冷たい水の中で、幸せな夢を見ながら微睡みの中にいた。
人理を守る英雄譚。その一端に触れながら、愛しい男と共に在れる幸せを噛み締めて。この夢が醒めなければと思っていた。
人理保障機関カルデア。
まさに奇跡の塊のような空間であった。魔術においては門外漢である自分達から見てもここまで特殊な世界はないのだと思った。
古今東西の地域も時代も違う英霊たち。いままで縁もゆかりもなかったようなビッグネームから気安い顔見知りまで多種多様で、イベントからトラブルまで事件には事欠かなかった。
男のいない現実より、辛いこともある抑止の仕事より。こんな泡沫の夢が続けばよいと柄にもなく思っていたのだ。
カルデアにはまだ生きているサーヴァントもそれなりにいたものだが、みんなこうして夢を見ているのだろうか?
空は遠く。水面で屈折した陽光が時折まぶたの上を滑るばかりである。
神秘が薄れれば空に登らず水に消えた大蛇のことなど誰も思い出さなくなって。そして世界の裏側へと消えるのだ。
その時をただひたすらに待っていた。
でも結局中々に待てども待てども終わりは訪れなくて。でも今は幸せな夢が見れているからまあ良いか、なんて思っていた。
…でも流石に微睡んで幸せな夢を見ているお竜さんでも唐突に逆鱗あたりを攻撃されれば起きるんだぞ。
・・・・・
「鎮まれ!鎮まりたまえ!さぞかし名のある海の主と見受けたが、何故そのように荒ぶるのか!?」
「ふざけている場合か」
夏油は自分の目の前で映画のセリフをノリノリで吐いているやつを海に沈めたくなった。とりあえずムカついたのでパカンッと頭を叩く。
海から浮上したのはバカみたいにデカイ黒い大蛇。紅色の眼がどれも獲物としてこちらを捉えているのがその視線でわかる。あとものすごく怒り狂っていることもわかった。
どう考えても特級でも上位相当の呪霊。それもそれなりに永く存在しているだろう堕ち神だ。
未登録の特級呪霊と遭遇したってだけでも頭が痛いのに、それが悪巫山戯の結果だということがさらに始末に負えない。
この馬鹿―五条悟が海沿いの任務帰りに、海の中で「蒼」をぶっ放したのだ。外から見てもそうわからないし、さっきの任務から調節してみた、そう言って。
それがこのザマだ。報告が面倒くさくて嫌になる。また先生には制裁という名のげんこつをもらう羽目になるだろう。
まあ、心配で言ったらその程度。俺達最強だし、と心配なんてものはしていなかった。
大蛇は体をうねらせながら突進を繰り返す。その気で暴れればここら一帯を平地にできそうな力だというのに狙いはまっすぐ五条に。結局その攻撃も無限に阻まれて届きはしない。
今度はこちらが、とも言いたげに五条が「蒼」を放つ。正面から着弾するも、その竜の如き丈夫な鱗に阻まれて大したダメージは通っていない、というか全く効いているとは思えない。全くの膠着状態だ。
「蒼」でどうにもできないならこれ以上無闇に叩いても、と既に夏油は自らの操る呪霊を撤退させている。その代わり夜蛾先生にも連絡を入れ、封印なり何なりの準備待ちだ。
元々任務終わりで疲れていた事もあって夏油はそこらのコンビニで飲み物を買って、のんきに観戦していた。
そしてふと、大蛇の猛攻は収まった。何かの前触れか、と夏油は行動に移る準備をする。
「あーお竜さんは逆鱗に触られて暴走してたのか?」
「普通に喋ったな、こいつ」
「特級確定な上に流暢に喋るものだな」
お竜さんからすると大人しく寝ていたのに逆鱗を爆破されて一時的に狂化状態になり、我に返ってみれば柄の悪い男子学生相手に頭突きを繰り返していたというわけだ。
五条と夏油からすれば、単純な攻撃を繰り返していた呪霊が急に理知的になった。しかも呪霊は賢ければ賢いほど厄介なものであると認識している。警戒が跳ね上がるのも当然だった。
お竜さんからすればこのまま踵を返してまた眠りにつきたいと言うのが本音だったが、このまま放っておいてはくれなさそうなのと、せっかくの微睡みを邪魔された文句が言いたいのもあって、とりあえずは人型をとって対話することにしたのである。カルデアの経験を生かしてお竜さんも丸くなっているのだ、竜馬を感心させてやろう、くらいには思っていた。
五条と夏油の目の前の大蛇の呪霊が一息の合間に転変してヒトの姿をとっていた。切りそろえられた長い黒髪に、鱗模様の首巻きをしたセーラー服の女の姿だ。ふよふよと宙にさえ浮いてなければヒトだと思ってしまうくらいには完璧に化けていた。
