タイの南部に位置する街・ロアナプラは一年を通して気温の変化が少ない、高温多湿の土地である。本日もその例にもれず、現在は朝の10時だが蒸し暑く、日差しも強まってきた。
アキラは日課である野外でのトレーニングの後、いつも通りシャワーを浴びる。水が豊富に使えるのはこの街の良いところだが、暑さはともかく湿度は何とかならないだろうかと、彼女は到底解決しない問題に悩まされている。
彼女が住むのは職場である娼館にあるうちの一部屋である。ここには他にも、働き始めや部屋を借りる余裕のない女たちが何人か住んでいる。ただし、仕事部屋と住居が同一である彼女たちと違って、アキラの場合はただの間借りである。そのため、客が多いときには有無を言わさず貸し出されることになっているので、残念ながら一国一城の主とはいかない。だから住んでいると言うよりは、「寝床にしている」くらいが正しい表現かもしれない。それでもある程度、住居が保証されているのは安心である。
この時間はまだ寝ている女たちも多い。アキラは彼女たちを起こさないようにシャワーを終え、今日の外出の準備をする。仕事のついでではあるが、バオがロアナプラを案内してくれるという。何か手伝えることがあるかもしれないと思い、それなりに動きやすい恰好として無地のTシャツにゆったりしたくるぶしまでの長さのズボンを選んだ。伸びかけの髪は後ろで一つに結んでおく。前職ではこまめに切っていたが、ここではまとめていた方が暑さを少しでもしのげそうだ。
昨晩、マダムに今日の予定を話した時には「あら、デートね。相手はまあアレだけど、楽しんで」と言われてしまった。「デート」の言葉は否定したが、楽しみなのは本当だった。アキラは準備を終え、バオとの待ち合わせ場所である下の酒場へ降りていった。
時間通りだが待ち合わせの相手はまだ来ていないようだ。アキラはカウンターに座り、しばらく相手を待つことにする。カウンターの向かいに並んでいる酒を見ながら暇をつぶしていると、そう間を空けずに待ち人はやって来た。バーテン服以外の姿を見るのは初めてだ。いつもの店での服装からベストを除いただけの至って普通の私服だが。
「よお、早いな」
店の入口に立ち、意外だという表情で言葉を発したバオに「そっちが遅いんだよ」とアキラは返す。バオはそれを無視して、「じゃ、行くぞ」とアキラを呼ぶ。
アキラは素直にその呼びかけに応じて、店の外へ出る。今日は彼が車を運転してくれるという。アキラは「自分が運転しようか?」と申し出たが、道を知らないだろうというバオの配慮から助手席に乗せてもらうことになった。
前職では運転は専ら自分の役目だったこともあって、助手席に座るのはなんだか落ち着かないとアキラは感じながらも、バオの運転でそのまま中心街へと向かった。
「お前さん、この街についてはどこまで知ってんだ?」
移動するなかでバオがアキラに尋ねた。アキラは自分の知っていることを全て話した。
犯罪都市・ロアナプラのなかでも主な勢力は大きく分けて四つ。ロシアの「ホテル・モスクワ」、香港の「三合会」イタリアの「コーサ・ノストラ」、コロンビアの「マニサレラ・カルテル」。これらの犯罪組織が共同体制をとっていることである程度の抑止を形成している。全て前職のときに得た知識だ。
「あとは、警察もグルになっているからこそ、この街が成り立っているってことぐらいかな」
アキラの話を聞いて、バオは「それじゃ、まだまだ覚えることは多いぜ」と窘める。バオによると、犯罪組織が街を運営しているからこそ、住人たちが好き勝手出来るわけではないという。
「無法地帯にもそれなりの決まりはあるってことだ。特にクスリや武器関係なんかは気ぃ付けろ。マフィアの目を盗んで商売やってるアホもたまにいるからよ。売人はもちろんだが買った側にも火の粉がかかるとも限らねぇ。そういうのが欲しい時には、娼館の連中か俺に聞け。面倒があっちゃいけねぇ」
この街にも秩序めいたものがあることに少し驚きつつ、アキラはバオの忠告に同意した。そのうち、街のなかでもにぎやかな通りに来た。バオは運転しながら、大体どのあたりがそれぞれのマフィアのシマなのかをざっくりと説明していった。ちなみに今日の目的地はホテル・モスクワのテリトリーにある店だと言う。
「あ、そうだ。バオ」
アキラが思い出したように言う。バオが「なんだ?」と聞けば、昨日ロックとのやり取りでやむなく明かしてしまった彼女の出自と、バオの友人の娘という設定についてすり合わせをしたいとアキラは言う。
「そういや、言い訳考えるって言ってたな。…で、なんかいいのは思いついたか?」
「えっと、私の父親、貿易商だったから、それ関係の知り合いって言うのは、どうかな…?」
「あー、まあざっくりとはしてるが何とでも言えるし、言い訳としちゃ悪くはねぇな。…なぁ、貿易商だったってことは、親父さん今は…」
「あ、うん。私が10歳の時に事故で死んじゃった。母親も一緒にね。そこからは施設暮らし。それはまあ、酷いとこだったよ」
何となくだが設定が固まり、流れで出たバオの質問にアキラは淡々と答える。
「そうか…。悪いな、詮索しちまって」
経歴としては特に珍しくも無い。悲しいがよくあることだ。ただ、少し踏み込みすぎだったかもしれないとバオは反省した。しかし、アキラはそんなバオの様子を気にも留めず続けた。
「いいよ。ていうかバオには知っておいてほしいし。昨日みたいに突然聞かされるのも心臓に悪いでしょ」
