35,
「愛、自由、希望、夢。足元をご覧よ、そこら中に転がってるさ」
「そう、僕らは他人のそれを足蹴にして生きているのだ」
◆◇◆◇◆
明るい。
バゼットとの戦いで気を失った士郎が起き抜けに知覚したのは、光だった。
それもぼんやりとしたものではない。
燦然と輝く自然光とも違う、冷たく白い人工灯の明かり。
夜闇に慣れていた瞳が収斂し光に慣れるまで待つと、士郎はゆっくりと瞼を開いた。
どことなく薄気味悪い雰囲気が漂う一室である。
そこのソファの上に士郎は寝かされていた。
ここはどこだ。
なぜ自分はこんなところにいる。
あれからどれだけの時間が経った。
凛たちはどうなったのか。
疑問は尽きないが、悩んでばかりいても仕方ない。
まずは現状の把握から始めよう。
そう考えた士郎はゆっくり身体を起こし、周囲を見渡した。
士郎のいたそこは応接間のようだった。
質は悪くない調度品が各所に配置されており、家主の財力を伺わせる。が、手入れを怠っているのか、どうにも古ぼけた印象が抜けず、審美眼のある者が見なければそれと分からないだろう。
「しかしどこか薄気味悪い場所だな」
と、士郎は思う。
調度品の趣味が悪いわけじゃない。
西から輸入されただろうそれらは、多少眼がいい素人である士郎から見ても一級品なのは疑いようもなく、場所を選べば高値で売れるモノだろう。そして、それらが互いが互いを邪魔しないよう、そして引き立てるよう配置されていて、悪趣味になっているということもなかった。
薄暗いわけでもない。
月明かりしか存在しない夜半であっても、動き回れる程度に光量は十分。というより、一般家庭の明かりと同程度であろう。士郎の家もこれぐらいの光量だ。
だが、士郎の心に蔓延る薄気味悪さは拭えなかった。
閉塞感があり、居心地が悪い。
いるだけで息が詰まる。というより、空気そのものが濁っているような気すらした。
そう、この雰囲気に酷似した何かを士郎は知っている。
この場所に似ても似つかないものだが、確かに似ているそれは――
「まるで人が死んでしまった場所みたいだ」
墓地。
あるいは、火葬場。
そういった負のナニカが集まる場所に酷く近似している。
できるなら、一秒だってこんな場所に居たくない。
理由もなく訪れる者などいやしない。
そんな感覚を士郎は覚える。
「ここはいったいどこなんだ……」
「お前が目指してた間桐宅の応接間さ」
「っ!」
誰に聞かせるわけでもなく口を突いた士郎の言葉を拾ったものがいた。
その声に士郎は弾かれたように振り返った。
「よう、『正義の味方』。久しぶりだ。調子は良いみたいだな」
そこにいたのは、湯気の立つポット片手に立つ長身で細見の男。一九〇はあるだろう。セイバーと同じぐらいかそれ以上。日本人離れしたイメージだが、存外季節はずれの着流しを見事着こなしている。祭りの屋台にでも売っていそうな不気味な狐の面を被るその姿は印象的で、見間違えようもない。
さきほど、学園からの帰路で出会った男だった。
が、しかしそんな形容、彼を前にしたら酷くどうでもいいことのように感じる。
――彼の放つその最悪さに比べれば。
その他のことなど、後付の意味づけに過ぎない。
「あんたは……」
士郎はとりあえず、と彼の名を口にしようとして、名を教えてもらってないことに気が付いた。
「ん? あぁ、そういえば名乗ってなかったか。だが、今更名乗るってのも座りが悪い。どうせ、最後には知ることになるんだ。今度会う時までに調べておくんだな。それまでは――『狐さん』と。そう、『俺の敵』は呼んでたぜ」
好きに呼べよ、と。
狐面の男は最後に言う。
狐さん、だなんて、大人の男を呼ぶ名にはどう考えても適してないそれに、士郎は困惑し言葉に詰まってしまう。
そんな士郎を見て、狐面の男は可笑しそうに――犯しそうに笑った。
「ふん。立ち話もなんだな。お前も質問したいことがあるようだし、とりあえず茶でも飲みながら話すとしようぜ…………紅茶派か?」
「……俺は緑茶派だけど」
「『俺は緑茶派だけど』か、ふん。ここには緑茶がなかったぜ、残念だったな」
「…………」
じゃあ、なんで聞いたんだよ、という言葉は呑み込んで。
まるで旧来の友人のように気安く茶に誘う彼に対し、士郎は少しだけ戸惑いながらもその誘いに乗ったのだった。
◆◇◆◇◆
