黎明廻戦   作:鯖のごった煮

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第八話 特級過呪怨霊『祈本里香』

 『前線基地(イドフロント)』下層の一室。無数のガラスケースが並んでいたそこは、今や天井に大穴を開けられていた。ガラスケースこそ割れていないが、床には大小様々な瓦礫が落ちている。爆発か何かでも起きたかのような光景が、そこには広がっていた。

 

『あか、どこ? あお、どこ? どこぉぉぉ???』

 

 部屋の中心には、これらの残骸を生み出した張本人である祈本が浮かんでいる。彼女の両手は何かを包み込んでおり、時折それを強く握り締めていた。ぎしぎしという金属音からして、握っているものは中々頑丈なのだろう。

 

 乙骨は、彼女の姿をへたり込んだまま見上げていた。

 

「里香ちゃん…」

 

 今祈本の手の内にあるのは、他でもないボンドルドの肢体である。

 

 乙骨が祈本を呼び出した直後、彼女は天井を突き破りつつも両手で彼を攫った。おにぎりでも握るかのようにボンドルドを包み込んだ祈本は、それからずっと彼を両手で圧迫し続けているのだ。満面の笑みで、心底楽しそうに。

 

「……どうしよう、どう…すれば」

 

 祈本の手つきには、明らかな殺意が宿っていた。

 

 恐らくは、乙骨を苦しませたボンドルドに怒りを抱いているのだろう。あんな姿になっていても祈本が乙骨のことを愛しているのは、この4年間で嫌というほど思い知っている。彼女が、乙骨を害する人間に異常な敵意を向けることも。

 

 今の所、祈本の両手からボンドルドの血が滴って来る様子はない。けれど、それも時間の問題だ。今も尚、着実にボンドルドの体はひしゃげ続けているに違いない。

 

「……」

 

 思わず祈本に伸ばしてしまった右手を、乙骨はゆっくりと引っ込めた。

 

 衝動的に祈本に助けを呼んだ乙骨は、しかしボンドルドに殺意を抱き切れずにいた。肉塊になった子どもたち、天内だったものの成れの果てを見せられて、それでもボンドルドを心の底から憎むことが出来なかった。

 

———さあユウタ、一緒に行きましょう。

 

 つい思い返してしまうのは、乙骨が『前線基地(イドフロント)』に来てからの一年間。

 

 この一年で、乙骨は色々なものを得ることが出来た。呪術だけではない。友達、自信、居場所。数え切れないものをボンドルドから貰って、そのどれもが今の乙骨にかけがえのないものだ。ボンドルドは、乙骨にとっての命の恩人と言っても過言ではない。

 

 けれど、ボンドルドが子どもたちで実験をしていたことは紛れもない真実で。

 

「分からない、分からないよ……!」

 

 頭を抱えて、乙骨は少し俯いた。

 

 祈本に加担すれば、恩人殺しに手を貸すことになる。かといって祈本を止めれば、ボンドルドはこれからも子どもを犠牲にし続ける。どちらも嫌だ。だから選べない。だが選ばなければ、祈本はいずれボンドルドの息の根を止めてしまう。

 

 難解が過ぎる二者択一。それに乙骨は迷いに迷いに迷って、くしゃくしゃと髪を掻き毟った。そして涙で濡れた顔のまま、ゆっくりと顔を上げていく。

 

 その先で、乙骨は見た。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』」

 

 祈本の両手の内から放たれた光の刃。際限なく伸びるそれが、瞬く間に彼女の手のひらを切り裂いた。重厚に思われた祈本の手が、まるで薄紙か何かのようにほどけていく、千切れていく。その異常な火力、輝度に、乙骨はただ息を呑むことしか出来ない。

 

 やがて両腕の拘束から脱したボンドルドは、軽やかに地面へと着地した。

 

「ああ、なんと素晴らしい」

『い゙だい! い゙だいぃ…!!』

 

 両手を広げ、ボンドルドは感慨深げな声を漏らした。彼の背後では、手首から先を失った祈本が泣き喚いている。

 

 彼女の泣き声を聞いて、乙骨は思わず立ち上がっていた。

 

