季節は変わりゆく。あの日、満開だった桜も今は——新緑が生い茂る。
一色曰く昨日は2年の職場見学の日だったらしい。その為必然的に奉仕部は休みだった。……俺一人でやっても良かったのだろうが、生憎そんな勤労精神がこの比企谷八幡にある筈が無い。
だが、今日は——全学年普通の授業日。ならば、
行かなくてはならない。あの部屋へ。
いつもより更に気怠げに、授業を受ける。こういう日はやけに、時間の進みが早い。
そして放課後、辿り着くは白無垢のドアの前。深いため息をつき、俺はその中へ——
「——ヒッキー!」
ドアに手をかけた刹那、背後から突き刺さる彼女の声。思わず身体が硬直する。だが、だとしても、言わなくてはならない。
お前の行動は——
しかし、それが俺の口から出るより先に、ぐいと腕の裾を引っ張られた。
「来て——」
呆気に取られた俺が、連れて行かれた先は
誰もいない、屋上だった。
……屋上に、男女2人。もしかしたらこの状況に胸を高鳴らせる者がいるのかもしれない。過去の俺もそうだったのかもしれない。だが、今となっては……
俺を蝕む、敵意に満ちた猛毒でしかない。
と、そこでパッと裾が離された。ここでようやく、俺は彼女を真正面から見た。いつも通りの……いや、違う。常に明るかった彼女は、しかし今この瞬間は俯き、何かを堪えているような、そんな雰囲気だった。
「その……ヒッ、ううん、比企谷くん」
ゆっくりと、彼女の顔が上がる。見たこともない真面目な顔で、彼女は——
「——ごめんなさい!結局、あの後一度も直接会いに行けなかった。サブレを……あたしの犬を助けてもらったのに、それで比企谷くんに怪我させちゃったのに、それなのに——」
……それは、謝罪だった。事故の後、結局一度も会うことのなかった事への、そして——
初めての依頼の時からずっと、それを黙っていた事への。
「そして——改めて言うね。
ありがとう、サブレを守ってくれて。本当に、本当に感謝してます!」
泣きそうな顔で、しかし懸命に笑顔を保ち彼女はそう続けた。
……いつ以来だろうか。俺個人が、家族以外に感謝されたのは。拒絶され、迫害され、嫌悪され——真っ暗だった俺の過去に、由比ヶ浜結衣が告げた言葉はどこか一筋の光のように感じられた。
無意識に、俺は歩み寄ろうとしていた。面と向かい、直接感謝してくれた——彼女の近くへ。
——だが
それでも俺は、信ずる事が出来ない。心のどこかで、これは所詮幻想だと、欺瞞だと、薄っぺらい偽物に過ぎないのだと疑う、疑ってしまう。
由比ヶ浜結衣は優しい。全てに対して。故に彼女は何かと俺を気にかけたのだろう。
しかし、由比ヶ浜先輩の犬を助けたのは単なる偶然だし、例えあの事故がなかったとしても俺は——ぼっちのままだった。
だからこそ、もうこの関係を精算するべきだった。人に相応しき居場所を——ぼっちには孤独の陰に、リア充には仲間の陽だまりへ、それぞれ戻らねばならない。そして、由比ヶ浜結衣がどちらなのかなど
考える必要すら無い。
「……」
動きかけた右手は、石のように固くその場に留まった。目の前に差した一筋の光明、だがそれを受け入れるには
俺の心は、曇り過ぎていた。
「……いや、俺の方こそ悪かったっすね。それで変に気ぃ使わせちゃったみたいで。でもこれからは気にしなくて良いですよ。もし気にして、それで優しくしてるなら——
——そんなのは、要らない——」
明確な拒絶。気持ちの悪い馴れ合いなんて要らない。生半可な同情なんて御免だ。
負い目による偽の優しさなど——吐き気がする。
「……やー、別に、そういうんじゃ、無いんだけどなー……」
……どこまでも、由比ヶ浜先輩は優しい。恐らくこの先もずっと。だからこそ——言わなければ、ならなかった。
いつのまにか地面へと向いていた視線を、僅かに上げる。——すると、目に入ったのは
こちらをじっと見据える、由比ヶ浜先輩の姿だった。目の縁に涙を湛え、しかし懸命にそれを堪え、笑顔を保つ彼女は、やがて小さく呟いた。
「何で、分かってくれないの、かな——」
そして彼女はかぶりを振り、笑顔のままこう告げる。
それは——
「……分かったよ、比企谷くん
——さよなら」
明確な、別離。かくして彼女は去っていく。その間際、僅かに動いた彼女の口元は
——ばか
俺を鋭く糾弾し、彼女は居なくなった。ああ、畜生……
拒絶も、迫害も、嫌悪も——慣れ切っていた筈なのに、それなのに
一度“希望”を目にしただけで、俺の心は弱くなっていた。ある主人公は言った、“友達は要らない、人間強度が下がるから”、と。
故に俺は早期の外科的切除を試みた。“本物”かもしれなかった光を欺瞞と断じ、自ら切り捨てた。
「……はぁ」
ため息をつき、俺は屋上のフェンスにもたれるように、ずるずると腰を落として空を見上げた。
優しい女の子、そんなものは俺は嫌いだ。僅かに言葉を交わしただけで気になってしまうし、ラインなどしようものなら心がざわつく。電話なんかかかってきた日には、着信履歴を何度も見返しキモい笑みをだらしなく浮かべてしまう。もしかしたら、この子は俺に気があるのではないか、と——
だがそれは幻想だ。俺に優しい女の子は、俺以外の全てに対しても同様に優しい。
俺だけに優しい、特別な女の子——そんなものは、存在しない。存在しないと、俺は知っている。知ってしまっている。
だからこそ、優しさなんて大嫌いだ。今も昔も、そして——
これからも。
「……」
無言で空の青色を眺め続ける。
……春はもう、終わりだ。
——そして、由比ヶ浜結衣は奉仕部から姿を消した。