たった数時間前までここに当たり前の平穏が流れていたと、誰が信じられるだろうか。
多量の血に、踏み躙られた生徒の私物。割れたガラス。倒された扉。死体。手を合わせ、黙祷する。
途中で調達したゴム手袋を付け、噛み跡の有無を調べると、首筋に確認できた。状況から察するに、階段からの転落による頚椎損傷が死因だろう。胡桃が上級生を倒した事と合わせて推察すると、神経を介して動くと言う点に関しては人間と変わらないようだ。
階段を昇る。
彼らがあれだけ屋上に殺到していた事から、猛は校舎内にそれなりの数がいると考えていたが、その予想に反して校舎内は静かであった。徘徊している事は分かるが、大部分が外に出ているようだ。その理由は分からないが、プラス材料と考える事にした。
3階に到着する。1、2階と比較すると荒れ具合は低かった。教室を1つずつ確認していく。今のところ生存者、彼ら共に発見していない。男子トイレを確認し、女子トイレのドアに手を掛けようとして押し殺したような息遣いに気付く。
「本郷です。誰かいますか」
「せ、先生?」
恐る恐ると個室が開けられる。猛の姿を確認した途端、顔をくしゃくしゃに歪めながら走り寄り、縋り付いた。
「無事で良かったです柚村さん」
その名前が聞こえたからだろう。通話状態の携帯から由紀が声を荒げながら彼女の安否を尋ねて来た。
『貴依ちゃん?! 無事なの?!』
『バカ、大声出すな!』
「そう言う訳で、屋上に向かいましょう」
・
バリケードを退かしてもらい、ドアを開けると待ちきれないと言わんばかりに由紀が貴依へと飛び付く。彼女もその熱い抱擁を口では止めろと言ってるが、退かそうとしていなかった。
「佐倉先生。念のために彼女の体に噛み跡がないか調べてもらっていいですか」
「分かりました。それはそうと本郷先生。無茶しすぎです。落ちたら怪我じゃ済まないんですよ!」
「すみません。一通り回りましたが3階は比較的安全です。今からでも移るべきかと思います」
「分かりました。どこが良さそうでした?」
「そうですね……。内装を整えやすい生徒会室と生徒指導室がよろしいかと」
「部屋割り、あ……お手数掛けます」
「むしろ私だけ1部屋使ってしまう事の方が申し訳ないですよ」
「皆も納得してくれると思いますから。皆さん、これから移動します。3階の生徒会室に向かいますよ」
・
慈がそれに気づいたのは偶然であった。パイプ椅子を並べた簡易とも言えないベッドで寝ていたせいで眠りが浅く、偶々意識が浮上したタイミングで隣室のドアの開く音が聞こえたのだ。半覚醒状態の脳みそでは迅速な状況把握ができなかったが、突然跳ね起きた。危うく落ちそうになったが、何とか誰も起こさずにライトを手に取り廊下に出る事ができた。
当然だが明かりは一切なく、この状況も相まり、足が竦んでしまう。手に持っているライトの存在を思い出しようやく動き出す事ができた。しかし廊下に猛の姿はなく、途方に暮れてしまう。そう遠くへは行っていないだろうと考え、取り敢えず歩き出す。慈自身はそこそこの歩幅のつもりだが、腰は限界まで引けており、足1つ分の歩幅もなかった。
ガサリ、と音が鳴った。丁度職員室の前に差し掛かった時だ。その瞬間、慈の体は隅から隅まで停止した。油の切れたブリキ人形のような動きで音の発生源へと体を向ける。耳を澄ますと、音は鳴り続けていた。ここが他の階であれば素通りも選択肢の1つだったか、これだけ近くてはそれはできない。なけなしの、出涸らしの勇気を絞りドアを開け──
「佐倉先生、私です」
「ひゃっ……本郷先生? 本当ですか」
何を疑っているのか、本人も分かっていない疑問を口に出すと、ドアが開かれた。目に見えてホッとする彼女の姿に流石に罪悪感を抱いてしまう。
「すみません起こしてしまいましたか」
「それは大丈夫ですけど、こんな時間に何をしてたんですか」
「以前教頭先生に言われた避難マニュアルの事をふと思い出しまして」
「! 確かにありましたね。でもこう暗くては探せないんじゃ」
「仰る通りです。気持ちが逸ってしまって」
「夜更かしも良くないですし、戻りましょう」
