G-Cafeの一席で、梨々香は両肩に鉛のように重い透明な何かがのしかかっているか、そうでなければ自分の周りだけ重力が増大しているかのような息苦しさと重苦しさを感じていた。
対して、美羽はとくに何か思うところがないのか、くぁ、と小さく欠伸をすると、そのまま寝てしまいかねない勢いで机に突っ伏して、全身を伸ばしている。
猫のようだと、一瞬そんな考えが梨々香の脳裏をよぎるが、冗談で済むような場合ではないのだ。
梨々香がGBNを始めたことは、当然だが家族にも黙っている。
昼間学校にも行かず、部屋に閉じこもっているのだから、そんな身分の自分がやるべきことを放棄して遊んでいます、と宣言するようなものだから当然だ。
しかし、美羽がGBNをやっている可能性について考慮していなかったのは盲点だった。
今は特に気にしている様子はないものの、突然お説教をされたりするのだろうかと、捕食者に睨まれた小動物のようにぷるぷると震えながら梨々香は縮こまっているが、美羽としてはそんなつもりは毛頭なかった。
梨々香は優しくて繊細で、とってもキュートな子なのだ。
双子の姉としていつも隣で見守ってきたのだから、誰よりも、何なら放任主義の両親よりも知っていると美羽は自負して憚らない。
とはいえ、梨々香が高校デビューに失敗して閉じこもるようになった責任の一端は間違いなく自分にあることもまた自覚しているため、奔放に振る舞ってこそいるが、美羽もまた同様に、少しばかりの気まずさを感じているのだ。
「ん〜、ねえねえ梨々香ちゃん、何頼む〜?」
そんな気まずさを誤魔化すように、美羽はメニュー表を広げて自ら口火を切った。
恐る恐るといった調子で梨々香が覗き込んだメニュー表には、当然だが、ガンダムの劇中に出てきた料理やキャラクターをイメージしたメニューが連ねられている。
G-Cafeが、ガンダムに明るい人間のために作られている以上当然ではあるのだが、塩が足りないフライドポテトだとか、ハイネ・ヴェステンフルスをイメージしたノンアルコールカクテルだとか言われても、何が何だかわからないというのが正直なところだった。
最近はガンダムを知らない層も放課後の時間をGBNという仮想郷で過ごす、という層も増えてきたために、普通に見えるよう、写真付きでメニューを掲載しているのは運営スタッフ側の良心なのだろう。
仮にそうだとしても、今は何を食べても同じ味がしそうだ、というか味わっている暇なんてなさそうだ、というところが最大の問題点なのだが。
美羽から提示されたメニュー表と、穏やかに、眠たげな顔をしている美羽の瞳との間を、梨々香の視線が忙しなく行き来する。
「くぁ……梨々香ちゃんはどれがいい〜? 美羽ちゃんはこのガンダムホワイトソフトクリーム、ってやつがいいかなぁ……」
定番メニューでこそあるが、かつてモデルチェンジされる前のガンダムマーカーにおける白色が、あまりにも隠蔽力に欠けていたため「牛乳」呼ばわりされていた自虐ネタを盛り込んだ──ことなんて解説されなければわからないメニューを指して、にへら、と美羽は欠伸と共に小さく微笑んだ。
「……あ、えっと……私も、その……」
「おんなじやつだね〜、おっけー、店員さ〜ん」
本人だけでなく周囲も眠たくなるような甘ったるく間延びした声で、美羽は近くにいたアルバイトの店員──ムカイ・ヒナタを呼び寄せる。
「ご注文はお決まりですか?」
「えっと、このガンダムホワイトソフトクリームっていうのと〜、フライドポテトを一つ、あとはハイネ・ヴェフテンフルスの黄昏ノンアルコールカクテル二つ〜」
「はい、ガンダムホワイトソフトクリームとハイネ・ヴェフテンフルスの黄昏ノンアルコールカクテルが二つ、そしてフライドポテトが一つでよろしいですか?」
「はいはい、大丈夫ですよぉ」
「承りました。ご注文が届くまで少々お待ちください!」