敵地であり、間桐桜の捉えられているこの間桐宅にいる士郎が、どうして狐面の男と呑気に茶を飲むことにしたかというと、そこには大きく二つの理由が存在する。
一つは――というより、これがほとんどの理由なのだが、情報が無いまま動くことを嫌ったためだ。
情報は、それ単体で武器である。
知っているか知らないかで生死を分けることすらある、重要なものだ。
本来、間桐桜を奪還するうえで士郎たちの取るべき戦略は徹頭徹尾不利な敵と戦わない、というゲリラ戦法にも酷似したそれだった。
というより、それしか選択肢がなかった。
残念ながら、ことはそう上手く進まなかったわけだが、しかしその方針は今も変わっていない。
士郎単独で、サーヴァントすらも圧倒する戦闘能力を持つ間桐臓硯と戦うわけにはいかない。対抗することはおろか、下手すれば投影する暇を与えられぬままひき潰される可能性だってあるのだ。
ゆえに士郎は、敵地であり間桐臓硯が守護しているはずのこの間桐宅で、勝手気儘に振舞う狐面の男から情報を引き出すことにした。
これが一つ目の理由。
二つ目の理由は、対して重要ではない、士郎の個人的興味から来るものなのだが――この狐面の男。
彼は一体、狐の面をかぶったまま、どうやって茶を飲むのか。
彼の被るそれは口元が開いているタイプの仮面ではない。どう考えても仮面を装着したままの食事は不可能でないのか。そこに興味をそそられたからだった。
…………が。
「どうした。ぼうっとしてないで飲んだらどうだ」
彼はあっさりと仮面を外し、並々とカップに注がれた紅茶に口を付けていた。続けて、何処からか持ってきたクッキーを口に運ぶ。その味は彼の口にたいそう合っていたようで、満足そうにひとつ頷くのだった。
「………………」
いや、当たり前なんだけどさぁ。
と、士郎は思う。
けれど、ここに至るまで決して顔を見せなかった狐面の男が、こんな下らないことで素顔を晒すなんて、なんだかやり切れない気分になる。
「さっきから怪訝そうだな。なにが聞きたい」
どう扱っていいかもわからない、もやもやした感情を弄んでいると、狐面の男はそう問うた。
「……いや、食べるときは仮面を外すんだな、と」
「当然だろう」
狐面の男は、テーブルに置いた狐の仮面を一瞥する。
「他に食べる方法を知らんからさ」
「…………………………」
だったらなんで仮面なんて付けてたんだよ! なんて問いは野暮というものなのだろう。
聞いてはいけない、触れたくもない類の問題だ。
ちなみに。
仮面の下の男の顔は、結構凛々しかった。年季が入った精悍さ、とでも言うのだろうか。
目つきの悪さが尋常ではなかったが、それを気にさせない程度には男前。役者と言われても納得してしまいそうな風貌に、なおさら仮面で顔を隠していた理由が分からなくなったが、しかし士郎も蒸し返そうとは思わなかった。
「なんだか、既視感を覚えるんだが、しかし」
と、狐面の男が――と言っても、狐の仮面は外している――呟いた。
「質問はなんだ。時間の許す限り答えてやるよ」
「……まずは、俺のこの身体のことを」
士郎がいの一番に問うたのは、間桐のことでもなく外にいるはずの遠坂たちのことではなく、他ならぬ自分のことだった。
が、しかし、ことこの状況で自分を優先したのは責められることではないだろう。
むしろ、当然と言っていい。
なぜなら、彼の身体には
まさか。
そんなわけがない、と思う。
バゼットとの戦いで、士郎は負傷した。
全身の筋肉は断裂し、右腕に至っては各所から出血しもはや人体の機能を果たせる状態ではなかったはずだ。
自然治癒する傷じゃない。適切な処置をしなければ死に至る可能性だってあった。
それが影も形も無くなっている。
傷なんてものはなく、身体は好調を謳っている。
「あんた、俺に何をしたんだ」
「『俺に何をしたんだ』とは、随分な言いざまだ」
ゆえに少し攻撃的な口調になってしまったことは当然のことで、『敵』であると宣言した男がいるこの状況、不審に思うのも無理からぬことだった。
が。
「あったはずの傷がないなら、当然誰かが治療したに決まってるだろう」
「まさか、あんたが……?」
「俺以外に誰がいるっていうんだ」
狐面の男が返した言葉は士郎の想像を超えるものだった。
いや、想像していなかったわけではない、ただその可能性は真っ先に捨てたものだった。
この男が誰かを治療するなど――いや、士郎を治療するなんて信じられなかったから。
