無惨様しか美しく見えなくなった鬼狩りの恋 作:029
最終回付近がうろ覚えなので、単行本が出てから無惨のセリフ等修正するかも知れません。
「
ぶよぶよと蠢く肉塊が、昏く粘ついた声でそう言った。
「
続けて、隣にいる少し小柄な肉塊が口を挟む。
注意して聴けば、こいつらの言葉を理解できないこともない。おかげで私は、周囲の不信感を誤魔化せるギリギリのところで踏みとどまっていられた。
「ええ、ごめんなさい。まだ本調子じゃ無いせいか、食欲が無くて」
肉塊たちが放つ吐瀉物のような饐えた臭いをつとめて意識から外し、内心の嫌悪感を押し隠して、笑って見せる。
目の前にいる、腐肉と汚泥を捏ねて無理矢理人型にしたような化け物が、この蝶屋敷の主である胡蝶カナエなのだろう。その横にいる似たり寄ったりの化け物は、妹の胡蝶しのぶなのだろう。
女の私から見ても魅力的だった美人姉妹が見る影も無い――などと思うのは彼女らに失礼だ。
なぜなら二人は、否、この世の全ては、何一つ変わっていない。
変わってしまったのは、私、
三ヶ月前。
私は同期の隊士と共に鬼の討伐に赴いた。
連携して追い詰めた鬼の頸を、相方が見事斬り飛ばし、それで終わったと気を抜いてしまった。
地道に功績を上げ、甲まで昇り詰めた慢心か、あるいは柱との隔絶した実力差を意識しての焦燥か。
我が事ながら理由は判然とせず、今となっては理由などどうでも良い。
重要なのは、敵が塵となって消滅するまで油断してはならないという鉄則を忘れた結果どうなったかだ。
地面に転がった頭部から巨大な舌が伸び、黒い蛇のような鰻のような異形の鬼に変じて襲い掛かって来たのである。
斬ったと思った頸は囮、口内に潜んでいたソイツこそが本体…と言った論理立てた思考を挟む余裕は無かった。
それでも長年戦いに明け暮れた身体は勝手に動き、今まさに鬼の顎に掛かろうとしていた相方を突き飛ばした。
無理矢理に繰り出した技でどうにか鬼の頸を撥ね、しかし鬼の牙は私の頭蓋に深く突き刺さっていた。
そして意識不明の状態で蝶屋敷に運び込まれ、長らく生死の境を彷徨っていた……という話を、私は暗闇の中で聞いた。
目が覚めた後も、眼球と視神経に異常は無いにも関わらず、視力だけが回復しなかったのだ。
怪我の後遺症による脳障害。そう説明された。
今から思えば、その当時はまだ幸福だった。
失明したのは辛かったが、鬼に頭を喰いちぎられずに済んだだけ運が良かったと自分を慰め、今後の身の振り方に思い悩むほどの余裕があったのだから。
真の悲劇は、視力が戻ってからやってきた。
病室は壁も天井も、豚の内臓をぶち撒けて塗りたくったような有様で、人間は身の毛もよだつ悍ましい怪物――それが私の目に映る世界だった。
かろうじて正気を保てたのは、鬼殺隊として幾多の修羅場をくぐった経験と、視力が回復するまでの間に自分の身に起こった事について説明されていたおかげだろう。
これは、脳の損傷に端を発する失認症の一種。まだ未知の種類の認知障害。
私はそう結論づけた。
どうか一時的なものであってくれ、と願いながら、私は自身が抱え込んだ知覚の障害を用心深く隠し通した。
自分の負った怪我は、意識が戻ったことすら奇跡と言われるほど手の施しようが無いものだったのだ。それを思えば、現在の医学で私を救う術がないのは明白であったし、どんなに言葉を尽くそうと、この地獄めいた景観の只中にいる苦悩を他人が理解できるはずがないのだから。
また、もし自然治癒が叶わなかったとしても、当初は視覚以外は正常に機能していたから、失った手足が二度と戻ることがないのと同じく、この異常と折り合いをつけて生きていく覚悟もしていた。
しかしそんな一縷の希望を嘲笑うが如く、私の視覚障害は徐々に聴覚や味覚、嗅覚にも伝播していった。
人の声は金切り声と唸り声を混ぜた異音に。
食べ物の味はヘドロを煮詰めた汚物に。
花の香りは魚の臓物を腐らせた悪臭に。