連れ添い寝床を目指す2人。状況が状況なため会話に花を咲かせる事はできないが、慈は行きとは違いしっかりした足取りだった。そのまま生徒会室を通り過ぎ、指導室に入ろうとして
「あの、佐倉先生?」
「?」
と、首を傾げる慈。暫しの沈黙の後、質問の意図と自分がしでかした事に気付き、挙動不審な弁解と動きで生徒会室へと入っていった。「面白い人だな」とそれを見送った猛も部屋へ戻った。
・
「先生……。厚かましい事とは分かってるんですけど、お願いがあるんです」
昨日の時点で猛が確保しておいた菓子パンで朝食を済ませ、今日の行動指針を決めようと慈と猛が相談していると、深刻な顔をした悠里が声を掛けてきた。只事ではないと判断し、話し合いを中断する。
「妹を、瑠璃を探しに行きたいんです」
屋上で警察が機能していないと聞いてから、悠里はずっと妹の事を考えていた。もし小学校に取り残されていたら、もし1人で隠れていたら、もし怪我をしていたら。もしも──。
悠里自身、如何に無茶な事を言っているのかは自覚している。しかし悪い考えは尽きず、昨夜彼女は一睡もできていない。人一倍大切に思っている妹の事で気が昂りすぎているのか、うっすらと目に涙を溜めている。
「アタシからも頼むよ先生」
そう言ったのは貴依であった。彼女を冷たいと評する訳ではないが、いの一番に賛成する事は少々意外であった。
「アタシも先生に助けられるまで、ずっと1人だったからさ。高校生のアタシでも、2度と味わいたくないって思う程怖かったからさ。もし小学生がそんな目に遭ってるって考えるとさ」
「柚村さん……」
「奴らを倒すのなら、あたしも少しは役に立つと思うし」と、胡桃が言い、
「えっと、えっと、何かしら役に立つから!」と由紀が言う。
「みんな……」
暫し考え込む猛に、皆の視線を注がれる。いつの間にか生徒側に立っている慈からも同様の視線が向けられる。元より断るつもりはなく、寧ろ説得する術を探していたのだが、まるで悪役にでもなってしまった気分であった。
「佐倉先生、確か車をお持ちでしたよね?」
・
慈・由紀・貴依、猛・悠里・胡桃のグループで車に分乗し、鞣河小学校へと向かう。幼な子を助けようと張り切るが、放置された車や折れた電柱などに何度も行手を阻まれ、思うように進めずにいた。それでも猛のおかげで排除できた障害物もあり、どうにか昼過ぎには到着できる目処が立った。もし彼がいなければ何処かで夜を明かす事になっていただろう。
平時であったなら違反切符を切られるであろう場所に路駐させ、敷地内へと足を踏み入れる一行。
「待っててねるーちゃん…… !」
各々が持ち出して来た獲物を構え、気合を入れ直す。逸る気持ちのままに校舎へと走ろうとした悠里を、猛が手で制す。
「若狭さん落ち着いて下さい。ここで先走るのは危険過ぎます」
「! すみません……」
「いえ、気持ちは分かりますから。私が先行しますから、ついて来て下さい」
乾いた血を意図的に見ないようにしながら、校舎内へと足を踏み入れる。
そこにある光景は、悠里の中にある拭う事のできない最悪の事態を容易に想像させるものであった。
逃げるには体が未熟で、隠れるには気転が足りなかった。夥しい量の血は、多くの児童が犠牲になった事をまざまざと見せ付けた。大人の慈でさえ眩暈を起こす凄惨な光景に、誰も口を開く事ができなかった。
「若狭さん。妹さんは確か3年生でしたよね?」
「────あ、は、い。そうです」
猛の言葉に会話の糸口を見付けた慈は、皆の気を紛らわすため何故知ってるのかを尋ねた。
「以前、あの子を助けて貰った事があるんです。トラックに轢かれそうになったのを、先生が颯爽と助けてくれたんです」
おおー、と感心の声が上がる。助かったからこそ言える事だが、シチュエーションを思い描くと、猛はまさにヒーローそのものであった。運動神経は元より、極限の状況で動ける勇敢さは女子的にとてもポイントが高かった。本人を差し置いて小さく盛り上がる女性陣を、猛は敢えて触れずにいた。
・
「おかしい……」
2階に辿り着くと、猛が静かに疑問を口にした。皆が廊下を覗く。1階と何も変わらない目を背けたくなる光景。このどこがおかしいのかと、慈が尋ねた。