「お竜さんがすやすや眠ってたのに起こしたのはお前か」
最初から五条の一点狙いだったのは一目瞭然なので夏油はそろそろ撤退の準備をする。どうにもできないならその他の手段を用意する必要があるし、悟は放っておいても大丈夫だろという信頼からである。というか、そもそも起こして怒らせたのは君じゃないかくらいには思っていた。結局のところ自業自得ということだ。
「あ、お竜さんは別に怒ってないぞ。逃げなくていい」
正直五条、夏油共に嘘つけ、と思った。基本的に呪霊の言うことを信じる馬鹿なんて呪術師にはいない。まあ看破されているならひとまずは背を向けるのも危険だろう。
「へーじゃあなんで俺にじゃれついたわけ?」
「お竜さんは竜の神性だからな。逆鱗に触られたり攻撃されたりしたら、しばらくの間暴走する」
やっぱりお前のせいじゃないか、という目で五条を見る夏油。目をあからさまに逸らす五条。
「せっかく寝てたところを邪魔されたけど丸くなったお竜さんは許そうと思う」
お竜さんは偉いんだ、でも言いたげに満足そうな表情をする。そんなお竜さんを前に二人は顔を見合わせる。とりあえず五条を盾にしたまま話を聞いてみることにした。時間稼ぎくらいにはなればいい。
「お竜さんってのは名前なのかい?」
「そうだ、お竜さんだ。りょうはりゅうの画数が少ない方だ」
一応物腰が一見柔らかそうにみえる夏油が尋ねる。お竜さんからすればその声の時点でちょっと胡散臭いとは思ったが、花の魔術師はともかく男の騎士王の方はそれなりにまともだったから、きっとまともな方なのだろうと勝手に納得した。
「こんな神格がそんな名前なことある?ちゃんとした真名があるはずでしょ」
「おい馬鹿」
なんで相手がこうして明かした名前をノータイムで否定するんだ、と夏油は額を抑えたし罵倒も漏れた。五条悟というのは頭が悪い訳ではないはずなのだが、空気は読まない。とは言え、それをこんなときに発揮しなくてもいいだろうと思った。
「お竜さんは結構この名前で知られてるぞ。あまり有名ではないが」
「お竜で知られている…?画数の多い方の漢字ならお龍で坂本龍馬の妻で該当すると思うが」
「わかってるじゃないか」
「「はぁ??」」
えっこいつまじで言ってるのか、という声を五条、夏油は仲良く揃ってあげた。そのお龍と言えば楢崎龍という出どころも歩みもしっかりと、なんなら写真まで残っている歴とした人間である。呪霊にしても流暢な言葉と結びつかないくらいのお馬鹿さんなのかくらいには馬鹿にした声である。
「龍馬は馬鹿だから、高千穂の天逆鉾を引っこ抜いてお竜さんを開放したから押しかけたんだ」
「高千穂の大蛇とは、途轍もなく古い神じゃないか…」
バカ高い神格の理由は判明したし、それがお竜にどう行き着くかもわかった。いや、全くもってわからないけれど、龍馬が天逆鉾を引っこ抜いた話は眉唾ではあるが残っているし、何となく話はつながっているのだと理解はできた。まだ微塵も納得はしていないが。
「まつろわぬ神なんだからそこらの神よりお竜さんが古いに決まってる」
「これは堕ち神でもなくガチの神様案件ってこと?」
呪霊相手のマニュアルはあるとしても相手が神様だった場合の対処法なんてものは知るわけもない。当然その話が本当ならぶっ飛ばして祓うのはどう考えてもアウトだろう。というか現存する神なんてものがいると知れたら呪術界は上を下への大騒ぎだ。
でもそれはそうとしてこんな頓珍漢な話があるかという疑いも残っている。あまりに突拍子もない。
とりあえず古い神かそれに近いものであることには納得した。五条の六眼にはそれ相応の膨大な呪力がお竜さんの周りに渦巻いているのを捉えている。
「あーおしゃべりでもして先生くるの待つか」
ポケットからストックしてたチョコレート菓子を次々と出す五条に近くの自販機にコーヒーを買いに行った夏油。
五条と夏油の目的は結局当初と変わらず。だがそれなりに気楽に時間をつぶすことにした。もう暴走していたときとは違い、害そうとする気は感じられなかったし、そして何よりそれほど頭がいいようには見えなかったから言葉で惑わすのは不可能だろうと判断したからである。相手が神であるかも知れないのに変わらず不敬なのはこの二人だからこそだろう。
「お竜さんも久しぶりになんか食べたい。カエルはいないか」