「里香ちゃん!!」

「安心して下さい。呪霊は人間と違い、治癒に高度な反転術式を要しません。リカの腕もきっと、すぐに元通りになりますよ」

『あ゙ぁぁぁぁ…』

「……アナタは、なんで」

 

 乙骨とて、祈本の傷がいずれ回復するであろうことは分かっている。分かっているが、人として、感情として、祈本をつい案じてしまうのだ。ボンドルドのように、平然としていることなど到底出来ない。

 

 しばらく中空でのたうち回っていた祈本は、やがてボンドルドの方へと視線を向けた。

 

『あぁ……あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!』

 

 正に狂気そのものの振る舞いで、祈本がボンドルドに腕を叩きつける。血潮の満ちる手首の断面を、力強く彼へと振るわんとする。無防備に喰らえば致命傷は必至だ。

 

「おっと」

 

 ボンドルドの動きは的確だった。

 

 上空から振るわれる暴力の嵐、それをゆったりとしたステップで躱し続けている。一歩間違えてしまえばぐちゃぐちゃの肉塊になりかねないというのに、ボンドルドの足取りに迷いはなかった。祈本を、見事に翻弄し続けている。

 

『も゙っと! も゙っと! も゙っとお゙おお゙!!』

「これはこれは、ごきげんですね」

 

 祈本が腕を叩きつける度に部屋全体が揺れ、床に大きなひび割れが生じる。腕がない状態でこの威力だ。未だボンドルドが生きていることが、乙骨には俄かに信じられなかった。流石は特級術師と言うべきだろうか。

 

 幾度か祈本の打撃を躱したボンドルドは、いつの間にやら乙骨の前まで来ていた。床は既に蜘蛛の目だらけ。ガラスケース、ひいてはその中の子どもたちが傷ついていないのが奇跡的だった。

 

 けれどボンドルドの足元には、彼の手から溢れ落ちていた天内がいて。

 

「ぇ」

 

 ごりり、という何かが削れる音。

 

 彼女のつぶらな瞳、その片方が跡形もなくひしゃげた。真っ赤な血が噴き出して、乙骨の顔にべたりと付着する。天内は悲鳴も上げる間もなかった。

 

「おやおや。リコ、大丈夫で——」

『も゙っと』

 

 横合いから放たれた祈本の右腕が、ボンドルドの身体を部屋の外まで弾き飛ばした。黒ずくめの彼の姿が、『前線基地(イドフロント)』の廊下の壁に沈み込む。

 

 乙骨の傍には、血塗れの天内のみが残された。

 

 彼女の肉体は今も再生を続けている。失ったはずの眼球がぼこぼこと形成され、ふわふわの体毛さえ生え始めていた。ボンドルドの研究成果、反転術式の会得。その有り様を、また乙骨は目の当たりにした。

 

「……」

 

 しばらくして、ほとんど元通りのふわふわの姿を取り戻した天内。彼女に付いたままの血を乙骨は屈んで拭った。それから部屋の外のボンドルドへと向き直り、ゆらりと一歩足を前へと進めた。

 

 彼の両手は、既に強く握り締められている。

 

『憂太、アイツ嫌い?』

「…分からない」

 

 一歩、一歩、ガラスケースを通り過ぎて、乙骨はボンドルドへと近づいていく。彼の背後に引っ付きながら追従する祈本は、にんまりと口を歪めていた。

 

「けど、もう耐えられないんだ」

 

 言葉と共に、乙骨は勢い良く駆け出した。

 

「いやはや、驚異的な破壊力です。なんと素晴らしい」

 

 余裕げに賛辞を述べるボンドルドは、乙骨が部屋を飛び出すや否や彼から見て左へと距離を取った。直後に祈本の一撃によってひしゃげていた壁が全壊する。瓦礫やら鉄パイプやらが一挙に廊下へと散らばった。

 

 咄嗟に急ブレーキを決め、左に方向転換した乙骨。彼はまず廊下に転がっていた鉄パイプを蹴り飛ばした。乱回転する金属塊がボンドルドに迫る。

 