「彼らが1体もいないんです。言い方は悪いですが、児童の身体能力を考えると、かなりの数の子供が彼らになってしまってるはずなんです。でもここまで1体も見ていない」
「……つまり、何が起きてるんですか」
「分かりません。ただ、こちらとは異なる何かが起きていると考えるべきです」
それが何かは全く分からなかった。不安だけを増やしてしまったが、警戒を厳にし廊下を進んでいく。間もなく在籍している教室が見えた。ドアは閉じられている。何かがいるかもしれない。と目配せをし、ドアをゆっくりと開ける。
『?!』
驚愕は全員のものであった。その教室は血に濡れている訳ではなく、死体に溢れている訳でもない。
教室中に張り巡らされた、白く細い何か。胡桃からシャベルを借り、そっと押し当てる。押した分伸び、切れる様子がない。張り付いたそれから引き剥がそうと動かすが、それでも切れる事はなかった。
「これは……蜘蛛の糸だ」
余りに荒唐無稽。しかし目の前のそれを否定する術を誰も持ち合わせていなかった。
ここを巣だと考えた猛は糸に触れないようにしながら、教室の中央部を見た。そこには彼の予想通り、一髪の隙間さえなく糸を巻きつけられた獲物があった。それも10体近く。大きさ的に全て成人だろう。少なくとも
「るーちゃん?!」
ここが未知の危機に溢れている事を分かりつつも、悠里は尋ねずにはいられなかった。
「……おねーちゃん?」
「! るーちゃん、無事なのね?!」
「うん……。ほんとーにおねーちゃんなの?」
「そうよるーちゃん! 先生!」
「分かってます」
事ここに至っては時間を掛けるのは悪手にしかならない。シャベルで切り裂こうとした瞬間、まるで猛のその考えが切っ掛けのように、突然廊下にガラスの破砕音が響いた。
外から奴らが侵入して来たのかと、皆が弾かれたように視線を向けた。しかしすぐにその考えがおかしい事に気付く。何故ならここは2階であり、運動能力の低い彼らが外から入って来られる訳がないのだ。
ならば、まるで蜘蛛そのもののような頭部を持つアレは何なのだ。
それが口を開けた瞬間、何かが射出され、慈の足に巻き付いた。咄嗟に胡桃は由紀が持っていたシャベルを奪い取り、それに叩き付けた。返って来たのは切れた感触ではなく、痺れるような痛みであった。
同等の太さの鋼鉄の5倍の強度を持つと言われる蜘蛛の糸。それがワイヤーのように太く束ねられれば、一体どれ程の強度を持つのか。少なくとも人がシャベルでどうにかできるものではない。
引き込まれる糸に足を掬われ、胡桃を巻き込み倒される慈。それが何をしようとしているのかに気付いた由紀が、彼女の手を掴む。しかしそれがどれ程の抵抗になったのか。諸共引き寄せられる。
「いやあああああ!」
それが自身を捕食しようとしているのだと、本能的に悟ってしまう。そんなもの、人の死に方ではない。恥も外聞もなく彼女は恐怖に泣き叫んだ。
「佐倉先生!」
声に目を開ける。死からの引力は何故か止まっており、いつの間にか目の前に猛がいた。足元に視線を向ける。糸が切れている訳ではない。猛が留めているのだ。
「大丈夫です。必ず助けますから」
何を簡単に、と無責任な事を言う猛を、恥知らずを自覚しながらも胸中で罵倒してしまう。
そんな慈を他所に間を開け両手で糸を握り締めると、渾身の力を以て前後へ引っ張る。できるわけがない、と叫びたくなった。絶望的過ぎる状況に彼女はかつてない程の自暴自棄に陥っていた。
──ブチッ
「え……?」
容易く。実に容易く、力任せに切断される。驚愕はそれだけで終わらなかった。
蜘蛛が宙に浮く程の力で糸を引くと、上段回し蹴りを叩き込んだ。空中では踏ん張る事もできず、窓を突き破り外へ落ちていく。
「早く妹さんを! 私はあれを倒します」
応答を待たず、破れた窓から蜘蛛を追い飛び出す猛。屋上の時とは違う、飛び降り。怪我では済まない、と皆が窓から身を乗り出す。
果たして猛は無事であった。それどころか怪我をした様子さえなく、剰え蜘蛛と戦闘を繰り広げているではないか。
「本郷先生、あなたは一体……」