「白菊、準備はできたか」
「は、はい。いつでも大丈夫、です」
「よし、では出発しよう」
二人で車に乗り込む。
昨日は酷い目にあったが、特に支障はないので安心した。ほぼ万全と言っていい。しかし、宣材撮影においてプロデューサーの状態が良かろうが悪かろうが、そのことに意味はない。
バックミラーに目をやると、そわそわとしている白菊の姿が映った。表情が硬く、先ほども声が上ずっていた。緊張しているのだ。このまま撮影をしたらろくな結果にならないだろうなと思うくらいには。
「白菊」
「は、はい!到着ですか!?」
「落ち着け、まだ向かってすらいない」
思った以上に緊張しているようだ。心なしか白菊の目がぐるぐるしているように見える。
「まだ時間はある。ゆっくりと気持ちを整えよう。これを飲むといい」
「は、はい・・・・・・」
白菊に暖かいココアを差し出し、それと同じものを自分も飲む。二人してしばらく無言ですする。
飲み終わる頃には多少落ち着いたようで、ましな顔つきになっていた。
「白菊、今日は乗り越えなければならない壁がいくつかある」
「壁・・・・・・機材の故障とか、ですか・・・・・・?」
「そうだな、それもある」
よくわかっている。
「いきなりカメラが燃え始めても慌てるなよ」
「はい・・・・・・はい?」
「例えばの話だ。深く考えなくていい」
「そ、そうですよね・・・・・・」
白菊は胸をなでおろした。実際過去に起こったことがあるというのは伏せておいた方がいいだろう。
「二つ目に、現場までの道のりだ。渋滞で足を取られるという大変な危険が待ち受けている」
「確かにそうですね・・・・・・」
「最悪、時間までにたどり着けないということも考えた方がいいだろう。しかし安心してくれ、既に手は打ってある」
「何か良い方法が・・・・・?」
「ああ。今回の担当とは顔見知りでな、定刻を過ぎても姿を見せなかった場合、別日に撮り直しできるよう話をつけてある」
こんな日にピンポイントで渋滞に捕まり仕事に遅れるなんて冗談みたいな話だが、十二分に考えられることだ。車内にはお世辞にも運が良いとは言えない人間が二人、つまり不幸パワーは二倍だ。侮るなんてとんでもない。
「とは言ってもそれは最悪の場合だ。渋滞に捕まることを前提に、こうしてかなり早めに向かっている」
「そう、ですね。これなら、大丈夫かも・・・・・・」
「ああ。だからあまり気にするな。それよりももっと他に気にすべきことがある」
「それが三つ目の壁、ですか・・・・・?」
「そうだ」
機材不良や渋滞が実際に起こったとしても、どちらもどうしようもないことだ。気にしても仕方ないので、どこかで昼食でも取って帰ればいい。言ってしまえば些事、どちらも大した問題ではないのである。
そんなことよりも、今後を左右する重要なことがある。そればかりは避けて通れない壁が。
「最後に三つ目、これが最も大変だ。それは・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・プロデューサーさん?」
「・・・・・いや、やっぱりまだやめておこう。なに、今にわかる」
「えぇ・・・・・・」
別に隠す必要なんてないし、既に答えも出ているようなものではあるが、できるならそれは白菊自身で気づき、そして乗り越えてほしい。きっとそれがそのまま白菊の力になるはずだ。
訝しむ白菊にチョコレートを与えることで誤魔化し、車を進める。
なんにせよ、まずは安全に現地までたどり着くことからだ。安全第一である。事故など意地でも起こさないと決意して、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
などと言っていたのもつい先ほどの話である。
普通に到着した。
行く先々で工事や渋滞に見舞われ、右往左往した挙句エンストを起こし事務所に救援要請、千川にまたあなたですかと言われるところまで覚悟していたのだが、それらは全て杞憂で終わった。
「着いたな。普通に」
「は、はい・・・・・・」
つい二人して首を傾げてしまったのも仕方ないだろう。拍子抜けもいいところだ。
当然ではあるが何か起こってほしかったわけではないし、何事もないに越したことはないのだが、あまりにあっけないので何か手痛いしっぺ返しがくるのではないかと戦々恐々としている。
白菊も警戒しているのか、辺りをきょろきょろと見渡している。まさか日にちを間違えたかと確認する。ふむ、間違ってない。
全力で疑ってかかる、悲しい習性だ。
