次は遅くならないようにしたい…
「火車!」
「陽華突!」
車輪のように飛び回りながらの斬撃。それを研ぎ澄ました突きで迎撃する。
「灼骨炎陽!」
「幻日虹!」
斬撃を止められたものの、回転の勢いを縦から横に変えて、陽炎のように揺らめく横薙ぎを振るう。それに対し、同じように回転しながらの足運びで、範囲の広い横薙ぎを躱す。
「斜陽転身!!」
「輝輝恩光!!」
一連の勢いを維持したまま天に飛び上がり、上空から重力を味方につけた斬撃を放つ。追うように空へ飛び上がりながら、真っ向から迎え撃つ。
「炎舞!!」
「炎舞!!」
正しく舞踏のように、一つの型を出したら続け様に別の動きを見せて戦う兄弟。一進一退に見える、同じ型同士のぶつかりあい。
だが十二の型の最後、本来なら最初の型の円舞へと繋がるはずの炎舞を互いに出して、一旦距離を取った後……片膝をついたのは、炭治郎の方だった。
「ぐっ、がはっ……!」
苦しそうに息を吐く炭治郎。父のような選ばれし者ではない炭治郎にとって、ヒノカミ神楽の連発は負担が計り知れない。
「使い勝手の悪い呼吸だよねぇ、ほんと」
同じく選ばれし者ではない……適性で言えば炭治郎以下の廃灰であるが、彼は体の負担など関係ない鬼だ。疲れ知らずの体は、本来かかるはずの負荷を踏み倒している。
「鬼を殺す呼吸なのに、鬼の方が使うのに適しているなんて、皮肉だと思わない?」
「思わない!! 俺たちはずっと不利な状況で戦ってきた! それが……」
「それが呼吸にも当てはまろうと、不利で元々、か……少しは僻んだりしないの?」
実の所、先ほどの一連の戦いは全て廃灰にコントロールされていた。炭治郎に一呼吸置かせたり別の呼吸を使わせる隙を与えずに、連続してヒノカミ神楽を「出させる」ように立ち回っていたのだ。
ヒノカミ神楽の隠された十三ノ型……煉獄慎寿郎が歴史書を破損させてしまったが故に炭治郎は知らないそれを、黒死牟から日の呼吸について教わった廃灰は知っている。
十三ノ型……一から十二までの一連の舞を夜明けまで続け、太陽が鬼を殺してくれるまでひたすら耐え続ける、終わりの見えない辛い苦行。結局、都合よく敵を倒す隠された秘技など存在しないのだ。
「やっぱり兄さんは僕とは違うなぁ」
今の一瞬の攻防で既に息が上がる炭治郎に感じるのは、弱き人間の体への哀れみと……圧倒的に不利な状況でも折れない心への、昔から変わらぬ憧憬。
「僕だったら絶対、なんであの人だけって妬むに決まってるのに」
「炭治郎!! くっ!!」
拘束されているカナヲは炭治郎が苦戦しているのを見ていることしかできない。それを億劫そうに一瞥してから、廃灰は兄に向き直る。
「あの日もそうだったね。僕を置き去りにして、父さんと熊退治に行った日も」
「あの日、って……あの時お前は……」
それは炭治郎もよく覚えていた。父が死ぬ数日前、近くに人喰い熊が出たことがあった。我が家への接近を誰よりも早くそれを察知した父は、炭治郎だけを連れて熊退治に出たのだ。
「僕だって、本当はたまたま起きてた。あの日僕も一緒に行ってれば、僕はきっと……」
そこで言葉を区切り、天を仰ぐように上を向く。
努力家でみんなに愛されてでもそれをひけらかさないような、自慢の兄。そして父も母も他の兄弟も、みんな優しい人だった。鬼にならないで、普通の人間のままでいて……あの人たちのようになれただろうか。父の武術を見たからと言って、何かが変わっただろうか。
「きっと……何だろうね」
結局廃灰は、ただ言葉を濁すしかなかった。
「俺も……後になって気づいた。あの時父さんは、見取り稽古をさせてくれたんだって」
炭治郎のその言葉を聞いて、廃灰は一度唇を結んでから、ゆっくりと朗読でもするかのように言葉を紡ぐ。
「大切なのは正しい呼吸と正しい動き。最小限の力で最大限の力を出すこと」
