承の部・開幕。
第玖夜 ユメハザマー邂逅
ピシャ ン
耳元で響いた水音と、僅かに香る桃の華のような匂いで、炭治郎の意識は浮上した。
すぐそばに誰かの匂いがする。
匂いは三つ。
ひとつは善逸。
ひとつは伊之助。
最後のひとつは知らない匂いだ。
「 い、 お ・・・い 」
閉じた瞼の向こうから、何か聞こえる。
「おきろー」
何か、ではない。
聞き覚えはないが、誰かの声だ。
「なかなか目を覚まさないな・・・ なんか失敗したか? いや そんな筈は・・・」
ぶつぶつと唸るその声に、瞼をそっと開けると、暗闇の中にひとりの青年が浮かび上がった。
「お、目を覚ましたな?」
目を覚ましたばかりで、まだ頭の中がぼんやりと霞むようだ。
青年の顔が、青白いを通り越してもはや真っ白に見える。
「ふー、お前だけでも目を覚ましてくれてよかった。ようやく話ができる」
青年は気の抜けたため息とともに肩を落とした。相変わらずその顔の上半分は真っ白だ。額の左右に
ぱちり。
まばたきひとつ。
・・・・・・つの?
ぱちり。
もうひとつ。
『つの』。
ぱちぱち
『角』のある ひと。
「・・・・・・」
炭治郎は目を閉じた。
「ん? 寝た?」
頭上から青年の声がする。
炭治郎は目を閉じたまま『角のある人』の事をぼんやり考えた。何故角があるのか。そもそも人間に角なんて生えていないよな。
もし、生えているとしたら・・・
鬼!
その認識のもと、カッと目を見開き刀を振る。
漆黒の刃が左下から右上へ、正確に青年の頸を捕らえ通り過ぎる。
「うお!?」
しかし 斬ったと思ったその手応えはまるで霞の如く。当の青年までも煙のようにゆらゆらと実態も失く揺らめくばかりだった。
「はっ? ッ」
斬り損ねた!
悟るや否や 瞬時に距離を取る。
バシャ ン!
その拍子に響いた大きな水音。
そんな気配も感覚もなかったが、周囲を見渡せば足元一面に広がる水。深さは
けれどいくら水繁吹が掛かろうと まるで濡れる感覚がしなかった。それどころか冷たさも 温かさも 温度すらも感じない。
「おぉー 怖っ」
青年の声に慌てて視線を戻せば、ゆらゆらと輪郭をなくしていた彼が 元の形に戻っていく所だった。
「寝起きで
そうして頸を
真っ白。
目の前の彼を見て 真っ先に抱いた印象はそれだ。闇夜に在って なお青白く浮き上がって見える、絹のような上製の白がそう印象付けているのだろう。
そして顔の上半分の目元を覆う、額の左右に角のある白い仮面。昨夜見た物とは形が違うみたいだ。あの人の仮面の角は、額の真ん中にひとつだけではなかっただろうか。
見かけだけはそっくりだが、口調も雰囲気も、あの人とは全然違う。 別の人だ。
炭治郎は 汗ばむ手で日輪刀を握り直しながら、これまでの記憶を手繰り寄せた。
あの一ツ角の仮面の青い人から逃げ出したあの後、表通りからは蔭になった裏路地に、3人は使われてなさそうな空き家を見つけた。
そこで夜が明けて・・・それで疲労が来たのか、急に眠くなって 伊之助が真っ先に大の字に寝っ転がって そのままその空き家で一旦仮眠をとる事になったのだった。
まさか、あの眠気は血鬼術だったのか ?
背筋にサーッと冷たいものが走る。完全に油断していた。
脳裏に過ぎるのは 一月前のあの列車での出来事。
もし また鬼によって眠らされてしまっているのなら、すぐに起きなければ。
どうすれば起きられる?
あの時と同じように、自分の頸を斬らなければ ならないのだろうか?
それとも別の方法か?
だとすればこの『夢』から覚めるにはどうすればいい?
「あ? いや、まあそれはそうだろうが すべての人が、お前みたいに避けられるとか思うなよ?」
こちらの警戒を余所に、目の前の白い青年は、誰もいない空間に向かって何やらぼやき始めた。そこには緊張感の欠片も見当たらない。
一体 誰と話をしているんだ?
