瞬間、巻き起こった女帝の変化にコハクは瞠目する。
吹き荒れる常軌を逸した吹雪の中心──高まり続ける氷麗女帝が、装甲を内部から凍てつかせるほどの寒波を迸らせ、かつてない凍気をこの世に顕現させていた。
代償に末端から自壊が生じているものの、あまりの怒りに痛覚さえも麻痺しているのか。尚も激しく轟き続ける彼女に根ざすオラクル細胞群。
想定された星辰光の限界値を上回り、完全に振り切れた精神に従って寒波を放射する。
森羅万象を透明な結晶の柩に覆われていく様は、あたかも氷河期を迎えた世界のよう。もはや数瞬前の女帝とは全く別の領域へと昇華されたのだと、コハクは直感した。
他ならぬ天敵が提唱した、心の力を糧として。
憎悪と憤怒に満ちた覚醒を、排他的かつ差別的過ぎる心で彼女は成し遂げたのである。
「殺す、殺す······貴様もあの女神も、必ずこの手で」
垂れ流す呪詛の中に雑念など一切ない。コハクはその様の女帝を見て、力任せで能力任せな印象を受けたが、それは決して欠点ばかりではない。
昔から良く言うだろう。単純なモノほど、複雑なモノより強いモノはない、と。
単純ということは、強化方法も常に単純ということになる。術理だの見切りだのと、さながら役所仕事のような小賢しく狡すからい戦闘論理を氷麗女帝は有していないし、興味もない。
よって、それら複雑な手順を付け焼き刃じみて踏もうが、大して効果を得られない反面、能力任せだからこそ、キレて力を上げるという単純な手段こそ最が強く機能する。
元より、古来から怪物にとって憤激こそ動機の全てだ。
先天的に宿した暴虐で、煮え滾る思いのままに遍く敵を滅ぼし尽くす。
だからこそ、この瞬間を以て、女帝は完全に人間性と訣別した。
もはや単に力を手にした半端者などではなく、紛れもない新種の荒神である。
怒りの活性化と共に彼女は、完成された■■■の一部へと一番乗りを果たしたのだ。
「戯れはここまで。我が庭園を彩る一輪の華となりなさい」
ならばこそ、宣告と共に放たれた大氷河はかつてない規模の星光として災禍の光を具象する。
氷による砲身を形成し、あろうことかそれを地に叩きつけて爆散させた。瞬間、蒼き星が煌めきながら世界を喰らい尽くすべく、嵐のように吹き荒れる。
自らさえも砕け散りかねない、そんな力を全て注ぎ込んだのだろう。本来なら切り札として発射するべき氷塊弾は、蓄えたエネルギーを何十倍にも増幅しながら、波濤と化して全方位に放出された。
ゆえに、これは紛れもなく自爆技だ。
使用者である女帝さえ己が異能で傷つけながら、逃げ場のない最大殲滅技として地表を凍てつかせていく。
何よりも自分が可愛い女帝にとって、これほど似つかわしくない技はなかった。
「──このッ」
それがあまりに唐突な暴挙だからこそ、更に少年を追い詰めていく。
迫り来る怒濤の寒波を打ち破るべく、コハクは正面から斬撃を放ち、氷河の星を迎撃した。
集束性に特化させた煌めく長剣は一直線にそれを貫き、いとも容易く両断する。
絶大な質量の伴う光熱を前にすれば、全方位に満遍なく放たれた凍気など、密度が薄い紙も同じだ。牧羊者の追撃を止められるような代物ではない。
だがしかし──
「止まらねえ······!」
それがどれだけ破壊力を備えていたとしても、押し寄せる大気すべてを長剣で断てはしないのもまた、当然というものだろう。
六連撃、七連撃──流麗かつ矢継ぎ早に剣戟を放った所で結果は同じ。
