アキラ・カワカミ。バラライカから言われたその名前は確かに彼女のフルネームであった。この街に来てからそれを名乗ったことは無い。娼館の女たちやマダム、バオにすら。隠していたわけではないが、今まで聞かれもしなかったし、自分で言うことも無いと思っていた。だから自分のフルネームがバラライカの口から出たことに、アキラは動揺を隠せなかった。
「レヴィたちの決着が着いたら、あなたは私たちの事務所に来てもらうわ。それまでうちの車で大人しくしていて頂戴な」
バラライカの言葉にアキラは反論しようとしたが、自身の背中に銃口が当てられる。彼女は条件反射的に両手を挙げるが、バラライカへの目線はそのままに睨み続けた。
すると、ダッチがやめておけと言うようにアキラを見る。彼はご愁傷さまだな。と言ってアキラの肩を叩いた。
「あなたが抵抗するのは構わないけれど、一応イエローフラッグの修繕費用は、あなたの身柄を条件に出すことにしているの。職場復帰のためにも従った方が賢明よ」
「…分かりました」
「それで良いわ。…連れていけ」
先ほどまでのキャリアウーマン風の口調とは打って変わって、バラライカは厳格な調子で部下に指示を出し、アキラは車のなかへ連行された。
アキラには、バラライカの口調がひどく懐かしく感じられた。彼女の脳裏には、前の上司の姿、そして先日、シスター・ヨランダの言葉が浮かんだ。そういうことか。「同族のホテル・モスクワ」。彼女たちは自分と同じ―――。
彼女の意識はそこで途切れた。彼女を車まで連行したバラライカの部下がアキラの後頭部を殴り、彼女の気を失わせたのだ。アキラはレヴィたちの決着を見ることは無く、そのままホテル・モスクワの事務所へ運ばれていった。
「なあ、バラライカ。今のは一体何事だ?」
ダッチは目の前で起こった出来事について、バラライカに尋ねた。バラライカはさばさばした様子で返答する。
「あら、なあに?気になるの、ダッチ?」
「…ああ。今回の俺たちにしたって、人さらいは珍しいことじゃねぇがな。何、あいつとはちょっとした知り合いだ。それに行きつけの酒場のマスターがやつを気に入っている。俺としちゃ、憩いの場が気まずくなるのは避けたいところだがね」
「それは一大事ね。大丈夫、ラグーン商会は彼女の件と無関係だって店主に口添えしてあげるわ」
なんともかみ合わない会話だ。自分だけでなく後ろの野郎二人もそう思っていることだろうとダッチはため息をつく。実際ロックは、「バラライカさん、そういうことじゃなくて…」と言いかけて、ベニーが慌てて止めた。無知がこの世で一番恐ろしい、とダッチはロックの教育を強く誓った。
「……オーケー。これ以上は何も言わんさ」
「話が早くて助かるわ、ダッチ。…さて、あの二人もそろそろかしら」
粘っても無駄だ。目の前の女は何も言う気は無いのだと、ダッチは諦めて引き下がる。バラライカも話題を切り上げ、先刻よりだいぶ動きの鈍くなった女二人の殴り合いを確認した。
――いつの間にか夜は明け、上ってきた朝日を背に、レヴィとロベルタは見事相討ちとなって、地面に倒れこんだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
いつも通りのうだるような暑さのなか、ロアナプラの街角の公衆電話。アキラはそこで電話を掛けていた。バオに街を案内してもらったあの日の記憶、だが。
――これは夢だ。アキラはぼんやりした頭でそう認識する。あの日、自分は結局電話を掛けなかった。いや、出来なかった。それなのに、どうしてこんな夢を見ているのだろう。彼女がはっきり夢と分かっていても、掛けた電話の呼び出し音は止まらない。そして、相手が出た。