何の匂いも感じられないからわからない。目の前のこの青年も、見た目の印象は鮮やかなのに、生きていると云うには随分 希薄で、現実味が感じられなかった。
ふわ
焦る炭治郎の視界を横切るように、一匹の蝶が目の前を過ぎる。
蝶は、淡く青白い灯りの軌跡を振り撒きながら ふわふわと舞い上がり それを目で追いかけて気が付いた周囲の光景に、炭治郎は目を輝かせた。
「わ」
それは幻想的な光景だった。
幾千もの星々が輝く満天の星空。
青白い蝶が その只中へ吸い込まれるように飛んで行く。よく見ると青白く輝く星々は蝶の形をしていて、羽ばたく度に青白い燐光を振りまいていた。
視線を地上へと動かせば、見渡す限りの水面は空の
水平線の向こうに薄らと残る黄昏の残り香が、その世界の美しさを一層引き立てている。
クスクスと含み笑う声に気が付いて、炭治郎は慌てて視線を青年に戻した。仮面の青年が何か悪戯でも成功したように楽しそうに笑っている。
よく見れば彼の周りでは、はらはらと薄紅色の
その薄紅色の舞い落ちるのを追いかけて 青年の足元に青ざめた。
善逸と伊之助が倒れている。
「善逸! 伊之助!」
そこではたと気が付く。
炭治郎は、彼の師匠に作ってもらった箱を背負っていなかった。
中に入っている筈の
「お前、一体 妹を 禰豆子を何処にやった! それから! ふたりに何をしたんだ!」
焦りと憤りで声を荒げる炭治郎。
対する青年は相変わらず緊張感の欠片もない。少し首を傾げ、青年は目を瞬いた。
「妹・・・? まさか箱の中のか? 何で連れてるのか不思議だったが、妹だったのか」
知っていて、離された・・・!
全身の血が沸騰する。
「お前っ!」
刀を振りかぶる。漆黒の刀は鞘に入ったままの青年の刀で受け止められた。
「まてまて、悪かった。そう
「大丈夫って・・・!」
青年は炭治郎の刀を軽く受け流すと、お互いの間合いの外側まで距離を取った。
パシャパシャと水音が響く。
とりあえず善逸と伊之助を青年から離す事はできた。炭治郎は密かに息を吐いてその場で刀を正眼に構える。
一方 距離を取って離れた青年は、刀を抜かずに腰へ戻してしまった。
仮面に覆われてしまっていて見た目で表情が読み取りにくい。炭治郎は匂いを嗅いだ。
やっぱり薄い。
それでも集中して鼻を利かせ、ようやく感情を嗅ぎ取る事ができた。
ちょっとした呆れと、何かを考えている匂い そして・・・何だか困っている匂いがする。
「むしろ自分たちの心配をしろ。でないとあの子を悲しませる事になるぞ 独りにさせたくないから、箱の中に入れてまで一緒にいるんだろう?」
そこまでを諭すように言って ふっと、白い青年が息をついた。
「まぁ 心配させて悪かったな・・・ 少しばかり話がしたかったんだ」
そして困ったように頰を掻く。
「話・・・?」
ぽつりと炭治郎が反応すると、パッと青年の顔が綻んで頷いた。
「おう、お前たち3人に頼み事だ。本当はそっちのふたりと合わせて喚んだんだが、見ての通り目を覚ましてくれなくてな。 後で事情を説明してやってもらえると助かる」
炭治郎は再び匂いを嗅いだ。
相変わらず ほんのりと桃の華の香りがする。その匂いを嗅ぎ分けて、ようやく不安とほんの少しの期待の匂いを嗅ぎ取った。
何かを企む匂いはしない。
この人は本当に、俺たちと話がしたくて でも俺以外目を覚ましてくれなくて 不安だったんだ。それでようやく話ができると期待して、ホッとしてくれている。
「お話を伺います」
炭治郎は刀を納めた。
胸をなでおろす匂いが強くなる。いや、匂いを嗅ぐまでもなかった。青年の顔が仮面越しでも判るほどに嬉しそうな色に染まる。
「実は折り入って其方と取引がしたいのだ、少年」
早速話し始めた青年を遮って、炭治郎は自分の胸をドンッと力強く叩いた。
この人の話を聞くのは良いけれど、まだお互いに 肝心な事を明かしていない。
「俺は竈門炭治郎です!」
ムン、と口を引き結ぶ。
話をするなら、まずは自己紹介が必要だと思う。
青年は目を瞬かせた。
「そうか。自分は あ〜・・・好きに呼んでくれ」
「はい?」
思わず聞き返す。途中までは名乗り返してくれそうな雰囲気だったのに、一瞬で切り替えられた。
「訳あって名乗れんのだ」
青年が気まずそうに頭を掻いている。
「それでな、少年」
青年がそのまま話しを再開ようとしたので、炭治郎は再びムン、と口を引き結んだ。
ドン
「炭治郎です!」
再び自分の胸を叩いて名乗りを上げる。
名乗ったのに名乗り返さないのは失礼じゃないだろうか。
流石の青年も、呆気に取られてしまった。しかしそこは年の功か。気を取り直すのも早かった。
「少ね 」
ドン
「炭治郎です!」
「あのな」
ドン
「炭治郎です!」
「おぃ 」
ドン
「炭治郎でふっ 」
「聞けよ! こっちの話を!」
頬を左右に引っ張られた!
