すずねの記憶を取り戻してからの日々はあわただしく過ぎていった。
涙目で駆け込んできたヨミにすずねと同じくらいの勢いで泣きつかれたり、時代錯誤も甚だしい方法で自傷してしまったから主治医に頭の病院への転院をおすすめされたり。パラダイム機関のエージェントを名乗る黒服のおじさんたちが押しかけてきたときには相当焦ったけれど、すずねがひと睨みで追い払ってくれた。すずね強い。
私は無意識に魔力による自己治癒促進を維持しているらしく、傷の深さに反し一週間と経たず退院することに。帰りの電車の中で、私は力強く宣言した。
「私、ニートになります」
というのも、今回の騒動で判明した私の性格上の欠点が関係している。
私は痛いのも苦しいのも大嫌いだ。なのにどうして前衛的進化を遂げたリスカめいた真似をしたのかというと、原因は性根だ。何かのきっかけで覚悟を決めると軌道修正が効かないところがあって、暴走機関車よろしく突っ走ってしまう。こういうところが前世でもすずねに面倒をかけたんだろう。
ならば覚悟を決めるようなイベントに遭遇しなければいい。安全で恵まれた我が家に引きこもって平穏にしていればいかに私といえど無茶なことはしないはず。今回の問題は我が家の中で発生したのだけど、たぶん例外だ。
「お姉ちゃん……やっと私の思いを分かってくれたんだね……!」
すずねは感涙していた。もともとお姉ちゃんダメ人間化計画に前向きだったからね。今度こそ私は立派なダメ人間になってみせるよ。
チャットの頼れる仲間たちにも支持してもらえた。
ジャンヌダルク(本物):ニートになるなどと高らかに宣言されても困るのが本音だが、そうか
ジャンヌダルク(本物):ではもう記憶にも頓着しないと?
♡妹♡:うん。自然に回復する分は別として、積極的に思い出そうとはしない。それやりだすとまた血を見そうだし
ウィザード:何をどうしたら腹切りに至るのかまーじ理解不能
バロットとパップでガチ択:でもまーらしいっちゃらしいよねー
バロットとパップでガチ択:ちょっと寂しい気持ちはあるけど、みすずさんは一生分頑張ったから。ゆっくりニートしてて
ジャンヌダルク(本物):そうだな、養生してくれ
♡妹♡:ありがとー!
聖女: たとえ忘れても、成し遂げたことは消えません
聖女:あなたの勃ち上げた教団と、国際魔法少女シコリティ会議……とこしえに、わたくしが受け継いでみせますわ!
ウィザード:いっそ消えろ
♡妹♡:えっ何その会議楽しそう
ジャンヌダルク(本物):世界一しょうもないテログループだ。頼むから思い出すな
ちょっと思い出すべきか忘れるべきか迷うこともあったけど、とりあえず今縁のある子たちからはもれなく賛成され、私は本格的にニートをすることになった。食べて寝てすずねと話してまた寝る。なんて健康で文化的な生活なのだろう。
腹を切ったときはすっごく痛かった。もう二度とあんな思いはしたくない。前世の私と仲が良かった子たちには悪いけど、今度こそ二度と頑張らないぞ。私は過去と決別した、今日と明日だけで生きていくんだ。
とはいえ、やはり人である以上過去を完全に捨てることはできない。すずねの我慢が限界を迎えたあの時のように、放り出した過去は勝手に動き出して人を追いかけ回す。どんなに逃げたところで振り切れないということを、私はこの先痛感することになるのだった。
ーーー
目を覚ますとそこには美少女がいた。
すずねではない。愛する妹は私の背中に抱きついて安らかな寝息を立てている。ベッドに潜り込み私と向かい合って目をかっぴろげている美少女とは違う。
「おはよう」
「お、おはよう」
まさか不審者の側からあいさつされるとは思わず、声が震えてしまう。
美少女はゆっくりと体を起こし、ベッドサイドの明かりを灯した。照らされた時計は午前五時を指している。同時に謎の美少女の姿もはっきりと照らし出す。
大粒の丸い瞳、長いまつ毛にしっとりした質感のほっぺ。腰まで伸びる黒髪は黒曜石のように艷やかで、ほのかな明かりを美しく照り返す。フリル付の白いネグリジェと肌、黒髪のコントラストはもはや美術品の域だ。
「えっろ」
「君はいつもそうだね」
美少女の頬にさっと赤みがさした。恥じらいがエロを助長することを知っての狼藉だろうか。寝起きなのに興奮してきたぞ。
この反応からして私の前世の知り合いか。記憶喪失特有の気まずい自己紹介は避けたい。何か覚えているところは──あった。
「マフマフ?」
半年前の記録映像で、撤退を拒否して最後まで私と共闘した魔法少女。マフマフと呼ばれていたあの子だ。
マフマフは目を見開き、何かを期待するような視線を向けてくる。
「……覚えて、いるのかい?」
「ぜんっぜん。マフマフって本名なの? ぶっちゃけ呼びにくいからあだ名なら別のを痛い痛い痛い」
「期待した私がバカだった」
頬を思い切りつねられる。期待の目つきはジト目に変わっていた。
「
「マフマフ要素どこよ」
「君が延々私の名前をまふうまふうと誤読してたんじゃないか!」
「ひでえ」
誤読をゴリ押しでニックネーム化した上呼びにくい批判はやーばい。どんな神経してるんだ私。
ひとしきり自分で自分にドン引きしていると、マフマフはぐっと唇を噛んでうつむいてしまう。
「いや……ひどいのは私の方さ。結局君の足を引っ張って、取り返しのつかない大怪我をさせてしまった。許してもらえるとは思わない。ただ、この罪を一生かけて償う覚悟があることは、承知しておいてくれ」
「寝起きにどぎつい覚悟キメてるねえ」
そこまで気負われても私には受け止めきれない。そもそも勝手にマフマフをかばったのは私だから自己責任だし、怪我は完治して記憶も回復の見込みがある以上、取り返しは十分につく。
だから気負うことはないんだよと言おうとしたとき、マフマフは出し抜けに手のひらを突き出した。小さな手の上には黒い頑丈な造りの首輪がある。
「受け取って」
「えっ」
戸惑ってるうち無理やり手の中に押し込まれた。
さらにマフマフはこちらに背中を向け、黒髪をまとめて前へ回す。細い首筋とうなじが露わになる。
「その首輪は隷属の証だよ。君が着けてくれたなら、私は君に一生を捧げることを誓おう。こんな程度で、償いになるのかはわからないけれど……」
「そぉい!」
「ああっ、何するんだ!」
首輪を壁に叩きつけてやった。
「朝っぱらから重すぎるのよっ! こってりラーメンの妖精かアンタは胃もたれするわ!」
「じゃ、じゃあお昼なら? 夕ご飯ならどう?」
「時間帯の問題じゃなくて、自分を大切にしろっつってんの! 一生を捧げる相手はもっと選びなさい!」
「私なりに悩み抜いて選んだからここに来たんじゃないか!」
「リテイクっ!」
黒髪の美少女に首輪をつけて隷属させるなんて考えただけでも興奮する。こんなやらしい女に身を捧げたらひどく後悔するだろう。だからリテイク、再考だ。
顔を突き合わせてしばし喧々諤々。そんな重たいものいらない、じゃあどうやって償えばいい、そもそも悪くないことを気に病み過ぎ──今の私にとっては初対面のはずなのに、マフマフと顔を突き合わせて争うのは妙に楽しく、心地よい。
そんな風に白熱の議論を繰り広げていると、当然もう一人も聞きつける。
「んもう、うるさいなぁ……あ」
上体を起こしたすずねはあくびをしつつ、マフマフと目を合わせる。まずい、この子はこの子で面倒くさい性格してるから、激重マフマフと鉢合わせるとどんな化学反応があるか分からない。
どうにか取り繕うために言葉を探していた私だけど、予想に反してすずねはにへらと気安い笑みを浮かべる。
「おはようございます、マフマフさん。もう来てくれたんですね」
「おはよう。まあ、あんな知らせを聞いては引きこもってもいられないさ」
すずねは満足げにうなずいて、それから私にも「おはよう」をくれてから時計を一瞥。枕元の赤いマフラーをさっと身につけると、朝ごはん作ってくるねと言い置いて、ぱたぱた部屋を出ていった。
「……どういうこと?」
ーーー
朝日の差し込むリビング。トーストに目玉焼き、ミルクコーヒーに彩られた食卓に着いた私たちの話題は、もちろんマフマフの立場である。
「護衛?」
「うん、護衛」
「わんわん」
「マフマフ、ステイ」
首輪を片手にアピールしてくるマフマフは放っておいて話を聞くに、少々ややこしい事情が明らかになってきた。
元ランク1魔法少女もとい私が半年の昏睡から目覚め、それから間もなく割腹して病院に舞い戻った情報は、パラダイム機関諜報部の健闘むなしくセンセーショナルに知れ渡ってしまった。これにより強力な魔法少女の身柄を狙う各国の刺客連中がアップを始めたと思われる。
さらに、ダスクの脅威もある。情報処理特化型であるヨミの計算によると、近々この地域のどこかでダスクが自然発生するおそれがあるとかで、そういった危険から私を守るためマフマフを呼び寄せたとか。
「本当は私がお姉ちゃんを守りたいんだけど、ダスクの捜索と隔離を手伝わなきゃいけないから……ごめんね」
「いいのいいの、むしろたくさん気を回してくれてありがとうね。でも──」
マフマフの立場やすずねの意図は理解できた。戦闘向けではないらしいすずねが荒事に関わることに心配な気持ちもある。ただ、さしあたり一番気になっていることはというと、
「この子ほんとに大丈夫?」
首輪をちらつかせながらものほしげな視線を送ってくるマフマフの是非である。すずねは引きつった笑いのまま固まり、マフマフは首をかしげた。
「腕っぷしは確かだから、大丈夫だと、思う……たぶん」
「任せてくれ。
「その首輪アピールがなかったら普通にかっこいいのに」
ツッコミを通して私の疑念が伝わったのか、マフマフはしょんぼり肩を落とす。ふせられた犬耳が幻視できるほどの落ち込みっぷりだ。口が裂けても言わないが、足をなめろと言えば躊躇なく実行しそうな覚悟を感じる。実は護衛の名目で特殊なプレイを提供してくれるアレなのではなかろうか。
