黎明廻戦   作:鯖のごった煮

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今回は全体的に胸糞注意です。本当にお気をつけ下さい。
では、第七話です。


第七話 魂目眩く

「なに、これ?」

 

 乙骨は、自身のベッドの前で立ち尽くしていた。

 

 起きたばかりでジャージ姿の彼は、着替えることも忘れて呆然としている。今日は月曜日なのだから、乙骨は学校に行く準備をしなければいけない。だというのに、乙骨の視線は一点に留まっていたままだった。

 

 彼の眼下。ベッドと床の間には、ひどく血に塗れた何かがあった。

 

『ずるい、ずる゙い』

「里香ちゃん?」

 

 こひゅー、こひゅー、と真っ赤なそれが呼吸する。

 

 まるで死にかけの鼠のように、一生懸命何かが蠢く。生きようと足掻いている。人と同じ肌をしていながら全身赤に染まったそれが、地面を這おうとしている。自身の血で出来たであろう赤い池を、ゆっくりゆっくりと泳いでいた。

 

 その光景はどこまでも悍ましくて、気持ち悪くて、けれど乙骨は目を逸らせなかった。

 

『お゙前ばっかり!! お゙前ばっかり!!!』

「……」

 

 乙骨のことなど意に介せず、傍で罵詈雑言を吐き続ける祈本。彼女の言葉のせいで、彼女の振る舞いのせいで、乙骨は理解してしまった。ベッド下に詰められて今も苦しみ続けているもの。それが何であるかを。

 

 胃の奥からせり上がってくる吐き気を必死に抑えながら、乙骨は祈本へと口を開いた。

 

「里香ちゃん、天内さんをやったの?」

『え゙』

 

 乙骨の言葉に、見るからに祈本はたじろいだ。

 

「やったんだね?」

『だ……だっで——』

「はっきり答えて」

『や…やっだ……』

「…そっか」

 

 祈本は怯えていた。さながら生まれたての子鹿のように、自身の筋肉質な両腕をぶるぶると震えさせていた。関係ない。血走った目を見開きながら、乙骨は折本の追及を続けた。

 

「里香ちゃん、天内さんは僕たちの大事な友達だ。友達相手に、こんなことしちゃ駄目だよね?」

『あ゙……あ……』

 

 しばらく祈本の口からは声なき声が漏れていた。我を失ったかのように乙骨を見ていた祈本は、やがて身体を翻して彼の元へと擦り寄った。

 

『ごめんなさい、ごめんなさい!!』

 

 彼女はひたすらに、掠れた声で謝罪を訴える。

 

『怒らないで…』

「怒ってないよ」

『嫌いにならな゙いでぇ』

「嫌いになんてならないよ」

 

 祈本が天内を詰めたことに、乙骨が薄暗い衝動を抱いたことは確かだ。けれども、たったそれだけだ。乙骨と祈本はいつまで一緒。結婚の約束だってしたのだ。彼女が死のうと、呪いに成れ果てようと、その事実が変わることはない。

 

「それよりも、どうにかして天内さんを治さないと」

 

 乙骨は屈んで、ぐちゃぐちゃの天内におずおずと手を伸ばした。肉肉しく鼓動する彼女の肌に優しく触れ、軽くさする。手のひらに血がべっとりとついてしまったが、そんなことは今はどうでもいい。

 

「本当に酷い怪我だ。里香、治せる?」

『が、がんばる゙!』

 

 威勢の良い声と共に、祈本も天内に手をかざした。

 

「ただ呪力を込めるんじゃ駄目だ。反転術式を使わなきゃ」

『わかっだ』

 

 呪力は肉体を強化することは出来ても、肉体を治癒することは出来ない。呪いとは負の力。何かを傷つけるならばまだしも、正の力を要する肉体の再生に用いれる訳がないのだ。肉体自体が呪力で構成されている呪霊は例外として、原則人間は呪術による再生手段を持っていない。

 

 そして、その例外こそが反転術式。呪力を掛け合わせ正の力へと変換する、人体に対する唯一の再生手段だ。

 