とても痛い!
というか速い!
全く見えなかったぞ!
それどころか空気が振れる感覚も無かった。急に目の前に現れたみたいだ。
仮面の青年が手を離して腰に手を当てる。掴まれていた炭治郎の頰が じんじんと痛みを訴えた。
「周り、見ただろ?」
「は い・・・」
頬を撫りながら頷く。いきなり話を変えられ困惑してしまう。青年からは何故か怒っているような匂いがした。
「ここは、あの世とこの世の境、狭間と言ったら良いか」
「はざま」
あの世とこの世の。
思わず
炭治郎の戸惑いを余所に、白い青年は腕を組んで話を続ける。
「そして自分は、この狭間に棲まう者。お前らの言う『鬼』ではないが まあ似たような化生の類と思ってくれていい」
化生。
怪。
取り敢えず、そう納得する事にした。
「既に名乗ってしまったもんは仕様が無いが、今のお前は そのバケモンの類に名前を握られた状態にある」
青年の琥珀色の瞳と目が合う。何故か据わって見えた。
「自分の為す事には対価が必要なんだ。その中身の取り決めもせず、こんなところで迂闊に名を呼んでみろ。下手すりゃ魂ごと縛り付けた上に、その自由の一切を奪い取ることになるんだぞ そんな重いもん 受け取れるか!」
そして途中から何だかぼやかれた気がする。しかも必死だ。 おまけにビシッと指まで差された。
「だから自分は、今はまだ名乗る気は無いし、名を呼ぶ事もできない わかったか?」
最後は念押しで締め括られた。当然のように指を差されたままである。
人を指差したら失礼じゃないだろうか。
名乗らないし、人を指差すし・・・変な人だなぁ。
いや 待てよ?
そこで はたと気が付いた もしこれが鬼だったら如何なっていただろうか。
例えば名前を知ることで発動できる血鬼術の類があるとしたら?
迂闊に名前を名乗るのは危険行為になり得る。
炭治郎は身震いとともに固まった。 たらり、と こめかみを汗が伝う。
そう考えれば、さっき名乗りを上げた事はとても
気を付けよ!
「・・・わかりました」
つまりこの人(?)は、炭治郎が大変な事にならないように してくれているらしい。それは判ったのだけれど・・・これから色々と話をしようと言うのに、やっぱり名前が分からないのはどうなんだろう。
「でも、不便なので適当に呼ばせていただきます」
炭治郎の申し出に、仮面の奥の琥珀色の瞳が瞬きする。
「頑なだな まあ それくらいなら構わんが・・・」
やっと青年に頷いてもらえた。
さっきの話の流れから、この人の名前はどうあっても教えてくれないらしい。教えて貰えない物は呼ぶ事ができない。下手に名前を付ける事もできないだろう ならば、呼び名はひとつだ。
炭治郎は声を張り上げた。
「それでは名無しの権兵衛さん!」
ブフゥッ!!
目の前の青年が吹き出した。
続く爆笑。
「そんな呼び方する奴 本当にいるんだな・・・! ッ ハラ痛ぇ!」
何だか解らないがすごく笑われてしまった。腹まで抱えている。 幾ら何でもちょっと笑いすぎじゃないだろうか 頬が少しだけ火照ってきた。
流石にちょっとムッとしてきたぞ。
「好きに呼べって言ったのは貴方ですよ!」
「いや、わるっ そうだな。はは、駄目だツボった・・・ククク」
まだ笑ってる。そんなにおかしな呼び方だとは思わなかったんだけどな・・・
本当に、何故笑われてしまったのか全く訳が解らない。
話しかける度に笑われてしまうのも困るなぁ・・・そうだ。
「ではナナシさん!」
「んー ふふ・・・ まぁ それでいいや」
まだ若干笑い止まない青年、改め ナナシ。
「ナナシさん!」
「うん」
やっと返事をしてくれた!
