【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖> 作:水奈川葵
ソメイヨシノが散り始め、山桜が濃いピンクの八重の花を咲かせた頃、薫は人生で初めてのお見合いというのをすることになった。
とはいえ、まだ十二歳で、結婚ができるまでは三年近くある。
あくまでも今回は顔合わせということだった。
無論、そう言いつつも周囲を固められていっていることは間違いない。
相手は同じ子爵で、
当日、薫は母からもらった晴れ着に身を包みながら、どこか虚ろだった。
皆が笑顔だった。
薫も笑顔にならなければ、と、いつも以上に気を遣った。
それでもふと気を抜くと、ぼんやりとしてしまう。
ヒサが気付いては、『お嬢様』と、小声で叱咤した。
「まぁ、私、女学校で
女学校で薫を見初めたらしい八津尾子爵夫人・時子が、腹の肉を揺らして笑う。
隣にいる明宣はいかにも貴公子然とした、柔和な面差しの男だった。今は帝大に在籍して、法律の勉強をしているのだという。
丸い眼鏡の奥からチラと薫の方を一瞥したが、すぐに目を伏せた。
薫もまた微笑を張り付かせたまま、やや俯き加減で止まっている。
一応、目の前には食事が用意されていたのだが、まったく手を付けていなかった。
「………ですからね、いずれは洋行などもあると思いますのよ。薫子さんがピアノをしたいとおっしゃるなら、向こうで外国人の先生に師事なさるのも……」
「明宣様は、将来は判事になられるのですか?」
「もちろん、結婚は女学校を卒業してからでも…。当世はそういう方も多くてらっしゃるから………」
当人達を置いてけぼりにしたまま、母達の談笑が続く。
薫はただただ静かに時が過ぎるのを待っていた。
自分の目の前で交わされる会話がすべて、あの日、寿美達の死を知った日のように、くぐもって聞こえる。
現実感がない。
座っていながら、この部屋のどこにも自分はいない。
ただ、遠くに…遠くから、隣で朗らかに話している声が微かに聞こえる。
まるで水の中にいるかのよう…そんなことを思った途端、死んだ母親の声が脳裏にこだました。
―――――ごめんねぇ…ごめんねぇ……薫
ほとんど忘れかけていた母の聲。
細く、切れ切れに聞こえた。
嗚咽と共に、しゃくり上げて泣いていた。
ゴボッ!!
水の中に吐いた空気の音。
赤い空に向かって消えていく泡……
不意に、呼吸が乱れた。
本当に水の中で溺れていくようだった。
苦しくて胸を押さえる。
隣の母達はお喋りに夢中で気が付かない。
「……?」
向かいに座っていた明宣が異変に眉をひそめ、少しだけ身を乗り出した。
目の前がだんだんと暗くなっていく。
薫は消えそうになる意識に抗おうとした。
こんな日に体調が悪くなるなんて、なんてみっともないんだろう…。
お母様にもお父様にも、申し訳ない。
相手の人にも、謝らなければ…!
けれど一生懸命にもがくほどに、息が切れて、手足を動かすこともできない。
ごめんなさい…すみません…
心の中でつぶやいた言葉すらも、声となって出てこなかった。――――
「薫子さん!」
叫んだのは誰だろう―――?
違う。
違う。
違うのに。
私の名前は薫なのに。
自分がどうしてこんなに苦しいのかがわからなかった。
暗い闇の中に落ちていく前に、志津の顔が見えた。
寿美や、玄弥、貞子達の顔も。
実弥が手を振る姿も。
あの寒い冬の日。
おしるこを奢ってもらったあの日、久しぶりにその名を呼ばれた。
―――――薫!
おはぎがおいしかったと、笑ってくれて、手を振ってくれていたのに……どこに行ってしまったのだろう……?
もう会えないのだろうか…?
さようならも言えないまま、自分は誰かに嫁いでいくのだろうか…?
