本郷猛のがっこうぐらし!   作:日高昆布

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その10

「しまった」

 

 猛の突然の悔恨の言葉。しかしその程度で済んでいる事に、おかしな話だが慈は安堵を覚えた。

 

「どうされました」

 

「車のキーです」

 

 言わんとする事を察する。キーは全部生徒会室で保管していたのだ。キー自体は無事だろうが、火の回った部屋から探し出すのは非常に危険な上、猛の警告を信じるならば、時間的にも余裕はなく実質不可能と言っていいだろう。

 

「すみませんが、移動は徒歩になります」

 

「わたしは大丈夫だけど、お兄ちゃんが……」

 

 猛の異常は明らかだった。発汗、息切れ、足取り。どれもが正常からかけ離れていた。先に言った通り、外傷は皆の目の前で見る間に治ってしまった。つまり今の症状はただの傷によるものではないと言う事なのだ。

 そんな状態でさえ、大人として振る舞う彼の姿に胸が苦しくなる。それを言葉として伝える術を持たない瑠璃は、涙を流す事しかできなかった。

 

「大丈夫ですよ。少しすれば治りますから」

 

 強がりなのか事実なのかは分からない彼女らは、その言葉を信じる事しかできない。

 

 ・

 

「避難先の当てはあるんですか?」

 

「以前助けた子が、イシドロス大学にコミュニティがあると言ってました」

 

「イシドロス大学ですか……」

 

 同じ市内とは言え、徒歩ではそれなりの時間を要する。道中の安全も確保されておらず、通行不可の道もあるだろう。長い行程。辿り着くのも容易ではない。しかし他の当てがない以上、そこを目指す以外はない。また当てのない移動より安心感を得られると言う面からも、目的地の設定は有効である。

 

「せ、先生が助けた人ってどんな人?」

 

「変わった服を着た、変わった話し方をする女性でしたね」

 

「え、じゃあ、バイクに女の人乗せたんですか?! めぐねえ先越されちゃってるじゃん」

 

「ななななななに言ってるんですか」

 

「手も繋いだ事なさそうですね」

 

 一種の逃避だった。

 家族を、友人を奪われた。その災禍の中であっても得られた掛け替えのない存在と平穏。

 だからもう奪われたくなかった。奪って欲しくなかった。だが簒奪の手を払い除けられる力が、自分達にはない。押し寄せる不安から逃れるには、当人達でさえどこか薄ら寒さを感じさせる会話をするしかなかった。

 

 ──しかし、

 

 

 

ho……ぱァーー

 

 

 

 ──世界はそれを許さない。

 

 動かない舌と唇で無理矢理発声させたような、不明瞭で悍ましい声。

 

「あ、ああ……」

 

 全身を生体甲冑で覆われ、四肢の全てが凶器。本能と知性を以って殺戮に臨むその姿は、変異体としての最終形態であり完成形である。

 猛にだけ伝わる名を以って彼を指差し、そして首を刎ねる。

 

「せ、先生、何とかして逃げましょう!」

 

 手元にそのための手段はなく、頭の中に浮かぶものもない。不可能だと分かっていても、それでも言わずにはいられなかった。しかしそれさえ許されなかった。

 

           ほっpaaaaaa

 

                                ほっぱ〜〜

                   

                         ホっぱー〜ー〜

                        

                                    hoppaaahhh

 

「ホッパー」

 

 絶望が形となり、群れを成した。

 

 ──逃げられない

 

 ──食われる

 

 ──助けて

 

 ──無理だ

 

 ──死ぬ

 

 ──殺される

 

 ──怖い怖い怖い怖い怖い

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 風が吹いた。

 猛が踏み出した。

 

「こいつらの狙いは私です。だから皆さんは逃げて下さい」

 

 振り向いた猛の顔には、黒い線がいくつも走ってる。

 この数を相手に戦おうと言うのか。問うまでもなく、そして答えるまでもない事だった。言葉が、態度が、戦意を示している。

 

「佐倉先生。無責任に押し付ける形になり申し訳ありません。どうにか全員無事に大学に辿り着いて下さい」

 

 鼻腔から血が溢れる。発汗が始まる。頭痛が、悪寒が、吐き気が、全身の痛みが、痺れが警告する。それを止めろ、と。今すぐ倒れろ、と。

 

「早く行って下さい!」

 

 返事を待たず、猛は走り出した。

 瞬間、時計の砂が落ち始める。

 限界まで出力を上げた主機と、ナノマシンを用いる事で、猛の身体能力は全盛へと近付く。

 

「先生!」

 

 散らばっていた変異体が、猛目掛け一斉に動き出す。

 真正面から飛び掛かろうとする変異体へ踵落としを見舞い、叩き落とす。蹴り足で踏み付け軸足に切り替え、後ろ回し。

 背中に蹴りを喰らう。前方に待ち構えていた一体が拳を突き出すが、それよりも早く前蹴りを繰り出す。その変異体を飛び越え新手が現れる。突き立てられた鋭利な爪が猛を襲う。スウェーで躱すが頬を裂かれる。体を捻り、着地し無防備に晒された背中へ回し蹴りを叩き込む。