「ちゃんと場所は合っていますね・・・・・・」
白菊と同じように同名で場所が違うのではと思ったのだが、そんなこともない。ここには何度か訪れたことがあるので間違いはない。
「どうにも腑に落ちないが、まあ、何も起こらないで済むのならそれが一番いい」
「そう、ですね・・・・・・」
有事に備えて手を打つ、何事もなければそれでいい。それまでの準備が無駄になったとは思わない。
幸先の良いスタートを切れたと言えるだろう。しかし、白菊の表情は暗い。どこか落ち込んでいるようにも見える。
「・・・・・・ぷ、プロデューサーさん」
「どうした?」
「今日は宣材撮影ですよね・・・・・」
「ああ、そうだな」
「あの・・・・・・すみません」
突然の謝罪に、流石に困惑した。
なんだ、どうした。まさか帰るなんて言い出さないだろうな。
「なぜ謝る?」
「・・・・前に撮影した時は、機材トラブルでダメになってしまって・・・・・・今日も同じように、みなさんに迷惑をかけてしまうかもしれないので・・・・・すみません・・・・・・」
申し訳なさそうに、白菊はそう言った。
なるほど、そういうことか。
今までの境遇を考えると、そうやってネガティブになってしまうのも無理はないのかもしれない。出発前の質問に機材の故障を真っ先に挙げたのもそれが理由だろう。だが、それは大きな間違いであると言わねばなるまい。
「現場でのトラブルはつきもので、それはお前が気に病むことじゃない。そもそも、まだ何も起こっていないだろう」
「でも・・・・・・」
「お前の気持ちもわかる。他人のせいだと思えないのならそれでもいい。だが、どうしても自分の責任であるというのであれば、お前はこう思うべきだ。『また私の可愛さに耐えきれず機材が壊れてしまったわ!私の可愛さ故に!』と」
「えぇ・・・・・・」
この頃、白菊のこういう反応も見慣れてしまった。なんとなく癖になる。とはいえこちらも別にふざけて言っているわけではない。
「あまりネガティブに考えすぎるなということだ。不幸なんて、案外考え方次第でどうにでもなる」
「考え方、次第で・・・・・・」
「そうだ。だから謝るなら、私が可愛くてすみませんと言うんだ。わかったか?」
「すみません、それはちょっと・・・・・・」
すすっと距離を置いて割と本気の拒否の姿勢を見せている。
まだ駆け出しとはいえアイドルの端くれであるのだから、それくらいの気概を見せてほしいものだ。あんなことを大真面目に言ってのけるやつもいるのだから。
これは近いうちに、かねてより画策していた「白菊ほたるポジティブ化計画」を実行に移す必要がありそうだ。事あるごとに白菊をこれでもかと褒めちぎることで、自分に自信を持たせることが目的である。
「プロデューサーさんは、時々言うことが無茶苦茶だと思います・・・・・・」
「何を言う。お前の大好きなレッスンの一貫だぞ。嬉しいだろう」
「レッスンができるのは本当に嬉しいんですけど・・・・・・」
でもそういうことじゃないんだよなぁ、とでも言いたそうな顔をしている。レッスンにも色々な形があるのだ。別に無茶なことを言っているつもりはないが、これもプロデューサーの仕事なので潔く諦めてほしい。
「個人的におすすめなのは、不幸なことが起こる度に全人類を呪うことで道連れを増やしストレスを発散することだが、仮にもアイドルだからそれはまずいな。なにより非常に虚しい」
「自分で言っちゃうんですね・・・・・・」
言ってしまえばただの八つ当たりなので大変みっともない。
「それに比べれば自分の価値を自覚している分ましだとは思わないか?」
「た、確かに思い・・・・・・い、いえ、思いません!」
強情なやつだ。
「ち、ちひろさんから言われているんです・・・・・こういう時のプロデューサーさんのいうことは聞いちゃダメだって・・・・・・!」
「なんだと?」
初耳だが。
おのれあのろくでなしめ、白菊と妙に親しげにしているかと思えば余計なことを。
白菊が変な影響を受ける前に誤解を正さないといけない。
「白菊、千川の言うことを真に受けてはいけない。あれはみてくれこそ良いが、その実中身は褒められたものじゃない」
「で、でもとても親身になってもらって・・・・・・」
「それがやつの手口だ、人当たりの良さに騙されるな。製造元もよくわからない怪しい飲み物を押し付けてくるようなやつだ。弱みを握られたら最後、待つのは破滅だぞ」
「いやいや、それは君だけだろ」
突然の横やりに、反射的に声のした方を向いた。
