無惨様しか美しく見えなくなった鬼狩りの恋 作:029
長く伸びた異形の腕が、ガリガリと床を引っ掻いている。
突然襲ってきた腐肉の化け物を生きたまま引き裂いた女の腕が、まだ殺したりないとばかりに血塗れの床に傷を刻むのを私はぼんやりと眺めていた。
(そろそろ、やめさせたほうがいいかな……)
自失して座り込んでいた体を無理矢理に動かして、刃物状に変形した腕に触れる。
「……っ」
指先が僅かに触れただけだったが、その瞬間、壊れた機械のように同じ挙動を繰り返していた触手が静止した。
同時に、頭上で小さく息を呑む気配。
顔を上げれば、美しい女と視線が交わった。
鮮やかな紅梅色の瞳。私がこの世界で一番好きな色だ。
“月彦さん”の瞳の色……否。
もう知らないフリはできない。
「……鬼舞辻無惨」
鬼殺の剣士であれば知らぬ者のない、鬼の始祖の名前。
千年の長きに渡って鬼殺隊が追い求めていた仇敵。
その名をこんな場面で呼ぶことになるなんて、本当に人生はわからない――そんな月並みな感慨に耽っていると、女の朱唇か苦々しげに歪んだ。
耳に馴染んだ低音の声が問いかける。
「いつから気づいていた?」
「ハッキリわかったのは今。たぶんそうなんだろうなって思ったのは……うーん、いつからだっけ?」
まあ出会って間もない頃はひたすら舞い上がっていたわけだが、そのうち嫌でも考える。
なぜ彼だけが美しく見えるのか。
ヒトが悍ましい肉塊に見える私に、ヒトとして認識できる存在。
そんな者がいるとすれば、それはヒトではない何かだ。そしてそんな人ならざる存在など、私は一種類しか思いつかなかった。
つまりはただ、それだけのことである。
「やはりお前は愚かだな。察していたのなら、逃げれば良いものを」
「逃げる? どうして?」
純粋に疑問に思って小首を傾げると、女――鬼舞辻無惨は美貌に皮肉な嘲笑を滲ませた。
「ああそうか。お前に戻る場所など無かったな」
鋭い爪の生えた指が私の顎をとらえて、上から顔を覗き込む。
「憎い鬼に媚びを売る暮らしはどうだった? 私に縋るほかない日々はどれほどの屈辱だった? もはや嘘をつく必要は無い。好きなだけ恨み言を吐き散らかしてみろ」
「…………」
恨み言。
――何に対する恨みだろう。
鬼舞辻無惨が、鬼を作ったことか?
鬼が私の家族を食い殺したことか?
多くの仲間が死んでいったことか?
かつての鬼殺隊士・匂坂真実であれば迷いなくそうだと頷いたであろう疑問。
けれど今の私は、彼を糾弾する言の葉など、ただの一つも浮かんで来ないのだ。
困惑して見返すばかりの私に、無惨は不快げに柳眉を逆立てた。
「言え。私が憎いと……!」
顎をとるのと逆の手で、肩をきつく掴まれる。
「……っ……」
あと少しで骨が砕けると苦痛に顔を顰め――次の瞬間、不意に無惨の手が離れた。
怯えるように数歩後ずさった彼(彼女?)は、切れ長の目に当惑の色を浮かべて、己が両手を見下ろしている。
「むざ……」
「もういい」
呼びかけを遮るように、冷ややかな声が響く。
「お前のような馬鹿な女一人、殺すまでもない。お前を正常な世界に帰してやろう」
「えっ?」
無惨は、脈絡のない言動に戸惑う私を無視して言葉を続ける。
「私ならお前の頭を元の状態に戻すことができる。脳を弄って五感を狂わせる実験は成功した。今度はその逆をやれば良いだけのこと、人間の医学では治せなくとも、私の力なら容易い」
「――」
先程までの苛立ちも当惑も消し去った無表情な貌からは、無惨が何を思ってこんなことを言い出したのか読み取れない。しかし淀みのないその口調は、本当に私の知覚異常を治せると確信しているようだ。
