事務所の外では冷たい風が吹いていて、体に震えが走った。
隣にいる彼女と柔軟運動をしながら、薄着で来たのは失敗だったかもしれないなと、少し後悔した。
「白菊、今日は少し冷える。念入りにやっておこう」
そう言うと、白菊はどこか嬉しそうに頷いた。
「レッスンできる環境があるだけで・・・・・・恵まれていると感じます。今日は走り込みをするんですよね?」
「そうだ」
聞くところによれば、今までまともにレッスンしたことがほとんどないとか。いったいどんな環境でやってきたんだ。
頑張ります、そういってやる気を見せる白菊。レッスンとは名ばかりで、実際はただのランニングなわけではあるが、それだけでも彼女には十分なようだった。健気なことだ、本当に。
いざ出発と意気込んでいた白菊だったが、突然顔に影が差した。
「転んで、怪我をしないように慎重に・・・・・・」
よくわかっている。その通りだ。
しばらく走って、それなりに遠くまで来ていた。
意外と言っては失礼かもしれないが、白菊は思いのほか体力があるなと思った。もしかすると走り込みは以前から行っていたのかもしれない。なかなかやるやつだ。このひたむきさは大きな武器になる。
しかし、流石に疲労が見え始めている。
そろそろ休憩にしようかと言い出そうとしたところで、白菊は小さく悲鳴のような声を上げて転んだ。即座に受け止めて抱きかかえた。
「す、すみません。靴ひもが切れてしまったみたいで。転んじゃいました・・・・・・」
「気にするな」
「ありがとうございます・・・・・・。よくあるんです。いつものことで」
身に覚えがありすぎて物凄い親近感を感じる。
白菊は手慣れたように切れてしまった靴ひもを結び、何度か足踏みをした。
「よし。もう走れます・・・・・・行きましょう」
これくらい日常茶飯事なのだろう。まさか自力でどうにかするとは。こんなこともあろうかと常備している予備の靴ひもは不要だったようだ。
なんて感心している間に、白菊が今にも走り出しそうな雰囲気だったので呼び止めた。
「水を差すようで悪いが、少し休憩にしよう。だいぶ汗かいたろう。水分補給も大切だ」
「休んでも、いいんですか・・・・・・?」
白菊は不安そうにそう言った。
この子は今までろくにレッスンも受けることができなかった環境にいた。もしかすると、次にいつレッスンができるかわからないからこの時間を無駄にはできないと思っているのかもしれない。
「休むこともレッスンの一環だ。あそこにちょうどいい場所がある、行こう」
「じゃあ、少しだけ」
息を整えて、白菊は歩き出した。聞き分けがよくて結構。
「そうだ、せっかくだから靴ひもを取り替えよう。予備がある 」
「持ち歩いているんですね・・・・・・」
「どちらかの靴ひもが切れるだろうなとはと思っていた」
「あはは・・・・・・」
「良い笑顔だ」
これ以上ない苦笑いだった。
「ほら、タオルと水だ。チョコレートもあるぞ」
「あ、ありがとうございます・・・・・・」
「それと体を冷やさないようこの上着も着るといい」
「あの、いったいそれをどこから・・・・・・」
「気にするな」
「えぇ・・・・・・」
白菊は困惑したように声を漏らした。なんのためについてきていると思っているんだ。
腰掛けて、チョコレートをかじろうと包みを開いていると、白菊が何か見つけたようだ。
「あ・・・・・・きれいなお花」
つられて彼女が見ている方向を見てみると、一輪だけ花が咲いていた。白い花だった。
植物について別段その道に明るいわけではないので、これがなんという花であるのかは全くわからなかったけれど、確かに、きれいな花だと思った。
それを見て、白菊が嬉しそうにしていた。
「どうした?」
「ふふ・・・・・・ちょっぴりいいこと、ありました」
「・・・・・そうか」
しばらくの間、二人でそれを眺めていた。
予想していたよりも早く時間で事務所へとたどり着いた。白菊が走るペースを上げたせいだろう。まるで水を得た魚のようだった。
「到着、ですね・・・・・・」
「ああ、よく走り切った」
苦しそうにしながらも、白菊の表情は明るかった。
無理をしないようにと伝えたのだが、ああも楽しそうにされてはこちらも付き合うしかないだろう。息も絶え絶えだというのに、今だって笑顔だ。
「今日はありがとうございました・・・・・・。やっぱり不幸なことが起きちゃいましたけど・・・・・・ちょっぴりいいこともありました。それに、何よりもレッスンを始められたことが私としてはいちばん嬉しかったです」
「これから嫌というほど受けてもらうことになる。覚悟しておくことだ」
「はい」
そう脅すように白菊に言っても、望むところだと言わんばかりの顔をしている。
「これからも、よろしくお願いします」
「ああ。気を付けて帰るんだぞ。特に頭上の植木鉢には要注意だ」
「そうですね。あれは本当に危ないので・・・・・・あ、そういえば」
「どうした?」
植木鉢という単語を聞いて微妙な顔をしていた白菊だったが、突然何かを思い出したらしい。
「あの、いまさらなんですが、今日はどうしてプロデューサーさんも一緒に走り込みを・・・・・・?」
「気にするな。プロデューサーだからな」
「えぇ・・・・・・」
白菊がまたしても困惑したように声を漏らした。というか引いていた。
「そんなことより。前もって伝えていた通り、明日は宣材撮影がある。夜更かししないで早めに休むように」
「あ、はい。わかりました・・・・・・」
どこか釈然としない様子の白菊だったが、気にせず送り出した。
「さて・・・・・・」
白菊を見送って、その姿が見えなくなってから事務所の中へと向かう。
明日は宣材撮影だ。
どんな不幸が起こるかわかったものではない。念入りに準備をして万事に備えなければ。
そうだ、不幸といえば、今日はそこまででもなかったような気がする。白菊ともども河川敷で足を滑らせて転げ落ちるくらいのことはあってもおかしくはないはずなのだが。
これは明日も多少は期待していいだろうか。以前は機材が突然火を噴いたりしていたが、今度は大丈夫かもしれない。
気分よく扉を潜ると、目の前にはにっこりと笑顔を浮かべる緑の悪魔がいた。
「こんにちは、プロデューサーさん」
「・・・・・・・」
驚愕のあまり言葉を失った。
なぜ、こいつがこんなところにいる。