時間は少し遡って、夕方ごろ。バオが自分の部屋にアキラを残し、マーケットで今日の夕食と、アキラの滞在に必要そうなものを選んでいたとき。
彼はそこで、ほとんど同じような目的で訪れた〈スローピー・スウィング〉の女たちと遭遇した。
「あら、バオ!マダムから聞いたわよ、アキって今あなたの所にいるんでしょ?」
「まぁな。あいつ用にちょっと買い物しようと思ってよ」
「じゃ、こっちと一緒ね。せっかくだし、アキの分、うちらが選んであげる」
どうせ、女の下着のサイズなんて分かんないでしょ。と娼婦の一人がバオをからかうように言った。バオは何か言い返そうかとも思ったが、つまらないことでアキラを待たせるのは
悪いため、大人しく彼女たちに調達を任せ、自身は食材をそろえることにした。
「はい、これ。大体の寸法だからピッタリじゃないかもしれないけど、その場しのぎにはなると思うわ」
しばらくたって合流を果たした後、女たちはアキラのために選んだ着替えなどをバオに渡した。バオは代金を渡すと言ったが、マダムから立て替え金をもらっているので大丈夫だと女たちは返す。
「どうせついでよ。それにアキのお陰で仕事がやりやすくなってるんだから、早く元気になってもらわないとね」
「そうよ。バオ、ちゃんと面倒見てあげてよね」
女たちが口をそろえて次々と言う。バオは耳タコだと言った表情でそれらに返した。
「分ぁったよ。じゃァな。店再開したらまたよろしく頼むぜ」
「はーい。あ!バオ、これ渡し忘れてた。念のためにね、はい」
念のため。その言葉とともに娼婦の一人が渡したのは男性用の避妊具だった。しかも結構大量に。
「おい。こりゃなんの冗談だ…」
バオが呆れた顔で手のなかの避妊具と娼婦たちを交互に見た。彼女たちは何言ってんのよ。と目を丸くしながら言う。
「え?アナタ、家に常備してるタイプには見えないけど?」
「そういうことじゃねぇ!そもそも使う機会なんかねぇだろ。あいつとは別にそんなんじゃ」
「馬鹿ねぇ。男と女が一つ屋根の下でやることなんて一つじゃない。…それに、そういう気持ちが無くても、誰かのぬくもりが欲しい時ってあるでしょ?アキってああ見えて実はすごく寂しがり屋だと思うわ。身寄りが無くてうちに来たのに、いつも誰かを待ってるような目をしてるもの」
ま、半分は思い込みだけど。と一人が笑い、周りの女たちも同調する。職業柄かは分からないが、人のことをよく見ているものだとバオは彼女たちを見直した。
「バオにその気が無くても、流れでアキとそういうことになったら、それ使ってね。子どもができたら困るのはお互い様だし」
「…そうかい。おっと、これ以上遅くなるとまずい。ほんとにこれでお暇すらぁ」
「引き留めてごめんね。アキによろしくー!」
女たちが明るくバオを見送る。バオはそれを背に、急いでアキラの待つ部屋に帰っていった。
―――――そして現在。
点けっぱなしのテレビをぼんやりと見ながらバオは食事を続けていた。アキラの方は一日ぶりの食事だったこともあって、いつも以上に早食いだった。彼女によると早食いは前職の癖であるとのことだ。そして彼女は今、怪我のことを思って酒の代わりに差し出されたジュースを飲みながら、普段とは違う、ワンピース姿でソファにもたれていた。
二人はしばらく無言のまま寛いでいたが、バオが食事を終えたちょうどそのとき。彼は不意に自身の左側に重みを感じた。見ると彼の隣でアキラが音も無く寝落ちていた。
「手間かけさせやがって、しょうがねぇなぁ」
昨日から今日にかけての出来事を思えば無理も無い。そう思いながら、バオはつぶやいた言葉とは対照的に、彼女を起こさないようにそっと奥の寝室まで運んだ。そのままベッドに彼女を寝かせ、自分はソファで寝ようと寝室を後にする。
「…バオ」
起こしてしまったか。そう思ってバオは振り返った。しかし、彼女は眠ったままで、どうやら寝言だったらしい。後ろ髪をひかれる思いを持て余したバオはベッド際に腰かけ、寝ている彼女の髪を撫でる。髪が伸びたなとバオは思いながら、ゆっくりと撫でていた手を離し、今度こそ寝室を出て行った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
翌朝、アキラはバオのベッドで目が覚めた。