 軽率に距離を詰めない。かつてボンドルドとの稽古で乙骨が学んだこと。

 

「ああ、なんと健気でかわいらしい」

 

 飛んで来た鉄パイプをボンドルドは右手で受け止め、追撃の乙骨の拳も左で掴み取った。こちらの意図を理解し、賞賛し、その上で全て防御する。その所作は冷静そのもの。まるで隙が伺えない。一朝一夕では埋まらない実力の差が、彼我の間には存在していた。

 

 だが、それは相手が乙骨だけであった時の話だ。

 

『ゆゔだ!!』

 

 祈本の巨腕が、ボンドルドの胴体に命中した。咄嗟に彼は右腕で防御を取ったようだが、腕一本で彼女の攻撃が殺せる訳もない。結果としてボンドルドは5m以上吹き飛ばされることとなった。

 

 ぼろぼろに歪んだ右手をちらりと見遣って、ボンドルドは嬉しそうな声を漏らした。

 

「見事な連携です。ユウタとリカは仲良しなのですね」

 

 ボンドルドの言葉を乙骨は努めて無視した。右手に刀代わりの鉄パイプを携えて、彼は無言でボンドルドの元へと走り続ける。まともに聞いてしまえば、きっと乙骨は今のこの気持ちを見失ってしまう。この地獄から一刻も早く抜け出すために、乙骨は鉄パイプを躊躇なく振りかぶった。

 

「素晴らしい」

 

 鉄パイプを一撃、二撃、そして乙骨の背後から祈本が一撃。

 

 その全てをボンドルドは紙一重で回避した。滑らかな動き。乙骨も元より、こんな攻撃でボンドルドが止められるとは思っていない。

 

「里香ちゃん、床!!」

『ゔぅん゙!!!』

 

 乙骨の言葉を受けて、祈本は地面に両腕を叩きつけた。

 

 『前線基地(イドフロント)』全体が揺れかねないレベルの衝撃。ボンドルドは体勢を僅かに崩し、乙骨に至っては片膝すらついていた。この震動では、まともに歩くことすらままならない。

 

 だから乙骨は片膝をついたまま、両手で彼の右足に呪力で強化した鉄パイプを突き刺した。

 

「なんと…」

 

 思わず乙骨を見てしまうボンドルド。無防備な彼の土手っ腹に、再び祈本の巨腕が振るわれた。

 

 ボンドルドの身体が大きく吹き飛び、今度は『前線基地(イドフロント)』の壁に激突した。『前線基地(イドフロント)』は円状であるため、基本的に部屋や廊下の構成もそれに沿うような形になっている。故に今回のように直線状に吹き飛ばされたとしても、壁に衝突してしまう場合があるのだ。

 

 壁に五体を預けるボンドルドの姿を睥睨しながら、乙骨はゆったりと立ち上がった。

 

「…パイプに、血が」

『りか、あかすきぃ』

 

 乙骨の手には、ボンドルドに刺していた鉄パイプの一部が残っていた。彼はそれを構え直し、油断なくボンドルドへと距離を詰めていく。

 

「純粋な呪力の強化で、私の『暁に至る天蓋』を貫くとは。素晴らしい、素晴らしい…!」

 

 喜色満面といった様子で乙骨たちへの賞賛を続けるボンドルド。右手を潰され、全身を砕かれ、右足を鉄パイプで貫かれ、それでも彼の態度は変わらない。嬉しそうに、楽しそうに、ボンドルドはずっと手を広げている。その様が、乙骨はひたすらに怖ろしかった。

 

 動け、とにかく動き続けなければ。乙骨は走り続ける勢いのまま、上から下に鉄パイプの一閃を放った。

 

「おやおや、お元気ですね」

 

 ボンドルドは乙骨の攻撃を身を捻り回避した。そのまま彼はじりじりと後退。再び『前線基地(イドフロント)』の一室へと入っていった。

 

「行くしかないか……」

 

 刹那の逡巡の後、乙骨はすぐさまボンドルドの入った部屋に侵入した。

 