「灰里?」
「絶対に諦めるな。考え続けることだ。どんな壁もいつか打ち破る。弛まぬ努力で」
それはかつて父が言っていたのと同じ言葉。弟がその言葉を知っているのは不思議なことではないが、なぜ今……
「兄さんはもうとっくに頭の中が透明になってるはずだ。『領域』には辿り着いてる。あとは……もう一度父さんの言葉を思い出してみて」
『やがて体中の血管や筋肉の開く閉じるを、まばたきするように早く簡単にこなせるようになる』
『その時光明が差す。道が開ける』
『頭の中が透明になると……透き通る世界が見え始める』
直後、炭治郎の視界が文字通りクリアになった。
「これは……!」
廃灰の血管や筋肉の動きがハッキリと見える。同時に、後方で縛られているカナヲが予想以上に衰弱していることも分かった。
「透き通る世界に入ったみたいだね……待ってたよ。弱すぎる兄さんと戦っても意味ないからね」
「灰里……どうして……」
「あ、勘違いしないで欲しいんだけど、僕個人の目的じゃないよ。これはあの方も望んでいることさ」
「無惨が?」
廃灰は刀の切っ先を撫でて弄びながら、炭治郎の目も見ずに話し続ける。
「どう言えば伝わるかなぁ……人はみんな、生きる上で安心を求める。日銭以上のお金を稼ぐのも将来の安心のためだし、雨風凌げる以上の家に住むのも生活の安心のためだ」
「……何が言いたい」
「蜜蜂は地面に転がってる雀蜂の死体を弄んだって安心できない、ってことさ」
直後、廃灰は飛び退り、炭治郎が現れてからほとんど視界にも入れていなかったカナヲの横に着地する。
「今は蝶々で例えた方が分かりやすかったかな?」
廃灰はそのまま、カナヲの血の縄を消して、自らの手で首を掴んで持ち上げる。
それを止めようと突き進む炭治郎に対し、カナヲを盾にするように突きだした。
「安心に必要なのは体験なんだよ。恐ろしい天敵を実際に撃退する成功体験」
仲間を盾にされて日輪刀を止めようとする炭治郎。しかし廃灰は刀が止まるより早く、カナヲの首を炭治郎の刃に押し付けようとして……
「水の呼吸、肆ノ型……打ち潮!」
突如軌道が変わった太刀筋によって、廃灰の腕が斬り落とされた。
「大丈夫か、カナヲ」
「た、ん、じろ……う……」
廃灰の腕が斬り落とされたことで解放されたカナヲを、炭治郎は片手でしっかりと抱き留め、片手で日輪刀を油断なく構えている。
「なるほど、水の呼吸も使うんだっけ……焦り過ぎたかな」
ウゾゾゾ、と血肉を不気味に蠢かせて斬られた腕を再生させる廃灰。
「事故でも無理矢理でも自分の手でその人を殺させる『体験』をさせたかったけど……まぁ、そろそろ兄さんを怒らせるのも十分か」
衰弱しきったカナヲを抱きしめながら厳しい目で自らを見据える炭治郎の様子に、廃灰は満足気に頷く。
ビキビキビキビキ、と廃灰の持つ刀──廃灰の没刀天と黒死牟の虚哭神去が合わさった、神去雲透──がさらに伸び、刀身の半ばから別の刀身が生えてくる。
「兄さんが少しは日の呼吸の適応者としてマシになった、これからが本番だよ!」
「炭治郎……! 飛ぶ斬撃に、気をつけて……!」
今のカナヲの衰えた視力でも分かるほど、廃灰の刀は黒死牟の刀と似ていた。ならば、同じような技が……
「月の呼吸、壱ノ型……闇月・宵の宮」
月の呼吸が飛んでくることは、何ら不自然ではなかった。
「くっ……! カナヲ、ごめん!!」
炭治郎はカナヲをなるべく優しく、痛くないように遠くへ投げると、飛んできた斬撃をヒノカミ神楽で受け止めようとする。
「ヒノカミ……」
「ヒノカミ神楽、日暈の龍・頭舞い!!」
だが廃灰は、月の呼吸の月輪に、ヒノカミ神楽の動きで一気に追いついてくる。
横薙ぎの月輪と縦に振るう血鬼術の刀が、十字を描くように迫りくる。
「なっ!?」
(同時に来た……!? まずい、防ぎきれな……!)
