自分ほどに不幸な人間もそうそういないだろうなと、今日ほど強く思ったこともないかもしれない。
自分以外の全人類、不幸になってしまえと、事務所への道すがら心の中で呪いの言葉を吐いていた。そのくらいは、許してもらいたいものだ。
周りに目をやると、スーツを着た大人、制服を着た学生、様々な人が目についた。みんなこれから家に帰るのだろう。最近はまだ日が短いのか、辺りはオレンジ色に染まろうとしていた。
羨ましいことである。
周りの人々はこれから帰宅するというのに、自分は事務所に向かわねばならない。少し前、忌々しい緑のアシスタントから、話があるからなるべく早く帰るようにと催促のメールを頂戴したばかりだった。実に気が滅入る。話など明日にするか、それこそメールでまとめればいいだろうに。
今日はついていない。まあ、自分がついていた日があったのかと問われれば、そんなことはないと言わざるを得ないけれど、今日は特にだ。
電車は止まる、財布は落とす、先輩に代わって挨拶に向かったテレビ局では何かトラブルが起こったのか門前払い。おまけに悪魔からのお呼び出しときた。厄日だろう、こんなものは。
特に最後が一番怖い。前もって要件も伝えずにただ呼び出すとは、きっとろくでもない案件に違いない。あの性悪女め、いったいどんな面倒事を押し付けるつもりだ。なんて、正面切っては口が裂けても言えないのだが。
そんなことを考えているうちに思い出したが、テレビ局の件、先輩にどう報告したものか・・・。
遠目から見た限りだが、なにやら少女が平謝りしていたようだった。収録で機材のトラブルが起こったのかと思ったが、結局あれはなんだったのだろう。おかげでこちらの予定が狂ってしまったが、あの少女を責める気にもならない。逆恨みは酷く醜いものだ。というか、自分の不幸に巻き込んだ可能性まであって罪悪感すら浮かんでくる。
昔から運が悪かった。非常に。
傘を持てば晴れ、横断歩道ではいつも赤信号に切り替わり、すんでのところでエレベーターの扉が閉まるなんてことはよくあることだ。植木鉢が頭上から降ってくるなんて漫画みたいなこともあった。
そして今日もそうだ。まったくもってついていない。こんな日に残業だなんて、なんたる不幸か。
あれに恨み言を言われるもの癪に障るので、少しでも早く戻りたいところだ。
やや急ぎ足で歩いていると、公園が見えてきた。ここ通れば多少の近道にはなりそうだ。いっそ自販機でコーヒーでも買って一息つきたいところではあるが、そんなことをしていたらどんな目に合わされるかわかったものではない。
そう思い公園に入り、そのまま突っ切ろうとしたところで、ふと立ち止まった。
「あれは・・・・」
少女だった。
ベンチに腰掛けて、どこか悲しそうしていた。
見覚えがある。確か、さっきテレビ局で見た子だったはずだ。穏やかな感じではなかったし、もしかして仕事のことで周りに何か言われたりしたのだろうか。
いちいち気にかける義理などない。が、こちらが一方的に知っているだけとはいえ、このまま放っておくのも気分がよくない。
少し声をかけるくらいなら・・・・。いや、待て。スーツを着た怪しい大人が公園で少女に声をかけている図というのは、もしかしなくても通報ものなのではないか。
そこまで思い至ったところで、嫌な汗が出てきた。危ないところだった、これは事案だ。早まらなくてよかった、警察のお世話になんてなりたくない。
失敗することなどいくらでもある、それもまた人生経験と言えるだろう。それにここで余計な気を使っても彼女を驚かせるだけだ。
早々に立ち去ろうと少女の前を通り過ぎようとしたところで、またしても足が止まった。
「ぐすっ・・・・」
泣いていた。ぐすぐすと涙をこぼして、とても悲しそうに泣いていた。
ああ、無理だ。
自分にはとても、このまま素通りする度胸などない。少しの間考えて、おもむろにスマートフォンを取り出した。
――思わぬトラブルに見舞われた。悪いが話とやらは明日以降にしてくれ。
まあ、あれにはこんなものでいいだろう。さっと書き込んでメールを送信して、少女のもとへと近寄った。
「こんなところで、何を泣いている?」
「え・・・?」
少女は驚いて顔を上にあげた。
こうして間近で見てみたが、思っていたより少女はずっと幼かった。どう見ても高校生には見えないので中学生くらいだろうか。その顔はまだ幼さが残っていて、困惑している様子だった。
まあそうもなる。向こうからしてみれば突然見知らぬスーツを着た大人に話しかけられたのだから、当然の反応だろう。
声をかけたはいいが、どうしたものか。コミュニケーション能力に乏しいくせに慣れないことをするものではない。
ここからどう言葉を繋げたものかと考えていると、思いがけず少女の方から切り出してきた。