「あはは……マフマフさん、これでもマシになったんだよ」
「うそぉ!? これで? ていうか元からこんなキャラなの!?」
「さすがに元からじゃないよ」
人の尊厳重視で生きてと指示してからすずねに尋ねると、やんごとなき事情を語ってくれた。
マフマフは前世の私に身を挺して庇われ、命を拾った。しかし目の前で私が敵と刺し違えるのに直面し、心を病んで長いこと引きこもっていた。ぎりぎり外に出られる程度に立ち直ったところ、先の私切腹事件の報と同時に護衛の依頼が舞い込み、いてもたってもいられず快諾して今に至る。
「たぶん、今度こそ絶対お姉ちゃんを守りたくて張り切ってるんじゃないかな」
「めっちゃ人格歪ませてんじゃん! ロクでもないな私!?」
「気にさせてしまってすまない、みすず。私にできる精一杯の贖罪をどうか受け取ってくれないか……」
「マフマフさん? ご主人の許しもなく鳴いちゃダメですよ」
「お願いだからすずねは悪ノリやめて!?」
くうん、と涙目でうつむくマフマフ。首輪は意地でも受け取らないけどもう首に何かついてても違和感のない忠犬ぶりだ。よもやこれほどの黒髪美少女を変態に変えてしまうとは、前世の私は相当業が深い。戦況的に止むない判断だったとはいえ、自己犠牲も考えものだ。
護衛の都合上、マフマフはすずねの任務が落ち着くまでうちに住むことになる。部屋は余っているから問題ないものの、縄張りを侵されるのが嫌いなすずねには苦渋の決断だったらしく、どこか圧のある笑みを浮かべる。
「マフマフさん。こっちから頼んだ手前今朝は見逃しましたけど。私とお姉ちゃんの部屋に今度勝手に入って来たら」
「……き、来たら?」
「うふふ」
意味深な笑顔を前にマフマフはしっぽを巻いて青くなった。
重くなった空気の中で私はごほん、と咳払いを一つ。話し込んでいたせいで朝食の減りが遅い。
「いいから早くごはん食べちゃおう。すずねは学校あるし、私は……何もないけど」
「ん、そーだね」
「わんわん」
「犬食いすな! 箸使うのよ箸ぃ!」
早速人の尊厳をぶん投げようとしているマフマフを叱り飛ばしつつ、騒がしい朝の時間が流れる。なんとなくテレビをつけると朝の情報番組がやっていて、どこかの事件の犯人がついカッとなってやったなどと供述している報道。三人そろってコメントに窮しその瞬間だけ完全に食卓が無音に。
ややあって食器をシンクに運び、玄関ですずねを見送る。
「みすず、私は何でもやるぞ。さあさあ遠慮せずどんどん指示してくれたまえ。……みすず?」
横に立つマフマフが意気込んでいるがまだ早い。すずねの足音が遠ざかり、エレベーターに吸い込まれ下降していく機械音に変じ、静かになったところでやっとマフマフに向き直る。
マフマフは一歩後退った。白い頬に冷や汗が伝う。
構わず詰め寄って壁際に追い詰めてやる。意地悪な笑みを浮かべているのが自分でも分かった。
「今、何でもやるって言ったよね?」
ーーー
私は女の子の肉体が大好きだ。顔や胸や下腹部のみならず、脇も二の腕も鎖骨も肋骨も全部大好きだ。記憶を一部取り戻す前は実の妹にさえ欲情していたし、今も妹系のエッチ作品を絶えず渉猟している。ムラムラしない日は一日としてなく、好みのブツがあれば日がなシコシコしていられる。
そんな私にとってマフマフは絶好の据え膳だ。すずね不在により毅然とした姉の仮面が剥がれ、下卑た妄想が止まらない。ぐへへ、どんなことしてもらおう。
そうして手始めに突きつけた要求は、
「みすず、なんか思ってたのと違うよ……」
「いいからキリキリ働けーい」
掃除洗濯炊事である。
ソファでだらけながらテレビを見ていると、視界の隅に忙しなく働くマフマフが映り込む。流れる黒髪は後ろでくくって、薄手の部屋着の上に私のエプロン装備。遠くで洗濯機がゴトゴト動く音がする。いつもより音がうるさいのはポケットに何か入ってたからかな。
私は女の子が大好きだ。でも過去の負い目に縛られ、弱りきった女の子に手を出すのは淑女の所業ではない。
よって、普通にこき使うことにした。今の私は学校も労働も拒絶し家事さえ放棄した、真のニート淑女だ。
「は、裸エプロンとかどうだい……?」
「あっそれサイコー──じゃなくて、こら! 慎みを持ちなさい!」
「むう……」
たまに誘惑されたって屈しない。物足りない顔で見つめられてもくじけない。淑女は誇り高いから。
「あと贖罪云々言うのも禁止。誰が悪いってわけじゃないんだから、普段通りのマフマフになって。分かった?」
「……分かった」
渋々首輪を部屋着のポケットにしまうマフマフ。これで犬アピールは終わりだ。心なしかマフマフの雰囲気が映像の中の堂々としたものに近づく。そっちが平生なのだろう。
しばらくソファにだらけて惰眠を貪っていると、部屋が静かになっているのに気づく。横から感じる視線。大粒の瞳と目があった。床に座って私が気づくのをじっと待っていたようだ。もう終わったのかな。
マフマフはあさっての方向を向いて声を震わせる。
「お、終わったとも。多少の不手際はあったけれど、ほらこの通り。私はやった!」
「ふうん? ……ふん!?」
顔を上げると、ソファの向こう側は地獄と化していた。
シンクからは水が溢れ朝の洗い物が沈没している。食器乾燥機も同じく浸水しており、ショートして煙を吐いている。当然床は水浸しで、投げ出された掃除機や家具類も浸水直前だ。
慌てて水を止めたところで嫌な予感。シンクがこれってことは洗濯機は?
「うそお!?」
やられた。やけにうるさいと思ったら、あのゴトゴト動く音は断末魔だったか。同じく水が溢れ出しショートしていた。
水を止める。
後ろを振り返ると、洗面所の入口で立ち尽くすマフマフがびくりと肩を震わせた。さてこの落とし前どうつけてくれるのか。
「……何でもするとは言ったけど出来るとはいってない! 私は悪くないぞ!」
「ちょっとは悪びれろこの駄犬っ!」
まさか胸張って言い訳一つしないとは予想もできず、つい罵倒しながらほっぺたをつねってしまう。マフマフは涙目で手足をバタつかせていたが、結局ごめんのごの字も引き出すことは出来なかった。
食器乾燥機だけならともかく洗濯機のご逝去はそこそこの手間だ。ネット経由で修理の可否を確認し、手遅れとの診断を受け家電回収サービスに依頼。並行してマフマフに水浸しになったリビングの片付けをさせつつ通販で同じ型番のものを購入したものの、届くまでには数日かかる。せっかく健全なニート生活を送ろうという矢先、コインランドリー通いになることが確定したのだ。
近場のコインランドリーに二人で向かい、洗濯物をぶちこむ。マフマフはきりっと凛々しい顔で私の隣に控えている。寝起きのしおらしさはどこへやら、図々しいほどの開き直りっぷりだ。
確かに私にも非はあった。ムラムラするあまり頭が回らず、マフマフが家事全般得意だろうと根拠もなく決めつけて任せてしまったのは私が悪い。洗濯機の使い方くらいは先に教えておくべきだった。
でも分からないなら聞けばいいじゃない。壊れるまでボタン連打したり蹴りを入れたりせずに、分からないから教えてって私に言えば全部済んだ話じゃない。なんでそれすら出来ないのよ。
「君は私をバカにしているのか? 私にだって、分からないことを聞く程度の知恵はあるんだ!」
「だったらなんで」
「私は分からないことが分からないだけだ! だから悪くない!」
「居直りポンコツとは恐れ入った」
かわいい分強盗よりタチ悪いわ。分かってないことが分からないんじゃ質問のしようがないよね。だけど億面もなく堂々と言い張ることではないと思う。
「いいかいみすず。ココイチ理論だよ」
「カレーが食べたいってこと?」
違う違うと尊大に首を振るマフマフ。これだけやらかしといてとれる態度じゃないぞこの駄犬。
私の精一杯のジト目を受け流し、駄犬もといマフマフは語った。
「人間誰でも、出来ないでは済まされないここ一番の土壇場がある。その時までにたくさん『出来ない』を積み重ねて出来るに変えていけばいい。失敗を気にする必要はないんだ」
「いいこと言ってやったぜみたいな顔するのやめなさい腹立つ」
言ってる本人のドヤ顔が腹立たしいし穴だらけの暴論だし、提唱したやつは間違いなく頭悪いとは思うけれど、小さな失敗を引きずってくよくよしない点は嫌いになれない。その日は洗濯物を持ち帰り、マフマフの出来ないことを一つ一つ教えていくのに費やした。
その結果分かったのはマフマフが超人的なポンコツであることだ。濡れたフローリングを雑巾がけさせれば滑って転ぶしテーブルに頭をぶつけるしバケツをひっくり返す、台所に立たせてみると玉ねぎを持っただけで泣き出すし包丁はそもそも怖くて触らせることもできない。本当に何も出来ないなこの子。
「そうだ私は何も出来ない。それの何が悪い!」
メンタルの強靭なポンコツとはここまで面倒なものか。本来の護衛の役目がなければ即日叩き出して出禁にしているところだ。
すずねはダスクの捜索任務が忙しいらしく、頻繁に日が落ちてから帰ってくる。夕食の席でマフマフのやらかしエピソードを聞くたび家畜を見るような目でマフマフを見やり「なるべく早く帰ってもらうね」とコメント。マフマフはバツが悪そうにそっぽを向いて口笛を吹くが、すずねの眼光に押されしばしば冷や汗を流す。
マフマフは紛う方なきポンコツ駄犬だけど、悪い子ではない。むしろ自分のダメな部分をまったく恥じずドヤ顔さえしてみせるその根性は割と好きだ。なのですずねには「焦る必要はないから」と念をおすようにしている。変に急いで空回りしたら逆効果だから。
そうしてすっかりマフマフの無能感にも慣れた一週間後。
捨て置いた過去がまた一人、後ろから追ってきた。
ーーー
新☆ランク1:あんっの住所不定幼女!!