「――誰だ」
電話から聞き慣れた声がした。軍人らしい、厳格な男の声。アキラは少し緊張しながら、話し出す。
「隊長、カワカミです。ロアナプラでの作戦より生存し、現在は――」
「ああ、お前か」
アキラの報告を聞き終える前に、隊長と呼ばれた彼女の元上司は言葉を発する。ああ、やっぱりこれは夢だ。あの人は必ず、話は最後まで聞く。故に、これはありもしない出来事なのだ。アキラはひどく納得しながら、相手の言葉を待った。
「アキラ・カワカミ。生存報告ご苦労。……だが、貴様はもういらない」
「え―――」
彼の声色は冷たく、何も寄せ付けないような厳格な口調だった。アキラの心の内にこれまで感じたことのない絶望が広がっていく。足元が無くなったかのように、その場には立っていられないほど動揺しているのが夢のなかでも分かった。
「こちらから貴様に用はない。後は何処へなりとも行くがいい。では」
そこで電話は切られ、同時に彼女にひどい衝撃が襲い、そこで夢は終わった。
「目が覚めたか、戦争屋。いや、元をつけた方がいいかな?」
アキラの耳に聞こえたのは女の声。この口調は気を失う前にも一度聞いた。ロシアンマフィア「ホテル・モスクワ」タイ支部のボス、バラライカのものだ。アキラは自分の頬に鋭い痛みを感じた。どうやら自分を起こすために張り手をされたらしい。意識を落としたのもお前たちだというのに、随分勝手だ。そうアキラは心のなかで悪態をつきながら、声の主を見る。当然ではあるが、手足は拘束されているので顔だけをバラライカへ向ける。部屋には彼女だけではなく、彼女の部下も数名いるようだ。この状態では到底抜け出せそうにない。諦めたように動かないアキラを見て、バラライカが言う。
「賢い振る舞いだ。お前の前職の会社は評判通りのようだな。今後の参考にさせてもらおう。…さて、質問にいくつか答えてもらおうか」
「なぜ、こんなことを、―――うぅッ!」
口をはさんだアキラに部下から容赦のない鉄拳が飛ぶ。「余計なことは話すな。質問にだけ答えろ」とバラライカが忠告する。アキラは自分への手荒い歓迎の理由が気になりながらも、バラライカが話すのを待った。彼女はそれを確認し、続けた。
「よろしい。質問は二つ。お前の出自と、この街にいる理由について。まず出自の方だ。――軍曹」
バラライカの呼びかけに軍曹――ボリスが返事をし、そのままアキラの出自について述べていく。バラライカは、きりの良いところで「事実か?」とアキラに確認をしていった。出身や育った施設のことから、軍や前職での軍務・勤務成績まで、アキラ・カワカミという女の人生のレポートが「ホテル・モスクワ」の手にあった。
よくもまあ、これだけ調べたものだと、アキラは驚き呆れた。プライベートはまだしも、秘匿されているはずの軍や軍事会社の情報はどうやって手に入れたのだろうか。両者とも完全にクリーンな組織とは言えないが、まさかマフィアに情報が洩れるとは。アキラの嘆息をよそに、ボリスの報告が終了する。バラライカは続けて、第二の質問をアキラに向けた。
「では、次だ。アキラ・カワカミ、お前がこの街に来た理由はこちらでも把握済みだ。生憎と、私も情報が集まる身でな。我々が聞きたいのは、お前がこの街に留まり続ける、その理由だ」
「…行くところが無いからですよ」
アキラが自嘲交じりに言う。バラライカは、もう一度殴られたいか?と、アキラを睨む。
「質問には正確に答えろ。いくらお前の前職が地球各地に飛ばされるミサイルのようなものであっても、会社と言うくらいだ、オフィスくらいあるだろう。…戻ろうと思えば出来たはず。現にお前は街の電話で連絡を取ろうとしていた。違うか?それとも、