「・・・・・・ちょっとだけ、つらいことがあって」
律儀にも先ほどの質問への返事だった。大した度胸である。ただ、その声は沈んでいて、明らかに落ち込んでいた。
「それは、テレビ局でのことで?」
「どうして、それを・・・・・・?」
もっともな疑問だ。これ以上変に怪しまれないためにも、身分は明かしておいたほうがいいかもしれない。
「芸能プロダクションのプロデューサーをしているんだ・・・・一応。君のことは、さっき遠目からだったが見ていた」
「そうだったんですか・・・・・・でも違うんです。つらいのは、収録のことじゃなくて」
てっきりさっきのことかと思っていたのだが、どうやら他に理由があるらしい。少女は先ほどよりも悲しそうに、今にも溢れそうなくらい目に涙を溜めて、言葉を続けた。
「私、アイドルじゃなくなっちゃいました」
「・・・・・・」
言葉が出なかった。
この子はアイドルだったらしい。あの場にいたことも納得だ。しかし、アイドルではなくなったとはどういうことだ。
「・・・・それは、どうして?」
「実は、暗い話で申し訳ないのですが・・・・・・」
見た目にそぐわない丁寧な言葉づかいで、少女は躊躇った様子を見せながらも、ぽつぽつと語った。
「今まで私が所属したプロダクション、全部倒産してるんです。前のも、その前のも・・・・・・」
とんでもないことを言い出したなと思った。
プロダクションが倒産?前のも、その前のも?
混乱のさなかで、畳みかけるように少女は続けて言った。
「今回のプロダクションでは、お仕事をもらえて・・・・・・。売れっ子さんのバーターの出演でしたが、それでもいけるかなって思ったんですけど・・・・・・やっぱりダメで」
「・・・・・・」
「その人は、私なんかと組みたくなったらしくて・・・・・・。プロダクションの人からは、大きな仕事がなくなったのは私のせいだって言われて・・・・・・」
なんだ、それは。
「いつもそうなんです。事故とか、アクシデントが、私のせいでたくさん起きて・・・・・・」
もう少女は泣いていなかった。代わりに、自嘲するように笑っていた。
段々と、なんとも言えない感情がふつふつと沸いてきているがわかった。少なくとも、気分のいいものではないのは確かだった。
「私なんかがアイドルを目指したら、ダメだったんですね」
「ダメじゃない」
反射的に、そう答えていた。
それに驚いたのか少女は目を丸くしたが、すぐに否定の言葉を返した。
「ダメですよ・・・・・・。私は人を不幸にしちゃうんです。呪われてるんです。そんな人は、アイドルにはなれないんです。きっと」
「そんなことはない」
力強く、彼女の言葉を否定した。そんなこと、絶対に認めない。
「アイドルに、なりたくないか?」
まっすぐに少女の目を見て、そう問いかけた。
少女は呆けたようにぽかんとこちらを見ていたが、言葉の意味をすぐに理解したようだった。
「そんな・・・・・・スカウトですか?」
「そのつもりだ」
少女は言葉に詰まったように押し黙ったが、すぐに慌てて言った。
「私はもうアイドルになれません!私は疫病神なんです。関わったら、あなたも、あなたのプロダクションも不幸になるかもしれないんですよ」
優しい子だ。泣きたいくらいにつらいのに、他人を気遣うことができる。放っておけないのも道理だろう、まるで鏡を見ているような気分だった。
こうして話をして思い出したが、以前、疫病神のようなアイドルがいるという噂を耳にしたことがある。関わるとろくなことにならない、近寄らない方がいいと。
今まで、どれだけつらい目にあってきたのだろう。アイドルを夢見て、所属したプロダクションが潰れて、そのたびに泣いて、また繰り返して。
私なんかがアイドルを目指したら、ダメだったんですねと言っていた。ずっと、そうやって自分を呪ってきたのだろうか。
不幸だからといって、幸せになってはいけないなんて、そんな馬鹿な話があってたまるものか。
「幸せに、なりたくないか」
「幸せに・・・・・・。アイドルの、私に・・・・・・」
見るからに彼女は迷っていた。アイドルになりたいという強い思いと、これ以上周りを自分の不幸に巻き込みたくないという気持ちがせめぎあっている。
胸の内にまだ燻っているものがあるのなら、その背中を押すのがプロデューサーの仕事だろう。
最後の一押しのために、彼女の目を見て、その名前を呼んだ。
「なろう、白菊ほたる。幸せに。一緒に」
彼女に向かって手の伸ばす。
彼女は再び涙を流し、震えながらも、それでも手をつかんだ。
「・・・・な、なりたい・・・・・・です・・・・・・!」
頼りなくて、小さい手だ。この手を放すことなく、彼女が自身を誇れるアイドルにしてみせる。このスズランのような少女を前に、そう思った。