「なんでだ、どうして治療したんだ」
「困ってる人がいたら助けるのは普通のことだろう」
困惑の瞳で問いかける士郎に狐面の男は笑いながら答えた。
嘘、ではない。だけど、真実でもないだろう。
多分、真意は隠されている。
と士郎は当たりをつけた。しかし、そこを追及する暇はない。
元より、この男が真面目に答えてくれる保障などありはしないのだ。
まだ受け答えできるだけマシである。そこから正確な情報を選び取るのは、士郎の仕事だ。
一種、挑みかかるような気概を持って、士郎は狐面の男に質問をぶつける。
「俺はどれぐらい気絶してたんだ」
「さぁ。俺はお前が倒れてるのを見つけただけだからな。いつ気絶してたかなんて知らねえよ。ただ、俺がここにお前を運んでから……そうだな、四、五十分ってところか」
「一時間も気を失ってたのか……?」
「まぁ、そのくらいだろう」
「じゃ、じゃあ、この周りで髪を左右に縛ってる俺ぐらいの年の女の子を見なかったか? スーツ姿の手袋をした女性でもいい」
「知らんな。俺はお前以外見つけてない」
「そうか……」
「なんだ、知り合いか?」
「……仲間と敵だよ」
「『仲間と敵だよ』ね、ふん」
狐面の男は笑うと、手に持ったカップを傾けた。
優雅で、洗練された光景。
敵地であるはずのこの場所には似つかわしくないその行動に、士郎は先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「あんた、どうしてここにいるんだ」
「お前に居場所をどうこう指図される謂れはないだろう」
「いや、そういうことじゃなくて…………あんた、サーヴァントとか言っていただろ。ってことは、ここが聖杯戦争における御三家のひとつ、間桐の屋敷だって知ってるはずだ」
「『間桐の屋敷だって知ってるはずだ』なんて、随分と断定的だな。まぁ、確かに知ってはいたが」
「じゃあ、どうしてここにいるんだ……いや、もっと言えば、あんたは間桐臓硯が召喚したサーヴァントじゃないのか?」
「『あんたは間桐臓硯が召喚したサーヴァントじゃないのか』か、ふん。どうにも疑われているようだ。無理もない話だとは思うがな。だが、違う。俺は間桐臓硯とやらに召喚された身じゃあない」
「……だったら、どうして敵地だろうはずのこの場所でそんな余裕を保ってられるんだよ」
「そんなの簡単な話だ。間桐臓硯はもう死んでいるからに決まっているだろう」
「…………は?」
と。
話の展開についていけなくて思わず士郎は呆けた声を上げてしまう。
いや、狐面の男は士郎の問いにただ答えただけなのだから、話の展開云々の問題ではない。
ただ単純に。
彼の言ってることが信じられなかったからだ。
一体なにがどうなっているのか。
間桐臓硯が死んでいるというなら、ここに来る途中で襲ってきたあのアサシンは誰の手の者なのか。いや、待て。ライダーの証言から、間桐臓硯の生存は夕方頃には確定している。この男が言っていることは真実か? 口から出まかせは吐いている可能性だって捨てきれない。
混乱しつつも必死に頭を整理する士郎に、狐面の男は鼻で笑った。
「ふん。お前も魔術師の端くれならこの屋敷を見たときに不思議に思ったはずだろう」
「……? 何を……」
「――結界だよ。この屋敷には結界が張ってなかったはずだ。御三家、と祭り上げられるほどの家系が――いや、そうでなくとも魔術師が自分の命の次に大切な工房に結界を張らないことはあり得ない」
「……………………」
狐面の男の言葉に、ふと。
士郎はライダーとその宝具である忍野忍が間桐宅前についた時に口走った言葉を思い出した。
『確か、侵入者感知と簡単な迎撃が組まれてたはずだけど………。おかしいな。結界が壊れている………いや、というよりも―――』
『無くなっている、と言ったほうが正しいじゃろうな。跡形もなく、消え去っておるの。さすがにあからさま過ぎて呆れるわ』
彼らは不理解なほど無防備な状況を見て誘いだと断じた。
だがしかし、本当にそうならば現状士郎と狐面の男が自由に行動できていることに疑問が残る。
魔術師の生命線とも言える工房で、結界を消し敵に好き勝手させるメリットは存在しないと言っていい。
少なくとも、士郎の頭では欠片も思いつかない、
あるとすれば、そこはすでに使われなくなって久しい放棄された工房か。