一本の刀では一つの攻撃しか防げない。月輪を避けて体勢が崩れれば刀が、刀を受け止めればその隙間を月輪が、それぞれ襲い来る。
ここで致命の一撃を受けるわけにはいかない炭治郎は……敢えて中途半端な選択肢を選ぶ。
「ぐあっ……!!」
防ぎきれないと分かった上で、可能な限り両方を防ごうとしたのだ。
月輪によって左手の指が何本か千切れ、右肩には深々と神去雲透が突き刺さる。
「驚いたかい?」
刀を突き刺したまま、廃灰は腕を上げて刀ごと炭治郎を持ち上げる。
「日の呼吸と月の呼吸を合わせた最強の呼吸……明けの神楽とでも名付けようかな?」
さらに長くなる廃灰の神去雲透。ぶん、と刀を振るえば、投げ飛ばされた炭治郎が、近くの襖をぶち破りながら無限城の下へと落下していく。
「兄さん、姉さんの次に大切な人は誰? そこの女の子? それとも他の仲間?」
落ちていく途中で体勢を立て直した炭治郎が、空中に浮いている引き戸に着地する。
「月の呼吸、陸ノ型……常世孤月・無間」
「ヒノカミ神楽……円舞一閃!」
縦方向に伸びる無数の月輪が飛び交い、登ってくる炭治郎を阻む。炭治郎は霹靂一閃の高速移動を加えた独自の型で、月輪の間を一気に抜ける。
「大切な人がいなくなる瞬間って、どんな気持ち?」
躱しきれずに満身創痍になりながら、無限城の上下左右がバラバラの空間を駆け上ってきた炭治郎は、再び廃灰と対峙する。
「月の呼吸、漆ノ型……厄鏡・月映え」
「ヒノカミ神楽……碧羅の天!」
地を這うようにうねる5つの月輪に対し、着弾する直前、全ての月輪が近くに迫るタイミングで日輪刀を振り下ろして迎撃する炭治郎。
「ヒノカミ神楽、飛輪陽炎は攻撃の長さを誤認させる……月の呼吸と合わせると、月輪陽炎ってところかな」
だが、5つの月輪の中に一つだけ見た目より長い月輪があったことに気づかなかった炭治郎は、袈裟斬りのように肩から脇腹にかけてを深々と斬り裂かれた。
「ぐあぁっ!!」
「ずっと思ってたんだ。僕は普段普通に怒ったり笑ったりするけど、心の奥ではどこか冷静で、他の人と比べて麻痺してるんじゃないかって」
炭治郎はしばらく踏ん張っていたが、やがて出血多量によって仰向けに倒れる。
「誰も愛せないし誰からも愛されない……家族が離れ離れになった後、そんな大人になってしまうと思った」
コツコツと倒れた炭治郎に近づいた廃灰は、彼が決して手放そうとしない日輪刀を蹴飛ばして遠くへ放る。
「たとえば、僕は父さんが死んだ時、泣けなかった。もちろん父さんは昔から病弱で、幼心にそう遠くないうちにいなくなってしまうと悟ってたさ」
蹴飛ばした勢いをそのままに、空中に上げた足を炭治郎の脇腹……傷口に振り下ろす。
「ぐ、があああぁああ!!!」
「だから父さんが死んだ時に泣かなかったのは、覚悟ができてたから。そう考えると今度はこんな疑問が出てきた」
グリグリと傷口を踏み躙りながら、どこまでも淡々と廃灰は語る。
「母さんや兄さんたちが死んだ時、泣いたりするんだろうか……って」
踏む箇所を別の傷口に移す。その度に炭治郎の悲鳴が高く響くが、廃灰はピクリとも表情を変えない。
「多分どこかが普通の人と違ったんだ。僕は……人間として存在してちゃいけないような生き物だったんだ」
そうしてようやく足を炭治郎の体からどかした廃灰は、炭治郎の隊服の襟首を掴んで持ち上げる。
そして、憎悪に染まっているはずのその顔を見ようとして……
「なぜ笑うんだい? 何が嬉しいの?」
「嬉しいんじゃない、おかしいんだ……そんな風になっても結局、お前は何も変わってないよ」
それでも、どこか呆れたような笑顔を貼り付けている炭治郎に、廃灰は……怒りよりも、なぜか恐怖を感じた。
この先の会話を聞いてはいけない、これ以上兄と話してはいけないと、本能が怖がっているような……
「父さんが死んだ日のこと……本当に覚えてるのか?」
「なに?」
「鬼は人間の頃の記憶が薄れるから仕方ない、か」
「だから、何が言いた……」
「あの時……父さんが死んだ日に、お前は泣いてたじゃないか」
聞いちゃいけない。今すぐ兄を殺せ。無視しろ。反論したら負ける。
「ち、違う……父さんの遺体の前では、泣いてない……」
「それはそうだ、だってお前はあの日……父さんが危篤で……家族みんなでお別れを言っていた時に」
止めろ。聞くな。言うな。
「逃げたじゃないか」
「痩せ細ってて、死臭がしてて……まるで、父さんじゃないみたいで、怖くて逃げたって……俺の前で泣いてたじゃないか」