新☆ランク1:人の獲物横取りしたあげく鼻で笑って消えてった! ちょー腹立つ! 今度会ったらお尻百たたき!
ウィザード:あんたじゃ返り討ちだって
バロットとパップのガチ択:みすずさんに本気出させた唯一の魔法少女だもんねー
ジャンヌダルク(本物):アンプ事件以来、みすずさんによく懐いていたからな。荒れてるんだろう
ジャンヌダルク(本物):ランク1なら寛容になれ。お前は一番だ。一番偉いんだ。な?
新☆ランク1:まーランクとか関係ないですけど? 元々心広いですし? 子供の癇癪くらいよゆーで水に流しますよ?
新☆ランク1:んじゃーランク1特務忙しいんで落ちるわー。あーランク1特務いそがしー
管理人bot:新☆ランク1 さんがログアウトしました。
ウィザード:いつか詐欺とかで痛い目見そう
ジャンヌダルク(本物):あ
ジャンヌダルク(本物):お告げだ
管理人bot:♡妹♡ さんがログインしました。
♡妹♡:あんっのポンコツ駄犬美少女!!
♡妹♡:米を洗剤で炊く部族が実在するとは思わんかったわ!
バロットとパップのガチ択:魔法少女がいるくらいだし、そんな一族もいるんじゃなーい?
ウィザード:生活力低い勢を未開の部族扱いするのはやめたげて
♡妹♡:風味豊かで逆にありじゃないかい? あるわけねーでしょ!
ウィザード:ものはいいよう
バロットとパップのガチ択:で、そのフレグランスライスはどうしたのー?
♡妹♡:泣きながら食べようとするから捨てた。お腹壊すっての
聖女:食べ物を粗末にするなんて! 絶好のお仕置きチャンスですわ!
聖女:《書き込みがブロックされました》
管理人bot:プンすこぷんぷん左衛門! CONNECTは健全なチャットルームです!
ジャンヌダルク(本物):それよりみすずさん、取り急ぎシィちゃんのことなんだが
「おーいみすず。そろそろ行こう」
「はいよー」
部屋の扉がノックされ、私は退室の旨を打ち込んでパソコンを閉じた。最後に何か呼ばれていた気がするけど、リアル優先だ。後でログを見ればいい。
扉を開けるとマフマフが待っていた。洗濯物を詰め込んだカバンを抱えている。私も担当の分を抱えて家を発った。今や習慣化したコインランドリーへの短い外出だ。
通販の洗濯機は消滅した。配送トラブルやらで散々到着が遅れた末、在庫なしにつき注文はキャンセルされますと連絡がきたのだ。金輪際通販は使わない。
「それだけやらかしてるのに謝罪もないとはね。やれやれ、神経を疑うよ」
「頭にブーメラン刺さってるよーマフマフー」
「えっどこだい?」
天使の輪が浮かぶ艷やかな黒髪をぺたぺた触って、何もないじゃないかと首を傾げるマフマフ。今日もたくましいようで何より。
マフマフの長所は人を安心させるところだ。私も要領が良い方ではないけど、マフマフを見てるとここまでじゃないなと安心できる。
「そんなに褒められると照れるよ」
皮肉も通じないんじゃもう無敵だ。たぶん悩みの概念すら知らないんだろう。
「悩みくらいはあるさ! たとえば……最近すずねの目が怖い。家畜を見るような目には慣れているんだが」
「それ慣れちゃダメなやーつ」
「近頃は生ゴミを見る目でこっちを見てる気がする」
「格下げぇ!」
そんな風に他愛ない雑談をしながら道を行く。駅方面とは逆の方向に住宅街が広がっていて、山と海に挟まれる地域柄、下り坂が多い。視線を少し上げると遠方に海と飛び石のような埋立地、それらを結ぶ架橋が見える。
住宅街を抜けると幹線道路。道路沿いにひしめく店舗に混じって大きなアーケードが口を開けている。麻風商店街の看板を掲げたそこに入ってすぐのところが目的地、コインランドリーだ。
壁に沿ってぐるりと配置された洗濯機、時間つぶし用の古びた雑誌ラックとベンチ、申し訳程度のしなびた観葉植物。ベンチにはすっかり顔なじみになった先客が腰掛けていて、口先にくわえた駄菓子から私たちへ視線を移す。
「おー、また会ったねー。世界を救ったヒロイン様が来るようなとこじゃないでしょーに」
「フドーさん、こんにちは。ほらマフマフ」
「……こんにちは」
人見知りなマフマフが私を盾にする位置で、か細い声を発する。私は構わずさっさと洗い物を洗濯機へ投入し、フドーさんと若干の距離を開けて座った。
本名不詳のフドーさん。先月ヨミの事務所を訪れた折私が誤ってヒップドロップをかました人であり、パラダイム機関諜報部のエージェントでもある。この商店街の近所に住んでいるらしく、顔を合わせると世間話ついでに機関のことをいくつか教えてくれた。
たとえばヨミの事務所について。ずっとスルーしていたけどなぜ中学生のヨミが探偵事務所でしょちょーなどと呼ばれる立場にいるのか、あの事務所は何をしている場所なのか。秘密組織らしいから答えてくれなくても文句はなかったのだけれど、向こうも暇だったらしく「諜報部の建前だよー」とあっさり答えてくれた。
フドーさんによると、あの事務所は悪の組織の動向やダスクの発生時期、場所を調査する諜報部の一端だ。建前である探偵業で培った情報網により超常的な事件事故の情報を収集、それをヨミが分析処理することで、ダスクの特定や被害者の救済につなげている。フドーさんも情報を集めるエージェントの一人だとか。
しかしエージェントにもオフの日はある。だるんだるんの長袖シャツにジャージとつっかけ、すっぴんで駄菓子を咥えている姿はくたびれたOLにしか見えない。
「くたびれたOLで悪かったなー」
読まれた。たまにこの人はすごく勘がいい。お菓子あげようと思ってたけどやーめた、とそっぽを向いてしまった。
気安い雰囲気のせいかフドーさんとは話が途切れても気まずくならない。ぽつぽつ雑談をしていると先にフドーさんの洗濯が済み、気だるい足取りで出ていった。緊張気味だったマフマフがようやく私に絡めていた腕を解く。さっきから私を盾にしてたけど、万が一フドーさんがエージェントになりすました刺客だったらどうするつもりだこの駄犬。もはや護衛どころか美少女の皮をかぶったかわいい犬としか思えなくなってきた。
「止まって」
「へ?」
だから帰り道、唐突にマフマフが鋭い声音を発したのも何かの冗談かと思った。
「そこにいるのは誰だ」
空が橙に染まり始めた夕刻の住宅街。電灯が弱々しく明滅する電柱の影に向かい、マフマフは声を張る。私を背にかばう位置へ移動するとともに眩い光がひらめき、映像で見た通りの魔法少女へと変身していた。
蹴りの威力を増強するゴツゴツしたアーミーブーツ、厚い布地とプロテクターで各所を覆うとともに、飾りヒモとリボンがヒラヒラして武骨とファンシーが融合している。一見露出は少ないようだけど、膝から内ももへの大きなスリットのせいで大事な部分──もとい乙女の薄っぺらな聖なる布が丸見えになっている。他の部分が堅固に守られている分無防備なそこへ否応でも視線を吸われてしまう。どうしよう後ろから見るとお尻に食い込んだ見せパンと内ももが丸見えなんだけど、これ触ってもいいのかな。
「くっ……!?」
「さ、触ってないよ!?」
唐突にマフマフが苦悶の声を漏らすので慌てて手を引っ込める。でも私は関係なかったみたい。
ぴんと空気が張り詰め、肩を上から抑えつけられるような重圧が空間を満たす。全身が総毛立ち背筋にぞくぞくと悪寒が伝い、額に鋭利な何かの先端を突きつけられるような不安感で頭がいっぱいになり、冷や汗が噴き出てくる。電柱の影からは渇いた血を思わせる赤黒い霧が漂い、パキパキと奇妙に甲高い音が無数に響く。
刺客か、それともダスクと呼ばれる怪物か。ただものではない何かがそこにいるのは明らかなのに、なぜか怖いとは思わない。
「なっ……」
やがて姿を現し、同時に絶句するマフマフ。
現れたのは幼女だった。上半身はゴシックなフリルと尾の四つある奇形の燕尾服、長い燕尾の間に見え隠れする細い足はダメージタイツに覆われている。いびつな蜘蛛の巣のようなタイツの裂け目からは病的に白い肌が見え、足首より下は幼い素足があらわになっている。ミニサイズの山高帽がミディアムヘアの黒髪にしがみつき、異様に長い前髪部分が顔の半分を覆い隠していた。
髪の隙間から見えるぎらついた瞳は砕かれた結晶のごとく歪な赤に輝いて、まっすぐに私を睥睨している。ピクリともしない表情からは感情の色が伺えない。
不思議な子だ。この禍々しい気配はどう考えてもカタギじゃないし、さっきから悪寒が止まらないけど、やっぱり怖いとは思えない。目覚めてから間もないころ、どこかでこの子を見かけたような──
「《リーパー》!? な、なんでこんなところに」
「あ、思い出した」
「くそっ、逃げろみすず! ここは私が引き受け──」
マフマフが悲鳴のような声をあげ丸腰のまま身構える。トンファーは使わないのだろうか。それと前後して私の過去と今の感覚が結びつく。
さらに事態が動いた。唐突に禍々しい幼女の姿が消失したのだ。ただし重たい気配と悪寒はそのまま。
泡を食って周囲を見回すマフマフ。私も右左、後ろの順番で確認して──
赤い瞳と目が合った。
人の血潮を無理やり結晶化すればこんな輝きになるのだろうか。複雑かつ奇怪な光を放つ真ん丸な瞳が、眼下、手の届く位置から私を見上げている。じいっと私の中に何かを探している。接近により強まった悪寒にはやっぱり覚えがあった。
「……シィちゃん?」
それと同時、腰のあたりに衝撃。幼女が私の腰に手を回してお腹に頭を擦り付けている。チャットルームでやたら悪寒のする書き込みをしていたあの文字化けちゃんで正解だったらしい。
ひとしきりマーキングよろしく体をすりつけていたシィちゃんは顔を上げ、こう言った。
「繧キ繧」縺。繧?s縺母ソ縺吶★縲∫エ?據縲√豈阪&母繧難シ」
「うんっ、そうね!」
何言ってんのかわっかんねー。
ーーー
その後シィちゃんは、奇天烈極まる歪な異音と身振り手振りで散々何ごとかを語り尽くし、最後にはピースサインでもするように小指を立てて。私が処置に困って頭を撫でると満足げに消えていった。