ぱたぱたと受け取った注文表を手に、キッチンへと向かっていくヒナタの背中を見送りながら、美羽はくぁ、と一つ欠伸をする。
美羽も、自分でも行儀があまりよろしくないことは自覚していた。
ただ、どうしてそんなに眠いのか、とか、寝てないのか、とか訊かれても、寝ているし、なんならどうしてこんなに眠いのか自分が訊きたいぐらいなのだからどうしようもない。
そんな具合に、脳内における三大欲求の殆どが睡眠で埋め尽くされていそうな美羽だが、それでも今の梨々香が自分を警戒してる、ということぐらいはわかっていた。
「梨々香ちゃん、美羽のこと怖い?」
「……っ、そ、そんなこと……あの……」
「うんうん。気持ちはわかる……って言ったら、多分梨々香ちゃんが怒っちゃうよね……でも、美羽は気にしてないし、むしろ嬉しいんだぁ」
テーブルに置かれたお冷を指先でつんつん、とつつきながら、美羽はにへら、と朗らかな、そして梨々香とよく似ている笑みを浮かべてみせる。
だが、今度困惑するのは梨々香の番だった。
どうしていいのかわからない、といった風情に小首を傾げると、言ったものか言わないものかと、たっぷり五分ほど時間をかけて逡巡した末に、消え入りそうな声で梨々香は美羽に問いかけた。
「……そ、その。怒って、ないの……? お姉ちゃん……」
「うん、怒るどころか嬉しいよぉ」
「……嬉しい、って……だって、その、私……」
「梨々香ちゃん、頑張ってここまで来たんでしょ?」
その問いに、俯きながらもじもじと縮こまっていた梨々香は、はっとした調子で顔を上げる。
美羽は相変わらず眠たそうに微笑んでいるが、その瞳は決して曇ってなどいない。
「美羽ね、梨々香ちゃんが頑張り屋さんなのは知ってるよぉ、お姉ちゃんだから……今の梨々香ちゃんはとってもつらくて、悲しくて……でも、頑張って、ガンダムベースまで来てたんだよね? だから、そんな風にちょっとでも前向けたら、美羽ちゃんはお姉ちゃんとして嬉しいんだよ」
お説教みたいになってごめんねぇ、と小さく付け加えて、美羽はどこか、感情を持て余しているように笑った。
実際これじゃあお説教で、それが梨々香にとってはつらいことなのかもしれないし、今はそんな言葉で慰められたくない、ということも察しはついている。
だとしても、美羽にとってそれは紛れもない本心であったし、引きこもっていた梨々香が何らかの形で再起を迎えることができたのなら、よっぽど後ろ向きな──喫煙だとか飲酒だとかなら咎めていたが、そんな理由でなければ諸手を挙げて歓迎したいところなのだ。
美羽はとにかく、眠たげでこそあるがその分人より要領がいい。
梨々香は眦に涙の雫を滲ませながら、ただそんな美羽の瞳を恐る恐るといった様子で覗き込んだ。
いつだって美羽は眠たそうで、気怠げにしているのに、どれだけ頑張っても自分よりテストの成績は上で、運動だって、梨々香が並より下であることを差し引いてもよくできる方だ。
そんな美羽が梨々香の再起を喜んでくれていることに、複雑な思いがないかと訊かれれば、即座に首を横に振ることはできない。
かたや高校デビューに失敗して、部屋に閉じこもるようになった自分。
かたや何事もなく高校デビューを果たしてクラスにも馴染んでいるであろう双子の姉。
そこには、致命的な断絶が横たわっている。
だからこそ、美羽もあまりその話題には触れたがらないだろうし、今だって平然を装ってこそいるけれど、しきりにお冷に口をつけては梨々香の方を見るという奇行を繰り返している辺り、美羽も美羽で少なからず悩んでいるのだろう。
──それでも。
ぱたり、ぱたり、と、雨粒が落ちるように、頬を滑る梨々香の涙がテーブルを濡らす。
思い出すのは、ついさっきまで言葉を交わしていたマギーと、そして自分がここに足を運ぶようになったチャンピオンの言葉。
──なれるとも。クジョウ・キョウヤには誰でもなれる。
