メイドの襲来からおよそ一日が経過し、娼館〈スローピー・スウィング〉の女主人、マダム・フローラはほぼ全壊となった建物の前で一人佇んでいた。店は壊されて休業中だが、いつもと同じような服装で、彼女は人を待っている。そこへ、一台の車が停止した。
「悪いな、フローラ、遅くなった。道が混んじまってよ。…ほら、アキ」
車からは1階の酒場〈イエローフラッグ〉のマスターであるバオが現れた。そして彼に促される形で車を降りた人物が彼女の待ち人であった。アキラは申し訳なさそうな顔でマダムと視線を合わせた。マダムはそれを気にすることなく、彼女を思いっきり抱きしめた。
「アキ―――!無事だったのねッ!?アナタがホテル・モスクワに連れていかれたって聞いたときは、アタシ、本当に…!うぅ…、アキ……!!」
マダムが涙を浮かべながらアキラにまくしたてる。同時に彼女を抱きしめる腕にも力がこもる。アキラは「痛いよ、マダム」と困ったように笑いつつ、自分も泣きそうになりながらマダムを抱きしめ返す。マダムは「店の子たちも心配してたわッッ。もううちの仕事以外で危ないことしないでねッ」と言って、遂に泣き出してしまった。
本当に心配させてしまったと、アキラはさらに申し訳なさでいっぱいになる。バラライカには前職への未練をたっぷりと晒してしまったが、この店の人たちとの関係も、いつの間にかアキラにとって大事なものになっていたのだと今更ながら実感する。
「おい、フローラ。その辺にしといてやれ。アキはまだ今夜の寝床も決まってないんだからよ」
バオがマダムを諫める。マダムも「そうだったわ」と思い出したように、アキを抱きしめていた腕を離し、後ろの建物を見ながら状況を説明した。
「この通り、2階もしばらくはダメそうなのよォ。まぁ修繕費と、あとは厚意で女の子たちの滞在部屋はホテル・モスクワが用意してくれたんだけど、全員分までは行き渡らなくって。」
マダムによると、人が入れるようになるのは早くても1週間後らしいとのことだった。随分早いスケジュールとは言え、それだけ長く滞在できるあても、ましてやホテルに泊まれるような金もアキラには無かった。マダムも「ウチに泊めてあげたいんだけど、他の子たちもいるし定員オーバーなのよねぇ」と困った様子だった。
「あー、マダム。私なら大丈夫。何ならその辺で…」
「ダメよォ!アナタがいくら腕が立つって言っても、この街に放り出すのは雇用主として断固反対よッ。それにアナタ、ケガもしてるし、せめて今夜くらいは―――、あ」
マダムは怒りながらそう言うと、煙草をふかしながら壊れた店を眺めている男の方を見た。いやいや、マダム。それはあんまりでは。そんなアキラの視線に対して、そんなものは最初から無かったかのように、マダムはウインクをする。大丈夫よ、任せておいて!アキラにはマダムがそう言ったように感じた。
「バオ!アキのこと、頼んだわよ!」
マダムがバオに向かって高らかに叫ぶ。
「はぁ!?いったい何がどうなってそんな話になった!俺はてっきり、アキが誰の部屋に泊まるか決めてるもんだと…」
バオが心底「それは無いだろ」と言わんばかりの顔で、マダムに言う。だがマダムは気にせず、さもそうするのが当然のように理由を述べていく。
「そう思ったんだけどねぇ~。ウチにしたって他の子の所にしたって、そんなに広くないのよォ。そこに今は二、三人を押し込んでるわけだし。だったらアナタと二人でいた方が、アキものんびり出来るんじゃないかしらァ?そうじゃなきゃ野宿するってアキったら言うのよォ」
「だとしてもよ…、俺ァ男だぞ。年頃の娘と二人きりなんざ…」
バオがなけなしの常識を建前に何とか引き下がろうとする。が、マダムはそれを笑い飛ばして言った。
「あらぁ!アキが年頃なんて、この子そんな
普段から女の子をチェックしているマダムらしい、バッサリとした批評に打ちのめされるアキラだったが、確かに女の子たちの部屋に厄介になるのも気まずかった。経験上、男所帯には慣れているので自分は特に問題無いが…。アキラがそう言うと、バオはダメ押しされたとばかりに苦い顔をしたが、結局怪我のこともあって、彼のもとへアキラは身を寄せることになった。
アキラのしばらくの寝床も決まり、三人はバオの運転する車で家路に着いた。その車内でアキラがマダムに改めて今回の謝罪と、その元凶となった自身の経歴について明かした。
「今まで黙っててごめんなさい。マダム」
「フローラ、俺からも謝る。ややこしい話になっちまうと思ってよ」
二人の謝罪を受けたマダムは「いいのよォ」と笑った。そして「アタシもこの街では長いから、」と話を続けた。
「アキの仕事ぶりを見てたら分かるもの。多少の心得があるってレベルじゃないことは。何度も修羅場をくぐってきた子なんだと思ってたわ。ま、元軍人と戦争屋とは想像してなかったけド。それで、ホテル・モスクワに連れていかれたのね。納得したわァ」
「あの軍人崩れたちの考えそうなことだわァ」とマダムが言う。アキラは、それでも申し訳なかったと伝えた。それに対してマダムがアキラに諭す。
「いいのよ、アキ。アナタだってウチの大事な従業員よ。アタシは、アナタが無事に戻ってきてくれた、今はそれが何より嬉しいの」