そう言ってアキラは自分の身の上を話し始めた。両親が死んで孤児になった彼女は施設に入ったが、そこでは職員からの虐待や、東洋人の見た目のために他の子どもからいじめにあっていたこと。その施設から一刻も早く出たかったがために軍に入ったこと。
「お前軍人だったのか!?」
「うん、4年くらい。何回か戦場に行った以外は訓練ばっかりだったけど。そのときの上官が独立するからって誘われて、そのまま民間に転職したの」
その5年後にタイで失業するとは思ってなかった。と自虐気味にアキラが言う。
「…9年たぁ、いくさ稼業にしちゃ長生きした方だ。」
バオは独り言のような形で呟く。アキラが「そうだね」と困ったように笑う。そのときちょうど目的地に到着したようで、バオは車を路肩に停めた。荷物の受け取りだけだから車で待っていていいとバオは言ったが、アキラは手伝いたいと一緒に行くことにした。
店に入ってアキラが見たのは棚におびただしく陳列された酒瓶だった。バオは問屋と言っていたが、どうやら酒の販売も行っているらしい。バオが慣れた様子で店内へ声をかけると、店主らしき年配の男が顔を出した。
「おう、バオ。しばらくだな、急にどうした?」
「あん?ラグーンの連中が立て込んでてうちの店まで酒運べねえから、俺が直接取りに来たんだよ。おととい連絡したろ」
「あー、その電話取ったの女房だろ。あのアマ昨日出て行っちまってよぉ。タイミングが悪かったな。注文もらった荷物自体はあるからよ、ちょっと待っとけ」
アキラにはよく分からない話だが、話の深刻さとは裏腹に酒屋の店主は楽しそうに顛末を話すと、そのまま注文の品を取りに店の奥へ引っ込んで行った。
「アキ、悪い。あいつんとこは夫婦喧嘩が多くてな。ま、一時のことだがな」
バオがアキラに説明する。そういえばこの街に来て結婚している人物には初めて会ったとアキラは思う。地の果て、無法地帯と思っていたこの場所にも、所帯を持つ人間がいたのかと感心する。そうしていると、店主が悪態をつきながら、台車に荷物を載せて二人の所に戻ってきた。
「人んちのこと勝手に喋ってんじゃねぇよ、バオ。…お前さん、見ない顔だな。バオ、お前のコレか?」
バオの後ろにいたアキラにようやく気づいた店主はニヤつきながら小指を立てて言う。バオが「何言ってやがる」と呆れた顔になる。
「二日酔いも大概にしとけ。こいつはうちの上の娼館で用心棒やってるアキラって奴だ」
紹介されたアキラは「アキラです。すみません、お邪魔してます」と店主に告げ、会釈をする。それを聞いた店主はなるほど、といった表情になった。
「おう、アンタが噂の!聞いてるぜ、並みの男じゃ、まず敵わないほどの腕だってな。どんなおっかない女かと思えば、意外と普通の嬢ちゃんとはな。用心棒なんて危ない仕事辞めてうちで働くか?ちょうど女房もいないしよ」
店主は粗野ではあるが明るくアキラに言う。彼女の話は自身が思うより広い範囲に及んでいるらしかった。そこに、店主の言葉に若干食い気味でバオが割って入った。
「うるせぇよ、ジジイ。こちとら遊びで来てんじゃねぇんだ。とっとと済ませろ」
「そうカリカリすんなよ。ほら、注文の品だ。確認してくれ」
店主は納品書をバオに渡し、バオはそれを見ながら商品を確認していく。
「はいよ。…よし、全部あるな。アキ、車に積むの手伝ってくれるか?」
確認を終えたバオの頼みをアキラは快諾し、二人で酒を車の後部座席に運ぶが、少ない量だったためあっさり終わった。バオは次の注文を店主と相談するため、アキラには車で待っててほしいと言った。
「あ、バオ。それならちょっとあそこまで行ってきていい?」
そう言ってアキラが指したのは向かいの通りにある電話ボックスだった。
「…電話?構わねぇが、金はあるか?」
バオの問いかけにアキラは大丈夫とだけ答え、用件が終わったら車に戻っておくと伝えて、そのまま電話を掛けに行った。バオも了解し、酒屋の店内へ戻っていった。
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ロアナプラの雑多な通りには似つかわしくない、立派な車が連なって走行している。心なしか、周りを走る他の車やバイクからは、一定の距離を置かれているように見える。
それもそのはず、その車群の一つに乗っているのはロシアンマフィア「ホテル・モスクワ」のタイ支部のボス、バラライカその人であるからだ。車内の後部座席には彼女と腹心のボリスが座っている。
バラライカが信号待ちの車内から外の様子を見ていると、ごく微小だが気になるものが視界に入り込んだ。
「同志軍曹」
「は」
「あの電話の所にいる東洋人。どう思う」
彼女の視線の先には今まさに電話をかけんとしている東洋人の女がいた。この街では珍しくない人種だが、この街の人間とは明らかに違う点がその女にはあった。
「―――姿勢が良いですな」
ボリスも女を見てすぐに気付く。バラライカは女から視線をそらさずに続ける。
「ああ、まるで軍人のそれだ。この街には元がつく者も多いが、あれは」
「現役もしくは最近まで軍属であった、が妥当な所でしょうか」
「ダー。…しかし東洋人の女でそれとは珍しい。少しだが気にかかる」
ボリスの推測にバラライカも納得したように頷く。災いの目は少しでも潰しておきたい。なにより自身の知らない者がこの街で戦争を起こそうとしているかもしれないことに、バラライカは憤りを覚える。
「は。調査の後、報告いたします」
「よろしい、任せた」
ボリスは上官の苛立ちを察しつつ、女の身元を洗うことにした。そして、まずは女の写真を撮るためにカメラを向けた。ボリスはここまでずっと彼女を視線のうちに捉えていたが、女はついに電話をかけなかった。