無惨様しか美しく見えなくなった鬼狩りの恋 作:029
パレットに乗せた絵の具を混ぜ合わせていると、衝立の向こうから肉塊に声をかけられた。
「まみチャン、夕食ヲモッテキタヨ」
絵描きに夢中になっているうちに、ずいぶん時間が経っていたらしい。絵筆を置いて出迎える。
「ありがとう、童磨さん。いただきます」
「召シ上ガレ。……ア、先ニ薬飲ンデネ」
果実の盛られた膳を受け取ると、悪臭を放つ泥水が入った湯呑みが差し出されて、すでに習慣になっているとはいえ、げんなりしてしまう。
「チャント飲マナキャ駄目ダゼ。品質ノイイヤツヲ選ンデルケド、コレダケジャ栄養ガ偏ルシ、病気ニナルカモシレナインダ」
「わかってますよ」
何を食べても腐った生ゴミとしか感じられなかった以前と違い、今は美味しく食べられる果物がある。食前の薬くらい我慢しなければバチが当たるというものだ。
一息に飲み干して、口直しに果汁を湛えた盃を手に取る。
とろみのある甘い液体が、舌に残るえぐみを洗い流してくれた。
果肉も美味しいが、この果汁が放つハーブのように爽やかで馥郁とした香りが私は好きだった。どこか彼の髪の匂いに似ている気がする。
「あの、月彦さんはまだ帰って来ないんですか?」
彼が戻っていれば、夕食は彼と差し向かいで摂る。童磨が来たということは今日はまだ仕事中なのだろう。それでも未練がましく問うてしまった。
「商談ガ長引イテルミタイダネ、寂シイカイ?」
予想通りの返事には、わずかに揶揄いの色が含まれていた。
「……」
もちろん寂しい。しかし正直にそう答えるのは彼に甘えきっている自分を曝け出すようで恥ずかしかった。
黙って俯いていると、肉塊はさらに感心したように言葉を紡ぐ。
「まみチャンハホントニアノ方のコトガ好キナンダネエ」
「……命の恩人ですから」
ブクブク、と肉塊が奇妙な音を立てて震えた。笑ったらしい。
「アノ方ヲソンナフウニ言ウ人間ハ初メテダヨ! 君ハ面白イネ、ソウイウトコロガアノ方モ気ニ入ッテルノカナ」
「だって、本当のことです」
彼と出会ってから一月あまり。
私の世界は彼を中心に回っていると言っても過言ではなかった。
彼が私に与えてくれたこの部屋は、壁や天井、家具に至るまで私好みに“模様替え”してある。
世界の色が不愉快なら、自分にとって快い色に塗り替えてしまえば良い。それが彼の提案だった。
そんなことをして良いのかと恐縮する私に、彼は「部屋は余っているから構わない」と笑って後押ししてくれた。
実際この邸宅はかなり広いようで、今の私の目では、いくつもの部屋や階段が複雑に入り組んでいるらしいことを判別するのがやっとだった。そんな状態なので、一人で部屋から出るのは危ないと禁止されているが、不満は無い。どうせ豚の内臓をぶち撒けたような景観の中を歩き回ったところで楽しくも何ともないのだから。
というわけで、自分の目に優しく映る染料の配合を試行錯誤の末見つけ出し、その色で室内をくまなく塗り潰したのが半月前のことだ。おかげで私は、視覚が狂って以来数ヶ月ぶりに落ち着ける空間を取り戻していた。
彼の部下だという童磨も、私の知覚障害について説明を受けているので、会話はしても必要以上に近づいたり触ったりしてこないのは有り難かった。
彼に与えられた部屋で寝起きし、彼の用意してくれた食物を食べ、彼の帰りを待つ。その合間に、手すさびにカンバスに絵を描く。私の日々はその繰り返しだ。
「――ネエまみチャン。モシ病気ガ治ッタラ、鬼殺隊ニモドリタイカイ?」
「え?」
ぼんやりとここでの生活に思いを馳せていると、唐突にそんなことを訊かれて苦笑する。
「この後遺症は治らないものですよ」
「ダカラ、モシモノ話ダヨ」
「……戻りません。健康になったら、当然何か仕事をして世の中に貢献すべきだとは思いますけど」
私が鬼殺の剣士として戦っていた時にはあると思っていた覚悟も信念も、すべて偽りだった。
自分だけ生き残ってしまった自責の念から逃れたいがために鬼を斬っていたとわかった後で、正しく世のため人のために命を懸けている彼らと肩を並べられるはずがない。
……あるいは、私と同じような思いを抱えている者が鬼殺隊数百人の中にはいたのかも知れないが、今更それを探し出して傷を舐め合いたいとも思わなかった。
――なぜなら私には、好きな人がいる。こんな私を「醜くなどない」と肯定してくれた人が。
鬼殺隊にいた頃の私にとって色恋とは、憧れはしても積極的に求めるものではなかった。好意を向けられるのを嬉しく感じても、心のどこかに自分が幸せになるのは罪深いことだという気後れがあった。
今は違う。
彼のことを想うだけで胸が熱くなる。過去も未来も関係無く、今が幸せだと心が叫ぶ。
恋というものが、これほど満ち足りた心地にさせるものだと、私は彼に出会って初めて知った。