会話を聞かれて少し焦ったが、見知った顔の人物がこちらに向かって歩いているのが見えて安心した。
「やあ、お二人さん。おはよう」
「なんだお前か。早いな」
「それはこっちのセリフだよ、早いなんてものじゃないじゃないか。まだ時間まで随分あるのに」
「不思議なことに何もなかったんだ。おかげで真っすぐにここまで向かってこられた・・・・・・ああそうだ、白菊、こいつは今日の撮影者だ」
気さくに話しかけてきているが、当然ながら白菊は初対面である。白菊に声を掛けると、ビクッと体を震わせた後、姿勢を正してぺこりと大きく一礼した。
「し、白菊ほたるです!今日は、よ、よろしくお願いします!」
「うん、ご丁寧にありがとう。今日の撮影を担当させて頂きます、三枝です。よろしくね、白菊さん」
「は、はい!」
ファーストコンタクトは良好なようでなにより。三枝は相手のペースに合わせられるタイプなので心配はしていなかったが。
「まだ随分と早いけど、どうする?」
「これから何が起こるともわからない。早速準備を始めたいと思うが、できるか?」
「もちろん」
三枝は得意げに肯定した。さすがプロだ。
「白菊、いけるか?」
「は、はい。大丈夫です・・・・・・」
「よし」
三人で建物の中へと移動する。
「では白菊、また後で合流しよう」
「はい」
白菊は着替える必要があるので、ここで一旦別れることになる。
驚くべくは天下の346プロ、スタイリスト等の人材をつけてくれている。
我ながら無茶な要求だったなと思う。新人アイドルにそこまでリソースは割けないと断られると思っていたが、駄目元でも言ってみるものだ。
控室のようなところに入ったのを見届けて、撮影場所へと歩き出した。
「しつこいようだけど、今日はよくここまで来られたね。まさかこんなに早いとは思わなかったから驚いたよ」
「こっちが一番驚いている。予定通りいかなくて悪かったな」
「ううん。気にすることはないよ。聞きたいこともあったから都合がいい」
「・・・・・・」
聞きたいこと。
そう聞いて黙ってしまったのは悪くないだろう。つい先日も聞いた言葉だ。警戒しながら三枝に問う。
「・・・・・何についてだ?」
「白菊さんのことについて少しね」
「プロフィールについてなら送った資料の通りだぞ」
「そうじゃないさ」
三枝は大げさに肩をすくめる。
「白菊さん、緊張していたね。あの初々しいところとか、いかにも駆け出しアイドルって感じだ。・・・・・でも、あれはそれだけじゃないだろう?」
「まあな」
「あの子の噂は多少耳にしたよ。どれもあまりいい話じゃなかったけどね」
「噂話なんて大抵はあてにならない。まあ本人が言うには、以前行った撮影が機材トラブルで駄目になったこともあるらしい」
「機材トラブルか・・・・。どこかで聞いたことのある話だなぁ」
「悪かったとは思っている・・・・が、あれは機材のメンテナンスが不十分であったことにも問題があると何度でも主張するぞ」
「はは、わかってるさ。身に染みたよ」
そんなこともあったなと、少し昔を思い出す。
撮影中、三枝のカメラが火を噴いた。二人して大慌てで消化活動して、大事には至らなかったものの撮影は結局中止になってしまった。
今でこそギリギリ笑い話で済むが、当時は事務所も巻き込んで大騒ぎになったものだ。話が肥大化しすぎて消防車まで呼ばれてしまった。実に不幸な事故だった。
「あれは本当に焦ったよ。得難い経験だった・・・・・色々な意味で」
「この建物内の消火器と消火栓の位置は全て把握して使用方法もマスターしている。次は完璧に対応できるぞ」
「勘弁してくれ、あんなのもうこりごりだよ・・・・・・」
もっともだ。
携帯を落としてろくに連絡もできなかったりあちこち走り回ってようやく見つけた消化器が不発に終わったりと、最高に不幸が重なっていた。あの時ばかりは千川も血相を変えて駆けつけたものである。
怪我や火傷の確認をしつこいくらいされたあとに本気で叱られたが、カメラが勝手に燃え出したのだから仕方ないだろう。マッチでも放って意図的に燃やしたならともかく。なんて言ったら、火に油を注いでしまいさらに激怒していたが。
「カメラなんて目じゃないくらい燃え上がっていたな、千川は」
「人だかりの中で揃って正座させられたね。いやぁ、ほんとに怖かった。まさしく烈火の如くだよ」
文字通り鬼のようであった。
次は完璧に対応できるとは言ったが、二度目は御免被りたいところである。次は説教で済む気がしない。あの時のことは未だに言われるのだ。
「ああ、そんなことを言っているうちに着いたね」