 そこは先ほどのガラスケースの部屋に比べれば、随分と開けた場所であった。普段乙骨が呪術の稽古をしている大広間と比肩するサイズだ。天井は祈本の背丈の1.3倍くらい。部屋の隅には布の被せられた機械類が幾つか置いてあった。

 

 部屋の中央では、ボンドルドが相も変わらず手を広げ続けている。

 

「さあ。ここでなら君のリカも、私の傑作も存分に試せます」

 

 言葉と共に、ボンドルドの両肘に異様な光が帯び始める。『枢機へ還す光(スパラグモス)』、祈本の両手を抵抗なく切り刻んだ光剣。あの悍ましい呪力の奔流は、小柄な乙骨はまだしも巨体の祈本が避けられるとは思えない。最悪胴体を両断されて、そのまま絶命してしまう。呪いとしての彼女、それすらも失ってしまう可能性がある。

 

 それだけは、乙骨は絶対に嫌だった。

 

「『枢機へ(スパラ)——」

「待って!」

 

 故に、選択肢は一つ。

 

 乙骨は叫びながら、ボンドルドにがばりと抱きついた。呪力で腕力を極限まで強化して、ボンドルドの両腕を押さえ込む。そもそも『枢機へ還す光(スパラグモス)』を振り回せないようにする。きりきりとボンドルドの外装が軋む音。彼はすぐ下の乙骨の顔を見遣って、こきりと首を傾げた。

 

「どうしたのですか、ユウタ?」

 

 ボンドルドの疑問、それを無視して乙骨は大声を上げた。

 

「里香ちゃん、頭!!」

『ゆゔだあ゙!!!』

 

 祈本の右腕。未だ手首から先がないそれが、ボンドルドのI字仮面に突き刺さった。緩みそうになる両腕の拘束を、乙骨は必死に強く保ち続ける。

 

 先ほどからずっと、ボンドルドは外傷を何ら気にしていないように乙骨は感じていた。全身をずたぼろにされて、今も平生通りに動き回っているのがいい証拠だ。少々痛めつけた程度ではきっとボンドルドは止まらない。ともすれば四肢を寸断されたとしても、平然と戦闘を続行して来るような凄みすらある。

 

 ボンドルドを止めるには、もう殺すしかない。その方法しか、今の乙骨には思いつかない。

 

「な、んと…すば、ら、ぶ」

「…ッ!」

 

 ごりごりとボンドルドの首の肉が引き千切れる。首の装甲、その隙間から血が溢れ滴っていく。生物らしい真紅の血液が、ボンドルドの黒衣を、乙骨の頭頂部を汚していた。

 

 恩人の生の瀬戸際に、乙骨は思わず歯軋りをしてしまっていた。得も言われぬ情動がずっと乙骨の内側でとぐろを巻いている。不思議なことに吐き気はもう引いていて、口の中は喉の奥まで乾ききっていた。

 

「ぁ」

 

 やがて、ごきりと。

 

 ボンドルドの首、そこの大事な部分が壊れた音がした。乙骨が呆けた声を上げた次の瞬間、祈本の腕にボンドルドの顔が持っていかれる。完全に、ボンドルドの首は捥げてしまった。

 

 ころころと転がるI字仮面。首なしの黒衣から力が抜けていく。目を見開いたままの乙骨の手の内から、彼の体はするりと溢れ落ちた。辺り一面にボンドルドの血が撒き散らされてしまって、そこは今や完全に血の海だ。I字仮面には、もう紫の光は灯っていない。

 

 たった今。ボンドルドの肉体は、確かに生命活動を停止した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『前線基地(イドフロント)』下層の一室。他と比べ大きく開けたそこには、荒い息を吐く乙骨がいた。

 

「はぁ…はぁ……」

 

 今の乙骨は呼吸をすることすら労力を要していた。息がしんどい、胸がどうしようもなく苦しかった。

 

 彼の足元には、ボンドルドだったものの死体が転がっている。祈本はもう乙骨の内に引っ込んでいた。そこに残っているのは、光のないI字仮面と首から先がない黒装束だけ。むせ返るような鉄の匂いが、乙骨の鼻腔を満たし尽くしていた。

 

