〈イルネティア王国 王都キルクルス 郊外〉
陽が落ち、空が一面黒く染まる。月は丁度新月で、輝くはか弱い星達ばかり。
そんな星達の懸命な瞬きですら、風で流れる雲が覆い被さり、辺りは完全な闇に覆われる。
風も、音も何も無い不気味な空間に溶け込むかの様な、気配の薄い人間が森の中のとある家に近付いていた。
全身を黒い服で覆い、足音どころか服の擦れる音すら立てない男。昼間にいれば不審極まりない彼は、しかしこの夜に完全に溶け込むことに成功していた。
男の名はマーク。ここイルネティアに潜伏しているグラ・バルカス帝国の諜報員であり、現在は本国からの命令で
彼は家の扉に近付き、その掛けられている鍵を開ける。技術力の低い文明の鍵。これまでケイン神王国で数々の重要施設に潜入してきた彼にとっては赤子の手をひねるよりも容易い。
そうして音も無く扉を開け、予め調査していた対象の部屋へと歩く。
「……」
対象の部屋。静寂と闇が支配するその空間において、彼は苛烈な訓練によって獲得した視力を発揮する。
部屋に設置されている質素なベッド。そこには、対象である少女───神竜騎士であり、本国においては『悪魔』や『
まだ若き少女。そんな彼女をその手で殺すのに、彼は少しの躊躇いも無い。元の世界ではもっと若い人間を数多く暗殺してきたのだ。
彼は彼女の前でナイフを取り出し───
───何、してるの?───
「───っ!!!?」
突如背後から、透き通る様な、それでいて禍々しさすら感じさせる声が聞こえる。
彼が振り向くと、そこには扉を塞ぐ様にして美しい少女が立っていた。ただ人間と違うのは、頭に角が、背に羽根が、尻に尻尾が生えているという事だ。
とても、とても美しく───そして、恐ろしい少女だった。闇に隠れたその顔は、しかし瞳だけが赤紫色に輝き、黒い空間に浮いていた。
「ねぇ、何してるの?」
「……」
彼の頬を冷や汗が伝う。
先程までは何も感じていなかったが、今はただ1つの感情のみが彼の心の中に渦巻いていた。
「ねぇ、僕のライカに、何してるの?」
圧倒的、死の恐怖。元の世界でも、これ程までこの感情を感じた事は無かった。
扉はこの少女に塞がれており、窓は鍵がかけられている。窓ガラスはそこそこ分厚く、無理やり出ようとすればその間にこの少女にやられるだろう。
逃げられない。そう結論を下した彼の判断は、速かった。
彼は再び振り向くとナイフをライカに振り下ろし───
───次の瞬間、ナイフを持っていた彼の右腕の二の腕から先が
先程まで腕が付いていた筈のそこは、今は焼け焦げ、プスプスと黒煙が上っているだけだ。
「───!!!?」
彼は一瞬、ほんの一瞬だけ思考が止まる。人間相手ならば、差程問題にはならない、そんな一瞬。
だがそれは、隔絶した身体能力を持つ神竜相手には致命的であった。
「っ!!」
ガン、という音と共に彼の頭が床に叩き付けられる。
一瞬にして距離を詰めたイルクスによって、彼の後頭部は手で押さえられ、床に拘束されたのだ。
彼はそれでも諦めず、靴の仕込み刃でイルクスを突こうとするが───失敗。猛烈な勢いで突っ込んで来た足は、呆気なく彼女の手によって掴まれ、握り潰される。
グシャリ、と骨と肉が潰れる音がし、彼は最早逃げる事は不可能だと判断した。
彼は口内に仕込んだ毒を飲み込もうと───する直前に、彼の口に彼女の手が突っ込まれ、喉を塞がれる。
「……本当は、お前をこの手で殺したい。この手でその喉を貫きたい、指を1つずつ潰したい、全身の皮を剥いで燃やしたい、痛めつけて、痛めつけて、痛めつけて痛めつけて痛めつけて───でも、僕がそれをやるとすぐに死んじゃいそうだから」
「───!!!」
息が出来ず、彼の顔が徐々に青く染まっていく。
意識が朦朧とし、視界が歪む。
「だから、今回はプロの人に任せるね」
そこで、彼の意識はプツリと途切れた。
動かなくなった男をゴミを見る様な目で見下ろすイルクス。意識が完全に無くなったことを確認すると、彼女は腕に着けていたブレスレットのボタンを押す。
「……もしもし、終わったよ」
『やはり居たか……ご苦労だった』
そこから聞こえてくるのは老いた男───ニズエルの声。
彼女はニズエルより敵スパイが潜り込んでいる可能性を告げられていたのだ。
そして、捕まえたら魔信で連絡する様に言われていた。
「まだ木の影から1人こっちを見てるけど、そっちもやっといた方が良い?」
『ああ、頼む』
「分かった」
彼女はそう言うと窓を開け、気絶した男を抱えて飛び降りる。
十数秒後、イルクスはその姿のまま両脇に2人の男を抱えて夜空を飛んでいたのだった。
向かうは王都。その中央部にあるランパール城だ。
───────
〈ランパール城 地下拷問部屋〉
「う……」
彼は、鼻にこびり付く様な鉄の臭いで目を覚ます。
「ここは……」
まず行ったのは、状況の確認であった。
自分は今、全裸で鉄製の椅子に両手両足───片方の腕は無いが───及び腹と首を拘束されている。
石レンガで造られた壁に、ポツンとはめられた鉄扉。天井より吊り下げられたランタンが弱々しい光を放っている薄暗い不気味な部屋。
だが、何よりも彼の目を引いたのは、床や壁に付着している赤黒い───つまり、血の痕であった。
彼はすぐに理解した。ここが拷問部屋であり、自分はこれから拷問に掛けられるのだろうと。
そしてすぐに決断した。舌を噛み切り、自決する事を。それはすぐに実行され、彼の口内に鉄の味が広がる。