ちょっと感動・・・じゃない。
「さっき、此処はあの世とこの世の境って言いましたか・・・?」
喋りながらだんだん心が沈んできた。
「おう、そこか。 そうだな」
「じゃあ俺たち 死んでしまったんですか? 今は、三途の川へ向かう途中なんでしょうか・・・?」
さっきこの人は、禰豆子は大丈夫だと言ってくれたけど、炭治郎含めここにいる3人の安否については何も言っていない。3人の命の保証はされていないのだ。
鬼殺隊として剣を振るう以上、死ぬ覚悟はしてきたつもりだけれど、知らない間にあの世とこの世の間の世界に迷い込み、今 生死の境を彷徨っている。なんて無念なんだろう。
ーーー禰豆子を悲しませる事になってしまった。独りだけ、取り残して・・・
じわりと視界が滲む。
「ああぁぁぁ 違う! それは違うぞ! あれだ 幽体離脱! 幽体離脱みたいなものだ!」
ナナシがオロオロと慌てる。匂いを嗅ぐまでもなく大げさに取り乱され、彼の両手があちらこちらとばたばた彷徨った。
あまりの慌て振りに、炭治郎の涙も思わず引っ込んでいってしまった。
「だから死んじゃいないし、 話が終わったら必ず帰す! 約束するから その・・・そう落ち込んでくれるな」
ふわっ と、冷んやりとした手が炭治郎の頭を撫でた。おっかなびっくりとした手付きだった。
「信じられないだろうか」
さらに困ったように首を傾げられる。もし仮面の下の素顔が見れたなら、彼の眉は八の字に下げられているのだろうか。
炭治郎はゆっくりと首を振った。
「いいえ、信じます」
この人の匂いは希薄だけど、この短い間で炭治郎たちの事を考えてくれているのはしっかりと嗅ぎとる事ができた。悪い人ではないのだろう。
頭を撫でてくれるのは ちょっと照れ臭いけれど、何だか落ち着く感じがする。さっきまで頭をもたげていた 恐怖も焦燥も解けていくようだ。
「ありがとな」
ナナシがふわりと微笑んだ。
もし、彼にもっとはっきりとした匂いがあるのなら、今はしとしととした水の香りがするのだろうか。それとも、何処からか舞い降り続けるこの薄紅色の
炭治郎には目の前にいるナナシの匂いが判らない事を、ひどく寂しく感じた。頭を離れて行った彼の手さえも惜しく感じる。
目で追いかけていたその手が、内緒話でもするように人差し指を立てられ、ゆっくりとナナシ本人の口元へ運ばれていく
「では、本題だ」
その一言で空間がキリ、と凍りつくような錯覚を覚えた。
さっきナナシは自分の事を『化生の類』だと言っていたが、そんな生やさしいものじゃない気がした。
もっと それこそ、あの時現れた上弦のような
「ある鬼の頸を取るのを手伝って欲しい」
【 鬼 】
炭治郎は気を引き締めた。
「その鬼は厄介な能力を携えて、ある時からこの地に居座っている。地上にのさばる躰を如何にかせぬ限り、本体の頸が斬れぬ仕組みだ。逃げ足も速い」
さっきまでの雰囲気とはまるで別人だ。口調も違う。舞い落ちる薄紅色の花弁も、凍てついた白銀の雪片に変わっている。
ナナシの琥珀色の瞳が、時折 キラリと金色に輝いて見えた。
「既に契約を交わした専門家を遣っているが、どうも厄介な事に 手が足りぬ。
そこで其方らにも手伝って欲しいと云う訳なのだが、幾度も同じ契約を結ぶのでは 何が起こるか判らぬゆえ。 此方の都合で済まぬが、先に遣った専門家との契約を補強する形にする」
ごくりと息を飲んだ。
他にも誰か鬼殺隊の人がこの任務に当たっているらしい。脳裏に昨夜の任務の光景が浮かぶ。
森の中の任務だったのに、鬼の術らしきものに囚われて、気付けば見知らぬ街の 何処かの路地。
そして襲いかかる数多の鬼。
あれらの他に、まだいるのか。
そこでナナシはフッと微笑んで相好を崩した。
