無惨様しか美しく見えなくなった鬼狩りの恋 作:029
始発の列車で東京に帰ってきた私は、広場のベンチに座ってひとつ息をついた。
地図を広げて、今回赴いた区域にバツ印を刻む。
だいぶ慣れてきたとはいえ、腐肉の塊めいた乗客と一緒に、怪物の胃袋を思わせる乗り物に長時間押し込められては心身ともに疲弊する。目的である青い彼岸花も、見つけるどころか手がかり一つ掴めず終わったとなれば徒労感もひとしおだ。
軽く目を閉じて、周囲を行き交う老若男女の区別もつかない肉塊達と、汚穢に歪んだ街並みを視界から追い出す。悪臭と騒音は相変わらずだが、視覚情報からもたらされる不快感が無くなるだけいくらかマシである。
……こうしていると、目蓋の作り出す闇に浮かぶのは、やはり彼の顔だ。
切れ長の目も、通った鼻筋も、形の良い唇も、寸分違わず思い出せる。明日か明後日には、また彼に会えるだろうか。
青い彼岸花を探すと決めた時、いったん自分の家に戻るつもりでいたが、彼の持ち家の方が交通の便のいい場所に在るので、そこに移り住むことになった。
彼は二、三日おきに様子を見に来てくれる。私が唯一まともに食べられる”果物”が、冷蔵庫で保管しても数日しか保たないのが理由であるが、部下に任せず彼自身が来てくれるのは嬉しかった。
早く会いたい、とどうしようもない渇望に苦笑する。
(……半端者……)
心の中で呟いたのは、自分自身への嘲りだった。
彼から離れれば恋しさに身を焦がし、そのくせ際限なく膨れ上がる彼への想いに怯えている――それが今の私だ。
彼岸花探しで彼と顔を合わせる機会が減れば何か変わるかと思ったが、彼は以前と同じように私のもとを訪れる。
せめて金銭面で世話になるのをやめようと売血に行ったが、それを知った彼から血の代金の倍額を懐に突っ込まれた。
「ふふっ」
その時の「金が足りないのなら言え」とむくれた彼の顔を思い出して、笑ってしまう。
怒りっぽくて、温厚なフリをしようとしてすぐに失敗する、そそっかしいのに気位が高くてそのことを認めない困ったひと。しかしそんな彼が私は愛おしくて堪らない。
歪み狂った世界の中で、彼の存在を五感全てで感じる逢瀬のひとときは何物にも代えがたい。
先日会った少年鬼――兪史郎は、誰かを好きになるのに良いも悪いも無いと言った。
……けれど、この想いを抱えた果てに、私はどこへ行くのか。
……私はどこへ行きたいのか。
わからない。答えが出ない。
「
「……」
すぐ近くであがった鳴き声に、答えの無い闇の中から目を開く。
一匹の肉塊が、驚いたようにこちらを見下ろしていた。
◆◇◆◇◆◇◆
「二ヶ月ぶり……かしらね。こんなところで会うなんて驚いたわ」
駅のそばの喫茶店で、花柱・胡蝶カナエは一人の甲隊士とテーブルを挟んで向かい合っていた。
「ええ。その節は、たいへんご迷惑をおかけしました」
任務の帰路で偶然見つけた甲隊士――匂坂真実は、そう言って深々と頭を下げる。
たしかに療養中の彼女が蝶屋敷から消えた時には、妹のしのぶや看護役の女の子達を巻き込んでちょっとした騒ぎになったが、そのことをこの場で咎めだてする気にはなれなかった。
「ううん、思ったより元気そうで良かった……それに匂坂さん、なんだかとても、綺麗になったわ」
カナエが最後に見た時の匂坂は、機能回復訓練の途中で、体力も戻っておらず、食欲も乏しかった。今目の前にいる彼女は、こけた頬もひび割れた唇も、健康的な色艶を取り戻している。
しかし、彼女の決定的な変化はそういった目に見える要素ではなく、纏う雰囲気にあった。
――ほころび始めた蕾を枝いっぱいにつけた桜を思わせる、匂い立つような色香。
内からにじみ出る蠱惑的な風情が、彼女を以前よりずっと美しく見せていた。
(でも、どうしてかしら)
微笑みながら、カナエの胸中には漠然とした不安が渦巻いていた。
(綺麗なのに、怖い……。まるで、別の人みたい)
「匂坂さん、今までどこでどうしていたの?」
「――知り合いの家でお世話になっていました。最近は体力も戻ってきたので、仕事の手伝いを少々」
「そう……」
折よく運ばれてきた珈琲で唇を湿して、カナエは本題に切り込んだ。
「このまま、鬼殺隊を辞めるつもりなの?」
蝶屋敷の主として怪我人を治療しているカナエは、鬼殺隊を去る者もたくさん見てきた。手や足を失い、泣く泣く引退する者もいれば、肉体は全快しても味わった死の恐怖に心が折れて戦えなくなる者も多い。
匂坂真実が失踪したのも、一時は生存を絶望視されるほどの大怪我を負った彼女が、剣士として復帰する気力を失ったからではないかと思っていた。
だから彼女を見つけた時、カナエとしては、彼女が戦えなくなった己を恥じて姿を消したのであれば、無理もないことだと慰めるつもりだった。礼儀として正式に除隊を申し出た上で、隠や育手としてやっていく道を考えるよう説得するつもりだった。