「さあ、答えろ。失った世界を取り戻したいだろう?」
(私が、失ったもの……)
青い空、花の香り、人々の笑顔――。
二度と取り戻すことの叶わないと思っていたそれらが、すべて手に入る。
私が頷きさえすれば。
……ならば答えなど決まっている。迷うまでもない。
私は見る影も無くバラバラになった怪物の死骸に視線を移す。
「あの人は誰だったの?」
「――鬼狩りの服を着た若い男だ。柱ではないようだがな」
「ああ……津久見さん、かな」
津久見瑶佑。別れてからほんの数ヶ月しか経っていないのに、随分と懐かしい名前に感じる。
新米の頃から仲の良かった瑶佑。
私が苦しい時、不安な時、おどけて笑わせてくれた瑶佑。
鬼殺隊を辞めて結婚しようと言ってくれた瑶佑。
そんな彼が、私の目の前で、鬼舞辻無惨によって殺されたわけか。
(……ちょっと可哀想なことしちゃったかな)
浮かんだ感想はそれだけ。
悲しいとも、恐ろしいとも思わなかった。
だいたい、あれだけこっ酷く振ってやったのに、未練がましく押し掛けて来る方が悪い。
おまけに訳の分からないことを喚きながら襲いかかられて、気持ち悪くて仕方が無かった。
鬼舞辻無惨が来てくれて助かった。彼が瑶佑を殺してくれて良かった。
偽ることのない、私の気持ち。
近くに落ちていた瑶佑の肉片の一つを拾い上げる。
今更になって気づいたが、コイツら体臭は鼻が曲がりそうなのに、血や腑からは良い匂いがする。これまで、彼が食べさせてくれた物とそっくりだ。
肉片を噛みちぎって呑み下す。いつもの味がした。
(ああ、やっぱりね)
鬼の始祖が美しく見えるなら、鬼の食べ物は美味しい。
何も驚くようなことじゃない。
立ち上がって、食器棚から皿を取り出す。
「ねえ、コレ捨てるのも勿体ないし、冷蔵庫に入れておこうか」
「……待て」
「お腹空いてる? 私も疲れちゃったから、今冷蔵庫にあるぶんは全部食べきれそ……」
「待てと言っている!」
手首を引っ張って強引に振り向かされる。危ないなあ、皿を落としたらどうするのか。
「貴様、私の話を聞いていたのか? 治してやると言ったのだぞ」
「……ああ、ごめん。質問に答えてなかったね。私はこのままでいい」
「――」
決まりきった答えを返しただけなのに、なぜか無惨は呆気にとられたような面持ちで私を見詰めている。
「何故だ。人間としての正常な暮らしに戻りたいと思わないのか」
「だってそしたら、もうあなたと会えないでしょ」
そうだ。
あの戦いで私が失ったものなんて、彼に比べたら何の価値もない。
どれほど美しく鳥が囀り花が咲こうとも、彼と共にいられないのなら意味がない。
彼のいない世界など欲しくない。
(自分が本当はどうしたいのかなんて、とっくの昔に答えは出てたんだね)
「……私はもう貴様に用はない。馬鹿の相手は疲れた。いい加減終わりにしたい」
「瑶佑に怒って“私のものだ”って言ったくせに」
「…………そんなことは言っていない。貴様の聞き間違いだ」
「ひどいなあ、嬉しかったのに」
ため息を吐いて、無惨の手を握る。白く細い指も、青藍の爪も、芸術品のごとく美しい。
怪訝そうな眼差しを向ける無惨に構わず、その手を自分の首に導いた。
「じゃあ、殺して?」
見開かれた紅梅の瞳に向かって微笑みながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私が用済みなら、わざわざ治療して解放するより、この場で殺したほうが面倒がないでしょう。今度は聞き間違えないように、はっきり“嫌いだ”って言ってから、殺してね」
脈打つ首の皮膚に、爪の先端が刃物めいた冷気を伝える。