魔法少女、《リーパー》。パラダイム機関はじめどの組織や派閥にも所属しない野良でありながら、実力はトップランカー相当と言われる謎の多い魔法少女であり、外見や雰囲気のせいか黒い噂が絶えない。マフマフは前世の私とシィちゃんの関係を知らなかったらしく、それ以上教えてくれることはなかった。
要は前世の私の知り合いが会いに来てくれたってことだ。何言ってるのかは全然分からなかったけど喜んでる気持ちと大好きオーラは伝わってきた。あれほど懐かれていた私は前世で何をしていたのだろう。がぜん気になって、帰ってきたすずねに聞いてみた。
これが大失敗だった。
「なんで……シィちゃんの匂いがするの……?」
リビングに入ってくるなりすずねの顔から感情が抜け落ち、据わった目つきで私を睨む。マフマフはしっぽを丸めて私から距離をとった。おい護衛。
「ああそっか……お姉ちゃんに会いに来たんだね……」
「す、すずね?」
「別にいいもん……私もう寝る……」
「えっごはんはどうするんだい!?」
「マフマフステイ! ちょ、待ってすずね!」
すずねは制服を着替えもせず本当に寝室へ引っ込んでしまう。それを追って中へ入ると、まばゆい光で視界が真っ白に。閉じた目を開けたそこには魔法少女の装束へ変身したすずねが立っている。拘束衣と羽衣をモチーフとした、着衣してるのに全裸よりエロいことで定評のある姿だ。
「な、なになに!?」
すずねが私に手をかざしたとたん羽衣の部位が発光し、私は体の自由が利かなくなる。床に倒れ込む前にすずねが支え、ベッドへ運んでくれた。
体が麻痺したかと思いきやそうではなく、私は荒縄でがんじがらめになっていた。たまにエッチなサイトのSM系動画で見かけるものすごく複雑な縛り方。縄に上下から胸が圧迫され、腕は後ろ手に、足は両膝と両足首を縛られ曲げた状態で固定されている。
動けない。というかちょっとでも身じろぎすると、どこにとは言わないけど縄がものすごく食い込んで痛い、変な扉を開きそう。
すずねは私をぬいぐるみみたいに抱きしめ、耳元でささやく。
「私が居ない間、お姉ちゃんは他の子とイチャイチャしてるんだ」
「ち、ちがっ」
「ねえ、私の能力は思い出した?」
思い出してない。返答を待たずにすずねは続ける。耳がぞわぞわする。
「『束縛』だよ。倒すことはできないけど、上級のダスクでも空間ごと束縛できる。変身できないお姉ちゃんもこの通り」
耳元から離れ、目と鼻の先にすずねの顔がやってくる。口元だけが小悪魔の笑みを浮かべ、目元は変わらず能面のそれだ。
「だからその気になれば簡単なの。お姉ちゃんを束縛して一生、上から下まで全部のお世話したり。ここに閉じ込めて他の子たちと会えないようにしたり。やろうと思えば今日からでも」
『お姉ちゃんは一生食事と睡眠とトイレだけ繰り返してなさい!』
あの時の言葉が脳裏をよぎる。怒りに任せて大げさに言ったものではなかった。ぞっとして身じろぎするけど逃げることはできず、さらに強く縄が食い込む。
「や、やだ……」
「うん、私もやだ。それじゃ怪我して眠ってた頃と変わらないもん。お姉ちゃんはお姉ちゃんらしく自由でいてほしい。だから誰と会っても何をしてもお姉ちゃんは悪くない」
「へ?」
すずねは一転、泣きそうに顔を歪め私の胸に顔をうずめる。
「悪いのは私だよ……お姉ちゃんを独り占めしたい……でもお姉ちゃんには自由でいてほしい。魔法少女の活動なんてすぐ辞めて一日中一緒にいたい。だけどお姉ちゃんの守った世界を私も守りたい……もう全部ぐちゃぐちゃで……」
訳分かんない、と。すずねはそれきり嗚咽を漏らし始めた。
一瞬だけ子供がかんしゃくを起こしたみたいだと思ったけれど、その通り子供のかんしゃくだ。なにしろすずねはもうすぐ十四になる中学生の女の子。中学生活と魔法少女、炊事までこなすしっかり者だから忘れがちだけど、ふとしたきっかけで爆発してもおかしくない年頃だ。
すずねには理想がある。やりたいことや欲しいものがある。でも現実はその全部を叶えられるほど簡単じゃない。その不満がちょっとしたきっかけで爆発し、今に至ってしまった。
拘束されてなければ抱きしめて頭を撫で回していたのに。
「すずねは偉いわね」
「……なんで? 私またお姉ちゃんにひどいことしてるのに……」
「お姉ちゃんがこの程度でこたえると思ってるの? 独り占めしたいなら好きにしなさい」
「ほんと!?」
「ええ」
ぱっと笑顔を咲かせたすずねだったが、眉根を寄せて数秒考え込み、恐る恐る切り出す。
「じ、実はね、ダスクの捜索がうまくいかなくて……」
「うん」
「だからその……今回の任務が終わるまで、毎日こうしていいかな?」
「うん……うん?」
聞き間違いだろうか。毎日、と聞こえたけど。
「ずっと不安だったの。寝てる間にお姉ちゃんがダスクに巻き込まれるんじゃないか、いなくなるんじゃないかって。でもこうして『束縛』してたら、絶対どこにも行けないでしょ」
「そ、そう……えっと、その、お姉ちゃんどこにも行かないわよ? 縛る必要は──」
「ダメ?」
うるうるとつぶらな瞳に涙をためて上目遣いのすずね。かわいい妹にここまで求められておいて否をつきつける女に果たして姉を名乗る権利があろうか、いやない。故に姉である私の返答は最初から決まっていた。
「うんっ、いいわよ!」
ーーー
「いいわけねーーだろ張っ倒すわよマフマフぅ!」
「なんで私!?」
数日後、おなじみのコインランドリーで私はマフマフにキレ散らかしていた。
ついその場の勢いですずねのお願いを聞いてしまったがこれは間違いだった。すずねはあれ以来本当に毎晩私を緊縛してから眠りにつき、私は朝まで一歩たりとも動けない。トイレに行きたくなってもだ。一度限界ギリギリまで追い詰められ、夜中にすずねを起こしてみると、「どうしよっかなぁ?」などと小悪魔の笑みでさらに焦らされた。一昨日は私がお風呂に入る前に縛られ、「お姉ちゃんの匂い?」なんて言いながら際どいところを舐め回される辱めを受けた。
しかし一度でもお姉ちゃんとして許可を出してしまった以上文句は言えない。そうは言ってもこれ以上続けると、間違いなく変な趣味を開発されてしまう。
というわけで、
「打倒ダスク! やるわよ忠犬マフ公!」
「ええええ!?」
すずねは今回の任務、すなわち自然発生のダスクを探し当てるまでと言った。じゃあ私とマフマフが日常生活の中で偶然にもダスクと遭遇した時点で私は誇り高き恥辱から解放される。簡単な理屈だ。
「ま、待ちたまえ! 護衛として君が危険に近づくことは許さないぞ!」
「危険はすぐそこやっちゅーねん! 私が妹に縛られて悦ぶ変態になる危険がもう待ったなしなのよ!? そうなったらアンタ責任とってくれんの、ええ!?」
「えっ、そ、それは……カナダに行こうって言ってるのかい?」
「分かりづらいボケはやめい!」
ちなみにカナダでは同性婚が認められている。
その後もマフマフは延々的はずれな反論でゴネたものの、差し迫った危険で必死な私の勢いに負け、しぶしぶ首を縦に振った。
護衛対象が積極的に脅威を排除しにいくのは乱暴な気がするけど、私の趣味が歪むリスクと比べれば些細なことだ。あの映像やすずねの信頼っぷりを見るにマフマフの腕っぷしは頼りにできるから、危ないときはマフマフに丸投げでいい。
こうして私とマフマフは、魔法少女のボランティア活動を始めたのである。
ーーー
敵を知れば百戦危うからず。まずはダスクと呼ばれる怪物が何者であるかを調べることにした。過去の映像を見る限りでは落陽の光の中から滲み出す謎の化け物としか分からない。その正体は何か、どこに潜んでいるのかを探り、捜索の方向性を決めるのだ。
パラダイム機関が秘密組織らしいから当然だけど、ネットでダスクを検索しても目当ての情報はゼロ。チャットルームで聞こうものなら管理人のヨミを通してすずねに伝わり、「また無茶をしようとしている」と誤解されて夜の縛りがいっそうねっとりする恐れがある。
しかし私にはダスク退治を生業とする頼もしい護衛がついているのだ。
早速マフマフに尋ねてみると、視線を川で溺れる子犬よろしく泳がしてしどろもどろ。
「えっダスクが何者かだって? えっと……アレだよ、人の負のエネルギー的サムシングがこう、ぎゅって集まった感じの……」
「失せろ」
「ひどくないかい!?」
ひどいのはそっちだよ。あんた魔法少女でしょうが、なんで自分の倒す敵のこと全然知らないのよ。
「魔法で倒せるってことだけ分かれば十分じゃないか! ほら、世間の主婦のみなさんはゴキブリの生態を知っているかい? 学名は? 知らないだろう! そういうことだ」
「っく、屁理屈を……」
「ちなみに学名はBlattodeaだ。ふふん」
やたら流暢に言ってドヤ顔するマフマフの頬をつねってから、私たちは曜日と時間帯を確認しなじみのコインランドリーへ向かう。直行しようとしたけど念の為途中でコンビニに立ち寄り、駄菓子を買っておく。
目当ての人物はいつも通りラフなすっぴん姿で駄菓子を咥えており、私たちが入ってくるのを一瞥。続いて洗濯物を持っていないことに気がつくと、怪訝そうに首をかしげた。パラダイムのエージェント、フドーさんである。
「ダスクのことが知りたい? 釈迦に説法でしょーよ」
「こいつは釈迦じゃありません、駄犬です」
フドーさんが私の後ろに隠れるマフマフを見やるので、私は首を横に振ってみせる。元ランク1とかで持ち上げられていた私も魔法関連の思い出がまるごと吹っ飛んでいる。頼れるのはフドーさんだけだ。
フドーさんは少しの間唖然とした後くつくつ忍び笑いを漏らし、こちらへ手のひらを差し出した。あらかじめ買っておいたうまい棒三本を献上すると、満足げにうなずいて封を切る。
しばらくサクサクと棒をかじっていたフドーさんは、出し抜けに言った。
「懐かしいって気持ち。それが正体だよ」
「え?」
マフマフと私の声が重なった。懐かしい気持ち?