しかし……
「ねえ匂坂さん、私は戦いだけが正しいとは思ってないわ。普通の女の子の幸せを手に入れて、お婆さんになるまで生きる……それだって立派な人生よ」
「……」
彼女は答えない。
無言のまま、窓の外の景色をぼんやりと眺めている――否。何も見ていない。
何を見て何を聞こうと、それらすべてが彼女の心に届いていない。目の前の胡蝶カナエを含めて、世界のすべてを拒絶している。
輝くような艶やかさを放って、たしかにそこに存在している筈の彼女が、ひどく遠い。
今、彼女の心は「折れて」いるのではない。「閉じて」いるのだ。
……それは戦う意欲を失い、そんな自分に絶望しているよりもなお危うい有り様に感じられた。
「あなたが鬼殺隊を辞めると決めたなら、それでも良い。でも人は、ひとりぼっちじゃ幸せになれないわ」
匂坂の肩がぴくりと揺れた。それに勢いを得て、カナエはさらに言葉を続ける。
「私の父がよく言っていたわ。重い荷に苦しんでいる人がいれば半分背負い、悩んでいる人がいれば一緒に考え、悲しんでいる人がいればその心に寄り添ってあげなさいと」
いつ命を落とすとも知れない戦いは恐ろしい。望まず鬼になってしまった者を斬るのは哀しく辛い。
けれども胡蝶カナエは独りではない。妹のしのぶが、妹同然の子が、仲間たちがいる。自分が周囲の人に支えてもらっているから、カナエも鬼殺隊を支える柱として在れるのだ。
匂坂真実が何に悩み苦しんでいるのか、カナエにはわからない。だが自分と同じく、鬼に家族を奪われ、同じ思いを他の人にさせないために戦いを選んだ仲間を見捨てられるものか。
「辛いことがあるのなら、打ち明けてほしいの。私だけじゃない、鬼殺隊にはあなたを大切に思ってる人が――」
「心配してくださってありがとうございます、花柱様」
真摯に、心からの労りを込めたカナエの言葉を、硬く無感情な声が遮った。
匂坂真実は、顔を正面に戻し、まっすぐにカナエを見ている。しかしその眼差しは、どこまでも暗く、冷たい。
「あ……」
失敗した。何をかはわからないが、失敗した。彼女の心は完全に閉ざされた。
「あなたの言葉は正しい。でもやっぱり私は、この世界の誰も頼れない。自分が本当はどうしたいのか、一人で考えて決めなきゃいけないんです」
財布から紙幣を出してテーブルに置くと、もう話すことはないとばかりに席を立つ。
「今日私と会ったことは誰にも言わないでください。――さようなら」
去っていく孤独な背中を、カナエは追うことができない。
自分の精一杯の思いを伝えようとした言葉は、彼女の心に届かなかった。ならば追いかけたとて何になろう。
無力感に打ちのめされるカナエと、一口も飲まれることのなかった珈琲を残して、匂坂真実は店を出た。
◆◇◆◇◆◇◆
匂坂真実と物別れに終わったあと、蝶屋敷に戻ったカナエは門前に佇む男の隊士に気がついた。
「……津久見くん?」
「こ、これは、花柱様!」
悄然とした面持ちで屋敷を見つめていた青年が、カナエの呼びかけに慌てた様子で腰を九十度に折ってお辞儀する。
「お邪魔して申し訳ありません。マミ――いや、匂坂隊士が、ひょっとして、戻ってきてるんじゃないかと、気になって」
「そう……」
津久見瑶佑は匂坂真実と同期であり……その中でも特別親しかったと噂に聞いた。
鬼殺隊の隊士の死亡率は高い。鬼に喰われて行方不明となり、納骨できず空っぽの墓が建てられることも珍しくないのだ。
悲しみに沈んでいても、鬼は待ってくれない。それを思えば、自分の意志で姿を消した者にいつまでもかかずらうのは鬼殺の剣士として褒められた行為ではないのだろう。しかしカナエは、恋慕と心痛に苛まれ続ける彼が気の毒でならなかった。
「ごめんなさい。私達がもっと匂坂さんを気にかけていたら……」
「そんな、花柱様のせいではありません! 俺が悪いんです、俺がマミを怒らせたから……」
津久見は俯いて唇を噛みしめる。
きよの話によれば、匂坂は行方不明になる直前、彼と諍っていたという。
治療中の患者を出奔させてしまったのは蝶屋敷側の失態なのだが、津久見はずっと悔悟の念にとらわれているようだ。
――“私と会ったことは誰にも言わないでください”
(でも、津久見くんはあなたに会いたがっているのよ、匂坂さん……)
あの日、津久見と彼女の間に何があったのか正確にはわからない。けれど二人には、ずっと共に戦い、共に育んできた絆があるはずなのだ。
それが諍い、すれ違ったまま、さよならも言わずに断ち切られてしまって良いわけがない。
「あのね、津久見くん、じつは――」
(きっかけさえあれば、人の心は花開くから)
自分は匂坂真実の心を開くきっかけにはなれなかった。
けれど彼なら。胡蝶カナエはそう信じた。
信じてしまった。
無惨様は次回大活躍(たぶん)しますんで許して下さい…