時間稼ぎにもならず、貫通した光波の届かぬ四方からコハクを包むように零下の颶風が途切れることなく、彼の華奢な身体へと襲来する。
氷杭は切れも砕けもするが、寒波については不可能だ。
空気を殴って壊すことなど、鋼の英雄や焔の救世主でない限り出来はしない。如何な核反応や核変換であったとしても、時と場合というやつである。凍気の波動を防御するには絶望的に向いていない。
唯一の救いは、彼固有の星光の核変換には拡散性の素養があるのだが、何よりこの攻撃は女帝が育てに育てた怨みの極地だ。彼女が譫言のように呟いた男の名が稀代の指導者にして、英雄と名高い軍事帝国アドラー第三十七代総帥、クリストファー・ヴァルゼライドから察するに、彼の英雄を討つためだけに誕生した特攻技能だろう。仮に広範囲の攻撃手段を用いた所で、この凍気を打ち破れるかは疑問が残るものがあった。
それほどまでに氷結の風は凄まじく、英雄のような規格外な存在を殺す事にのみ特化している。
木端微塵に砕かれようが、極限まで細分化した霧氷の波濤が吹き付けるたび、戦う少年の体温が一気に零へと下降していく。
「─────、──ッ」
凍てつき始めるコハクの総身は、今や彫像と化す寸前だ。
咄嗟に呼吸を止めたものの、その一瞬で内側から喉と肺に霜が走り、粘膜が水気を無くす。剥がれ落ちた皮と共に流れるはずの血液さえも凍りついた。
次瞬、放たれた氷弾により体勢を崩される。
駆け回る場所を次から次へと大輪氷華に覆われた結果、あちらの星が先に相乗効果を起こし、氷杭の成長速度が急激に跳ね上がっていく。
それにより、足裏から下肢が氷に呑み込まれた。後は冷酷に射貫くのみという状況へ、いとも容易く追い詰められる。
腕が、足が、動かない。これこそまさしく魔星の本気。
そんなものに至らせた原因は不明ではあるものの、これだけは分かる。冷徹な荒御魂と化した女帝が相手では、もはや勝負の土俵にさえ上れていない。
今、世界に満ちているのは虐殺だ。
あらゆるものが蹂躙される。人も神も関係なく、もの皆総て消し飛ばされていく──禍の荒神を前にしては、何人たりとも生き残れない。
異形によって齎される残酷な“運命”の終着点。凍気を纏う蒼天の女帝が霧氷の大河を突き進み、自壊する己が躯体の節々を細胞で自己再生しながら、氷の防御膜を頼りとして、そのヴァジュラ種らしい剛腕を振りかぶった。
最悪の事態が頭に過ぎる。
命が惜しい訳ではない。ただ、ここで終わる訳にはいかないと、コハクは強く思うのに······。
だが立ち上がれず、氷杭により串刺しとなった傷口からまつで力が抜け落ちていくかのようだった。
感情の窺えない女帝の仮面。その静謐にも似た沈黙は、希望は完全に打ち砕かれたことを焼き付けながら恐るべき死に落とす為だ。
氷杭の先駆けにより、今のコハクでは彼女の攻撃を躱せない。
凍てついた装甲に、走る火花。限界を超えて星辰体と禍神体に感応しながら、女帝は積年の怨敵を彷彿とさせる少年へと渾身の捨て身をもって突貫する。
砲身を形成した左翼は自爆技の反動で砕けたものの、彼女の身体を構成するオラクル細胞により再生を果たし、その痛みさえ然もありなん。ゆえに、彼女は遠慮も容赦もない。
怨敵の面影を残す少年へと、回復した両翼刃に力を籠めるのだ。
「さあ、せめて美しく散華なさい」
冷徹な宣言と共に放たれる魔氷の一撃。
死の刃が首筋を撫で、底なしの絶望へと叩き落とされそうになった、その刹那──
『──ああ、先ほど宣したばかりであろう。
私がいる限り、決して死なせなどせんよ、と······』