「おやおや、気が早いですねぇ」
しかし、その味はすぐに収まった。何者かが彼の口に手を突っ込み、噛み切った舌を
「!!?」
「驚いていますねぇ。確か、貴方達の国は転移国家でしたか。その様子では、どうやら元の世界には魔法は存在しなかった様だ」
彼は驚愕する。噛み切った舌をこの刹那の間に再生させるなど、彼の知っている医療では到底不可能であった。
だが、目の前の白衣姿の老いた男は、それをいとも容易く行った。今は、白い手袋についた血を拭っている。
「私はこれでも魔力には自信があるのでね。幾らでも噛み切ればよろしい。その度に治して差し上げますよ」
「……」
これが、"魔法"か。彼は唾を飲み込んだ。
背に冷や汗が流れる。
「1つ、世間話でもしましょうか」
「……」
「貴方は知らないでしょうが、この世界の諜報員は大抵が女性です。その理由が分かりますか?」
「……」
男は持ってきたトレイから銀色に輝く鋏を手に取り、それを手から出した火で炙る。
必要の無い受け答えをするつもりは無い。彼は無口を貫いていた。
「無口ですねぇ。確かに、国家の高官には男性が多い。女性ならばハニートラップを仕掛けられる、というのもあります」
「……」
彼は火で炙り、赤く熱した鋏をジャキジャキと数回動かしながら、言った。
「しかし何よりも───男性には、女性よりも1つだけ弱点が多いのですよ。ここまで言えば、流石の貴方でも分かるでしょう?」
「……痛みなど、これに就く過程で嫌という程受けている。蛮族如きに、この口が割れるなどと思うな」
彼は、初めて応答した。それは今出来る最大の
そして、聡い彼はこれから何が行われるかを察していた。察してしまっていた。
エリートである彼は、これまで帝国で行われた如何なる拷問訓練にも耐えてきた。
その内容は凄惨を極め、途中で死人が幾度となく出る程の、だ。だからこそ、彼は自分の耐久力に自信を持っていた。
───しかし、彼は先程自分の舌を治された。それを見た時、彼の心に不安が蔓延り始める。
口内にあった舌は既に無くなっている。それはつまり、魔法とやらは欠損部位を生やせる程の物ではないという事だ。それが何か救いになるという訳では無いが。
さしもの彼も、任務に支障が出る様な───それこそ、身体の部位を欠損させる様な訓練は受けていない。
しかし、それに準ずる痛みは何度も受けてきた筈だ。そうだ。自分よ、安心しろ。あの訓練を思い出せ。
「魔法が無い世界では、人生で1度しか味わう事の出来ない痛み。……さて、貴方はどの位耐えられるでしょう?」
───この日、1人の諜報員が死んだ。その顔は苦痛に歪んでいた。
さて、ここで1つ話でもしておこう。拷問官について。
この世界の拷問官はエリートだ。何せ、その全てが大魔術師以上の魔法使いなのだから。
その理由は至って単純。『切断』と『回復』を繰り返さなくてはいけないからである。
切除した身体の部位を再び接着する程の回復魔法はそれなりに魔力を消費する。通常の、魔法を齧った程度の者であれば1回発動させただけで魔力切れを起こしてしまう。
その為、魔力に優れた者が必要なのだ。
そして、ここイルネティア王国にて今回グラ・バルカスの諜報員を拷問したのも、その様な厳しい基準をクリアした者だ。
「陛下。敵諜報員の拠点が判明致しました。既に騎士団を向かわせております」
「うむ、ご苦労であった」
「有り難き幸せ……」
その男の名はラグウェル。今年で齢60になり、キルクルス魔導学院を主席で卒業した『大魔導師』である。
拷問官になってから既に40年が経過する彼は、これまで行った全ての拷問において、敵から情報を引き出させている、ベテラン拷問官である。
「して、それ以外には何か手に入ったか?」
「ハッ。敵はこちらを侮っているのか、それなりに情報を持っておりました。それによりますと───」
「───3週間後、再びこちらに艦隊が差し向けられます」
「……そうか」
告げられた言葉に、イルティス13世は苦々しく答える。
「しかし、諜報員からの応答が無ければ本国でも情報が漏洩した事を察するでしょうから、あまり時期については当てにしない方が宜しいかと」
「うむ。だが再度の侵攻計画があるという情報だけでも有益だ。下がってよいぞ」
「ハッ」
そう言うと、彼は闇の中へと溶けていった。
「……やはり、
彼は先日ライカの口から告げられた、『モーリアウルより提案された計画』について、実行に移す事を検討するのだった。
───────
捕縛した諜報員を城へと連れて行ったイルクスはライカの部屋へと戻って来ていた。
ここ最近は諜報員への警戒であまり熟睡出来ていなかったので、久し振りにぐっすり眠れると思うと心が躍る。
1人で眠るには少し大きいベッドの上で、今はライカだけがすやすやと寝息を立てている。
実は、ライカには諜報員が居るかもしれないという事は伝えていなかった。
彼女には、少しでもぐっすりと眠っていて欲しかったから。
彼女が今更そんな事はしないと分かっている。しかし、もし。もし彼女に恐れられたら、私は一体誰を、誰を頼りに生きていけば良いのだろう。
そんな思考を振り払い、彼女はライカの横に潜り込む。
「……ライカ……」
彼女は自分の愛する少女の名を小さく呼び、そして意識を深い闇の底へと落としていくのだった。
他のグ帝スパイも全員ナニを切られて吐きました