黎明廻戦   作:鯖のごった煮

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ちょっと時間が飛んでます。注意です。


第五話 東京都立前線基地

 寂れた公園で、乙骨憂太は一人ブランコを漕いでいた。

 

「はぁ…」

 

 漏れる溜め息は、小学生6年生らしからぬ重苦しいもの。それどころか、彼の目元には僅かだが隈すら滲んでいる。ぐらぐらと揺れるブランコは、ひどく不規則なリズムを刻んでいた。

 

 乙骨には、一つの深刻な悩みがあった。

 

「ねぇ、里香ちゃん」

『なぁに?』

 

 ずるりと、乙骨の足元の地面から異形が這い出てくる。目と鼻がない歯が剥き出しの口、異常に筋肉質な腕が乙骨を囲い込む。その姿は人間のものとは程遠く、それでいて満面の笑みを浮かべている。

 

 3年前から、乙骨憂太は幼馴染——祈本里香に呪われていた。

 

「どうして、あの子たちにあんなことしたの?」

『アイツら、ゆゔだ虐めだあ゙ぁああ』

 

 今日は乙骨の小学校の卒業式だった。卒業式自体は何もなかったのだが、その帰りに数人のクラスメイトに絡まれたのだ。絡まれたといっても、軽く小突かれた程度のもの。乙骨だって苦笑いをしていただけだった。

 

 それなのに、気づけばクラスメイトたちの腕やら足やらは捻られていた。悲鳴を上げるクラスメイトらから逃げるようにして、乙骨は人気の少ないこの公園にやって来たのだ。

 

「虐めたって、あんなことで……そんな」

『虐めだ虐めだ虐めだあぁあ゙あ!』

「…そっか」

『うぅん!』

 

 無邪気そうに頷く祈本を、乙骨は見つめることしか出来なかった。彼女は人間の言葉を喋っているが、話などまるで通じたことがない。3年間ずっとそうなのに、一体何を期待したのだろうか。彼女は気ままに姿を現し、思うがままに蹂躙する。そこに乙骨の意思は内在しないのだ。

 

「……」

『ゆゔだあ゙?』

 

 自分は一体どうすればいいんだろう。

 

 3年前に彼女に憑かれてからずっとずっと、乙骨は周りに迷惑を掛けてばかりだ。この前など、乙骨の妹にまで祈本は手を出した。幸い重症にはならなかったが、それでもいつまた彼女が暴れ出すか分からない。自然と、乙骨と家族との距離はより離れていった。

 

 乙骨は、自分のせいで他人が傷ついてしまうのが嫌だ。けれど暴れ狂う祈本を止める度胸も、手段もなかった。だから彼はただひたすらに現状から逃げることしか出来ないのだ。

 

「うぅ…」

 

 いつしかブランコの動きは止まっていた。もう祈本の姿は引っ込んでいる。乙骨はブランコの上で器用に体育座りをして、涙の滲む顔を足で隠した。一度溢れ始めた涙は留まることを知らず、あっという間に乙骨の顔を水浸しに変えていた。

 

 ひたすら蹲り続ける乙骨。その側には、いつしか黒い影が立っていた。

 

「おや。子どもが一人、こんな所でどうしたのですか?」

「……誰?」

「私はボンドルド。しがない通りすがりです」

 

 その男は、乙骨の目から見てもあまりに異常だった。I字仮面で素顔を隠し、全身を黒装束で覆っている。どこにも素肌を晒している箇所がなく、声が穏やかなこと以外安心出来る要素がない。もう完全に不審者だ。

 

 不審者の話は聞いてはいけない。かつて小学校の先生がしていた話が頭を過る。

 

「あなたこそ、名前は何と言うのですか?」

「……」

「おやおや、拗ねているのですか? 君はかわいいですね」

 

 何も言っていないのにわしゃわしゃと頭を撫でられた。撫でられ心地は良いが、馴れ馴れしいことこの上ない。乙骨は少し焦った。

 

 不審者に近づかれたことが嫌なのではない。これは最悪、祈本が出てくる可能性があるのだ。例え見ず知らずの他人であっても、自分のせいで傷ついてしまうことを乙骨は恐れている。とにかく、目の前のボンドルドから距離を取らないと。

 

「…す、すいません」

「謝らなくても大丈夫ですよ。気にしてなんていません」

「いや、ち、違くて」

「そんなに焦らないで、私はどこにも行ったりなんてしません」

 