 しかしながら、反転術式を扱える術師は数少ない。呪力を掛け合わせるという行為が、単純に難易度が高過ぎるのだ。特級であるボンドルドだって使うことが出来ないのだから、その高度さの程が伺えることだろう。日本の中で反転術式を使える術師は片手で数えられるほども存在しないと、かつてのボンドルドは言っていた。

 

 かくいう乙骨とて反転術式など試したこともない。今初めて天内で試そうとしている。言ってしまえば、ぶっつけ本番の運試し。

 

 だから、結果は分かりきっていた。

 

「くそっ! 出来ない…!」

 

 乙骨は激情のままに歯軋りをした。反転術式は失敗だ。何かそれらしいものが出来そうではあったが、呪力が拡散してうまくまとまらない。乙骨の手に宿っているのは、ただの正の力のなり損ないだ。こんなものでは天内の傷は癒せない。

 

「どうすれば…どうすれば……」

 

 両手で頭を抱え、乙骨はうわ言を溢し始めた。考えが纏まらない。最適解は愚か、次善策すら浮かんで来ない。このままでは、このままでは天内が。

 

 追い詰められていた乙骨は、だからこそ扉の開く音を聞き逃さなかった。

 

 この時間、このタイミングで来る人物。『祈手(アンブラハンズ)』は基本的にボンドルドの研究に従事しているのだから、考えられる人物はたった一人だ。

 

「おやおや。ユウタ、何か困りごとですか?」

「ボンドルドさん!!」

 

 乙骨はすぐさま立ち上がった。涙の滲んだ顔も気にせず、一直線にボンドルドへと縋りついた。いつもはどこか不気味にも思われるI字仮面が、今はただただ頼もしかった。

 

「お願いです、助けて下さい! 天内さんが…天内さんが……!」

「ユウタ、落ち着いて下さい。リコに何があったのですか?」

「……こっちに来て、見て下さい」

 

 乙骨は、ボンドルドの体を強く引っ張った。連れて行くのは、当然自身のベッドの前。

 

「これは…」

「朝起きたら、天内さんはこうなってたんです。里香ちゃんにやられて、こんな姿に…」

 

 乙骨の言葉を聞きながら、ボンドルドはゆっくりと屈んだ。いつも通りの穏やかで、親しみを感じさせる振る舞い。彼はそのまま両手で天内の肌に触れた。布越しの接触を受けて、天内の身体がぶるりと震える。

 

 ボンドルドの後ろ姿を見つめながら、乙骨はおずおずと問い掛けた。

 

「ボンドルドさん。天内さんは、元に戻りますか?」

「大丈夫ですよ。リコは生きています」

 

 そう言って、ボンドルドは天内を掴んだ。

 

「ちょっ」

 

 乙骨が制止の言葉を吐く前に、ボンドルドは天内を引っこ抜いた。強引に、何の躊躇もなく取り出した。天内の身体が激しく出血する。ぶるぶると痛ましく暴れる彼女を、ボンドルドはそのまま抱き上げた。彼の両手は、天内の血でびしょ濡れになっている。

 

「ぼ、ボンドルドさん、天内さんが……」

「安心して下さい。リコは君のお友達ですものね。元に戻せるかは分かりませんが、可愛く繕ってあげますよ」

「……分かりました」

 

 束の間、乙骨は奇妙な違和感を抱いた。

 

 ボンドルドの言動、実の娘に対する態度。その有様が、あまりにも軽過ぎる。これでは温厚を超えて軽薄だ。天内があんなになっているのを目の当たりにして、その加害者への怒りを微塵に感じさせない。祈本や、憑かれている乙骨にだってボンドルドは憎しみを抱いて当然なのに。

 

 ゆっくりと出口へと向かう黒衣の後ろ姿を、乙骨は見つめることしか出来なかった。

 

「では、下層でリコを治させてもらいますね。日が暮れる頃には、きっと元気になっています」

「ボンドルドさん、ありがとうございます。後、ごめんなさい」

 