「ダスクの正体は昔、人の負の感情だって言われてた。憎悪とか嫉妬とか怨嗟とかね。でもノスタルジスの出現をきっかけに本格的な研究が始まって、正体が判明したんだー。それが懐かしいって思う気持ちね」
「え、ええ~?」
どうもしっくりこない。何か超常的なエネルギーが怪物になってそうとは漠然と考えていたけれど、ただ昔を懐かしむだけの気持ちが、映像で見たような怪物になるのだろうか。
フドーさんは滔々と語る。懐かしさから生まれたダスクは、同じく懐かしさに囚われた人々の元に現れ、縄張りへ誘い込み喰らう。喰らわれた人間は死ぬことこそないが、未来へ進む力を失い過去を懐かしむだけの廃人になってしまう。ゆえにダスクは懐旧の獣、郷愁の鬼などと呼ばれているとか。
「ピンと来てない感じだねー」
うまい棒を平らげたフドーさんは苦笑している。
その通り私には腑に落ちない。記憶喪失で懐かしむべき過去を失っているからとうのもあるが、たとえ私に十分な過去があったとしても、昔を思うだけの気持ちが怪物の姿をとるのは理解できない。
「昔を思うだけの気持ちがー、とか考えてるでしょー?」
「エスパー?」
「違う違う。魔法少女の子はたいていそうなの。『懐かしい』を知らない、共感できない。だからこそダスクを倒せる唯一の存在なのさー」
「一体どういう……?」
ハッとした。意味深なことを言うだけ言ったフドーさんはうまい棒の空袋を見つめ、物足りなそうに口を尖らせている。
「マフマフ」
「こりゃご丁寧にどーも」
マフマフが追加の蒲焼さんを一枚取り出し、フドーさんは受け取るや否や開封。ちびちびかじりながら言葉を探し、「あくまでも私個人の感覚ね」と念を押して話し出した。
フドーさんが言うに、『懐かしい』はどんな感情よりも複雑で特別な情念だという。人によって千差万別なそれは不可知のどこかで集積し、閾値を超えれば怪物の形をとる。
「私の『懐かしい』は、アニメとかラノベのキャラクターだったよー」
フドーさんはどこにでもいる二次元の好きな女の子だった。クレヨンしんちゃん、ドラえもん、まるこちゃんにサザエさん、ステップアップしてハルヒ、とあるシリーズ、原作のラノベまで嗜むようになった。特別リアルに何か不満があったわけでもないけれど、フドーさんは二次元キャラたちと一緒に大きくなっていった。その過程で生じた『痛み』こそ、懐かしさの始まりだった。
画面の中のキャラクターたちはどこか大人びて頼もしい。スキあらば悪の組織と戦っているし、ヒロインを助けているし、しょっちゅう世界を救ってるやつもいる。人並み外れたスペクタクルを経験するキャラクターたちはとても大きく、憧れの対象だった。
けれどある日、フドーさんは気づいてしまった。
最初はしんちゃん。次はカツオくん、のび太くん。その次はハルヒ、上条さん──いつの間にかキャラクターたちよりも大人になっている。世界を救わず、ヒロインとも出会わず、誰かを助けることも何かを成し遂げることもなく、ただ年を取っている。
初めてその事実に気づいたときはただチクリと胸が痛んだ。その痛みは時を経るごとに大きくなって、寂しさ、罪悪感、後悔、焦燥、あらゆる感情を煮詰めた特別な感慨になっていく。その気持ちこそが、
「私にとっての『懐かしい』だよー。どう、少しは伝わった?」
「……」
私は二の句が継げなかった。
変わらず共感はできない。前世の私が見ていなかったのか思い出と一緒に消えたのかアニメの知識がなく、キャラクターの年齢と言われても分からない。
ただ、蒲焼きさんを咥えて遠くを見つめるフドーさんの表情に。私の知識や経験には欠片もない不思議な感情を湛えたその目つきに、ひたすら絶句するほかなかった。
きっと理解できなくて当然なのだろう。私には過去がない。懐かしむ過去を積み重ねた大人にしか、『懐かしい』は分からない。今にも過去の中へ消え入りそうなフドーさんに寄り添うことはできない。
だけどこれだけは言っておかないといけない。
「誰かを助けることも、何かを成し遂げることもなく。それは違いますよ」
「……どーゆーこと?」
「だってフドーさんは生きてるじゃないですか。大人になって働いて、真面目に生きてるじゃないですか。それは本当にすごいことです。しょっちゅう世界を救ってるより、そっちのがすごいです」
生きることは大変だ。こうしたいと思っても巡り巡って自分の思う通りにはいかない。不都合と理不尽と想定外ばっかりが連続することは、記憶喪失になってからの短い間でも十分理解できた。そんな大変なことを大人になるまで、大人になってからも続けるのは間違いなく偉業だ。アニメのキャラクターの向こうを張ることだってできるだろう。
フドーさんは目をまんまるにして呆然。一拍の間を置いてくしゃりと笑った。
「ガチで世界を救った子に言われても嫌味だけどねー。ま、ありがと」
「あ、いえ、こっちこそ教えてもらってありがとうございました」
「正当な対価だよー」
空になったうまい棒と蒲焼きさんの袋をひらひらさせるフドーさん。ゴミ箱に放り込むと折しも洗濯が終了し、フドーさんは渇いた洗い物を回収してその場を去っていった。後には私とマフマフの二人だけが残される。
ダスクは懐かしさに囚われた人々の元に現れる。これほど条件がふわふわしていれば捜索が難航するのも当然──ん?