――誰かが工房に侵入し、結界やトラップを破壊しつくしたのち、魔術師を殺した場合か。
そこに思い至ったことで、これまで心のうちに燻っていた違和感が解けていく。
「ふん、ようやく得心がいったらしい」
だが、しかし同時に疑問も生まれた。
「……ちょっと待ってくれ。だとしたら、いったい誰がそんなことを」
「おいおい、頭を働かせろよ『正義の味方』。俺が殺したに決まってるだろう」
「――――――――」
にやり、と。
狐の面が笑ったような気がした。
それに士郎は――ぞっとした。
ぞっとしないぐらい、ぞっとした。
いとも容易く、平然平素に殺害を告白する彼の姿を酷く様になっていて。全てを疑ってかかろうと思っていた士郎をして思わず信じてしまうものだった。
ゆえに士郎は絶句する。
どうしようもなく、彼の言うことが正しいということに。
その事実を理詰めでなく雰囲気で説明できてしまう、狐面の男の異常さに。
言葉を、失った。
絶句する士郎に、狐面の男は満足そうに頷きながら
「とは言え殺したって言葉は、俺が、殺意と、動機と、やる気を持って行動したみたいで、どうにも正確じゃないんだが」
と、狐面の男は続けた。
「ただ、俺が原因で間桐臓硯が死んだことは否定しようのない事実だ。
当然の運命だ、なんて。
呆然とする士郎を前に自分勝手に好きなことを言いたいだけ言った狐面の男は、カップに入っていた紅茶を飲み干すと立ち上がった。
忘れず、狐の仮面も付けた。
「さて。そろそろ、質問はおしまいだ」
「ま、待てよ! まだ聞きたいことが……」
「残念ながら時間切れというやつだ。最初に言っただろう。『時間の許す限り』ってな」
それに、と狐面の男は続けた。
「聞きたいことも聞けただろう。取りあえずの現状は説明したつもりだ。後は好きにしろ」
「好きにしろって…………」
「おいおい、忘れたのか。思い出せ、お前がここに来た理由を」
彼の言葉は、士郎の目的を――つまり、間桐桜の奪還を知っているような口ぶりで。
「目的地にたどり着き、最大の難関だった間桐臓硯はもういない。これ以上ない好条件だろう、迷ってる暇があるのか? ん?」
「………………」
なぜ彼が士郎の目的を知っているのか、はなはだ疑問だったが、しかし彼の言うことは確かに正しかった。
正しすぎて気持ち悪いぐらいに、正しかった。
だから、口にしたかった様々な言葉を士郎は飲み下す。
「……いろいろと助かった」
「感謝なんてどうでもいい。そんなことより、お前の目的地だろう地下室はその廊下の先にあるぞ」
「………………」
まさに、至れり尽くせり。
士郎の中にある不信感がさらに大きくなる。
だが、士郎は拭いきれぬそれらを振り払い、立ち上がった。
そして、一度も振り返らず歩みだす。
ゆえに――
「はてさて。どうなるか。精々、後悔しないよう選ぶんだな、『正義の味方』――――」
狐面の男が最後に浮かべた笑みを見ることは、ついぞ叶わなかった。
◆◇◆◇◆
さて。
狐面の男と別れた士郎は桜が囚われているという地下室を見つけ出していた。
とは言え、無謀に飛び出す訳にはいかない。
何分、ここは敵地。
間桐臓硯は死んだ、と狐面の男は言っていたが、しかし信用しきるわけにもいかない。
いまさらな感があるが、注意して注意しすぎるということはないだろう。
だから、士郎は大太刀『心渡』を投影し、慎重に階段を降りていく。
かつりかつり、と石でできた階段と士郎の靴とのぶつかる音が辺りに響き渡る。
音が反響して、細く圧迫感のある階段に飽和する。
自然と、大太刀『心渡』を握る手に汗が染みこんだ。
そうして、微に入り細を穿ちながら階段を下ると、やがて視界が開けた。
暗く淀んだ、石牢のような場所だった。
鉄格子があるわけではない。しかし、どこか閉じ込められているような感覚を覚えた。
臭いも酷い。
噎せ返るような鉄の臭いに混じって、それに負けぬほど吐き気を催すほどの生臭い臭気が部屋いっぱいに充満していた。
地下室は存外広いようで、暗さも相まって端の壁まで見通すことは叶わなかった。
しかし、間近にある壁は見て取れた。
何か這いずり回った後のある、嫌悪感が先に出る気色悪い壁だった。
本当にこんな場所に桜はいるのだろうか。
思わず顔を背けたくなる光景に、士郎の顔は自然と厳しくなる。
それでも調べないわけにいかないだろう。