胸が苦しい。
呼んでほしい、また自分の名前を。
そしてまた、笑ってほしい―――…。
願いを口にできぬまま、薫は闇へと意識を手放した。
◆◆◆
「お嬢様には転地療養が必要です」
深い溜息のあと、医者は言った。
「おそらくは、まだ心の準備ができておられなかったのでしょう。当日になって、自分がいざ当事者だということに気がついたが、用意ができていなかったので、いわゆるヒステリィとでも云うのですかな、あの状態になったワケです」
「しかし、ヒステリィというと、もっとうるさく泣き喚いたりするものではないのかね?」
「そういうものばかりともいえません。何らかの要因で鬱屈した精神状態が、これ以上の現実を受け容れられずに、逃避する……つまり、意識を
薫―――彼らは薫子と呼ぶが―――は、よく出来た子だった。
東北まで行って初めて会った時は、確かに子守奉公のみすぼらしい子供だった。
だが、瞳は弟の
果たして、連れて帰って装いを改めさせると、こざっぱりとした瓜実顔の可愛らしい女の子になった。
弟のつけたという『薫』というのは、幼くして亡くなった妹の名前だった。
弟の気持ちはわかったが、子爵には不吉に思えて、『薫子』と改名し、自らの娘として育てることにした。
残念ながら妻との間に子供は恵まれず、この先も生まれそうにない。
妻もまた、諦めていたのだろう。跡取りとしてなら、男子を養子にすべきだったが、妻が女の子を欲しがっていたことを知っていたので、薫との出会いは森野辺家にとって僥倖だった。
薫は木が水を吸うがごとく、どんどんと教えられたことを覚えていった。
礼儀や所作の作法にはかなり手こずってはいたようだが、生来、利発な性質なのだろう。当初は厳しく接していた教師も、半年を過ぎた頃には「よくぞここまで」と感嘆していた。
その持って生まれた素養が弟によるものなのか、一緒に駆け落ちした旅芸人の娘である母親からのものなのか……。
いずれにしろ薫が聡明である上に、並外れた努力家であることは間違いなかった。
慣れぬ女学校での勉強の遅れを取り戻すために、必死で自学自習し夜遅くまで起きていたこともある。
だが―――。
よくよく見てやらねばならなかったのではないか?
薫はいつも一生懸命だった。
しかもそれを表立って印象づけることはせず、謙遜していた。
子爵は後悔していた。
自分達はいつのまにか知らず知らずの内に、この子を追い詰めていたのではなかろうか………?
皆が薫を褒めるときに言った。
「大人びた」「落ち着いた」「おとなしい」子供だと。
矛盾していた。
子供はもっと騒がしくていい。
もっと我儘でいていい。
もっと甘えてよかったのに。
おそらくは前々から兆候はあった。
何度となく薫のばぁやのヒサから、薫が一人で外に行っては、近くの川べりでぼんやりしていることがある…と、聞いていた。
理由を聞けば、「気分転換です。故郷の川を思い出すから懐かしくて」と、言われて納得し、許していたのだ。
元より住み慣れた故郷を離れたのだから、それくらいの感傷に浸ることぐらいはあるだろう…と。
だが、もっと真摯に聞いてやるべきだったのではないか…?
本当はずっと、わからぬところで、薫は不安を抱えていたのかもしれない…。
誰に言うこともない、溜め込んだ気持ち。
志津のことで
子爵はしばらく頭を抱えた。
留学などして、それなりに児童の教育について一家言を持っているつもりであったが、やはり自分は親としてはまだまだ足りぬところがあるらしい…。
長い溜息をついて深い自省に落ち込む夫に、
「ごめんなさい、あなた。私が気がつくべきだったんです。薫子さんはお見合いに乗り気じゃなかったのに、私ばかりが舞い上がってしまって……。母親失格です」
「そんなことはない。明宣君は時々私の仕事も手伝ってくれているし…いい御縁だと思ったんだ。いや、すまない。私の方が舞い上がっていたのだろう。なにせあの子の生い立ちをいまだに悪く言う人間もいたからね、あるいは一生、結婚には縁がないかもしれないと思っていたんだ。……まぁ、今はそんなことより、薫子をどうするか……なんだが」
子爵はふぅ、と一息ついて、部屋に飾ってあった千佳子の絵を眺めた。
多才なる佳人の姿が思い浮かび、一瞬、子爵は苦いものを感じたが、頭を振ってすぐに打ち消す。
今は昔のことは関係ない。千佳子も何のしこりもなくつき合ってくれているのだから。
それは信州にある別荘地での景色を描いたものだった。
青く色づけされた山の手前には、黄金の稲穂の海が広がっている。
穏やかでのどかな田園風景…清新な空気…濁りない青の空…
「信州といえば…寧子、お前の妹の……
「えぇ、母方の実家です。母のお姉さまのところも子供ができなくて、妹をもらって婿を取りましたのよ。幸い、妹夫婦は子沢山で……」
ホホホと笑う寧子には卑屈なところはない。
自分が子供を産めなかったのは残念に違いないが、今は薫がいることで充分なのだろう。
「そうそう。確か、薫子と同じ年頃の子もいたはずだ。そこで薫子にのんびり過ごしてもらって…元気になってもらおうと思うんだよ。私が思うに、薫子にはもっと腕白な子供時代があってよかったんだ。女学校ではそうした友は出来なさそうだからね」
「まぁ……薫子さん、お一人でですか?」
「……ん。薫子はずっと私達に恩義を感じて頑張ってきた。それを私達は当たり前に思い過ぎたよ。ここらで少し息抜きをさせてやった方がいい」
寧子は納得しながらも、薫が家を出ることを寂しがったが、これもまた母としての自分の務めだと思うことにして、笑顔で送り出した。
薫はヒサに連れられて、信州へと向かった。
それは薫にとって、解放ではなかった。
<つづく>