「これ詰んでる?」
声に出た。
私には過去がない。すずねとの思い出はあるけど、ぶっちゃけ今日と明日のことばかり考えてて懐かしいとはほとんど思わない。つまりダスクと遭遇する条件を満たすことは不可能。
一縷の希望をこめてマフマフへ振り返ろうとしたところ、ポンと肩に手を置かれる。
「変態になった君も、私は好きだよ」
「……ふぇ」
もう何も言えない。
ーーー
「お姉ちゃん、マフマフさんっ、行ってきまーす!」
赤いマフラーをはためかせ、すずねはさっそうと元気いっぱいに朝の町へ飛び出していく。それを見送った私は腰砕けになって倒れ込み、マフマフに支えてもらった。
「だ、大丈夫かい?」
「へ、へへ。余裕余裕。お姉ちゃん負けないもん……」
マフマフに肩を借りてリビングのソファへ。先にマフマフが腰をおろし、細く引き締まった太ももを枕にごろりと私は寝転がる。程よい弾力を枕に家事もそっちのけでだらけるのが、最近の私の日課になっている。
すずねとヨミたち地元の魔法少女たちの捜索任務は依然難航していたが、すずねは疲れるどころか日増しに元気になっていった。夜のお姉ちゃん成分補給療法(すずね命名)は効果てきめんのようで、心なしか肌艶まで良くなっている。マフマフが何をやらかしても「もう仕方ないですねー!」と笑顔で流すほど心の余裕もできている。
そこまで元気になってもらえると、まったくお姉ちゃん冥利に尽きるじゃないか。私には何の不満もない。ええ、実は近頃、夜妹に縛られて寝る時間が楽しみになりつつあるとか、変な扉が開かれる直前だとかいう不安はきっと夢だ。私はただの健全なニート淑女であって、変態お姉ちゃんじゃないんだ。
「ねえみすず、そろそろ新しい洗濯機を買いに行ったほうがいいんじゃないかな……?」
「ごめん無理、しんどい、いろいろ」
「そ、そう」
マフマフの言う通り、いいかげんコインランドリー通いは面倒くさい。商店街の電気屋でいつかいいのを買おうとは思っているのだけど、すずねに何かを吸い取られているのか元気が出ない。実はあの子サキュバスの仲間だったりするのかな。エロい格好してるものな。
マフマフのしなやかな太ももを楽しみながら、だらだらと過ごす。テレビの横、ベランダに通じる引き戸には、分厚い雨雲が写し出されている。ちょうどテレビの天気予報で一日中雨になると予報士が語った。すると程なくして、本当にぽつぽつと雨が降り出し外はすっかり灰色に染められてしまう。外の排水口が忙しない水音を発し、ざあざあとした雨の足音が部屋の中まで入ってくる。
何もやる気が起きない。ダスクが懐かしむ気持ちに引き寄せられるのだとしたら、今日と明日だけあればいい私と出会える道理がない。すずねも過去と今の私に折り合いはつけたらしいし。このまますずねたちが任務を終えるか、私の性癖が開発されるかのチキンレースを受け入れるしかないと考えると、げんなり。
テレビの占いコーナー。私の星座は六位だった。コメントのしようがない。つまらなくなってマフマフの顔を見上げてみる。
美少女だ。流れるような黒髪と白い肌、整った小顔に凛とした佇まい。黙っていればまさに高嶺の花だ。中身が破滅的なポンコツだとは誰も思うまい。
「ねーマフマフ。私とマフマフってどう知り合ったの?」
「……何だい、今更」
少しの間を空け、マフマフは心外そうに顔を歪めた。
過去を懐かしむうんぬんと聞いてなんとなく気になっただけだから、どうしても知りたいわけじゃない。私はただ口をつぐむ。
「別に大したことはないさ。魔法少女になってすぐの頃、君が先達として世話してくれた。それだけだよ」
「ふーん」
それきり何を話すでもなく、雨音とテレビの音が室内を満たす。ふと先日シィちゃんと出会った際、気になった違和感を問いただそうとしたけれど、言葉にする前にうたた寝してしまった。テレビの内容と妄想がぐちゃぐちゃに混ざりあった浅い夢の中、しばしまどろむ。
そのままどれくらい経った頃だろう。ぶぶ、と何かの振動音が耳朶を打つ。
スマホのバイブだ。システムキッチンのカウンターに置きっぱなしにしていたのを思い出し、寝ぼけたままで取りに向かう。
着信だった。サイケデリックなピンク後輩、『ヨミ』の字が表示されている。
『先輩先輩、たいへんです! エマージェンシーはエマとジェシーですっ!』
「頼むから寝起きにボケ倒すのはやめて」
誰だよエマとジェシー。半分寝てる頭じゃ処理しきれないボケ濃度じゃないか。
「落ち着いて深呼吸。何がたいへん?」
『すぅー……ダス……発生……ました。先……今どこ……す?』
「家よ。ごめん、ちょっと電波悪いみたい、待って」
突然音声がひどいノイズに呑まれてしまう。雨だからかな。
電波を求めてベランダを見てみると、外はからりと晴れ渡って空が橙に染まっている。目が痛いほどのきつい陽光は大気そのものが赤く輝いているかのようで、摩天楼の群れに鮮烈な陰影を刻んでいる。これなら外に出ても濡れなくて済む。
電波を求めベランダへ足を向ける。ノイズは良くなるどころかますますひどくなっている。ようやく起きたマフマフが周囲をきょろきょろしたかと思うと、私を──私の後ろ、ベランダを見てびしりと硬直した。
『外……出ない……檻……』
しかし朝の二度寝とは実に強力なもので。私がようやく違和感に気づいたのは、引き戸を開けてベランダへ足を踏み出した瞬間だった。
なぜこんなにも空が赤いのか。朝から夕方までずっと寝ていた? 違う。半分起きているような浅い眠りだった。そこまで熟睡したとは思えない。ベランダから見えるあの摩天楼は? そんなもの眠る前はなかった。そもそもその方向に高い建物はない。
素足が外履きのサンダルに接地するまでの刹那、そこまで考えたけれど──結局もう止まることはできなくて。
一歩外へ踏み出したとたん、世界が赤く染まった。
どこまでも広がる瓦礫の山、すぐそばに崩れかけの廃ビル群が墓標のようにそびえ立っている。その向こう側にも茫漠とした瓦礫の丘陵が果てしなく続き、気の狂った赤い陽光と影のコントラスも相まって呼吸するだけでも頭がくらくらしてくる。そんな果てしない空間に、私はぽつねんと立っていた。
見覚えのある空間だ。私が過去に戦っていた映像の背景が脳裏をよぎるとともに、ヨミの切羽詰まった着信を思い出す。
ダスクが発生した、外に出ないで。おそらくそう言っていた。私は寝ぼけたまま話を聞き流し、無防備にも外へ出て──ダスクに、巻き込まれた。
「べ、ベランダでも外判定なの……?」
言い訳しても許されるよね。
いやだって、ダスクの性質聞いた感じ私が巻き込まれる道理ないもの。私もすずねも過去を懐かしむことは──マフマフは?
あの元気な居直りポンコツ娘はどうだったのだろう。
「みすずっ!」
考える前に、本人がやってきた。例の内ももと聖なる布が丸見えな姿に変身済みだ。やはり前回覚えた違和感の通り──トンファーがない。あの映像の中で自在に振るわれていたトンファーがないのだ。
「無事かい!? くそっ、まさかピンポイントで私たちを狙ってくるなんて……!」
「マフマフ、えーと……まずここどこ?」
追及は後に回し、とにかく現状確認。
「ここはダスクの内部。郷愁の檻と呼ばれる異空間だ」
「つまり危ない場所?」
「すっごく」
「出るには? 非常口みたいな魔法陣使える?」
「《バックドア》の能力を覚えているの? 彼女はここにいないからね、檻の主を倒すしかない」
なるほど、合点がいった。
これまでダスクが発生するとか巻き込まれるとか表現されるのは聞いたけど、出現する、遭遇するとはほとんど聞かなかった。つまるところダスクとは、怪物そのものではなく空間そのもの、現象を指すのだろう。
なんて考察できるくらいには私は落ち着いている。焦ることはない。私に戦う力はないけど、一人じゃないんだから。
映像で見たのと同じように、空間の一部が歪む。黄昏色の肉塊が現れ不気味に蠕動すると、ややあって四足の獣の姿へと収束した。四つん這いでも体高は二メートル以上、頭部は存在しない代わりに、丸太のような前足に鎌と見紛う大爪が三本ずつ生えている。
恐ろしい怪物だ。もし一人の状態で出くわしていれば腰を抜かしていただろう。
だけどこんな時のためのマフマフだ。このために今までポンコツムーブをかまして来たのだ。
私は適当な瓦礫のかげに引っ込みヤジを飛ばす。
「さあゆけーいマフマフ! けちょんけちょんにしておしまいっ!」
「……ま、任せろっ!」
「あれれ」
何か嫌な予感がした。マフマフの声が震え、しかも明らかに及び腰だからだ。
変なこと言ったかしらと首をかしげるうち、ついにマフマフが怪物ダスクへと突っ込んでいったのだった。
ーーー
その四足のダスクは映像の中で、私とマフマフが数え切れないほど蹴散らしていた。トンファーのひと振りで粉々に砕ける、取るに足らない雑兵に過ぎなかった。だからマフマフが後を追ってきた時点で私は安心しきり、今日のお昼は何にしようと考え始めるほどに気を抜いていた。
しかし──
「マフマフ!?」
「っく!」
巨腕が唸り爪が閃く。ぞっとするような風切り音と共に瓦礫の地面が深く抉られ、マフマフはかろうじて身を躱していた。がら空きとなった胴体へ軍用ブーツの前蹴りが振るわれる。
直撃。大気が震え、鈍い衝撃音が私にまで聞こえた。
しかしダスクはお構いなしにもう一本の腕を振るい、慌ててマフマフが回避に回る。
さっきからこの繰り返しだ。同じ流れをたどるたびマフマフの頬に汗が伝い、動きが鈍っていく。一撃喰らえば致命傷になる攻撃を避け続けていれば無理もない。
私はたまらず影からヤジを送る。
「いい加減トンファー使いなさいって! これじゃ《トンファーキック》じゃなくてただの《キック》になるわよ! ださい!」