 ボンドルドは、ひたすら穏やかな声で乙骨に語りかけていた。ここ数年聞いたことのないような声色。その暖かさ、柔らかさに、思わず乙骨は顔を上げた。

 

 涙に塗れた彼の顔を認めて、ボンドルドは懐に手をあてがった。

 

「おやおや、ひどい顔をしていますよ。どうぞこれを」

 

 ボンドルドは乙骨にハンカチを差し出した。

 

「い、いいんですか?」

「ええ、好きに使って下さい」

 

 少なくとも乙骨の主観では、ボンドルドに悪意があるようには思えない。ただハンカチを貰うだけ、たったそれだけだ。祈本も、今の所彼に危害を加えようとしている兆候はない。何も問題はないはずだ。

 

 乙骨はおずおずと手を伸ばして、ボンドルドのハンカチを受け取った。彼はそのままハンカチで顔中の涙、鼻水を拭った。

 

 やがて顔を綺麗さっぱり拭えたタイミングで、再びボンドルドは乙骨に声を掛けた。

 

「どうでしょう、落ち着きましたか?」

「…はい。ありがとうございます」

「とんでもない。これしきのこと、礼には及びませんよ」

 

 そうはにかむような声を出して、ボンドルドは乙骨に視線を合わせた。

 

「君は、名前は何と言うのですか?」

「…乙骨憂太、です」

「ユウタ、良い名前ですね」

 

 ボンドルドは再び乙骨を撫でた。大人に撫でられることなど、小学低学年以来の経験だ。今更ながら、何だか乙骨は恥ずかしかった。

 

 ひとしきり乙骨を撫でてから、ボンドルドは再び口を開いた。

 

「ユウタ、君はどうして泣いていたのですか?」

「…それは、言えません」

「もしかすれば、私は君の助けになれるかもしれません。ちょっとだけでも構いません。どうか君の話を聞かせて下さい」

 

 ボンドルドの懇願を受けて、乙骨は少し俯いた。

 

 この時点で、ボンドルドに対して乙骨は少なくない好感を抱いていた。弱っていた所に手を差し伸べられたこともあるだろう。彼はボンドルドに近所のおじさんのような感覚すら抱いていた。

 

 しかしながら、幼馴染に呪われているなどという妄言を信じてくれる人など果たしているのだろうか。少なくとも乙骨の両親はそうではなかった。祈本に呪われて以降、両親との関係に溝が出来てしまっているのが良い証拠だ。

 

 けれど、目の前のボンドルドは信じてくれるかもしれない。乙骨は思わずそんな期待をしてしまう。彼は、まだ会ったばかりの他人だと言うのに。

 

 乙骨はもう疲れていたのだ。ひとりぼっちの生活に、誰にも理解されない生活に、もう3年も続いたその地獄に、乙骨の精神はもはや擦り切れていた。小学生の心にとって、孤独というものは非常に重くのしかかる。

 

 だから、乙骨の口は自然と軽くなっていた。

 

「……3年前からずっと、僕は幼馴染に呪われているんです」

「呪い、ですか」

「はい。祈本里香…里香ちゃんにずっと、今も僕は憑かれている」

「リカの姿を、私が見ることは出来るでしょうか?」

「分かりません。家族も友達も、みんな僕のことを信じてくれなくて…それで、気味悪がりました。けど、けど、本当にいるんです。僕に取り憑いているんです。ボンドルドさん、お願いです。どうか、どうか信じて下さい…!」

 

 乙骨は途中から感極まって、気づけばボンドルドの元に擦り寄ってしまっていた。慌てて乙骨は、ボンドルドから体を離した。

 

「すいません! つい近寄ってしまって」

「大丈夫ですよ、ユウタ。それよりも、私は君に改めて自己紹介をしたいのです」

「自己紹介…ですか」

「ええ」

 

 ボンドルドは背筋を正して、そして慇懃に手を広げた。

 

「私はボンドルド。日本の特級呪術師、『黎明卿』——と人は呼びます」

「呪術師、ですか?」

「ええ、君のような呪いに苦しむ子どもたちを解放する、そのために私はいるのです」

 

 呪術師など、乙骨はファンタジーだけの話だと思っていた。それは今だって同じだ。祈本という呪いを目の当たりにしてすら、乙骨はそれを信じようとはしなかった。いいや、そんな悍ましいもの、信じたくなどなかった。

 