「ボンドルド、さん」

 

 返事は来ない。

 

 ボンドルドは、本当に死んでしまったのだ。その事実を、ずっと乙骨には受け入れられないでいた。乙骨は殺しにかかった張本人であるというのに、ボンドルドが息絶えたという実感があまりに薄い。

 

 彼の態度は、最後の最後まで余裕があった。死に際まで乙骨たちの賞賛を辞めなかったのだから、その底知れなさが伺えるというものだろう。ともすれば、今この瞬間に何事もなかったように立ち上がってくるやもしれない。それが否定出来ないだけの振る舞いを、今までのボンドルドはしてきていたのだ。

 

 乙骨はひたすらに、眼下の黒い死体を見つめていた。目を離せなかった。視界から彼を外した瞬間に、首なしのままで起き上がって来そうで恐ろしかった。

 

「……血が、こんなにたくさん」

 

 乙骨の様子は、茫然自失そのものであった。

 

 あの地獄ような空間から逃げ出す。そのために乙骨は動き続けていた。とにかくボンドルドを何とかしたかった。天内や子どもたちがここで苦しみ続けていたという過去を、乙骨は全て振り切ってしまいたかったのだ。

 

 けれど、乙骨は曲がりなりとはいえ、それを成し遂げてしまった。

 

 考えなければいけない、これからの未来の話を。乙骨がどう生きるのか。人間として、呪術師として、ボンドルドの死にどう向き合うのか。

 

 暗い顔でボンドルドの死体を見つめる乙骨。彼は背後に一つ、高い声を聞いた。

 

「ボンドルド!!」

 

 その声の主を、乙骨は知っている。

 

 天内理子。乙骨の友達で、ボンドルドの娘。そして、他ならぬボンドルドの実験の被験体。7回に及ぶ降霊の内の一つ。今の乙骨は、天内をまともに見れる気がしなかった。

 

 乙骨の内心など露知らず、天内は一直線にボンドルドの元へと駆け寄った。

 

「ボンドルド! ボンドルドっ!!」

 

 乙骨の眼前で天内が蹲り、首なしの黒衣に呼びかける。必死に叫んでいる。ゆさゆさと揺れるボンドルドの肢体には、生き物としての重さはもうない。

 

 乙骨は、ボンドルドと天内から目を離せられなかった。ざらざらとした舌の感触が痛い。自分が殺してしまった命、否定してしまった存在。その重みが、深く乙骨の腹に沈み込む。もう後戻りは出来ないのだと、乙骨は理解した。してしまった。

 

「なんで! なんでまた……!!」

 

 天内は、ボンドルドの身体を抱きながら泣いていた。ぽたぽたと黒衣に涙が落ちる。不安定に揺れる彼女の肩は、乙骨にはひどく小さく見えていた。

 

 蹲る彼女の姿を見て、乙骨は何も掛ける言葉が見つからない。いいや、そもそも言葉を掛ける権利すら存在しない。実の父を殺した人間の言葉など、一体誰が聞きたいのだろうか。乾ききった乙骨の舌は、何も言葉を発することが出来なくなっていた。

 

 そのまましばらく、乙骨は天内と一緒にボンドルドの死体を見つめていた。見つめながら、ふと気づいたことがあった。

 

「……?」

 

 ボンドルドと天内、彼らの背後に一人の『祈手(アンブラハンズ)』が立っている。

 

 大柄の白い外套を纏った『祈手(アンブラハンズ)』。いつの間にやらそこに立っていたその存在は、無言でボンドルドらを見つめていた。気配がまるで感じられない。何だか不気味であった。

 

 やがて白い『祈手(アンブラハンズ)』が、ボンドルドの頭へと手を伸ばす。

 

「な、にを……」

 

 思わず乙骨は掠れた声を出した。しかし既に、『祈手(アンブラハンズ)』はI字仮面に手を掛けている。

 

 『祈手(アンブラハンズ)』は何故か、ボンドルドの仮面を強引に引き剥がした。光の宿っていないそれを、自身の仮面と付け替える。からんと転がる『祈手(アンブラハンズ)』の仮面。そしてどういう仕組みなのか、再び『祈手(アンブラハンズ)』に付けられたI字仮面が紫色に輝き始めた。