機能回復訓練が始まる頃には、五感全てが反転し、見るもの触るもの全てが悪夢のように歪み狂って感じられるようになっていた。
小さな肉塊三匹に身体を痛めつけられ、肉塊と汚水を掛けあったり鬼ごっこをさせられる拷問に耐えながら、私はひたすら、快癒したと見做される日を心待ちにしていた。
肉体の機能だけでも元通りになれば、蝶屋敷から離れられる。
何かにつけて悍ましい声で話しかけてくる化け物に、作り笑顔で応対せずに済む。
胃が痙攣するような酷い味の食事を、無理矢理流し込んで、美味しいですなどと言わずに済む。
――その先の展望など、何も無かった。
どうにか日課の訓練をこなして病室に戻ると、小さな肉塊――蝶屋敷で働く女の子の一人が、部屋の前で待っていた。
「
「
「――」
お客?と問い返すより先に、大きめの肉塊が姿を現して、かろうじて私の名前と聴き取れる鳴き声を発した。
その肉塊が彼だとは認めたくなかった。
自分と同じ時期に選別試験を受けて、その後も何かと同じ任務に赴くことが多かった。
三ヶ月前のあの戦いも、彼と一緒だった。
「
「……そう」
彼は特別美男ではないが、誠実な内面が滲み出た優しい顔立ちをしていた。張りのある耳に快い声をしていた。
今向かい合っている腐肉の化け物には、記憶にある彼と重なるものが何も無い。
「
「……何?」
冷たい腐肉の塊が両手に巻きつく。
「
「……」
瑶佑から好意を持たれているのは、なんとなく察していた。私もまた、少々調子乗りなところはあれど飾らない人柄の彼を信頼していたし、好ましく思っていたから。
「
肉塊の頂上付近にある孔が、ぐちゃぐちゃと蠢いて、耳が腐り落ちそうな気味の悪い鳴き声を発する。
こんな仕事についていれば、人並みに恋をして結婚というのは、なかなか考えづらいことだった。
けれど、彼とならもしかして、そんな幸せを見つけられるのではと、思って――
手を掴む粘液まみれの肉塊に一層力がこもり、腐った卵のような悪臭を放つ唾液が顔に吹きかかる。
「
「――もうやめて!!」
「
限界だった。
もはや一秒とて視界に入れたくない、声を聴くだけで吐き気がする化け物の手を振り払い、激情のままに叫ぶ。
「あんたのせいで私はこんなことに……! あんたなんか、助けるんじゃなかった……!!」
◇◆◇◆◇◆◇
蝶屋敷を抜け出して、いったいどれほどの距離を移動しただろう。
今の私の目には、人工物も自然物も似たり寄ったりで区別がつかない。
それでもなんとなく人の気配を避けて歩き続けるうち、山の中と思しき場所に辿り着いていた。
時刻はすでに真夜中。日輪刀も置いてきたから、もし鬼に遭遇したらひとたまりも無い。否、今の自分ならきっとそこいらの野犬でも食い殺せる。
……この悪夢を終わらせてくれるなら、鬼だろうが犬だろうが大歓迎だ。
瑶佑の来訪は、私がずっと目を逸らしていた現実を直視させた。
匂坂真実に、未来は無い。
憎からず想っていた異性さえ、生理的嫌悪を催す肉塊としか認識できない世界で、どうして生きられるというのか。
こんなことなら、いっそ意識が戻らないまま死んでおけば良かった。そうすれば、大切な人の面影は汚されることなく、魂に刻んでおけたのに。
いや、それよりも前。家族が鬼に襲われた時に私も食べられていれば良かった。辛い修行に明け暮れ、死と隣合わせの戦いの果てに得たものが、こんな絶望と悲嘆だとわかっていたなら。
「……はは」
自嘲に、掠れた笑いが漏れる。
鬼狩りともあろう者が、鬼による死を望むなんて。
かつての自分はどんな決意を懐いて、鬼殺隊に入ったのだったか。
殺された人たちの無念を晴らす?
自分と同じ思いを人々にさせないために悪鬼を滅ぼす?
……なんとも、傲慢な自惚れだった。
自分は正義のために剣を執れる立派な人間だと、死も恐れず戦える特別な人間だとでも思っていたのか?
命がけの選別試験を乗り越え、幾多の鬼に立ち向かってきたから――どんな辛いことにも耐えられる気でいたのか?