 言うとすれば今しかない。乙骨はボンドルドに頭を下げて、そのまま謝罪の言葉を告げた。天内と同じで、ボンドルドは乙骨の恩人なのだ。こんな風に恩を仇で返してしまったことに、乙骨は申し訳なさしかない。せめて、謝ることだけでもしなければ。

 

「もし僕が気を張っていれば、天内さんはこんなにならなかったかもしれないんです。最近、ずっとずっと調子が良くて……つい浮かれてしまっていました。本当に、すいません」

 

 ボンドルドは謝罪を受けて、ゆっくりと片手を広げた。

 

「ユウタ、どうか顔を上げて下さい」

 

 そう請われて、乙骨は戸惑いがちに顔を上げた。眼前に見えたのは、僅かに瞬くI字のスリッド。紫の光が乙骨の顔を照らしていた。

 

「喜びしか知らぬ者から祈りは生まれません。今日抱いた悲しみが、新しいあなたを形作ってゆくのです」

 

 その言葉は、ある種平生のボンドルドらしいもの。聖人そのもので、未来を、希望を見据えた明るい励まし。頼もしくて、強かで、そして普段通りで。

 

 傍にぐちゃぐちゃの愛娘を抱いていなければ、乙骨は素直に感動していただろう。

 

「ユウタは特別なのですよ。君にしかできないことが必ずあります」

「……ありがとうございます」

 

 乙骨はもう一度、ボンドルドへ軽く頭を下げた。

 

 彼の顔には複雑な表情が滲んでいる。感動と申し訳なさ、そして僅かばかりの違和感。今はしみじみと感傷に浸りたくて、乙骨は努めて煩悩を打ち消そうとした。

 

 ボンドルドは既に、廊下へと続く扉を開けている。

 

「さあリコ、一緒に行きましょう」

 

 

 

 

 ボンドルドが部屋を退出した後に、逡巡しつつも乙骨は学校に登校した。午後7時頃に彼は『前線基地(イドフロント)』に帰宅。そのまましばらく、自身の部屋で時間を潰していた。

 

 そして、今現在。

 

 

 

 

 

 こつり、こつりと、乙骨は階段を下っていた。

 

 『前線基地(イドフロント)』の上層と下層を繋ぐ通路。薄汚れたそこは、今もどこからか轟音が響き続けている。乙骨は時折耳を塞ぎながらも、階段を降りる足を止めなかった。

 

「天内さん、大丈夫かな……」

 

 口から溢れる言葉は、ひどく震えている。

 

 乙骨は下層に来た目的は、天内の無事を確認するためだけではなかった。それだけならばきっと、乙骨は自室でボンドルドを待っていただろう。彼には一つ、気がかりなことがあったのだ。

 

 ここ一年、乙骨は天内以外の子どもを『前線基地(イドフロント)』で見ていない。

 

 子どもたちのための居住区は空室ばかりが並んでいる。いつもは天内が訪ねてくるので騒がしいが、今日などは本当に静寂そのものであった。誰もいない。生活していた痕跡すらも残っていない。真っ新な子ども部屋だけがそこにはあった。

 

 『前線基地(イドフロント)』は広い。もしかすれば乙骨の知らない場所にも子どもたち用の居住区があって、そこで暮らしている子どもがいるのかもしれない。或いは、そもそも『前線基地(イドフロント)』に来る子どもがほとんどいない可能性もある。呪いの存在そのものが現代社会に認知されていないほどマイナーなのだ。呪いによって両親を亡くした孤児など、沢山いない方が良いに決まっている。

 

 けれど、少なくとも乙骨のいる上層には子どもたちがいないことは確実で。

 

「いるとしたら、下層だよね…」

 

 今朝のボンドルドの不穏な雰囲気も相まって、乙骨は遂に下層に足を踏み入れることを決意した。彼の頭を満たしているのは好奇心と、そして僅かな恐怖心。恐いもの見たさとも呼ぶべき衝動が、今の乙骨を背中を押していた。

 

「ここ、暗いな」

 

 やがて階段を下り終えた乙骨は、下層の探検を開始した。

 