結局、昨晩の彼女はバオにホテル・モスクワの事務所での出来事について話すことができなかった。彼とは夕食を取って、ソファでくつろいで。それからアキラの記憶はない。バオも無理には事情を聞いてこないだろうが、一週間世話になる以上、アキラにはバラライカとのやり取りと自分の気持ちを、やはり話しておかなければならない気がした。
起き上がってバオの姿を探すと、彼はダイニングのソファで眠っており、アキラは彼の優しさに申し訳なくなった。彼女はソファの脇にかがみ、彼の顔を覗き込む。少ししかめたような寝顔は疲れがたまっているがゆえだろうか。アキラは昨日自分がされたように、彼の頭に手を置き、さらりと撫でた。――途端に彼女は恥ずかしくなり、手をとっさに離した。その衝動でバオが目を覚ました。
「んぁ……。うぉ!アキ!びっくりしたじゃねぇか。何してんだよ」
バオは自分が起きた瞬間にアキラの顔が目の前にあったことに驚いて、思わずのけぞった。アキラもその勢いで素直に彼の問いに答える。
「あ、いや。バオどこかなって思って…」
「昨日誰かさんが寝落ちしたんでな。ま、ケガもしてたことだし…。おいアキ、顔赤いぞ?」
まだ体調悪いか?と言ってバオが心配する。アキラにはまだ、先ほどの自分の行為が気恥ずかしく感じられ、バオと目が合わせられない。
「…ッだ、大丈夫!バオ起こしちゃってごめん」
己の感情から目をそらすように、彼女は話題を変える。お詫びにと、アキラはキッチンを借り、眠気覚ましにコーヒーを淹れることにした。バオはその間にシャワーを軽くシャワーを浴びると、ズボンだけ履いて風呂場から出てきた。
「あー…、服着た方がいいか?」
暑くてよォ。とバオが嫌そうにする。アキラは気にしないと伝え、淹れたてのコーヒーはいるかと彼に聞いた。
「暑いなら、冷たい方がいい?」
「いや、せっかくだし貰うわ。ありがとよ。…おぅ、美味いな」
アキラの淹れたコーヒーを褒めて笑うバオの顔を眺めながら、アキラは自分が彼に取った行動の理由を考えていた。しかし、いつまでも答えは出ず、結局羞恥だけが残り、彼女はコーヒーと一緒にそれを流し込んだ。
「アキ、俺ァ今日、昼間出かけるからよ。お前はここで大人しくしとけ。まだ、本調子でも無いだろ?それにな、昨日の夜にはもう、お前さん街の噂になってたぜ。ホテル・モスクワが関わってるとなりゃ、他のマフィアだってお前に目を付けてるかも知れ無ェ」
「そんなことになってたんだ…。」
ロアナプラで一、二を争うホテル・モスクワ。そんな彼らの事務所に連行された者がいるとなれば、そいつが何をしたのか街の住人たちが気になるのは当たり前である。素性が知れているのなら、関係者であるバオが質問責めに合うことは間違いない。
「あ、バオ。そのことなんだけど。バオは昨日話さなくていいって言ってくれたけどさ。やっぱり私は、バオには話しておきたいな。ホテル・モスクワ、バラライカと何があったのか」
アキラはバオにまっすぐ向かって言いながらバオの返事を待つ。少しの沈黙の後、バオが口を開いた。
「…分かったよ。ま、お前から聞いてりゃ、俺も安心すんのは確かだしな。ただ、悪りいけど、それは夜に頼むぜ。今日は事後処理で警察にも行かなきゃなんねェし、ちょいと忙しいんだ」
「ありがとう。えと、じゃあ、大人しく待ってる」
アキラの返事をバオは確認して手短に支度を済ませると、彼女に部屋の説明を簡単に行い、何でも好きに使って構わないと言い、忙しそうに部屋を出て行った。一人残ったアキラは、暇を持て余しながらも言われた通りに大人しく彼の帰りを待っていた。
日もどっぷりと暮れた頃、バオが夕食を持って帰宅した。アキラが出迎えた彼の顔は疲れ切っており、今日の予定を終わらせるのに労力がかかったことが分かる。
「遅くなってすまんな、アキ。警察署が手間取ってよォ…。普段は全員免職間違い無しの勤務態度の癖に、俺ンときだけきっちりやりやがって」
「お帰り、バオ。ご飯ありがとね」
アキラは夕食をバオから受け取り、テーブルに並べる。バオは彼女の分まで冷蔵庫からビールを出すと、ソファに深くもたれた。アキラが隣に座るとバオはビールを渡し、二人で雑に乾杯した。
「はぁぁーー…、やっと落ち着いたぜ」
バオが喉を鳴らしてビールを飲み、疲れを取るように大きく息を吐いた。アキラは「お疲れ様」と彼をねぎらいつつ、夕食に手を伸ばした。
「バオ、食べないの?」