「なぁに、お前さんらにとっては何時も通りさ。何時もの通り、サクッと鬼退治してくれりゃあ問題ない。それが契約への対価って奴になってる。しっかり手順を踏めば、契約の対価は多少の融通が効くんだよ」
口調も戻り、さっきまでの気配が和らいだ。白い雪片も元の薄紅色の花弁に戻っている。知らず息を詰めていた炭治郎も 釣られて肩の力を抜いた。
「ま、今回の事はこっちの方が無茶を言う側だからな。どうやら無事 あいつに目をつけられたようだし、すぐに見つけてもらえるだろ。そうなりゃ頸をとるまでの間の衣食住と身の安全は保証する。広い風呂もあるし、飯は美味いし まあ、ひょっとしたら働けと言われるかも知れんが・・・そこはすまん」
すっかり最初の調子に戻って、ナナシがこれからの事を話してくれる。『あいつ』の事が誰かは分からないが、聞く限りでは待遇は悪くなさそうだ。むしろ至れり尽くせりで、まるで藤の花の家のようだ。
「・・・協力 してもらえるだろうか?」
「もちろん、やります!」
はっきりとした返事。しかし炭治郎は次いで首を傾げた。眉尻が下がる。
「でも・・・」
そう、けれど。
さっきの話の最後の方。何故か降って湧いた謝罪の言葉。
「働くの嫌いなんですか?」
ブフゥ!!
突然吹き出す第三者の声に、ビクッと肩が跳ね上がる。
目の前にいるナナシではない。姿の見えない声が、さっきのナナシよろしく 堪えきれず笑い出した。そんな感じだ。
むすっと不機嫌な顔になったナナシが、誰もいない空間に向かってジト目で睨みつけた。
「おまえ 笑いすぎだぞ」
“ いやあ 見抜かれちまったなぁって思ってよ? ”
さっきと違うのは 姿の無いこの声だ。耳触りの好い青年の声が
「えっと、声が聞こえますけど・・・ 誰かいるんですか?」
炭治郎がおずおずと声を掛けると、ナナシが驚いた目をこちらに向けた。 同時にもうひとつの笑い声も途絶える。
「・・・ああ、さっき名乗ったせいだな。そのうち会えるから、今はほっとけ」
” そりゃあねぇぜ、ぁむぐっ ”
「馬鹿 お前、今それで呼ぶな!」
ナナシが振り返って自分の口元と同じ高さの宙で手を重ねた。そこに声の主がいるらしい。口を押さえられているらしく、モゴモゴとくぐもった声が聞こえる。
「そちらの方のお名前も 聞けないんですか?」
「此処ではな っと」
ナナシが炭治郎の足元 正確には、伊之助の方に視線を落とした。それを追って炭治郎も視線を落とすと、ちょうど伊之助が消える瞬間をバッチリ見てしまった。伊之助がいた場所に波紋が広がる。
「伊之助!?」
「目が覚めたんだろう 今頃お前たちが見つけた寝床で、ちゃんと目を覚ましているさ」
落ち着き払った声で ナナシが教えてくれた。
そこで今度は善逸が同じように波紋を残して消える。
ナナシの手が炭治郎の髪に触れる。
「お前も眠れ。そうすれば現世で目が覚める」
琥珀色の瞳が、炭治郎を覗き込む。優しい色だった。
その目を見ていると、くらりと視界がぼやけた。
瞼が重くなっていく。
徐々に白んでいく視界の先 ふと、ナナシが何かに気付いて驚いたように目を丸くした。
そしてすぐにその顔が悲しげに、ひどく痛そうに歪む。
どうしたんですか?
そう口にしようとしたが、もう言葉を発する事もままならない程の酷い眠気が炭治郎の意識を覆っている。
そうだ、におい・・・
せめて匂いで嗅ぎ分けようと試みる。
その時にはもう目を開けていられなくて、完全に目を閉じた瞼の闇の向こう
「ッ ・・・すまぬ」
幽かに 確かに。
かなしみの においがする
ナナシの声とともに 心に灼き付いた。
ピシャ ン
「おい起きろ、権八郎!」
快活な友の声で、炭治郎は目を覚ました。
炭治郎の視点が難しかった・・・!
帝都コソコソ噂話:旅の途中で出会うもの