したくてやっていることに遠慮されたり、謝られるよりは、ごめんなさいよりはありがとうの方が嬉しいと、マギーは確かにそう言っていた。
そして、蹲って泣いている自分の背中を押すように、GBNの頂点に君臨するチャンピオンたるクジョウ・キョウヤは、自分が臆病だという秘密を曝け出して、思い出したその言葉をかけてくれた。
だったらそれは、美羽も同じなんじゃないかと、梨々香は思う。
コミュニケーションはいつだって不全で、エマージェンシーとレッドアラートが鳴り響いている梨々香だったけれど、恩師とでもいうべき二人の言葉を思い返せば、胸の奥には小さくとも確かな熱を持った光が灯る。
今はまだ、チャンプのようになれるかはわからない。
でも、一歩踏み出さなければそれは、永遠にわからないままだ。
痛みも弱さも、きっとそれはいつまでだって、どこまでだって引きずっていかなければいけないもので、きっちりと折り合いを付けられる人間はそうそういない。
頑張れ、と、そんな言葉をかけることはいつだって容易いものだ。
けれどその多くは、強さとか勇気とか、そういったものを求めているのと同じで、臆病さや脆さを抱えたまま蹲っている梨々香たちのような人種は、それだけでももう既にいっぱいいっぱいなのだという視点が抜け落ちている。
チャンプは言った。自分は臆病だと。
そしてその臆病さを肯定した上で、「クジョウ・キョウヤには誰でもなれる」と、梨々香の背中を押してくれたのだ。
だったら、そんな弱さを抱えていることが許されるなら。
「……え、えっと……ぐすっ……そ、その、ね……?」
「うん」
「……わ、私……頑張った、よ……その、お父さんとお母さんは怒るかもしれないけど……私……頑張って……うええええ、ん……」
嗚咽をこぼしつつ、梨々香は手提げのバッグからタッパーと梱包材で二重に包まれていた己の愛機にして初めて作り上げたガンプラ──ガンダムAGE-1ブランシュを取り出して、美羽へとそれを提示してみせる。
梨々香、一世一代の頑張りだといったら人はきっと嘲笑うのかもしれない。
それでも、それが臆病さと傷ついた心と背中合わせになりながらできる、梨々香にとっての精一杯であることに違いはない。
「よしよし……美羽は怒ってないよ。凄いねぇ、梨々香ちゃん……初めてでこれだけ作れるなんて、そして……もしかして、ミッションとかクリアしちゃった?」
そして、美羽はそれを決して否定することはなかった。
嗚咽を零して両手で顔を覆っている梨々香の頭をそっと撫でながら、美羽は正直に、素直に、AGE-1ブランシュの完成度を称賛する。
確かに梨々香は多くのことでは美羽に敵わなかったかもしれない。
だが、その繊細さを形にしたように、こと手先の器用さといったところに限っては美羽を上回っているところがある。
メーカーの努力や、グレー寄りにすることで隠蔽力を上げる工夫が施されているとはいえ、白を基調とした塗装は本来難しいものだ。
だが、梨々香のAGE-1ブランシュは、エッジが透けることもなく、そしてどこかで噴きすぎが起こってダマになることもなく、均一な塗膜で覆われて、その上から艶消しのコートが美しくかけられている。
「これねぇ、お姉ちゃんのガンプラなんだけど……実は二代目なんだよぉ」
そう言って、美羽が梨々香と同じ容量で学生鞄の中にしまい込んでいたタッパーから、取り出してみせたガンプラは、奇しくもライブモニターで金色のレジェンドガンダムと戦っていた、あの狙撃仕様にカスタマイズされた桜色のフリーダムガンダムだった。
二代目、ということは当然初代があるのだが、美羽が初めて制作ブースを利用した時に作ったその素組みにピンク色を吹き付けたフリーダムガンダムは、塗料が詰まったりダマになったりして大分悲惨な仕上がりになってしまって、今は何かの記念と戒めとして、部屋の棚に鎮座している。