「いや、もうちょいこのまま…」
バオは天井を向いてぼうっとしている。「お前は気にせず食え」と言ったので、アキラはそれに甘えて口に運んでいく。少し辛いがイケる味だ。隣のバオはまだ動けないようだ。
「食べさせてあげよっか」
アキラがいたずらっぽくバオに言う。「いらねェよ」と彼は言うと、やっと夕食に手を付けた。
「うぉ、結構辛いな、これ。悪りぃな、アキ。大丈夫か?」
バオの心配に、アキラは平気だと答え、いつも通り彼より早く食事を終えた。彼女は今朝から決めていた話をいつ切り出そうかとそわそわして落ち着きが無い。それに気づいたバオが見兼ねたように言う。
「飯食いながらでも良いなら、聞くぜ」
その言葉通り、彼は食事を続ける。話すならいつでもと言った彼の気楽な空気に安心し、アキラはホテル・モスクワでの出来事を話し出した。バラライカに何を聞かれ、何を言われたのか。そしてアキラ自身が何を思ったのか。彼女は時折言葉に詰まりながらも、解放されるまでのすべてを話した。それを聞き終えたバオがおもむろに言う。
「ま、俺が街で聞いたのと大体一緒だわな。…噂流してんのはホテル・モスクワの連中だった」
バオの言葉にアキラが驚く。彼によると、ホテル・モスクワが積極的に噂を流すことで、他の輩がアキラのことで騒ぐのを抑えているのではないかとのことだった。
「そんな気遣いするような連中じゃないと思うけど」
「お前にじゃねぇ、この街のためだ。奴らが気ィ使ってんのはよ」
なるほどそうかとひどく納得するアキラに、バオは気になっていたことを聞いた。
「奴らの事務所まで迎えに行ったときだが…。アキ、ボリスの野郎と何話してた?あんまし楽しくはなさそうだったが」
アキラは、そこは噂になっていないのかと気になりながら、ボリスとのやり取りを素直に話した。すると、バオの顔がどんどん青ざめていくのが彼女にははっきりと分かった。
「アキ…」
「ごめん…」
自分は何かまずいことをしたのだと、アキラは言及される前に謝る。そう言えばダッチもその場で「逃げようと思った」と言っていたなと彼女は思い出した。
「ごめんじゃねェよ。アイツは組織のナンバーツーだぞ。知らなかったとはいえ、あれにタンカ切るなんざ、聞いてるこっちは肝が冷えるぜ」
バオはアキラの両肩を叩きながら、「大概にしろよ」と彼女に念を押した。アキラはそれを了承し、正面を向きながら顔に影を落として訥々と語る。
「あの女にまんまと言い当てられたよ。私は、置いていかれたことを認められない負け犬だ」
アキラはバラライカのことを恨めしく思う半分、これはただの八つ当たりだと頭の中では分かっていた。思い返せば、自分がロアナプラに置き去りされたことはきっかけに過ぎず、本当は現役のときにだって同じような不安はあったのではないか。銃声と硝煙で誤魔化し、その気持ちからずっと目を背けていただけではないのか、と。日中彼女は一人ずっと考えていた。
「アキ…」
バオが憐れむような声色で彼女の名前を呼ぶ。こんなつまらない話を彼に話したところで問題が解決などしないのはアキラにも分かっていた。ただ、彼にだけは聞いておいてほしい。アキラはその一心で続けた。
「…やっぱりまだ前職に未練がある。でも、確かめる勇気はない。怖いよ、お前は用済みだって言われるんじゃないかって」
言いたいことを終え、彼への申し訳ない気持ちと、自己嫌悪で落ち込むアキラの肩にバオが手を回し、優しく寄せた。アキラは驚きながらも視線は落としたまま、彼の言葉を聞いた。
「未練なんてあって当たり前だ、馬鹿野郎。命があっただけ儲けモンだ。この先お前さん何でもできるぜ。一年後にはンな事、忘れてっかもしれねぇ」
彼は指先に力を込め、余り思いつめない方がいいとアキラを慰めた。彼女も小さく笑ってそうだねと答えた。
アキラはビールの残りを一気に流し込み、気持ちを振り切るように両ほほを叩く。そしてバオの方を見て言った。
「バオ!話、聞いてくれてありがとう。おかげですっきりした」
「おう、大したことはしてねぇがな」
「ううん。…あ、前の職場の未練は他の人には言わないでね。恥ずかしいから」
彼女は「この話はバオだけってことで」と口止めを頼んだ。バオは「運命共同体みてぇでヤだよ」と文句を言っていたが、結局は乗り掛かった舟と言うことで、彼女との約束を守ることにした。