嫌戦軍人
名前:崇坊 運(たかまち さだめ)
所属:大日本帝国陸軍 東京憲兵司令部司令官憲兵大佐(原作開始前)
旧8期(明治16年9月入校、明治19年(1886年)6月25日任官、144名)
士官学校をびりっけつ(当たり前であるやる気がないんだから)で卒業。これ以前の記録は残っていない。
日清戦争後に陸軍騎兵乗馬学校へ入学しこれを卒業。
歩兵少尉から 正式な 軍歴を始め、日露戦役以降は騎兵科で軍務に従事した。
(乗馬長靴がカッコいい、落馬したら速攻で除隊できるかもしれないという希望的観測から日清後に志願したという)
…残念ながら彼の軍馬が彼を振り落とすことは決して無かった。そもそもは騎兵畠出身であった。
*幼年学校・陸軍大学校は出ていない。
日清戦争(1894.7.25[明治27年]〜1895.4.17(11.30)[明治28年])
日露戦争(1904.2.8[明治37年]〜1905.9.5[明治38年])
歩兵少尉に任官後は両戦役に従軍する。
これらの戦役で金鵄勲章など多数の戦功章を賜る。
功五級(日清)、功四級(日露)、功三級(日露)を昇級のたびに順次受賞している。またこれらは全て最前線においての武功抜群によるものであった。
<日清・日露戦争での昇級など>
日清戦争ー1894年 開戦当初から従軍(陸軍歩兵少尉)
ー同年7.29 成歓の戦いに従軍
ー同年9.15 平壌の攻略戦に従軍
ー同年10.24 鴨緑江作戦に従軍(上官への反論で昇
級取り消し)
ー同年11.21 旅順口の戦いに従軍(第二軍)
ー同年 陸軍歩兵中尉に昇級
ー同年 功五級金鵄勲章授章
ー1895年1.20〜 威海衛の戦いに従軍(第二軍より
異動)
ー同年3.4 牛荘作戦に従軍(第二軍より異動)
ー同年 終戦 戦間期の武功抜群と優れた前線指揮
の功績により陸軍歩兵大尉に昇級
<1895年頃 陸軍乗馬学校へ入校、卒業(騎兵大尉)>
<1903年頃 陸軍騎兵少佐に昇級>
日露戦争ー1904年 開戦当初から従軍
ー同年5.26〜 南山の戦いに従軍(第二軍)
ー同年6.14〜 得利寺の戦いに従軍(第二軍)
ー同年 陸軍騎兵中佐に昇級
ー同年 功四級金鵄勲章授章
ー同年8.26〜 遼陽会戦に従軍(第二軍)
ー同年10.8〜 沙河の戦いに従軍(第二軍)河を挟んで
戦況が膠着、第三軍に異動
(上官と対立し異動命令が出る)
ー同年11.26〜 第三次旅順(二○三高地)総攻撃に歩
兵として従軍(第三軍)
(上官の作戦を批判し昇級取り消し)
ー1905年 第三軍より第二軍へ異動(元隊に戻る形)
ー同年2月〜 奉天会戦に従軍(第二軍)
ー同年 功三級金鵄勲章授章
ー同年 終戦 騎兵大佐に昇級
彼は陸軍の最前線指揮の大家と稀代の騎兵将軍となることを多くの佐官以下の同時代の多くの前線指揮官達、下士官達から嘱望され1910年(明治43年)には陸軍少将にまで昇級する。
そして遂に1911年(明治44年)ー陸軍(騎兵科)中将に昇級 功一級金鵄勲章授章
しかし…
1912年(大正元年) 降級 騎兵中将位剥奪 以降陸軍大佐
<2年間の謹慎処分>
1914年(大正3年) 復帰 騎兵科(近衛連隊)追放 憲兵科へ異動 憲兵大佐
同年 陸軍東京憲兵司令部司令官に就任
そして現在…
1914年X月X日 「憲兵二名惨殺事件」の捜査本部統括指揮の任を拝命
彼の栄達が途切れたのは日露戦役での第三軍の第旅順戦略・戦術への批判や乃木将軍殉死への明確な批判、陸軍内部の如何なる派閥への帰属も断固拒否の姿勢を通したことが原因に挙げられるが、最大の原因は戦中に度々受けた国家からの御嘉賞に対する批判と平時よりの反戦的行動である。
「まともに読めない小難しい言葉選びを要する手紙を書く暇があるなら、援護物資を要請するための電報を打ってくれ。」
「戦争なんかするもんじゃない。軍人だって実際に戦わなきゃならない前線の奴らは戦争なんかしたくないんだよ。前線の三寸先は闇。だけど軍人なもんだから勝たなきゃならない。」
「最近のお偉方は段々と地図が札束に、銃と指揮杖が料亭の箸に変わってきてるから心配だね。」
公式の場でこそ発言しないものの、陸軍内での権力者達はこれを見逃さず、重大な名誉毀損として厳責。
彼は陸軍軍政の中枢、更には一時転科していた参謀本部作戦課からも追放され、憲兵という一般には嫌われる職へと追いやられる結果となった。
彼の今までの2000年分の経歴云々は今後の展開と共に小出しにしていきます。
基本的にストーリーと関係あるもの以外はサラリと扱います。