そこからはもうエアブラシの仕様だとかミキシングの作例だとかを猛勉強した末に、美羽はこの【フリーダムガンダムルージュ】を完成させたのだが、梨々香は一発でAGE-1ブランシュを完成させているのだから驚くほかにない。
我が妹ながらその器用さと繊細さが誇らしく、愛おしい。
そう言わんばかりに涙を零している梨々香を抱き寄せて、頬をすり寄せながらそっとその真っ直ぐに伸びた髪の毛を美羽は優しく撫でる。
癖っ毛の自分と違って、綺麗な髪。
そして、ちょっと泣き虫だけど、誰よりも優しくて、慈しみ深いその心。
梨々香は、全部が全部愛おしくて大切な美羽の宝物なのだ。
流石の美羽としても、ちょっと恥ずかしいから口にこそ出さないけれど、それは確かなことであり、そして俗にいうシスコンに美羽は片足、もとい両足を突っ込んでいるのだ。
「……お姉ちゃんのガンプラ、その……格好よかった、よ……」
「ありがとね〜、まあライフル撃たれちゃって最後はやけっぱちだったんだけどねぇ……」
あの肉を斬らせて骨を断つ戦法は意図したものではなく、回避運動が間に合わないと判断して咄嗟に繰り出したカウンターがうまく決まってくれたというだけの話だ。
だから思い出すだけでもちょっと恥ずかしくなるのだけれど、梨々香からの称賛ということもあって、嬉しさとの間で板挟みになりながら、美羽は苦笑をその唇に浮かべる。
「お待たせしました。こちらガンダムホワイトソフトクリーム二つと、ハイネ・ヴェフテンフルスの黄昏ノンアルコールカクテル二つ、そしてフライドポテトが一つになります」
タイミングを見計らっていたかのように、キッチンから戻ってきたヒナタは、二人の客の間に何かがあったことを察しつつもそこに言及することはなく、バイトとはいえプロフェッショナルとして、注文された料理を黙って、しかし笑顔で配膳する。
「うむうむ、注文来たみたいだねぇ、早く食べないと溶けちゃうし……梨々香ちゃん、一緒に食べよっか〜」
「……う、うん……お姉ちゃん……そ、その……」
「んん? どしたの〜、梨々香ちゃん」
待ってましたとばかりにプラスチック製のカップ──初代ガンダムの頭部を模した形状である──に盛り付けられたソフトクリームをスプーンで掬った美羽を呼び止めて、梨々香は小さく深呼吸をする。
「……え、えっと、ね……その、お姉ちゃんが、よければなんだけど、その……」
「ふむふむ?」
「……い、一緒に……GBN、やってくれると、その……嬉しい、って、その……ぐすっ……」
精一杯の勇気を振り絞って、梨々香は美羽にその提案を持ちかけた。
元々、ソロでやりたいのではなく、誰かと繋がりたくて始めたGBNだ。
知らなかったとはいえ、コンプレックスこそあれど気心の知れている美羽がプレイヤー、もといダイバーであるなら、一緒にやってみたいと思うのは決して打算などではなく、本心からの言葉に相違ない。
梨々香の言葉に目を丸くしていた美羽は、一瞬思考停止した様子で硬直すると、今度は蕾が綻ぶように、眠たげな目を見開いて、満面の笑みを浮かべながら梨々香に言葉を返す。
「うんうん、美羽ちゃん大歓迎だよ〜、っていうか、ソロ専でスナイパーはそろそろ辛いと思ってたから渡りに船だよぉ、ありがとうね、梨々香ちゃん」
「……え、へへ。その、ありがとう……お姉ちゃん……」
いつしか子供の頃に帰ったかのように、梨々香と美羽は瓜二つの顔ににへら、とよく似た笑顔を浮かべ、そして眦には涙を滲ませて笑い合う。
目が合えば笑うだけだと、誰かがそう歌ったように、滲み出る透明な雫はそれよりも綺麗に、そして生命に溢れた輝きを放つ。
始まりだった。間違いなく、そして紛れもなく。
微笑み合う二人は、何物にも替え難く、そして無二であるその場所に記念碑を建てるかのように、ノンアルコールのカクテルで乾杯を静かに交わすのだった。
第一部、完