 軸足のみで跳躍し、足払いを回避。着地点の変異体へ肘の落ろし打ち。同時に脇に強い痛みが走る。拳頭より突き出た棘がスーツを貫いていた。しかし怯まず、その手を握りしめ、肘打ちを数発顔面に叩き込む。砕ける音。漸く1体。

 休む間など与えられない。

 僅かに意識が後ろに逸れていた隙に接近され、肥大化した剛腕が振われた。狙うは顔面。辛うじて片腕だけ間に合ったが、堪えきれず吹き飛んでいく。地面を弾む。止まり掛けたタイミングで地面を叩き、更に後方に自ら転がる。直後に地面を粉砕する音。

 立ち上がれば既に2体に接近されている。突きを捌き、蹴りを捌く。反動を殺し僅かでも次撃を遅くする。変異体が連携と言う概念を持たないが故に成り立つギリギリの攻防。しかし1体でも増えれば、瞬く間にその均衡は崩れる。

 ならば無理矢理隙を作るまで。

 拳を外側から逸らし、もう1体にぶつけ、怯ませる。踏み込もうとして妨害され中途半端に止まった膝関節を蹴り砕く。それにより下がった頭部を引き寄せ膝蹴りで潰す。

 直後、左大腿部を何かが貫く。激痛に膝を付く。顔面への蹴りを何とかガードするが、反対側からの攻撃に反応できずもろに喰らい倒れる。

 

「ぐっ」

 

 立ち上がろうとする動きを妨害するように、長く鋭い針が右の前腕を貫き、地面に縫い付けられる。引き抜こうとした左腕を、変異体が踏み付ける。 踏み砕こうとする足が眼前を覆う。僅かに見えた顔が、まるで笑っているようだった。

 唯一無事な右足を振り上げ、背中を蹴る。

 限界まで収縮させた筋肉で針ごと引っこ抜き、体勢を崩した変異体を殴り飛ばす。

 左手を地面に付き、その反動で下肢を跳ね上げ体を捻りながら、逆側の変異体を蹴り飛ばす。回転の勢いを止めずに足を付き、何とか立ち上がる。

 既に間合いに入られていた。剛腕が振われている。腕を掲げるが、それはガードとは言えず顔面と拳の間に差し込んだだけであった。

 前腕骨に亀裂が入り、頬の裂傷が広がる。そして脳が揺すられた。

 校舎の壁に叩き付けられる。

 視界が揺れ、足元が覚束なくなる。脳が揺すられた事だけではない。最早猛の体は限界を迎えていた。残された砂は少ない。

 攻撃から逃れようと、足を動かす。極度の痛みと倦怠感により沈みそうになる意識を何とか繋ぎ止めながら足を動かす。

 体を軽く揺する衝撃と、何かが胸部装甲を内側から叩く(・・・・・・)感触。喉の奥から血が込み上げ、吐き出される。足元に血溜まりができていく。

 

 ──どうやら背中から刺されたようだ

 

 どこか他人事のように自身の状況を把握する猛。負傷も超過駆動による反動も、全てが継戦の不可能を示している。腕も足も頭さえ動かす事ができない。

 死ぬ事への恐怖はない。元より生き残ってしまっただけの命。友も仲間も死に、ただ惰性で生きていただけ。思い出すように哀しみ、死ぬまで生きるだけだった。だからこの結果も成るように成っただけ──

 

 ──先生! 

 

 腕を貫通した針を引き抜く。振り返り、空中より仕掛けようとしていた変異体の頸部へ突き刺す。

 死に体だった猛の突然の覚醒に、変異体が動きを止めた。

 死を受け入れていいわけがない。

 自分の無事を祈る人がいる。生きる事を願っている人がいる。何より、死んでは皆を日常に返す事ができない。

 例え、この体がどれだけ壊れようとも必ず生き残る。生き残り、皆を普遍の明日へ連れていくのだ。その覚悟を示すように、握り締められた左手を腰に引き、対角線へ伸ばされた右腕が天を衝く。

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 本郷猛の存在を軽視していた訳ではなかった。しかし彼抜きに生きていく事がここまで辛苦を極める事になるとは、誰も予想できていなかった。あらゆる物が、事象が牙を剥くその道程は、彼女らの心身を限界まで消耗させていた。

 学校から離れるほどに増える奴ら。補給の目処の立たない食料。塞がれた道。変異体の存在。そして猛の事。

 比較的綺麗なままの民家をその日の寝床とした一行は、見張りの慈と胡桃を除き、死んだように眠っていた。慈は責任感から学校を脱出してからずっと見張りを続けていた。日に日に隈は濃くなり、加えて食料を生徒に優先して与えているため窶れてもいた。初めは自分1人でやると言っていたが、説得の末三交代制の形を取る事となった。それでも心身から来る疲労は取れずにいた。