そう思い、階段を降り一歩踏み出したその時だった。
「……せんぱい?」
か細く力無い、しかし聞き覚えのある声が聞こえた。
間違いない、桜の声だった。
「桜!? 桜なのか!?」
声を張り上げ、地下室を探し回る士郎。
やがて暗闇に慣れてきた士郎の瞳は、しかとその光景を捉えた。
「さ、くら……?」
「あぁ……せんぱいだぁ」
そして、絶句した。
間桐桜は笑っていた。何も映していない虚ろな瞳をして、ただ笑っていた。
影を含みながらたおやかに笑ういつもの彼女とは違う、享楽的な、ともすれば子供のような笑み。
だが、それはいい。
士郎が驚いたのはそれが原因じゃない。
――彼女は血に塗れていた。
服を纏っていないのか、全身余すところなく血塗られ姿は官能的ですらあった。
非現実的な、幻想のような光景。
「どうしたんですかぁ、せんぱい? そんな驚いて」
士郎の理解を超えるその状況に、思考が一瞬停止する。
桜が大けがを負ったのかと思い、心臓が一瞬苦しくなる。
しかし、どうやら傷を負ったわけではなさそうだった。
むしろ、彼女の身体は健康そのものだった。
だから、この血は桜のものじゃない。
だったら、誰のものだ。
「さ、桜……どうしたんだ、その――」
血は。
そう尋ね、近づこうとして、動かした士郎の足にナニカがぶつかった。
躓きそうになり、バランスを取るため更に一歩踏み出して――その何かを踏みつける。
柔らかかった。
ぐにょり、と。
まるで、
思わず、下を見た。
そして、士郎は気が付いてしまう。
それが何だったのか。桜の身体に付着した血が誰のものだったのか。
「し、しんじ…………?」
――気が付いてしまった。
「うわ…………」
驚き、飛びずさる。
そこにあったのは、間桐慎二の遺体だった。
うつ伏せで倒れた彼はなぜか上半身裸だったが、その特徴的な髪型は見間違うわけもない。ついでに言えば、彼の履いていたズボンが穂群原学園の制服であったことも、士郎がソレを間桐慎二と断定できた理由の一つだろう。
――だからなんだというのだ。
彼は全身を杭状の物体で貫かれていた。それも一度や二度じゃない。何度も何度も執拗に貫かれていた。各所に空いた穴から大量の血液が溢れ出たのだろう、よく見ると士郎の足元でもぴちゃぴちゃと水音のする液体があった。
死体に過剰な傷がある場合、犯人は被害者に恨みを持ってることが多い。
どこで知ったかもわからない豆知識が士郎の頭に浮かぶ。
――それが何を意味するんだ。
「……せんぱい?」
心配そうに、舌足らずな声で桜が問いかけるが、士郎に答える余裕はなかった。
すでに彼の頭はパンク状態だった。
なにが起こっているのだろう。
自分は何をしにここに来たんだ。
どうして、こんなことになってる。
助けを求める桜を救出して、それでおしまいだったはずだ。
「……桜」
「なんですかぁ、せんぱい」
「ここで、なにが、あった」
混乱する士郎が辛うじて口にできたのは、その言葉だけだった。
けれど、聞くまでもなく分かっていた。ある程度察しがついていた。
しかし、認めたくなかった。認められなかった。
だから、否定の言葉を欲した。
他でもない桜の口から、その言葉が欲しかった。
しかし――
「そんなの簡単です。私が、兄さんを、殺しました」
――返ってきたのは肯定の言葉で。
揺れうごめく影を背に、妖艶に、そして儚く笑う桜の笑顔だった。
今から思えば。
その笑顔は、助けるを求める子供のようだったと士郎は悔恨することになる。
◆◇◆◇◆
そこから。
士郎が何を言ったのか、何をしたのか、何をおこしたのか、記憶がない。
思い出したくない何かがそこにあるかのように。
記憶するのも苦しいことがそこにはあったかのように。
ぷっつりと途切れてしまっている。
ただ、そう。
随分と酷いことを言ったような気がしたし、酷いことをした気もした。
ただ覚えているのは、桜が最後に浮かべたあの笑顔だけで。
――そして、士郎が目を覚ましたのは、その日から三日後のことだった。
◆◇◆◇◆
激動の三日目が終わりを告げ。
そして、聖杯戦争は次の局面を迎える。
はい。ということで、聖杯戦争三日目終了です。
ようやく中盤が終わり、終盤に差し掛かろうとしています。夏までに終わらせるつもりでした今作ですが、どうやらまだまだ続きそうです
次は日付が飛んで六日目からのスタートになります