 薄暗い廊下を、猫背気味に乙骨は進んでいく。途中で数名の『祈手(アンブラハンズ)』と遭遇したが、こちらをちらりと見ただけでそのままスルーされた。別にボンドルドに下層に絶対に行くなと言われている訳ではないので、問題はないはずだ。

 

 とにかく、それから乙骨は歩き続けた。約5分ほどの探検の末に、乙骨はとある部屋の前で立ち止まっていた。

 

「これは…」

 

 開かれた扉。その先に見える光景に、彼は目を見開いた。

 

 そこには、巨大な円柱形のガラスケースが林立していた。人一人丸ごと入れるレベルの大きさだ。扉から続く道を挟む形で置かれたそれらは、内側から暖かい光を発している。上に付けられた照明によるものだ。これまでにも工場用機械のようなものは目にして来たが、目の前のこれは一際異様だ。

 

 だから、乙骨はつい興味を抱いてしまって。

 

「ちょっと、ちょっとだけ…」

 

 ゆっくり、ゆっくりと、乙骨はその部屋の中に侵入した。彼は躊躇しつつも、やがてガラスケースの中身を覗き込んだ。

 

 果たして、その中にあったものは。

 

「なんだ…これ」

 

 ガラスケースの中には、ピンク色の物体が納められていた。ボウリングボールほどのサイズの塊たちが、ガラスケースの中央にそれぞれ安置されている。

 

 照明の光に照らされたそれらは、時折じゅくじゅくと胎動していた。目もなく、手足もなく、不出来ななりそこないの姿でひたすら踠いていた。まるで、丁度今朝の天内のように。ここは駄目だ。早く、早く外に出なければ。

 

「シュウタ、ユウト、スミコ、アオイ…。皆、名前があるんですよ」

 

 振り返った先にいたのは、紫に輝くI字仮面。

 

「ボン、ドルドさん…」

「やあユウタ。朝方ぶりですね」

 

 ボンドルドは部屋の入り口で、歓迎するかのように手を広げていた。その姿を見て、乙骨は思わず一歩後ずさってしまう。

 

 乙骨は怯えながらも、ボンドルドに対して疑問を口にした。

 

「ここは…一体、なんなんですか……」

「そう言えば、君には彼らを紹介していませんでしたね」

 

 ボンドルドはなんともあっけからんとしていた。乙骨がここにいることなど、まるで気にしていない。彼はゆったりとガラスケースに歩み寄り、その一つへと触れた。ボンドルドはピンク色のそれを感慨深げに見やり、それから乙骨の方へと向き直った。

 

「彼はシュウタ、将来の夢は呪術師だったんですよ。男の子ですね」

「え…」

 

 乙骨は、言葉の意味が分からなかった。構わず、ボンドルドは再び歩みだした。

 

「彼女はスミコ、将来の夢はお姫様でした。可愛いですね」

「ちょっと……」

「彼はユウト、将来の夢は『祈手(アンブラハンズ)』でした。喜ばしいですね」

「え…」

「彼女はアオイ、将来の夢は看護師でした。健気ですね」

「そんな…」

「彼はイツキ、将来の夢は先生でした。格好良いですね」

「待って……」

「彼女はヒナタ、将来の夢は魔法——」

「待って!」

「おや?」

 

 意味が分からない、分かりたくない。乙骨の脳が理解を拒んでいた。身体中から嫌な汗が止まらない。彼は口に手をあてがって、ぶるぶると全身を震わせていた。ガラスケースの中に這っているピンク色の肉塊。その全てが乙骨を見つめているような錯覚すら覚えてしまう。不快だ。この光景を不快と感じてしまう自分すら気持ち悪い。

 

 ただ一人。ボンドルドのみが、この場を平常心で闊歩している。

 

「どうしたのですか、ユウタ? 知りたいことがあれば、なんでも言って下さい」

「…なんで……なんで、こんなこと……」

 

 乙骨の声には嗚咽が混じっていた。

 

 今までの一年間。ボンドルドが過ごした日々の全てが、ぐらぐらと歪んでいくのを感じる。恩人としてのボンドルド、教師としてのボンドルド、彼の知っていたボンドルドの姿が、これ以上なく遠のいていく。