 眠気覚ましの会話もなく、2人とも窓の外をじっと見詰めていた。初めの頃は会話していたが、話題がどうしても暗い方向に行ってしまうため、自然となくなっていったのだ。尤も会話がなくとも、胸中は暗いものが渦巻いているのだが。

 やがて昇る朝日を見てもそれは変わらなかった。たった1人がいなくなっただけで、まるで世界から色が無くなったかのようだった。

 

 ・

 

 移動が一週間を迎えると、慈は焦燥感に支配されていた。底を突こうとしている食料。切り詰めている事で皆の疲労は限界を迎えている。特に体の小さい瑠璃はそれが顕著となっている。日に日に移動距離が短くなっている。

 悪循環。

 幾度となく頭を過ぎる、野垂れ死の文字。その度に猛の事を思い出し振り払うが、今やそれは現実的な脅威となっている。じわりじわりと、真綿で締めるように、徐々に徐々に皆の心を蝕んでいく。

 もう数える事もしなくなった、通行不可による迂回。誰が言うでもなく、鉛のように重くなった足を引き摺り移動しようとした時、中身のない鞄を落とす音が聞こえた。

 

「めぐねえ……もう、立てない」

 

 泣き笑いのような顔で、由紀がそう言った。

 慌てて駆け寄る。

 

「どこか、ケガしたの?!」

 

「ううん、ただ、急に力抜けちゃって。頑張らなきゃって分かってるのに、全然、動かないの」

 

「ゆきちゃん……」

 

 彼女は泣いていた。彼女の心は折れていた。決定的な契機があったのではない。積み重なったものが、彼女の許容量を超えただけだ。そして爛漫な彼女が挫けた事実は、皆に伝播していく。背後で同じように荷物を落とす音が響く。

 励ましの言葉は出ない。出せる訳がない。慈は既に自分の心を騙す事さえできなくなっていた。次々と声を上げ泣き始める教え子達を見ても、止める所かただただ呆然としているだけだった。その声に奴らを引き寄せているのに、だ。彼女の心は死に行こうとしていた。

 

 ・

 

 突然クラクションが鳴った。正気を取り戻させる大音量に、慌てて振り向く。

 

「自殺志願者じゃないなら早くこっちに来な!」

 

 ワゴン車の運転席から女性が叫んでいる。それが蜘蛛の糸だと分かり、皆を囃し立てる。

 泡食って走り寄る一行を見て、現金な奴らだ、とドライバーの女性は苦笑した。

 

「おや、あの制服は巡ヶ丘の制服だね」

 

 しかし助手席の女性の呟きに表情を一変させる。

 

「おい、お前ら巡ヶ丘の教師と生徒か?!」

 

 あまりの逸りように今度は助手席の女性が苦笑した。自身が遭遇した仮面の男の事を話してから今日まで、彼の事をしつこく聞かされたから、どれだけ再会を待ち望んでいたかは知っているが。

 

「本郷猛を知ってるか?!」

 

「な、なんで本郷先生の事を?」

 

「知ってるんだな?! 先生はどうしたんだ!」

 

「せ、先生は私達を逃すために」

 

「っ! 早く乗れ! 先生を助けにいく!」

 

 全員が乗った事を確認すると、焦りを表すように荒々しく発信させた。

 

「おっとっと。皆疲労困憊だし、小さな子もいるんだから安全運転を心掛けてくれよ。ケガでもさせたら、先生に合わす顔がないだろう?」

 

 溜まったものを長い息と共に吐き出す。

 

「……分かってる。そっちに食べ物と飲み物があるから」

 

「良いんですか?」

 

「ああ。腹一杯とはいかないだろうけど、一息は付けるだろ」

 

「ありがとう、ございます……!」

 

「……全員が食べられるだけの量はある。だからアンタも食べろよ。……ここまでよく頑張ったな」

 

 そう言うと、ルームミラーから目を離した。見て見ぬ振りはできないが、覗き見るような悪趣味な事をする気もなかった。

 

 ・

 

 そこはまさしく戦場だった。墓標のように針が突き立てられ、その下に変異体の屍があった。

 10体は下らない屍の中に、猛の姿はなかった。あったのは、校門の外にまで続く血の跡と、終着点の血溜まり。猛はここまで来たのだ。来て、そして──。

 

「そんな……」

 

 口に出さなくとも、誰もがそれを想像してしまった。猛が奴らになってしまうと言う、最悪の光景を。

 

「先生がそんな簡単に死ぬもんか」

 

 皆が悲観に暮れる中、姿を消していたドライバーの女性が声を上げた。彼女の手にはある物が収まっていた。

 

「それは……」

 

「知ってるよ。先生が被ってる奴だろ。……あの時よりもずっと傷だらけだな。あれからも戦ってたんだな」

 

「何でそれを……。貴女は一体……」

 

「菊間琴美。先生の昔の教え子だよ」


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