―――見捨てられたのがそんなに悲しかったのか?」
「見捨てられたんじゃない!」
バラライカの煽るような言葉に、アキラが大きな声で叫ぶ。違う、そうじゃない、自分はそんなことされてない。ただ自分は――。アキラの頭に血が上ったように、己の胸の内を吐き出す。
「私は、勘違いされて置いて行かれただけだ…。あの日、時間通りにポイントに着いていれば、今だってあの人の下で―――!」
そこまで言って、彼女は自分から出た本心に驚き目を見開いた。バラライカはそれを冷めた目で見つめる。
「あ、いや。今のはその…」
質問に答える以外喋るなと言っただろう。とバラライカが言うと、部下の手によってアキラの顔面にまた制裁が下った。アキラは殴られた衝撃と自分の本当の想いに呆然としている。それを見たバラライカはかすかに笑みを浮かべた。それは優しさや憐れみからくるものではない。目の前の女の無様さを蔑む、まさに嘲笑だった。
「なるほどな。お前がここに残っているのは、またお前の仲間が何かを画策しているからではないかと考えて、こうやって尋問したわけだが…。まさか、こんな負け犬風情に気を遣っていたとはな」
バラライカは現状に飽きたようで葉巻を吸い始めた。彼女の侮辱をアキラは静かに受け入れる。そうだ、ロアナプラに留まる理由は実際のところ無い。金を稼いだり、最悪盗んだりすれば、会社のオフィスまでは行ける。自力であの場所に帰れる。だが、アキラにとって手段は問題ではなかった。
「…とんだ杞憂だった。同志諸君、骨を折らせた。武装を解除し、通常業務に戻れ」
バラライカが溜め息の代わりに葉巻の煙を吐いた。その彼女の言葉に部下たちが応答して、次々に部屋から出て行く。最後までそこに残ったボリスはバラライカに尋ねた。
「大尉、奴はどうしますか」
ボリスがうなだれているアキラを見る。彼女に同情するわけではないが、いささか哀れに思える姿だ。
「放っておいても問題は無い。所詮は一人だ。…ダッチが行方を気にしていた。ラグーン商会に依頼し、娼館へ運ぶように手配しろ」
バラライカの命令通り、ボリスはラグーン商会への正式な依頼として、アキラの身柄を引き渡すことにした。彼女の手の拘束はそのままであったが、足は自由になった。アキラはそのまま引き渡し場所である、ホテル・モスクワの事務所玄関までボリスに連れられて行った。そこにはすでにラグーンの面々が来ていた。いや、レヴィはいないようだ。おそらく療養中なのだろう。彼らを確認したボリスはアキラの手の拘束を解き、車に乗るよう促す。
「彼等がイエローフラッグまでお前を送り届けてくれる。…大尉はもうお前が何か企てない限りお前に用はない。せいぜい静かに暮らせ。あと、顔の傷は自分で処理しろ」
ボリスはダッチに「あとはよろしく頼む」とだけ言うと、事務所に戻ろうとした。そこへアキラが「待ってください」と声をかける。
「…この街のある人が私に言っていました。〈同族のホテル・モスクワ〉に気を付けろって」
「…ほう」
ボリスは「少しだけなら聞いてやる」とアキラの方に向き直った。アキラは彼をまっすぐ見据え、言い放つ。
「その人はおそらく、同じ元軍属という意味で言ったのでしょうが。今日分かった。私とアンタたちは同じなんかじゃない。あなたたちはあの女ボスと仲間たち皆で、私はたった一人でこの街にいる」
「八つ当たりはやめてもらおうか。それとも嫉妬か?どちらにしろ子どもの言い訳にしか聞こえんな」
ボリスは表情を変えず、しかし少し苛立った声色でアキラを諫めるように言った。アキラはかつての上司の口癖を交えて話を続ける。
「そんなんじゃない。
「随分な言いようだな。この糞だめでだらだらと生き伸びることに、それほど価値があるとも思えんが」