「うるさいな、《ブレードストーム》に言われたくないよっ!」
「はぁー!?」
かっこいいでしょうがブレードストーム、なんかの映画のタイトルみたいで。
なんて気の抜けたやり取りをはさんで同じような攻防が続く。爪、回避、キック。キックの種類が前蹴り、後ろ回し蹴り、ソバット、踵落とし、膝蹴り空中回転蹴りなど多彩なのは見てる分にはかっこよかったけど、結局効いてないんじゃジリ貧だ。体力が落ちる前にさっさとトンファーを使わないと──
「マフマフっ!?」
鮮血が舞う。空間を染め上げる黄昏色に吸い込まれ、すぐに見えなくなる。
ダスクの爪がついにマフマフを捉えた。わずかにかすっただけとはいえ華奢な体をふっとばすには十分な威力だったらしく、マフマフは横っ飛びに吹っ飛ぶ。
空中で器用に態勢を整え、私の隠れているすぐ横に着地。脇腹の部分に血がにじみ、苦悶の表情で膝をつく。
ずしん、と地面が揺れる。ダスクが一歩一歩こちらへ近づいてきている。巨体のせいか走ることは出来ないのかもしれない。
「立って!」
マフマフに肩を貸し、私たちはダスクに背を向けた。向かう先はベランダからすぐそこに見えていた廃ビル群だ。瓦礫の山をいくつか踏み越え、ビルの一つに転げるように飛び込んだ。薄暗い室内は等間隔に支柱が並んでいる以外に何も存在しない。
支柱の一つにマフマフをもたれさせ、私は部屋着のシャツを脱ぎ捨てた。力づくで引き裂いてマフマフの腹に巻いていく。まずは止血だ。
「だ、大丈夫だ。魔法少女ならこのくらい」
「いいからじっとして」
構わず即席の包帯を巻き終えて一息。地面から感じる小さな振動は徐々に大きくなっている。引き離したダスクが少しずつ迫っているのだ。同じようなビルはいくつかあるから、すぐに見つかることはないだろう。
マフマフの隣に座って、直球をぶん投げる。
「トンファー使えないの?」
「……C級までなら蹴りだけでもどうにかなるんだ」
「あれは何級?」
「……B」
「ダメじゃん」
呆れた。同時に納得もしている。シィちゃんと出くわしたとき、マフマフは真剣に焦っていたけどトンファーを出さず丸腰のままだった。うちに来た日、『元』ランク8だと言っていたのも引っかかっていた。
「あの日から」
ぽつり、とマフマフがこぼす。
「君が倒れたあの日から、変身ができなくなった。パラダイム機関も辞めて、ずっと引きこもってて……君が目覚めたと聞いて卒倒してから、やっと変身はできたけど、力は戻らないままで……」
それでもある程度は戦えるからと護衛を引き受けた、と。ということはすずねもこのことを知らなかったのか。後でバレたらすごく怒られそう。
マフマフはもう戦えない。
でも大丈夫だ。ヨミは私たちのところにダスクが発生したことを知っている。すずねやシィちゃんはじめ頼もしい味方もいる。助けが来るまであの鈍重な怪物から逃げ回ることは難しくないだろう。
が、マフマフは首を振った。
「郷愁の檻には黄昏と夜しかない。現実とは時間の流れが違うんだ。B級の檻ならたしか……ここでの三時間が、現実での一秒だったはず」
「……うっそぉ」
ヨミの事務所から私んちまで、急げば五分。となると九百時間ここで、この何もない空間で命を狙われながら逃げなきゃいけないわけか。
現実的じゃない。かといってキックしか出来ない手負いのマフマフを戦わせるわけにはいかない。ならば手段は一つ。
気合を入れて腕を突き上げてみる。
「ちぇっ、覚醒パターンはないか」
「な、何を……」
分からないなりに変身を試してみれば体が閃光を発する。ただし出てきたのは中途半端な包丁サイズの薙刀だけだった。丸腰のマフマフよりはマシだろう。
外へ向かおうとした私の肩を、マフマフが痛いほど強く掴む。続けざま、乱暴に後ろへ引っ張り倒された。尻もちをついて痛い。
「何すんのよ!」
「こっちのセリフだ! 変身さえ出来ない君が戦っても死ぬだけだろうが!」
「マフマフだって武器ないじゃん!」
「だが見込みはある!」
そう言って、マフマフは軍用ブーツのつま先で地面をとんとんしてみせる。
「補助用だけれど、一応これも魔法の武器だ。刺し違える覚悟で臨めば……倒すことはできる」
「ふざけないで! そんな方法で命助けられても嬉しくないってーの!」
自分でも驚くほどの大声だった。このポンコツ美少女は何をバカなことを言っているのか。大体出来ないことは出来ないと割り切って気にしないのがマフマフでしょうに、なぜここまで意固地になるんだ。
怒声が薄暗い空間に反響し、やがて残響も消え失せる。完全な沈黙が私たちを包み込んだ。尻もちをついた姿勢の私と、うつむいて黒髪に表情が隠れて見えないマフマフ。
「私、だって……っ」
沈黙を破ったのはマフマフだった。顔を上げたその時、私はハッと息を呑む。
マフマフは泣いていた。子供のように顔を赤くして、しゃくり上げている。
「私だって嬉しくなかったっ!」
崩れ落ちるようにひざをつき、私の胸ぐらをつかむ。でもその手付きにはてんで力がなく、弱々しく震えている。
「なあ、みすず。私は何も出来ない無能なんだ。ゴミなんだよ。小さい頃から色々やらされた。日舞、弓道、華道、剣道、書道に空手合気道護身術……全部全部中途半端だ。何一つものにできない。魔法少女に覚醒しても、どうせそうなるって思ってた」
だけど、と苦しげに絞り出す。
「君は言ってくれた。出来ないことの何が悪い。出来ないことは出来ないでいい。ここ一番の絶対に失敗できないときだけきちんと出来れば全部おっけー。無能な自分を誇っていけってさ」
ココイチ理論。これ提唱したやつは間違いなく頭が悪いとひそかに思っていたけれど、まさか私だったとは。ブーメランが刺さってたのは私の方だったみたい。
「くだらない暴論だと思った。でも救われたんだ。何もできないクズな私が、人間として認められた。たまらなく嬉しくて……だからあの時、私は戦場に残った」
あの時。ダスクの大群と巨人を掃討した、半年前の撤退戦が頭に浮かぶ。
「絶対に君の力になる。出来ないじゃ済まされないここ一番だった。恩人の君に報い、守る、私の集大成だった。なのに……っ」
とめどなく涙があふれる。今まで溜め込んで隠していた後悔の念が、その源だろうか。
「目の前に、刃があった。君の命で真っ赤に染まってた。君は何かを成し遂げたみたいに、満足そうにして倒れてたんだ……ふざけるふざけるなふざけるなっ!」
映像の中、巨人の刃に貫かれていた私。血に染まった刃はマフマフの眼前で止まっていた。
「どれだけ私がみじめな思いをしたと思う!? 気が狂いそうだったよ。消えたかった、死にたくなった、でもそんなことをすれば君の成し遂げたことを踏みにじってしまう。ただ自分の無能を噛み締めて毎日死にたくなりながら、呼吸だけしてる半年間だった」
「マフマフ……」
「君が私をやらしい目で見てるのは知っていた」
「はぇ?」
急にぶっこんできたせいでアホみたいな声が出た。前世の私は淑女の自制心を持ち得なかったようだ。
「体を差し出せば償いになると思った。それ以外に出来ることなんてなかった……でも、今なら!」
しょっぱな首輪を持ち出してきた時にはとてつもない変人かと思ったけど、あれはマフマフなりに本気で頑張っていたんだ。それも空振りに終わって、たくさん空回りを重ねて今が巡ってきた。
命懸けで償う機会が。
「今が二回目のここ一番なんだ、出来ないじゃ済まされない時なんだっ! だから、だからぁっ──」
「ごめん」
泣きじゃくるマフマフを強く抱きしめる。華奢な体は迷子みたいに震えている。頭を撫でると肩をビクリと跳ねさせた。
「な、なんで、君が謝るんだい? 悪いのは私だろ。何もできないポンコツが……」
「そりゃあマフマフはポンコツだけどさ。でも悪くないよ。私は今までずっと正しいフリをしてきただけだった」
マフマフを庇ったあの時の記憶は、映像を見た時おぼろげに回復している。だから私が捨て身でマフマフを守った動機も分かる。
体が勝手に動いた。
私はこれを正しいことだと思っていた。自分の命より他人を優先するのは頼れるお姉ちゃんとして正しい行動だと。でも違ったんだ。
私はマフマフの命を守ったけれど、心を守れなかった。心が壊れたまま生きることは、ともすれば命を失くすより辛い。そのことがマフマフの言葉から伝わってきた。
ピンク色の後輩も、思えば同じことを言っていた。
『先輩は……誰彼かまわず救ってきました。自分が傷ついてでも困ってる人を助けてきました。それで救われた子はたくさんいるっす……だけどそれと同じくらいみんなを傷つけることもあったっす』
意味が分からなかった。救われたのか傷ついたのかどっちなんだと。だけど今なら理解できる。
誰かを守る自己犠牲は正義と思われがちだ。でもそうすることで相手の心が傷つくことを知っていながら「体が勝手に動いた」と言い張るのは、殺人犯が「ついカッとなってやった」と供述するのと本質的には同じじゃないか。
そして今、マフマフは私と同じことをやろうとしている。私も同じくまた自己犠牲に走ろうとして対立している。どちらかの命は助かるけど、心は結局助からない。
じゃあ、両方助かる選択をするしかないだろう。出来ないでは済まされない。覚えてないでは済まされない。
マフマフから体を離し、包丁サイズの薙刀を天高く突き上げ、スタイリッシュなポーズをキメる。
「はあっ!」
「なっ、そのださすぎるポーズは……!?」
全身が万能感に包まれ、視界は白に染められる。光が収まったときには私は魔法少女の姿に──
「……武器だけかーい! おんっも、何これ!?」
なってなかった。肌着とジャージの下姿から変わっていない。ただ、映像の中で見たような双刃薙刀は取り戻していた。