思い出話に花を咲かせている間に撮影場所まで着いた。
そう大きな建物ではないので移動に時間はかからない。白菊の着替えもそこまで大層なものではないのですぐに来るだろう。
ここに来るのも久しぶりだ。
特に変わったところはないなと思っていると、少し離れた場所に不自然に置かれたバケツを発見した。それも三つほど。
「とりあえず聞いておくが、あれはなんだ?」
「よくぞ聞いてくれた。もう機材の炎上なんてさせないとはいえ、やはり備えは必要だ。前回のように消火器が駄目になっている可能性だってある。そこで考えた。ならば先に水を用意しておけばいいとね」
「なるほど。それであのバケツか」
「そうだとも・・・・・・それに、消火器は使えばどうしたって足がつくからね。その点このバケツなら後始末さえきちんとすればバレることはない・・・・・」
前回よほどきつく言われたのか、三枝の目は虚ろだ。事故だったとはいえ、多方面に多大な迷惑をかけたのは間違いない。
だがこれで謎のバケツにも合点がいった。浅知恵であるが悪くはない。念を入れて万事に備えるというのは非常に好みのやり方だ。素晴らしい案だと褒めてやりたいくらいである。ある一点に目をつぶれば。
「とてもいい考えだとは思う。しかし三枝、一つ問題がある」
「問題?」
「この場に集う不幸パワーは、前回のおよそ二倍であるということだ。あれの周りをよく見ろ」
「周りがいったい何だって・・・・・・・あ」
それに気が付いたようで、三枝は慌ててバケツに駆け寄った。まさか道中のしわ寄せがこんな形で現れるとはな。
「み、水が漏れてる・・・・・・それも三つとも・・・・・・・」
まさに茫然自失。三枝は呆気に取られている。
「見た感じ裏の倉庫から持ってきたんだろうが、そこまで準備するなら新品を用意するべきだ」
「床が水浸しだぁ・・・・・」
三枝はがっくりと肩を落とした。
少し悪い気はするが、安心した。やはりいつも通りだ。変に勘違いするところだった。まあ、機材が近くになかったことが不幸中の幸いだろう。
「・・・・・・この予想外のところで足をすくわれる感じも久しいな。やっぱり君といると楽しいよ」
「そんな恨めしそうな目をしながら言われてもな・・・・・・」
詰めが甘いのだ。やるならば徹底的にやらねば。中途半端に手を抜くからこういうことになる。
「まったく。久しぶりの君との仕事が、まさか床掃除からとはね。色々準備しておいてよかったよ。悪いけど手伝ってもらうよ」
「ああ」
改めてバケツを近くで見たが、やはり見覚えがある。ボロボロの感じといい倉庫にあったもので間違いないだろう。まだ残っていたとは思わなかった。
手渡された雑巾で水を拭きとってはいるが、少々効率が悪い。できるだけ早くこの危険な状況をなんとかしたい。
本来の撮影開始時間を考えればそれでもおつりがくるくらいではあるのだが、この後ここに白菊が来るとなると、時間的余裕などほとんどない。
ともすれば、水で滑って頭からバケツをかぶることになるだろう。今回はささやかとはいえ衣装もあるので、なんとしても避けたい事態だ。バケツが空ならともかく、まだ中身が残っている。
白菊が来るまでに床の拭き取りは間に合わないにしても、念のためこの中身だけは早々に処理しておいた方がいいかもしれない。
「先に残った水を捨ててくることにする。もし白菊が来たらそう伝えておいてくれ」
「わかった。よろしくね」
中身の入ったバケツを三つも持つのは中々難しいので、二回に分けていく。三枝に一つ任せればいいのだが、いつ白菊が来るかわからない以上人は残した方がいいだろう。
両手に一つずつバケツを持って慎重に運ぶ。こういう時、なんてことのない段差も途端に障害物に早変わりする。世の中そこかしこに不幸の種が潜んでいて本当に困る。
足元を警戒して歩き、扉の目の前まで来たところで、バケツから水が漏れていることに気づいた。ああそうだ、穴があいているんだった。ふり返ってみると、歩いてきた場所に水が垂れている。間抜けか。
今更ではあるが、一つのバケツに水を移し替えて、重ねて運ぶべきだった。そうすれば一度で済む。バケツとの間に雑巾を詰めればなおいいだろう。人のことを詰めが甘いだなんてよく言えたものだ。三枝もこちらの様子に気づいたようだ。
「拭いておくから大丈夫だよ」
「悪い、頼んだ」
一瞬で察してくれたようで有難い。
そうして後始末を三枝に任せ、バケツの水を移し替えようと床に置いた。
片方のバケツを持ち上げて、もう片方に移し替えようとしたところで、パタパタと足音が聞こえてきた。