「…言いたいことはそれだけだ。殴られた礼だよ」
アキラの一方的な物言いに憮然とした様子だったボリスだったが、それっきり何も言わず建物へ帰っていった。アキラもそれを見送っていたが、頃合いを見たダッチが「そろそろいいか」と話しかける。
「ごめん、ダッチ。迎えに来てくれてありがとう」
「それが依頼だからな。ま、お前さんがボリスの旦那に食って掛かったときは逃げちまおうかと思ったさ。とにかく、ひでぇ顔だが、無事なら何よりだ。早いとこ車に乗ってくれ、と言いたいが…」
ダッチの含みのある言い方にアキラが疑問符を浮かべる。だが、その理由はすぐに判明した。
「タイミングとしちゃ、ちと遅すぎるが。ほれ、白馬の王子様がお迎えだ」
「――ッ!バオ…」
ダッチが大仰な調子で言ったその背後には、アキラが埠頭まで行くのに使った車があり、それには本来の持ち主が乗っていた。
「気色悪いこと言ってんじゃねェよ、ダッチ。…アキ、早く乗れ。道が混んじまう」
バオはダッチの冗談に文句を言いながら、アキラに催促した。店を壊された翌日で仕方が無いことだが、その顔にはやや疲労が見える。ダッチが「本当のことだろうが。自分が迎えに行くって言ったんだろ」とバオに笑う。そしてアキラに向き直る。
「とまぁ、そういうことだ。俺たちもお得意先の依頼は大事にしたいところだが、今回はバオのわがままを優先するさ」
バラライカには上手く取り成しておく、とダッチは言い、そこで一行とは別れた。アキラは大人しくバオの車に乗る。彼曰く、アキラが埠頭まで飛ばしたこの車はラグーン商会が店まで届けてくれたらしい。
アキラが車に乗り込むと、バオはすぐに出発した。そして店の方向へ走っていく。しばらくの間、二人に会話は無く、重い空気が漂っていたが、アキラがようやくぽつりと言った。
「バオ、本当にごめん…」
バオから怒りの言葉が飛んでくるかと思ったが、彼は無言のまま前方を見つめている。アキラが困惑していると、バオがため息交じりに口を開いた。
「…フローラたちが心配してたぞ。帰ったら、全部じゃなくていいから説明してやれ」
「うん…」
店の崩壊から、急に飛び出していつの間にかマフィアに連行されてしまったのだ。自分たちにも危険が降りかかると思った者もいただろう。アキラは自己嫌悪の念を強くした。彼女が押し黙ったのを横目にバオは尋ねた。
「顔、殴られたのか。大丈夫か」
「見た目ほどは。…ねぇ、何があったか聞かないの?」
普段とは違い、気遣ってくれるバオの優しさに嬉しさと、申し訳なさを感じながら、アキラは少し踏み込んで聞いた。
「言いたくなきゃ構わねぇよ」
アキラは彼のその言葉が優しさから出たものだと分かっていたものの、どうしてもそれに甘える気分にはなれなかった。それゆえ、頑なに言葉を返す。
「言うよ、言う。バオには…、全部」
そう言った彼女の様子が、バオには悲痛に感じられた。彼女の顔にある殴られた痕にしても、先ほどのボリスとの様子にしても、全てが円満に終わったとは思えなかった。彼女は何があったのか話すと言っているが、今それをさせるのは酷だと、バオは彼女を制止した。
道が混み始め、車のスピードもゆっくりになっていく。バオは何も言わず、助手席の彼女の頭に慰めの意味で自らの手を置いた。アキラは一瞬驚いて体が反応するが、そのうち彼の手の温かさとそこから来る安心感で、だんだんと力が抜けていった。
「…店は上も下も、クソメイドの下手くそな給仕のせいで休業だ。いい機会だ、しばらくゆっくりしろ」
「うん…、ありがとう」
ようやくスムーズに車が動き始め、バオはアキラの頭を撫でていた手をのける。アキラにはそれがひどく名残惜しく感じられた。