長大な柄の両端に、互い違いの向きで肉厚の刃が接合されている薙刀。ものすごく重い。
「お、重くて当たり前だよ、装束の身体強化がないと──」
が、持てないわけじゃない。
取り落としそうになったそれの下に潜り込み、体捌き、重心移動、遠心力を利用しくるくると回す。最終的に一方の刃を接地した状態で落ち着いた。
膂力は足りずとも、体に呼吸や歩き方のレベルで染み付いた技量がカバーしてくれる。今の要領で振回せばギリギリ戦いにはなるだろう。
その時、唐突に轟音が響く。ビルの壁面が砕け散りもうもうと粉塵を巻き上げており、その中に黄昏色の巨体が見える。早くもここを嗅ぎつけたのだろう。
むしろ好都合だ。
「先手必勝!」
刃を引きずりながら駆け寄り、最低限の動きだけで薙刀をぶん回す。
ダスクのリーチの外から胴体を斬りつけるが、浅い。かといって距離を詰めると、攻撃を躱せる自信がない。捨て身で戦っては結局誰の心も救えやしない。私は一人じゃ何もできない。
だけど今の私には、頼れる護衛がついてるじゃないか。
「マフマフ、ここ一番よ!」
ダスクの踏み込み。前足の範囲外へ慎重に逃げつつ、まだ呆けているマフマフへ叫ぶ。
「私もあのときは失敗した! だから二度目のここ一番はうまくやりたい、出来ないじゃ済まされない! あんたも同じでしょ、マフマフ!」
牽制のつもりで斬りつける。前足で無造作に払われ、危うく薙刀ごと後ろへ倒れそうになってしまう。
「おっとと……いい加減根性出しなさい! 二人とも、えっと、その、健やかなままで帰るんでしょぉ!」
やばい、薙刀に気を取られて言葉選びが雑になってきた。いやでもそう、どっちも健やかに帰るの、うん。
意表を付いて突きを放つ。三本の爪に絡め取られ、間合いの中へ引き込まれる。つい手を離さずにいたせいで私本体もその中へ。
「ちょっ、ええっと、私が怪我したらすずねめちゃくちゃ怒るわよ!? 聞いてるマフマフぅ!?」
振り上げられる黄昏色の腕。鋭い爪がぎらりと光るのがやたらスローに見える。
さすがに根性論は雑だっただろうか。とりあえず私も出来ないなりに頑張ってみて、その姿を見たマフマフが気合と根性で立ち上がるのを期待したのだけど──
「締まらないな、君は」
呆れた声音が響くと共に、振りかざされたダスクの爪が消失。続いてガラスが砕けるようなけたたましい音が響き渡り、硬質な破片が飛び散る。
ダスクの眼前に、トンファーを構え残心するマフマフの姿があった。
「何がうまくやりたい、だ。結局出たとこ勝負の運頼みじゃないか」
「……ま、いいじゃない。結果よければってことで」
「そういうことにしておこうか」
すかさずもう一方の爪が振るわれる。マフマフの輪郭が一瞬だけブレたかと思うと、再び耳をつんざく音と共に爪が砕け散る。ダスクの巨体がたたらを踏んで後退った。
続けて踏み込み、一発二発とトンファーが閃く。交通事故めいた破砕音が響き自動車のようなダスクの巨体が数メートル後方へ吹っ飛んだ。
「ち、ブランクはあるか。でもこれで終わりだ」
マフマフのまとう空気が重くなる。獣のように身を低く沈め、足に力をためている姿からはかっこいい必殺技の気配しかしない。おそらくトンファーに仕込まれた斬新なギミックとか使う派手なやつ。記憶喪失のおかげですごくワクワクする。
そうして放たれたとどめの一撃は──
「喰らえ、《トンファーキック》!」
「だーからトンファー使えってばぁ!?」
ただの飛び蹴りだった。なぜかトンファーを装備する前よりもすさまじく威力が向上しており、ダスクの体を正面から貫通。接地した後も数メートルブレーキをかけてようやく止まる。
ダスクの巨体が黄昏色の粒子となって消滅していき、空間が歪みだす。次の瞬間、私たちは見慣れたマンションのベランダに立ち尽くしていた。
呆然として部屋に戻ってみれば、朝の情報番組が垂れ流しになっている。日付は今日のまま。時間は一分と経っていない。夢でも見ていたようだ。
けれど今の戦いが確かな現実である証拠を、マフマフが持ち帰っていた。
「お……お腹痛いよぉ~!」
「あ、そうだった! 救急車一丁!」
お腹の爪痕である。
マフマフは戦っているときの表情がウソだったように哀れっぽく泣きじゃくり、救急車で搬送される間もずっと私の手を握っていた。
その後ヨミやすずねたちと病院で合流し、パラダイム機関の人たちも交えたてんやわんやの事後処理に巻き込まれたり、私がひそかに新しい決意を抱いたり。やっと一息つける頃にはもう夜だった。あまりに忙しない一日が過ぎ、ひとまず一件落着だ。
だって誰の命も心も失われていない。私とマフマフは力を取り戻し黄昏の魔物は倒された。後腐れのないきれいな結末で、つまりは──
ーーー
「実質ノーダメとはいかないよねー」
「うえぇん、ひっぐ、ぐす……」
麻風総合病院、個室。ベッドの上で上体を起こしたマフマフが号泣している。
傷自体はたいしたものじゃなかった。切り口が極めてきれいだったため痕も残らず直に治る。ただ、鋭い傷口からは結構な量失血していたので、念の為一日だけ検査入院することに。
そうして早速朝一でお見舞いにいくと、マフマフは私の顔を見るなり泣き出した。
「私は一体何がしたかったんだよぉ……」
こうなるのも無理はない。なにしろマフマフは、今回のダスク騒動の元凶だったのだから。
事後処理の段階でまず疑問に上がったのが、なぜあのダスクがピンポイントで私とマフマフを檻に取り込んだのかだ。現地にエージェントとヨミが向かい情報分析の能力で調べたところ、「過去を思う強い気持ち」に引き寄せられたことが判明した。その気持ちの主がマフマフだったのだ。
マフマフはずっと過去に囚われていた。半年前の戦いで私を助けようとするも力及ばず、逆に庇われて命拾いしたことをずっと気に病んでいた。強力な後悔の念がダスクを生み、ふとしたきっかけで呼び寄せてしまった。
つまるところマフマフのマッチポンプだ。ダスクが発生したから私の護衛にやってきたけどその原因はマフマフにあって、いざマッチを消そうとしたら火が強すぎて火傷した。
この顛末を知ったヨミはなんと言えばいいのか分からないというように目をそらし、「すずねさんには黙っておくっす」と言い置いて去った。独り相撲に姉を巻き込まれたと知ったときのすずねは確かに怖そうだから、ありがたい気遣いだ。
「ここいちでも何でもなかった……全部私が悪いんじゃないか……」
「でもほら、私が過去のこと聞いたのがきっかけでしょ? そもそも半年前に私があんなことしたから──」
「頼むからやめてくれ、余計みじめになる……」
両手で顔を覆ってうずくまるマフマフ。
「私は何もできない無能なクズなんだ……犬にも奴隷にもなれない……何をしてもダメ……死にたい……」
自虐に浸るその姿は妙に堂に入っていた。腹が立つほど自信満々な態度よりもよほどしっくりくる。おそらく何かやらかすたびこうして死にたくなってる方が、マフマフの素なんだろう。
余計な慰めは逆効果。かといってこのまま放っておくのも後味が悪い。
それなら私も、ありのままの気持ちをぶつけてやる。それが淑女ってものだ。
マフマフの両手を顔から引っぺがして正面から向き合う。情けない泣き顔が目を白黒させた。
「たしかにマフマフはポンコツだよ!」
「うぐっ」
「何やらせても失敗するし失敗の仕方もえげつないしやること全部空回りだし、世界の知能レベルがマフマフに落ちたら地球滅亡不可避だと思う!」
「な、何もそこまでぇ──」
「でもっ!」
再び視線を落とすマフマフの頬をぐいっと上向かせる。涙に潤む大粒の瞳に、直球の気持ちを投げ込んだ。
「私はそんなマフマフが好き!」
マフマフは間違いなく無能だ。こんなに要領の悪い子は世界単位で見てもワーストレベルだと思う。
でもマフマフはそのダメっぷりを深く自覚しているのに、頑張ることをやめない。周囲をドン引きさせる大失敗を連発しながらも必死で頑張り続ける。ありのままの無能を晒してそれでも懸命に生きている。どこまでも自分と現実と真摯に向き合っているからこそ嫌いになれなくて、むしろ好きに思えてしまう。
「──だから好き、ありのままのマフマフが好き!」
思いの丈をありったけの語彙で言い尽くして数秒。音が途切れ、互いの息遣いだけが妙にくっきり響く。
「な、ななな」
やがてマフマフは顔を真っ赤にして見たこともない表情を見せた。嬉しさ、驚き、戸惑い、羞恥、いろいろな思いを甘く煮詰めて蕩けさせたようなその顔は、まさしく乙女のものだ。駄犬だったり尊大ポンコツだったり乙女だったり、兼業も甚だしいな。
「なんで君はそうやって……っ」
「お、照れてる?」
「当たり前だろバカじゃないのか!?」
「わぷ」
枕を顔に押し付けられた。乙女の顔面を狙うとはこの駄犬いい度胸だ。
すぐに枕を取り上げて逆襲の構えをとるけど、マフマフはシーツにくるまって背中を向けている。
「もう、もう……っ! 頭の中がぐちゃぐちゃだよ! 帰ってくれ!」
「ふふ、はいはい」
「……そ、それとっ!」
元気を出してくれたならもう言うことはない。素直に踵を返すと、部屋を出る直前で呼び止められる。
マフマフはシーツから頭だけ出して、りんごみたいに頬を赤く染めながら、
「いろいろ、ありがとう。これからもよろしく」
と言ってくれた。
ーーー
悪の組織は滅んだはずなのに人が立ち向かうべきものはたくさんあって、日常は絶えず騒がしい。失われた私の過去は思わぬところからひょっこり顔を出し、奇妙な大騒ぎを起こすこともある。
けれど失ったからこそ紡がれる絆がある。新しい日常がある。そう思えば、勝手に動き出した過去に追い回されるのも悪くないかもしれない。
ということはやっぱり──
記憶喪失になったけど実質ノーダメ、ってこと。