滑稽なほどに甘い認識だ。
悪夢に魘されて飛び起きようと、朝日に照らされた景色は綺麗だったし、戦いで負った傷が痛もうと、食事をすれば美味しいと感じられたではないか。
何もかもが醜く爛れ、一切の慰めが無い世界で私は、戦うことはおろか鬼を憎むだけの気力すら保てない。
天を仰げば、夜空も月も毒々しい色合いで網膜を刺す。
(私にはもう、誰かと月を見て美しいと言うことさえできない……)
せめて人の迷惑にならないよう、もっと山奥へ行こう。即死できる高さの崖でも見つかれば良いが。
滲んだ涙を拭って、前を向く。
その視線の先に、人がいた。
(……!?)
木々の向こう。地面に何か草のようなものが敷き詰められ、果物か野菜みたいな大小の塊が散らばっている――その真ん中に、洒落た洋装の男性が、こちらに背を向けて立っていた。
そう。着ているものも、性別も、はっきりと認識できている。
この三ヶ月間、ついぞ無かったことだ。
驚愕に息を呑む私に気付いたのか、男が振り向いた。
ゆるく波打つ漆黒の髪。白磁の肌。紅梅色の瞳。
美しい顔だった。
怪訝そうに顰めた眉も、肉食獣めいた鋭い眼光も、一切彼の美貌を損なわせない。
全てが汚穢に塗れた世界で、彼だけが輝くばかりに美しかった。
「……あぁ……」
言葉にできない感動が、声となってまろび出る。
ふらふらと、手を伸ばせば届く距離まで歩み寄ったところで、限界を超えて酷使された両脚から力が抜けた。
傍から見れば、釈尊に跪き救いを乞う亡者のようだったかもしれない。
事実、私の心境はそれと大差なかった。
これほど眉目秀麗な青年には、今まで出会ったことがない。
彼は追い詰められた私の精神が生んだ幻で、触れようとしたらその瞬間消えてしまうのではないかと…そんな畏れと共に、ただその美しさに見蕩れる。
「女、私が恐ろしくないのか?」
低く艶のある声が響く。
その不審げな口調すら、金切り声と唸り声とその他の奇声に鼓膜を嬲られ続けてきた私には、天上の音楽だった。
「……この三ヶ月で初めて、ヒトに会えた……ヒトだと思える相手に」
「……どういう意味だ?」
答えになっていない私の呟きに、彼が重ねて問い掛ける。
彼は私と会話してくれている。
私を見てくれている。
彼は幻ではない。たしかにこの世界に存在している。
その感動を、歓喜を伝えるために、私は自分の身に起こったことを洗いざらい話した。
自分が鬼狩りであること、鬼との戦いで脳に大怪我を負ったこと、その後遺症で世界が狂って見えるようになったこと――
狂人のたわ言と思われても仕方がないような荒唐無稽な話だったが、青年は真摯に聞いてくれた。
「それで、私の姿だけは正常に見えると。……では、コレは?」
そう言って差し出されたのは、周囲に転がっていた果実らしきものの一つだった。
「……」
奇妙な匂い。だが決して不快ではない。むしろ胸のすく爽やかな芳香に思えた。
(なんだか、美味しそう……)
口の中で、じわりと唾液が分泌される。味覚が狂って以来、絶えて感じなかった食欲が湧いた。
受け取って、一口齧ってみる。
不思議な食感だった。
歯触りは桃か真桑瓜のように、柔らかく弾力がある。良く噛むとシャリシャリと奥歯で潰れていき、そのたびに瑞々しい汁気が口一杯に広がる。それに、鼻に抜けるような強い香り――私が今まで味わったことのあるどんな食べ物とも違う。
(でも、私にも食べられる味だ。こんな食べ物があったなんて!)