 けれど、ボンドルドの言葉、振る舞いには、他にはない真実味が確かにあった。

 

「君の呪い。私たちならば解放することが出来ますよ」

 

 やがてボンドルドは、呆然とする乙骨へと右手を伸ばす。

 

「東京にある私の『前線基地(イドフロント)』で、私と『祈手(アンブラハンズ)』——準一級以上の術師たちが呪術の深淵に挑んでいます。そこに行けば、きっとユウタはお友達と仲直り出来ます」

「里香ちゃんと、仲直り出来るんですか?」

「勿論です。君は特別ですから」

 

 そう言って、ボンドルドは一歩こちらへと歩み寄った。差し伸べられている彼の手は、今や乙骨の目の前にある。仮面から漏れる紫の光が、今の乙骨には希望の光のようにすら見えていた。ボンドルドに頼ればもしかしたら。そんな期待が、乙骨の中で際限なく膨らんでいく。

 

「さあユウタ、一緒に行きましょう。たくさん楽しいことが待っていますよ」

 

 ボンドルドから放たれた誘いの言葉。それに応えるのに、乙骨は多くの時間を要さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようこそ、『前線基地(イドフロント)』へ。我々一同、歓迎しますよ」

「はえー、ここが…」

 

 『前線基地(イドフロント)』への訪問は、乙骨の思っていたよりもずっとスムーズに進んだ。

 

 まずボンドルドが乙骨の家族と話し合い、彼らがボンドルドの提案を承諾。当初両親は怪訝そうな顔をしていたが、ボンドルドの弁舌に負かされる形であった。そしてそのまま荷物を纏めて新幹線で東京へ。少しの電車と徒歩で『前線基地』に到着だ。ここまで2日もかかっていない。

 

 今現在ボンドルドと乙骨がいるのは、『前線基地(イドフロント)』とその周囲を繋ぐコンクリートの桟橋だ。

 

「ユウタに部屋を用意しておきました。君も長旅で疲れたでしょうから、そこで少し休息を取ってはいかがでしょう?」

「分かりました。…というか、もう部屋があるんですね」

 

 乙骨の言葉に、ボンドルドは戯けるように手を広げた。

 

「事前に『祈手(アンブラハンズ)』に連絡を取っていましたから。それに、『前線基地(イドフロント)』は身寄りのない子どもたちを世話をする孤児院としての役割もあるのですよ」

「そうなんですか…。何というか、凄いですね」

「とんでもございません。彼らの協力のお陰で、深淵の闇を払うヒントが生まれるのです。私こそ、子どもたちにはたくさんのお礼を言いたい」

 

 道中で話していて分かったことだが、ボンドルドはとても良い人だ。

 

 呪術に関してずぶの素人な乙骨に対して、非常に分かりやすく、かつ丁寧な説明を彼はしてくれた。その言葉の節々には思いやりが満ちていて、乙骨は軽い感動すら覚えていた。特級と言うからには相当偉い地位にあるはずだが、ボンドルドの話しぶりからはそれをまるで感じられない。かといって卑屈過ぎることもなく、乙骨は道中気を楽にして過ごすことが出来た。

 

 欠点を挙げるとすれば、その容姿ぐらいのものだろう。彼のI字仮面は人混みの中で異常に目立つ。新幹線のチケットや駅弁などを買う時には、店員に必ず二度見をされた。ボンドルドは気にしていなかったが、乙骨は少しおどおどしてしまったのを覚えている。

 

「さて、部屋まで案内しましょうか」

 

 そんなこんなで乙骨たちは桟橋を渡り終え、『前線基地(イドフロント)』内部へと踏み入った。

 

「おお…」

 

 そこは端的に言うならば、SFの世界であった。

 

 地面、壁、天井に至るまで全て金属で覆われた廊下。天井の隅にはむき出しの配管が見られ、時折ごうごうという音を漏らしている。その様は呪術の研究所というよりは、ちょっと発展している工場のように思われる。後、少し不潔だ。

 

 何とも言えない声を漏らし、おずおずと周りを見渡しながら前へと進む乙骨。その姿を認めたボンドルドは心配そうな声を出した。

 

「おや、『前線基地(イドフロント)』をお気に召されませんでしたか?」

「あ。いや、そういうのじゃなくて。ちょっとだけ、思ってたのと違うというか…」

「そうでしたか。ご安心下さい。子どもたちの居住区は毎日掃除してあります。ユウタもきっと気に入りますよ」

「…分かりました。ありがとうございます」

 