 

 天内は、『祈手(アンブラハンズ)』の方へと顔を向けた。涙の垂れる顔のまま、彼女はゆっくりと立ち上がる。その表情には疑問と、僅かな喜色が混じっていた。

 

「ぼ、ん、どるど?」

 

 舌足らずな天内の言葉。同時に、『祈手(アンブラハンズ)』の白い外套がぶちぶちと破れていく。

 

「ええ。パパですよ、リコ」

 

 白衣の中から現れたのは、乙骨も見慣れた黒ずくめの姿。背部から尻尾こそ生えているが、紛れもなくボンドルドだ。死んだ、乙骨が殺したはずの男が、目の前に再び現れた。有り得ない、おかしい。そう理性が否定しても、彼の振る舞い、口調はかつてのボンドルドと相違なくて。

 

「ボンドルド!! 良かった、良かった…!!」

「どこにも行ったりなんてしません」

「……」

 

 黙りこくる乙骨の眼前で、ボンドルドと天内が抱擁する。厚く厚く、互いの温度を共有している。死んだはずのボンドルドが、死んだはずの天内と抱き合っている。彼らの姿は、いっそ神秘的ですらあった。この光景を素直に喜べたなら、乙骨はどれだけ幸せだったのだろう。

 

「言ったでしょう。あなたの愛があれば、私は不滅です」

 

 言葉と共に天内を抱き上げたボンドルドは、微笑む彼女の側頭部を指で一突きした。

 

 落ちる天内の意識。すうすうと寝息すら立て始めた彼女を、ボンドルドは器用に左手で抱えた。乙骨と同じぐらい背の少女を、いとも容易く支えている。それどころか彼は、優しく彼女の身体を揺らしてすらいた。

 

「さて、ユウタ」

 

 そしてこちらを向いたI字仮面。乙骨の方へと好奇の視線が向けられる。腕の内の天内(ともだち)のことなど気にすることなく、一心にこちらを見つめ始める。その視線はまるで、つい先ほどまでふわふわの天内に向けたものにも似ていて。

 

 乙骨の行動は、半ば反射的なものだった。

 

「里香ちゃん!!!!」

 

 乙骨の声に応じて、瞬時に祈本が彼の足元から這い出てくる。彼女は満面の笑みで、ボンドルドへと両腕を振りかぶった。狙っているのはその頭部。巨大な祈本の双腕は、一撃で大地を揺るがすほどの威力を内包している。

 

 天内を抱えているボンドルドは、祈本の攻撃を躱すことなど不可能だ。1秒後にはもう、ボンドルドの首はまたへし折れてしまうに違いない。

 

 けれど、次の瞬間。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』」

『あ゙』

 

 乙骨には、何が起きたか理解が出来なかった。

 

 ただ結果として、祈本の両腕が斬り落とされた。電車一両ほどはある彼女の両腕が呆気なく落下する。どしりと地面が振動。肩から先の肉を失った祈本は、ぶるぶると小刻みに震え続けている。その姿には、もう先ほどまでの覇気はなかった。

 

「君たちは本当に素晴らしい。お陰でリコの愛、祈りがより深いものとなりました。君とならばきっと、越えられない夜などないはずです」

『い゙だぃ、ぃだい゙ぃぃ……』

「……まだ、まだあっ!!」

 

 乙骨の右手には、未だ鉄パイプが握られていた。

 

 己が身に滾る激情に身を任せて、乙骨は一直線に駆け出した。向かう先には、当然ボンドルドの元。戦略はいらない、理性はいらない。乙骨は勢いのまま、鉄パイプをボンドルドに振るって。

 

「素晴らしい」

「ぶ」

 

 いつの間にやら、乙骨の右頰をボンドルドの尻尾が打っていた。乙骨は瞬きすらしていなかったのに、気づけばボンドルドは彼の右前に立っていた。速過ぎる。初動すら見えなかった。これではまるで瞬間移動だ。乙骨では、目で追うことすら叶わない。

 