叶うなら……彼といつまでも一緒にいたい。
けれどそれは、私だけの願いだ。
彼が私を助けてくれたのはただの憐れみ、否、きっと気まぐれに過ぎないのだろう。
こんなに好きなのに、こんなにも彼の存在に救われたのに、私には彼に返せるものが何も無い。
「……」
切なく溜め息を零す私を、表情の読めない肉塊が黙って見つめていた。
◆◇◆◇◆◇◆
童磨がいなくなって、絵の続きに戻るも、先刻の物思いが後を引いてあまり集中できなかった。
もとより特別芸術に興味があったわけではない。文字は判読するだけで一苦労なので読書は無理。楽器の音は不快な騒音としか感じられないので音楽も論外。消去法で暇を潰せる娯楽として、部屋を塗り替えるのに使った染料の残りも活用できる絵画に行き着いただけの話だ。
もはやこの目で見ることの叶わない、柔らかな緑の草原に色とりどりの花が咲く情景に惰性で筆を這わせてさらに数時間――カタン、とパレットが床に落ちる音で意識が覚醒した。
(いけない……うたた寝してた……)
脳に傷を負って以来、私は夢を見ない。
眠りはぶつりと糸が切れるように唐突に訪れ、目覚めはやはり唐突に意識が闇から引き上げられる。
……かつては、よく見ていた夢があった。
家族が鬼に喰われた夜の夢だ。
夢の中で、子供の私は床下に蹲っている。どれだけきつく耳を塞いでも、家族の叫び声が、鬼が肉を引き裂き骨を噛み砕く咀嚼音が聞こえてくる。
真っ赤な血が床板の隙間から滴り落ちる。現実では暗闇のせいで見えないはずの赤色が、私の頭から爪先まで染めていく。
血はとめどなく流れ続け、私の全身を浸す池になる。父の、母の、弟妹の白い手が、私を掴む。私は底無しの血の池にどこまでも沈んでいく――そして悲鳴と共に目覚めるのだ。
そんな夢を見なくなったのは、数少ない良いことかもしれない。
目を擦りながら道具を片付けていると、コツコツと規則正しい足音が聴こえた。
「……!」
革靴が木の廊下を歩く快い音。そんなふうに聴こえる足音の主は、この世に一人しかいない。
慌てて手櫛で髪を梳き、見苦しくないよう身なりを整える。
間もなくして、障子がすらりと開いた。
「月彦さん、お帰りなさい!」
「ただいま、
背の高い洋装の青年が、帽子を取りながら優雅に微笑む。それだけで私の心臓は甘い痺れを伴って跳ねた。
……美人は三日で飽きるなんて言葉を残した者は、きっと本当に美しい人を見たことが無かったに違いない。
「前にも言いましたが、私が遅いときは無理に起きて待たなくとも良いんですよ? 夜更かしは身体に毒です」
「私は月彦さんを待つのが、一番の楽しみなんですっ」
あの夜、悍ましく狂った世界に絶望していた私が出会った、認知障害の例外となった人物。彼がいなければ、私の心はほどなく死んでいただろう。
そんな彼の姿を見、声を聞く時間を、一秒だって惰眠に費やせるものか。
「……嬉しいことを言ってくれますね」
頬から耳朶にかけて、青年の形の良い指先が滑っていく。同時に反対の頬に、軽いリップ音と柔らかな感触。
頬に接吻されたとわかって、ただでさえ早鐘を打っていた鼓動が更に乱れた。
生半可な者がやれば西洋かぶれと揶揄されそうな行為も、一挙手一投足が洗練され尽くした彼にかかれば僅かの外連味も感じさせない。そんな彼に対して、十代の頃からひたすら剣を振って過ごして来た私は、いつもどぎまぎするばかりだ。
「そ、それに、居候の身で、働いている月彦さんより先に休むなんてできません」
紅潮した顔を見られないように背を向けて、道義的な理由を挙げ連ねる。
衣食住のみならず退屈しのぎの画材すら、貿易業を営んでいる彼に買い与えられて、安楽な毎日を送っているのだ。それを思えば、私の願望を抜きにしても出迎えて労うのが礼儀であろう。
「貴女こそ、今までずっと戦ってきたのだからゆっくり休むべきです。鬼退治の話は実に興味深いですが、そのせいで貴女のような女性が辛い後遺症を負う羽目になるとは、可哀相でなりません」
「……充分のんびりさせてもらってます。だらけすぎて、太っちゃいましたし」
忸怩たる思いで、自分の二の腕を掴む。数ヶ月にわたる療養生活に加え、素振りすらしなくなった腕は筋肉が落ち、脂肪で柔らかくなっている。
もはや鬼殺隊に戻る意思は無く、五感全てが狂った状態では日常生活を送るだけで精一杯だとわかっていても、鬼狩りとして日夜汗水を垂らしていた記憶が、無為徒食の暮らしで衰えた身体を、恥ずべき堕落だと責めるのだ。
「そんなことを気にしていたんですか」
両肩に、背後から青年の手が置かれる。優しく、それでいて逃すまいとする意図を秘めた手が。
耳元で囁く、官能的な声。
「私は今くらいのほうが好きですよ?」
「〜〜っ!」
今度こそ私は真っ赤になった顔を誤魔化せなかった。