「ち、違う……うるさいうるさいうるさい、うるっさあぁあああいいいい!!!!」
半狂乱になって、炭治郎を突き飛ばす廃灰。
『下の子だって、ちゃんとしてたのに……僕は、僕は……! 自分が、情けないよ……! 消えてしまいたい……!』
「結局お前は、ちょっと捻くれて異常者ぶってるだけの……普通の男の子だよ」
『ごめん、ごめん父さん、ごめん兄さん……! ごめんなさい、ごめんなさい……!』
「ふざけるな……! こんな、こんなになってまで、兄さんは、僕のことを……! 僕さえいなければ、竈門家は理想の家族でいられたのに!」
「でも、そんな綺麗な記憶だけを思い出と呼びたくない。あれから嫌なこともたくさんあったから、今の俺があるんだ」
「黙れよ……うるさいんだよぉ!! もういい加減ウザい!!! 死ね!!! 死ねよ!!! 死ねぇええええぇえええ!!!!」
別に今までは遊んでいただけで、実力の差は圧倒的だ。既に炭治郎は死に体だ。日輪刀も蹴り飛ばされて持っていない。ただ闇雲に刀を振り回すだけで、もう殺せる。
✿ ✿ ✿
「たん、じろう……」
このままでは炭治郎が危ない。カナヲは拘束からは抜け出せたが、日輪刀は体から抜き去られていた。視力も落ちて足腰もほくに立たず、その上武器もなければ、彼女とてどうすることもできない。
『カナヲ』
「……しのぶ姉さん?」
声が、聞こえる。失血性貧血で朦朧とした意識が、もう会えない優しい姉の幻聴を聞かせているのかと思ったが……
『こっちよ、カナヲ……まだ貴女は生きている。まだ、やれることがあるはずよ』
「カナエ、姉さん……」
それでも、姉たちの声の聞こえる方へ這いずって移動していく。あの二人は、ずっと見守ってくれている。たとえ幻聴でも、その声を信じてみたかった。
そうして辿り着いた、声の先には……
「姉さんの、血……そっか、私を呼んでくれたんだね……」
未だにしのぶを介錯した時の血が、多少乾いてはいてもハッキリと残る……カナヲの日輪刀があった。
✿ ✿ ✿
「うぁああああ!!!」
炭治郎を殺そうとする、廃灰の遥か後ろで……満身創痍でもう動けないと思っていたカナヲが、力の限り自らの日輪刀を投擲する。
「そんな破れかぶれの攻撃……!」
片目が黒死牟に斬られ、残る片目も一瞬とはいえ終ノ型の使用で視力が落ちている。
どうやって刀を見つけたかは知らないが、そんな状態で狙った箇所に物を投げられるわけもなく、少し体を捻るだけでカナヲの投げた刀は廃灰を通り過ぎ……炭治郎の手の中に収まった。
「なにっ!?」
花の呼吸は水の呼吸の派生。それでなくとも全ての呼吸は日の呼吸の派生。炭治郎に花の呼吸の刀を使えない道理はない。
「さよなら灰里……俺の、弟」
止めなければ。そう思っているのに、なぜか体は動かない。もう、無理してまで兄を怒らせて、殺しても……悦に入ることすらできず、きっと虚しくなるだけだ。黒死牟のように、何者にもなれない。彼とは違い、何の為に生まれたのかも分からぬまま、死ぬこともできないだろう。
ああ、それなら死んだ方がマシだ。本当は僕はずっと、兄さんに会って……殺したいのではなく、止めて欲しかったのかもしれない。きっと勝てない。あんな真っ直ぐな目をした兄さんに、勝てる気がしない。
「……愛してる」
きっと兄さんはこの灰を潜り抜けるだろう。純然たる太陽によって月でもなければ日でもない何かは退けられ、真の夜明けが訪れるのだろう。
炭の周りを漂っていた燃えカスの灰は、綺麗サッパリ洗い流され……
「なんで……なんでそうなるんだよ」
日輪刀が廃灰に届く直前。
炭治郎は息絶えていた。
「違う……違う違う違う!!! 僕は、僕はこんな結末……!」
──違う。僕が望んだ結末だ。あれだけいたぶれば、いつ死んでもおかしくない。それを分かった上でやっていたはずだ。
なのにいつも間違えてしまう。後からああすればよかったこうすればよかったなんて、後悔ばかりだ。
「炭治郎……? 炭治郎ぉおおおお!!!」
「でも、まだだ……まだ、挽回できる」
それでも、やり直せる。後悔や選択に遅すぎるなんてことはない。できなかったことがあるなら、もう一度やり直せばいい。
──そうだ、まだ細胞は死滅しきってはいない。今ならまだ間に合う。
絶望の声をあげるカナヲを尻目に、廃灰は懐にしまった、歪な師匠の歪んだ形見……折れた笛を握りしめる。
──僕は……あの人とは違う。まだやり直せる。
「奇跡を……それが呪いでもいい……復活を……兄さんに、鬼の血を!!!」