文字通り指先一つで命を刈り取れる状況に身を置きながら、私の心に恐怖は無かった。
死ぬのが怖くない……というより、私にとってコレは、命を捨てる手段ではなく不要な世界を捨てる手段だからだろう。
私は無惨と共にいられる世界が欲しい。それゆえに治療を拒み、正常な世界を捨てた。
けれど無惨がそれを望まないと言うのなら、私は私ごと、この世界を捨てる。
私は目を閉じて、無惨の答えをただ待った。
「………………私が嫌いなものは“変化”だ」
随分と時間が経ってから、無惨が呟く。
「状況の変化、肉体の変化、感情の変化。凡ゆる変化は殆どの場合“劣化”だ。衰えなのだ」
首筋に沿わせていた手が開き、もう片方の手と合わせて十指が絡みつくのを感じた。
鬼の握力を以ってすれば、扼殺される前に頚骨が砕けても不思議はない。
しかし、私の首に触れる手は、痙攣するように震えるばかりだった。
「貴様のせいで私は劣化した」
絞り出すような声音に思わず目を開くと、艱苦に歪む美貌が視界に飛び込んだ。
目を血走らせ、牙を剥いた、まさしく悪鬼の形相。
けれどなぜだろう。
私にはそれが、泣き出す寸前の幼子のように感じられた。
「貴様が現れてから、新しい感情が私を支配して……消すことができない。貴様を遠ざけても、出会う前の私に戻れない。お前を、殺せない……!」
(ああ、そうか)
うわ言じみて言い募る無惨の声を聞きながら、ようやく私は理解した。
無惨は、自分ではこの関係を終わらせられなくて、私から終わらせる言葉を引き出そうとしたのだ。
匂坂真実は、鬼舞辻無惨のことなど愛していなかったと。
他に生きる術が無かったが故に、騙されたフリをしていただけなのだと。
知覚異常が治ったなら綺麗さっぱり捨てられる、取るに足らない偽りの関係だったと。
「無惨が憎い」あるいは「元の世界に戻りたい」と私に言わせることで幕引きとしたかったのだ。私が、終わるなら彼の手で殺されたいと願ったように。
「……ごめんね、無惨」
力無く震える手を下ろさせて、一歩近づく。
先程までと逆に、私が両手を伸ばして、無惨の頬を包む。
「――」
自分からこうするのは初めてだったが、男性の姿の時ほど身長差が無くて助かった。
唇に残る感触を確かめるように、ゆっくりと自分の口元に指を這わせる無惨。
その仕草が、艶冶な容姿に不釣り合いで、こんな時なのに可愛らしいと思ってしまう。
「あなたを劣化させてごめん。でも私は、自分の気持ちに嘘はつけない。あなたを好きだという気持ちを、否定するようなことは言えない」
彼は人間のフリをして、私は彼を人間だと信じているフリをして――嘘つき同士の恋人ごっこ。
けれど私にとっては、無惨と出会ってからの日々こそが、匂坂真実の本物の人生だった。
家族を犠牲にして生き延びた卑怯者でも、悪鬼を討つ英雄気取りの偽善者でもなく、ただの恋する女として在れた時間。
あの幸福を、情熱を“なかったこと”になどできない、絶対に。
「……つくづく馬鹿な女だ。そのような下らぬ理由で、全てを捨てると言うのか」
もはや逆上するのにも疲れた風情で、無惨が問いかける。
「うん。あなたさえいてくれたら、もう何もいらないから」
余人からすれば愚かなことだろう。狂っているのだろう。
それでもこれが私の、何よりも大切な想い。
匂坂真実の、
この世界で唯一の、愛する存在を確かめるために、彼の体を抱きしめる。
……無惨はゆっくりと私の背に腕を回し、「お前はバカだ」と呟いた。
「バカね」が愛の言葉だと自分は未来少年コナンで学びました。
アニメ鬼滅のパワハラ会議で沼に落ちた身として、この回は絶対女無惨でやりたいと思っていたのです…。