 吹き飛ばされ、床にごろごろと転がった乙骨は、けれどすぐに立ち上がった。小さく腫れた頰を左手で押さえながら、乙骨はボンドルドの元へと走り出す。

 

 彼の双眸は、とうの昔に正気を失っていた。

 

「うわああああ!!!」

 

 突貫する乙骨に、ボンドルドは動こうとすらしなかった。

 

「『明星へ登る(ギャングウェイ)』」

「ぃ゙っ」

 

 ボンドルドのI字仮面。そこに満ちる紫の光が弾ける。床、壁に反射し乙骨に殺到した光の魔弾は、瞬く間に彼の全身を斬り刻んだ。

 

 全身から血を撒き散らしながら、乙骨は地面に倒れ伏した。

 

「ぼ、んドル、ドさん!!」

 

 真上で輝く紫のI字仮面に乙骨が叫んだ。自身の血の池に沈む彼は、しかしまだ戦意に満ち満ちているようだった。そもそもボンドルドには殺意がない。『明星へ登る(ギャングウェイ)』は乙骨の足の脛や二の腕などのみを傷つけていた。全て掠り傷、着実に乙骨の機動力のみを殺している。

 

 ボンドルドは這い蹲る乙骨の前まで歩みを進め、屈んで彼に右手を差し伸べた。

 

「さあユウタ、一緒に行きましょう」

 

 全身の呪具からまばらな呪力を垂れ流しながら、ボンドルドはいつかのように提案した。乙骨がここまで拒絶して、一度殺害までしたというのに。ボンドルドは何故か生き返って、その上でこちらに歩み寄ってくる。親しげに、まるで気の置けない仲であるかのように。

 

「な、んで…なんで、僕なんだ……!?」

 

 思わず溢れた疑問の言葉は、ひどくか細く震えていた。

 

「ユウタ、君は特別なのですよ」

 

 ボンドルドは、空いている右手のみを大きく広げた。

 

「あなたはリカとの深い精神性の繋がり…いわば愛慕によって、とめどない『呪い』をその身に受けた、この国で唯一の生体なのです」

「……ッ!!」

 

 呪霊に取り憑かれた人間というのは、どこにだって一定数いるものだ。

 

 けれど、乙骨のそれは何もかもが異常だった。特級過呪怨霊、祈本里香。彼女の身には底なしの呪力が満ちている。つまりは、限界が存在しないのだ。それはある種の永久機関。彼女の使いようによっては、最強と謳われるあの五条悟にすら比肩し得るやもしれない。

 

 勿論、これには血筋(さいのう)による影響も考えられる。何せ、被呪者である乙骨憂太は菅原道真の子孫であるのだから。だが、そうであってもあの呪力は異常が過ぎる。根拠としては力不足と言えた。

 

 ボンドルドには、祈本についてとある推測があった。

 

 即ち、乙骨と生前の祈本の間で何らかの契り、要するに『縛り』が結ばれたという可能性。当人間での自覚はない内に、その深い愛が他者間の『縛り』として結実したというなら辻褄は合う。そうだとしても、具体的な『縛り』の内容については想像するしかないが。

 

 何にせよ、今は対象の経過観察が肝要だ。ボンドルドは、未だこちらを睨む乙骨を見下ろした。

 

「そんなに拗ねないで下さい、ユウタ。部屋に戻って、少し休まれてはいかがでしょう?」

「アナタ……何を、言って!」

 

 痰混じりの声で叫ぶ乙骨。彼の頭に、素早くボンドルドの尻尾が振り下ろされる。視界に星が散ったような錯覚。乙骨の身体から、どんどん力が失われていく。

 

「…か、ぁ」

「さあユウタ、どうぞゆっくりとお眠り下さい」

 

 ボンドルドの穏やかな言葉。それを最後に、乙骨の意識は暗転した。




あとがきという名の補足

◯ボンドルドの声帯について
本作のボンドルドは他者の意識の乗っ取りに伴って、その対象の声帯がボンドルドの精神に引っ張られる形で彼本人の声質のものに近づいています。つまりボンドルドは、みんなほとんど同じ声です。
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