬼殺隊に入った。
お
―――――あぁ…母上。清子。大お祖母様。逃げてくれ……
頼むから、誰か助けてくれ。
俺はいい。俺のことなどいいから。頼む、家族を……どうか、救ってくれ……!
涙を浮かべ、ぼやけた視界に見慣れた隊服が見えた。
「翔太郎!」
信子の声が聞こえる。「しっかりせぇ」
テキパキと手当を受けて、翔太郎の意識は徐々に戻ってきた。
「あの…鬼……」
「今、薫さんが相手しとる」
信子が答えると、翔太郎はカッと目を見開いた。
途端に痛みが再び牙を剥く。
顔を歪めつつも、翔太郎は刀を手に取った。だが、握る力はもうない。
翔太郎は刀に手を当てた状態で、信子に晒できつく巻くように頼んだ。
「翔太郎、やめとき。出血がひどい。これ以上動いたらあかん」
「あいつだけは……あいつだけは殺らないと……」
「ここで隠を待っとき。さっき、鴉に呼びに行かせたから」
「まだ戦闘は…終わってない、だろ? 隠は、来れない」
戦闘完了を確認しないと、隠は来ない。
「早くしろ。…薫さん一人でも……危ないんだ」
翔太郎が急かすと、信子は無言で、血だらけの左手と日輪刀を巻きつけていった。
信子に肩を借りて、翔太郎は歩き出す。
「絶対に…あいつだけは……殺す」
呪詛のようにつぶやいて、翔太郎は必死で混濁しかける意識を保っていた。
いつにない翔太郎の気迫に、信子は異様なことが起きているのを感じた。
<つづく>
次回は2021.05.15.土曜日の更新予定です。