 

「極限の環境下において、人は『祝福』を見出すことがあります」

「しゅく、ふく?」

「ええ、呪力とは人の負の感情から生まれるもの。サトル特級がそうであったように、臨死体験などは呪力の核心を掴む大きな助けとなるのです」

 

 生と死の狭間、その果てで掴み得る術師としての成長。それは確実に、彼らに今までにない気づきを齎すものなのだろう。

 

「だから…この……子どもたちを…」

「ユウタは聡明ですね」

 

 そう言って、ボンドルドは乙骨を優しく撫でた。

 

「生きることに必要な最低限の機能。それ以外を全て削ぎ落とすことで、彼らは呪力に対して非常に敏感になっています。加えて、子どもたちは感情に率直です。彼らならばきっと、『祝福』をその身に受ける日もそう遠くないでしょう」

「………アナタは、いつから…」

「彼らにこの施術をしたのは、おおよそ一ヶ月前になります。その前の子どもたちは皆、自死を選んでしまいました。ちゃんと毎日、栄養剤をあげていたのですが…」

 

 それは、つまり。

 

 乙骨が学校で勉強をしている時も、友達と一緒に昼食を食べている時も、天内に呪術を教えて貰っていた時も、自室で眠りについていた時も。ずっとずっとずっと、ここで子供達が苦しんでいたということに他ならなくて。

 

 気づけば、乙骨は体育座りで蹲っていた。静かに涙を流す彼をよそに、ボンドルドは部屋の奥へと歩き始めた。

 

「そうそう、君には是非見てもらいたいものがあります」

「……」

 

 乙骨の横を通り過ぎて、部屋の奥に消えたボンドルド。その後ろ姿を乙骨はただぼんやりと見つめていた。滲むような涙が、乙骨の目尻から延々と零れ続けている。今は、それを拭う気にもなれなかった。

 

 やがて、乙骨の元にボンドルドは戻って来た。彼の両手には、白いふわふわの何かが抱えられている。

 

「これがこの実験の成功例、私の娘であるリコです」

「……りこ?」

 

 乙骨はつい、顔を上げてしまった。

 

「ええ、リコですよ」

「り、こ…」

 

 白いふわふわは他の子どもたちと同じく、ボウリングボールほどのサイズをしていた。違うのはその色。剥き出しのピンク色ではなく、ふわふわの白色をしている。ついでに丸々とした両目もついていた。くりりとしたその双眸は、どこか愛嬌があって可愛らしい。

 

 ふわふわを愛おしそうに撫でながら、ボンドルドは更に言葉を続けた。

 

「彼女の祈り、色褪せることのない切なる願いに、世界が『祝福』を齎したのです。ああ、本当に素晴らしい」

 

 実に機嫌良さそうに、ボンドルドはふわふわを撫でていたその指で彼女の右目を潰した。ぶちゅり、と吹き出す鮮血。乙骨の目の前に、真っ赤なそれが滴ってくる。やがてボンドルドの足元に出来た血だまりを、乙骨は昏い瞳で見下ろした。

 

「ご覧下さい。『祝福』によって彼女の肉体が再生しています。臓器などの修復は厳しいようですが、削ぎ落としたはずの手足は問題なく生えてきています」

 

 ふわふわは、ぼこぼこと音を立てて眼球を修復していた。乙骨がふわふわを再び見上げた頃には、既に元の形を取り戻している。反転術式、確かに『祝福』と呼ぶのにこれ以上相応しいものはないだろう。

 

 つまり、ボンドルドは『祝福』を得るためだけに自身の娘を解体したのだ。

 

 その思考に至って、ようやく乙骨は正しく事実を認識できた。つい先日まで元気だった天内、父親に深い愛を抱いていた天内、その身に起きてしまったことを。

 

「ボンドルドさん…天内さんにも手を…出して………」

「ああ、()()()()()()()()()()なら心配ありませんよ。彼女は今、医務室にて五体満足で眠っています」

「え…?」

「…そうでした。ユウタは知らないのでしたね」

 

 けれど。

 