食物の味を楽しむという、数ヶ月ぶりの人間らしい営み。気づけば、あっという間に握り拳大のそれを平らげていた。
別の塊を手に取る。今度は硬そうな芯のまわりに厚い果肉がついている。これも夢中になって咀嚼していると、微かな笑い声が耳朶を打った。
私を見下ろす青年が、可笑しそうに口元を押さえている。
「ああ、すみません。とても美味しそうに食べるので、つい」
「いえ……」
謝られると、なおさら恥ずかしい。こんなに姿の良い異性に、バクバクがっついて食べる様を見られてしまったというのもあるが、それ以上に……
「いいんです。私も自分の生き汚なさに呆れているところですから」
「――」
死を決意して山に入っておきながら、肉体は生に執着して食物を欲した。
いや、心だって変わらない。
本当に死にたいと思ったなら、崖だのなんだの探して彷徨うまでもなく、日輪刀を首に叩き込めばそれで事足りた。
それをしなかったのは、ただただ死ぬのが恐ろしかったからだ。
……結局のところ、私は何一つ変わっていない。両親の断末魔を、弟妹たちの助けを求める悲鳴を聞きながら、床下に隠れて震えていたあの夜から。
俯いて、今まで知らなかった――知らないフリをしてきた、自身の心の奥底にあるものを吐き出す。この人には、聞いて欲しいと思った。
「ずっと、鬼を憎んでいました。ぜんぶ鬼が悪いんだと、自分の罪から目を逸らしてきました。でないと、私が生きてることが罪だから」
今の私に、鬼狩りとしての気概が一切無いのも道理。なぜなら初めから、そんなものは無かったのだ。
悪鬼滅殺を掲げ、命を賭して戦う鬼殺隊の匂坂真実。
それは私が、家族を見捨てて一人だけ助かった自分を正当化するために作り上げた偶像だ。その自己欺瞞に、今さらになって気づく。
死んでいった人たちのためでも、今生きている人たちのためでもない。私は自分のためだけに鬼を狩っていた。
己自身に向けるべき憎悪を、己自身が負うべき罪科を、体よく鬼に押し付けて。
自分はこんなに頑張っているのだから、良い事をしているのだから、生きていて良いのだと――そう思いたかったのだ。
「死ぬのが怖くて、死んだ後に地獄に落ちるのも怖くて、鬼を狩れば、自分だけ生き残った罪が許されると思ったから、そうしてきた……私が戦ってきた理由は、そんな浅ましい、醜いものだったんです」
私のすべては、生への執着と保身で出来ている。
だから、こんなどう考えても死んだ方がマシな障害を負ってさえ、自ら命を断つ勇気を持てなかったのだ。
何もかもが醜く歪んで映る世界で、私はようやく、自分の矮小で醜悪な本性を直視した。
「――生きようともがくことの、何が悪い?」
「え……」
顔を上げると、青年と目が合う。
怒った顔も綺麗だった。
「生まれ落ちたなら、もがいて、もがいて、生きるべきだろう。それを汚いの浅ましいのと否定するほうが間違っている」
「……」
「お前は醜くなどない」
紅梅色の双眸が、真っ直ぐに私を射抜く。
それは、師範に技を褒められた時にも、鬼から救った人に感謝された時にも得られなかった魂の救済だった。
「ありがとう……」
彼の言葉は、気休めでもなんでもない本心だ。
……きっと彼自身が、もがいてもがいて生きてきた人なのだろう。会ったばかりの、名前も知らない相手なのに、不思議とそれだけは確信できた。
「私、あなたに会えて良かった」
こぼれ落ちそうになった涙を指先で拭い、どうにか笑顔を返す。神や仏がいるなら、彼をこの世に生み出してくれたことに感謝したい気分だ。
「――私も、貴女のような人に会えたのは喜ばしい。どうです、行く当てが無いなら、私の所に来ませんか? こういう食べ物が好きなら、いくらでも用意できますよ」
「え?」
予想外の提案に、目を瞬く。
たしかに行く当てはないし、現状、この世界で唯一正常に認識できる相手と離れたくもない。しかし……
(この人はいったい、何者なんだろう)
私のような、初対面のおかしな女をどうして気にかけてくれるのか。
そも、彼はこんな山の中で何をしていたのか――
逡巡する私をどう受け取ったのか、彼はさらに言葉を続ける。
「遠慮しないで。私がもっと、貴女の話を聞きたいんです」
「……」
最初の頃の剣呑な表情からは想像もつかない柔和な笑みを浮かべ、手を差し出す。その魅力的な所作に、私は両親が健在だった頃に聞いたお伽話を思い出していた。
月に住まう美しい男。それに魅入られると、魂を取られてしまうのだったか。
……手を伸ばして、相手の指に触れる。
粘液塗れでも冷たくもない。
もう二度と感じることはできないと思っていた、滑らかな肌触り。ほんのりと暖かい体温。
――この手の感触さえ確かなら。
彼が何者だろうと、かまわない。
アトラク=ナクアとかチキタ★グーグーとかうしおととらとか、人食い人外と人間の話が大好きです。