マダムの笑顔にアキラは何も言えなくなった。そしてまた、彼女は静かに泣いた。バオは行きと同じようにアキラの頭を少し撫でた。それからマダムとバオは他愛ない話で盛り上がり、アキラはそれを黙って聞いていた。
ほどなく、車はマダムの住む建物の前で停まった。マダムは「ホントはお茶でも飲んで行ってほしいけど」と残念がっていた。
「バオ、アキを襲っちゃダメよォ。アキ、ゆっくり休んでね。お店の子たちにはアナタが無事だったこと、アタシから伝えておくわ。それじゃ、またね」
そう言ってマダムは自分の部屋へ帰っていった。バオが「襲わねェよ」と悪態をつきながら、アキラとともにその姿を見送る。
「それじゃ、俺たちも行くか。…言っとくけどウチに期待はすんなよ」
バオが事前に告知をして、車を走らせた。マダムの所からそう時間はかからずに、二人を乗せた車は彼の住む場所まで到着した。
「お邪魔しまーす…」
バオの部屋に着いたアキラは遠慮がちに呟いた。何だかんだで彼のプライベートな部分に来てしまったことに、今更ながら緊張した。
部屋には低めのダイニングテーブルとソファといった簡単なものが置かれ、物は少ない。
奥には寝室に続くであろう扉があったがその中も、家主の趣味から言って似たようなものであろう。
「おう、まぁゆっくりしてけ。腹減ってるだろ?ちょっと外で買ってくるから、その内にシャワーでも浴びろ」
アキラの意図を知らずか、彼女を気遣う姿勢を見せるバオは、「俺ので悪りィが、無いよりはマシだろ」と自身の服を着替えとしてアキラに渡し、自身は外へ買い物に出かけた。
アキラはそれをありがたく受け取り、シャワーを浴びる。殴られた顔に熱いお湯は少し染みたが、昨晩からの怒涛の出来事を洗い流すには十分な温度だった。アキラは疲れていたのもあって、五分ほどでシャワーを済ませると、バオから渡された彼の服に着替えた。少し大きめだが、今はそれで十分だ。下着は無いが、まあ大丈夫だろう。明日からはどうしようかと悩みながら、彼女はソファにもたれた。楽な姿勢を取り、思い出すのはバラライカとのやり取り。
ホテル・モスクワの調べた結果通り、アキラは軍での近接戦闘成績を買われ、上司にスカウトされた。上司は厳しい人だった。指導という名の鉄拳制裁は日常茶飯事だったし、理不尽なこともたくさんあった。同僚とだって彼らからの信頼を勝ち取るまでは、暴行を恐れて一睡もできない日々もあった。それでも自分には確かな武器があり、周りにも次第に認められていった。
―――今だってあの人の下で。自分からそんな言葉が出たことに驚き、また呆れている。アキラにとって、前職、そして上司とは決して良い思い出ばかりではない。それでも彼女が辞めなかったのはひとえに「自分は必要とされている」と考えていたからだ。だから。
彼女は無意識のうちに、いつか彼らが自分を迎えに来てくれることを心の底で願っていたのだ。
「はっ…!」
アキラは自身の甘い考えに対して吐き捨てるように笑う。上司や同僚たちがそんな論理で動かないのは自分が一番分かっている。アキラはそう自分を納得させながらも、押し寄せてくる孤独を感じざるを得なかった。
しばらく己の感傷に浸っていると次第に日が暮れ、室内も薄暗くなっていた。アキラは電気を点けるのもおっくうでそのままにしていると、家主の帰宅の音ともに部屋が明るくなった。
「うお!?…起きてたのか。電気ぐらい点けろよ」
「あ、お帰りなさい。なんか面倒になっちゃって」
バオはアキラの返答にしょうがねえなぁと呆れつつ、彼女に荷物を手渡した。彼は夕食を調達しに行ったマーケットで、偶然にも娼館の女たちに出会い、彼女たちはアキラがバオの所にいると聞いて、彼女の着替えを選んでくれたという。
「マダムからお前の様子を聞いたみたいで、あいつらも心配してたぞ。早く元気になれってよ」
バオは彼女たちのねぎらいの言葉を伝えると、「俺の服のままじゃ何だし、それ着てきたらどうだ?」とアキラに奥の寝室を使うよう促した。アキラもせっかくだと、彼に言われるがまま、彼の寝室で娼館の女たちセレクトの服と下着を並べてみた。が。
「服はともかく、下着はちょっと…」
おそらく彼女たちのなかでは標準なのだろうか。いや、これはおそらくからかわれている。アキラがそう思うほど、色や形の派手な下着ばかりがチョイスされていた。幸いなことに服はシンプルなものが多く、普段着るのに適したものだった。それでも彼女がいつも着ているようなシャツやスラックスではなく、スカートやワンピースのみだったが。
「ま、下着なんてバオに見せるわけじゃないし、いっか」
アキラは自分に言い聞かせ、寝室に広げた服をしまいながら、一組の下着と一枚のワンピースを選び、それを着ることにした。久しぶりの服装に少し違和感があったが、他人から服を送られるという初めての経験による嬉しさの方が勝った。バオには「珍しいかっこだな」と素直な感想を抱かれてしまったが、普段よりもゆったりした服装を意外にもアキラは気に入った。何より、娼館の女たちの気遣いが、現在憔悴している心に染み込むように、アキラを元気づけた。