 ボンドルドは、乙骨の考える最悪を容易く乗り越える。

 

「2006年時点で、人として最初に生きていたリコは死亡しています。今活動している彼女たちは、降霊術によってリコの生前の情報を再現したものなのです」

「天内さんが…何人も……」

「ええ、どうやら降霊術は対象の生前の情報のみを降ろすもののようでして。今までに7回リコを呼び出しましたが、彼女たちの精神に特段異常は見られません。この部屋の奥にも、たくさんいるのですよ」

 

 乙骨は、もう絶句するしかなかった。

 

 実験だとか、施術だとか、そんなレベルではない。人が人としてあるのに必要な尊厳を、これでもかと言うほど踏み躙っている。

 

「そうそう。君のお友達のリコなのですが、素体に特級呪物の受肉体を使用し、その上で魂の情報のみを降ろしてみたのです」

「特級…呪物を…」

「ええ、君のリカと同じ特級です。すぐ仲良くなれるかと思いまして」

 

 一体いつから、ボンドルドは乙骨を知っていたのだろう。どこまでが、ボンドルドの掌の上なのだろう。乙骨には、もう何も分からない。

 

「受肉体に上書きされた魂の情報は、同時にその肉体の情報に干渉しました。どうにも魂と肉体には、それらに特有の対応関係があるようなのです。お陰で、少し形を整えるだけで彼女はリコとして活動出来るようになりました」

「………うぷっ」

 

 やがて、乙骨の精神に限界が来た。

 

 口から漏れる黄色い吐瀉物。それが赤色に濡れた地面を汚す。苦しい。息がうまく出来ない。四つん這いになって、乙骨はとにかく吐きに吐きまくった。

 

「おや、ユウタには刺激が強かったでしょうか? 私の研究に興味を持ってくれたのかと思い、つい喋り過ぎてしまいました」

 

 黄色一面の視界の中で、乙骨は見つけた。

 

「さあ、どうぞこれを」

 

 片手で天内を抱えながら、差し出されたボンドルドのハンカチ。

 

 乙骨はそれを取らずに、代わりに地面に落ちていた、いいや落としてしまっていたそれを拾った。ボンドルドが不思議そうに首を傾げる。

 

「おやおや」

「……」

 

 乙骨が手に取ったのは、簡素な意匠の指輪であった。

 

———約束よ。里香と憂太は、大人になったら結婚するの。

 

 それは、乙骨の誕生日に祈本がくれたプレゼント。男女が契りを成した婚約の証。大人になったら結婚するのだと、乙骨と祈本は指切りをしたのだ。あの時の彼女の顔を、彼女の表情を、乙骨は今だって忘れていない。

 

 何せ。その直近に、祈本は轢かれて呪いに成ったのだから。

 

「…里香ちゃん」

『なぁに?』

 

 乙骨は、婚約指輪を左手の薬指に嵌めた。

 

 彼は、もう何もかもが分からなくなっていた。自分たちを愛してくれたボンドルド、子どもたちを踏み躙ったボンドルド。どちらが本当なのか、どちらが嘘なのか、それともどちらとも本当なのか。乙骨には理解出来ない。理解を拒んでいるのではなく、真の意味で理解が不可能なのだ。

 

 今の乙骨がボンドルドに抱いているのは、怒気でも軽蔑でもない。理解出来ないものに対する恐怖だけ。この世界に怪物が潜んでいるとすれば、きっとこういうものを言うのだろう。ただひたすらに恐ろしかった。その精神性が、ただひたすらに悍ましかった。人としての本能的な恐怖が、乙骨の心を満たし尽くしていた。

 

 だから、乙骨はもう縋るしかなかった。

 

「お願い、助けて」

 

 溢れた乙骨の懇願。

 

 その直後に、莫大な呪力の奔流が『前線基地(イドフロント)』全体に震撼した。




あとがきという名の補足

◯天内理子の素体となった特級呪物について。
降霊中に抵抗される可能性も考えて、天内の素体にボンドルドは呪胎九相図3番を使用しました。天内が術式を使えたのは、ボンドルドにとっても予想外の出来事でした。
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