その瞬間、やってしまったなと自らの失敗を悟った。ここは扉の目の前、外で誰かが走ってきているというのがわかるくらいの距離だ。そして、そんな人物は一人しかいない。
急いでいるのだから、走って入ってくるのも当然だろう。少し強めに扉が開かれて、間も置かずに人が飛び込んできた。そして、その先でバケツの水を入れ替えようとしている阿呆が一人。
「お、お待たせしました!────あ」
この間の悪さ、流石は我が担当アイドルと言ったところだろうか。
白菊は瞬時に状況を察したようだったが、手遅れである。まさか扉付近に人がいるなんて思っていなかっただろう。回避などできるはずもなく、見事にぶつかった。バケツは水をぶちまけながら床を転がり、そこに白菊ごと倒れ込んだ。
「ぷ、プロデューサーさん!?」
「・・・・・・・・」
なんとか白菊を抱き抱えて、自分が仰向けになるように倒れ込んだ。白菊と衣装は無事だ。体を張った甲斐があるというものである。おかげで背中は酷いことになっているだろうが。確認したくない。
「すまない白菊、立てるか?」
「は、はい・・・・・・あ、あの、す、すみませ──」
「待て、謝るのはこっちの方だ。扉の前で作業なんてしていた方が悪い。お前は何も悪くない」
「で、でも・・・・・・」
「あー、まずはそのスーツをどうにかするべきだと思うんだけどな。後ろ側が特に酷い」
言われてつい顔をしかめた。白菊もスーツの惨状に気づいたのか、顔を青ざめている。
「あぁ、プロデューサーさんのスーツが・・・・・・」
「気にするな、問題ない」
とは言ったものの、正直背中に感じる不快な感触は耐え難いものだった。
「君も着替えた方が良さそうだ。せっかく衣装もあることだしさ」
「馬鹿も休み休み言え」
冗談ではない。
こういう時のための備えだが、残念なことに着替えは車の中である。一度戻らなければならない。衣装室で着替えの許可も取った方がいいだろう。
「車へ着替えを取りに行ってくる。片付けはその後でいいか?」
「さすがにそこで断るほど鬼じゃないよ」
「わ、私もお手伝いします!」
やる気なのは有難いことだが、白菊は先ほどの二の舞になりそうな気もするが大丈夫だろうか。
「水には近づけさせないから安心してよ」
「頼むぞ、本当に」
「気を付けます・・・・・・」
戻ってきたら今度は白菊が水たまりに倒れ伏しているなんて笑えない事態だ。
少々不安は残るが、向かうとしよう。
着替えるのに衣装室を借りた方がいいかもしれない。
先に話を通しておくため、早歩きでまっすぐに部屋へと進んでいく。
「ここだな」
あっという間に衣装室の目の前までついた。このまま勝手に入るわけにもいかないのでノックをすると、すぐに中から返事が返ってきた。
「はい、どうぞー」
「失礼します」
「あれ?プロデューサーさん?」
部屋の中には女性のスタッフらしき人物が一人待機していた。首にかけられた名札に346の文字が見える。身内のようだ。
「突然申し訳ありません。この後私が着替えをするのに部屋を使わせていただきたいのですが・・・・・・」
「着替え?」
女性はどういうことかと首を傾げ、何かに気づいてしまったように恐る恐る聞いてきた。
「・・・・・・プロデューサーさんも、衣装に着替えて撮影ですか?」
「違います」
「待たせたな」
「あれ、やけに早いな」
「色々あってな・・・・・・」
なぜか男性用の普通の私服があったので、それを頂戴してきただけである。恐ろしい勘違いをされたが、すぐに誤解を正せてなによりだ。
しかしこの服、なぜか返却は千川経由だそうだ。まさかやつの私物というわけでもあるいまいし、どうしてそうなるのか。こうなっては仕方ないので、鉢合わせないよう千川のデスクに置いておくことにしよう。
脳裏にあの恐ろしい笑顔が浮かんだが、それを振り払う。今は余分な思考だ。気を取り直して、そろそろ撮影を始めるとしよう。
「手間を取ったがようやく始められるな。白菊、準備はいいか?」
「は、はい!」
やる気は十分なようでいい返事が返ってきた。
「それじゃあ三枝、頼んだぞ」
「うん。さあ白菊さん、こっちに」
三枝に呼ばれて、見るからに白菊は緊張をした。少しは硬さも取れたかと思ったが駄目か。
「プロデューサーさん。行ってきますね・・・・・・」
「ああ、ここで見ている」
さて、ターニングポイントだ。ここでの結果によって、今後が大きく変わってくる。三枝の腕前もそうだが、全ては白菊次第である。
どこか決意すら感じさせる白菊の背中を、静かに見送った。