 乙骨たちがしばらく進むと、小綺麗な空間が横合いに見えた。あれがボンドルドの言っていた子どもたちの居住区なのだろう。乙骨はボンドルドに連れられて中に入った。

 

「ここ…本当に凄いですね」

 

 白を基調とした居住区は、ボンドルドの言葉通りとんでもなく綺麗であった。相当丹念に掃除をしているのだろう、居住区には染み一つすら見られない。それどころか、微かに良い匂いすら漂っていた。ちょっとしたホテルレベルの清潔さだ。

 

「ユウタ、気に入ってくれましたか?」

「勿論です、ボンドルドさん!」

「それは大変喜ばしい」

 

 ボンドルドはやがて、数ある扉の一つの前で立ち止まった。彼は乙骨の方へと振り返り、軽く手を扉へと向ける。

 

「ここがユウタの部屋になります。どうぞゆっくり休んで下さい」

「はい。ありがとうございます」

 

 お礼を言って、乙骨はゆっくりと扉を開けた。

 

「では、私は所用がありますのでこれで。また後で君の様子を見に来ますね」

 

 立ち去るボンドルドを見届け、扉を閉めた乙骨は自身の部屋を見渡した。

 

 まず乙骨の目についたのは、ふかふかそうなベッドとカーペットだ。見るだけでその柔らかさが分かる。次に部屋の隅に視線を移すと、いくつかのぬいぐるみとフィギュアが籠に積まれてあった。多分乙骨よりももう少し小さい子用のおもちゃだろう。

 

 最後に部屋の中央のテーブルを見れば、そこには直方体状の黄色い固形食が置いてあった。

 

「これ、おやつかな…?」

 

 見た目はちょっと分厚い板チョコだ。多分食べれるはず。それに、ボンドルドの性格的に差し入れを置いていても違和感はない。乙骨はそれをしばらく見つめたり手に持ったりしたが、最終的に食欲に負けてそれを少し齧った。

 

「なにこれ…」

 

 固形食の味は壁そのものだった。

 

 これは、カ◯リーメイトとかそういうノリだろうか。美味いも不味いもない。ただひたすらに壁の味が口内に広がっている。謎な固形食である。乙骨は微妙な顔をした。

 

 乙骨は固形食を咀嚼しながら、気を取り直してゆっくりとベッドに腰掛けた。

 

「それにしても、本当に来ちゃったのか…」

 

 正直言って、乙骨はまだ『前線基地(イドフロント)』どころか東京に来た実感すらも曖昧だ。漠然とした不安と期待、それらがごちゃまぜとなって乙骨の腹に渦巻いている。

 

 ただ分かるのは、ここでなら祈本と真の意味で向き合えるということ。

 

 それだけでも、乙骨にとって十二分だった。あの永遠に続くと思われた地獄に、遂に光明が差したのだ。気分が上向きにならない訳がない。これまで人に迷惑しか掛けてこなかった自身が、呪いを通して人の役に立てるかもしれない。その事実は乙骨にとって、大きな後押しとなったのだ。

 

 そしていつかは、折本の魂を正しい姿で弔えるやもしれない。

 

「その為にも、これから頑張らなきゃな」

 

 上を向き、拳を握りしめる乙骨。

 

 その時、彼の耳は扉の開く音を捉えた。誰かが部屋に入って来た。今の姿を見られてはちょっと恥ずかしい。すぐさま乙骨は拳を引っ込め、部屋の入り口へと視線を向けた。真っ白な扉は、既に大きく開かれていた。

 

「ふーん、オマエがボンドルドの客じゃな?」

 

 そこに立っていたのは、ヘアバンドを着けた黒髪の少女。

 

「初めましてじゃな。妾は天内理子、ボンドルドの娘じゃ」




あとがきという名の妄想開示(見なくても大丈夫です)

◯乙骨の時系列とかについて
乙骨は少なくとも2010年以降より宮城の仙台市にて呪いとなった祈本と一緒に毎日を過ごすこととなります。これより作者は両親から距離を取る為に高校(もしくは中三)から東京に引っ越し、そこで起こした原作の不祥事から初めて高専に祈本里香の存在が認知されたと解釈しました。ちなみに、今回ボンドルドはたまたま仙台に任務に出ていた『祈手』を介して乙骨のことを事前に知り得ています。
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