声が響いた。
精神の谷底へと沈降するコハクに代わり、急激に隆起していくは、物心着く以前から彼の精神世界内に存在していた何者かの意識。
同調を深め、肉体の支配権を手にする男の姿をコハクは認識する。
ああ、もう大丈夫だと。
根拠の無い安堵を感じながら、彼の意識は奈落へと落ちていった。
◆ ◆ ◆
「はぁ、はぁ、はぁ······」
血を撒き散らし、弾丸の如くコハクの華奢な体躯が吹き飛んだ。
勢いよく氷塊の残骸へと激突し、巻き上げられた氷の瓦礫が墓標のように着弾地点へ降り注ぐ。
人間を押し潰す質量の雨を受け、肉は残らず潰れただろう。いやその前に、骨を砕いた感触が確かに翼の刃へと残っていたのが女帝の心を高揚させた。
氷刃により奴の身体を貫いて骨を断った、あの一瞬······ああ、なんと甘美なことだろう、と。
だが、ぬか喜びばかりはしていられない。
光の英雄と闇の冥王──相反する二人の男と交戦経験を持つ女帝は、彼らに共通する危険性を誰よりも知悉していた。
もはや立てぬという状況から立ち上がる力。圧倒的戦力差を覆す奇跡──すなわち、常識を超えて発揮される人間の真価そのものである。
それは言うなれば、神に愛された特権だ。
無理という単語など、彼らにとっては更に飛躍し、執念を燃やすための起爆剤。苦境にあって翼が生えると言う点に於いては、英雄と冥王に貴賤はないのだ。
ならば、用心に越したことは無いだろう。
着弾地点に降り注いだ氷に干渉し、破片の山だったそれを一つの氷山へと成長させていく。
そうして完成した氷の棺。たとえ、どれほどの力があろうとも立ち上がることも、戦力差を覆す奇跡も起こせまいと確信した瞬間。
「ふ、はは──はははは、はッ」
総身を走る感動と、止め処なく溢れ出す歓喜の泉に心の底から打ち震え、もう堪えきらぬという風に、女帝は曇天の空を見上げて口角を吊り上げた。
「ああ、漸く···漸くだ······これで漸く、歪んだ道理は正され、私は真実、あの御方の御使いになれたのだ······!」
絶望の清算と、衆愚の望む偶像と判官贔屓の完全否定。
これらを成し遂げたことで、今まで己を縛り続けていた前世は、その呪縛ごと粉砕された。
雪辱を果たしたという事実──ほぼ八つ当たりだが──を受けて、気高く美麗に咲き誇る災禍の氷麗女帝。口元に浮かべる陶酔の笑みは、怖気立つほど清らかで童女のように純粋だった。
噴出する幸福は、間違いなく三生わ合わせて最高級の福音であり、神聖な今この瞬間を味わい、噛み締め、堪能する。
このまま順調に他の■■■候補を捕食すれば、あの忌まわし狂った光の英雄と闇の冥王も自分は超越できるはずだ。
そしてそれは、決して彼女の独りよがりでも、妄想でも無い。
純然たる事実として、このまま女帝が■■■として完成すれば、英雄と冥王の力量を圧倒的に凌駕した存在と化すだろう。
何故なら、彼女はそういう存在だから。
狂気的なまでの信仰。自分を取り巻く世界みな総て、美しく輝く己を彩る装飾品にすぎない。いいいや──装飾品になってしまえという、渇望。
都合や他人の事情をも斟酌もせず、自分が望む形以外の他者と世界を認めないその姿は、正しく傲慢な神と言えるだろう。
まして、荒神として新生した自分自身の存在を正しく理解したとなれば、突き詰めた渇望を糧として、驚異的な怪物に成り果てるのは自明の理だった。
もはや彼女は氷の女帝、荒神を代表すべき個体である。
闘争を司り、世界法則すら塗り替える可能性を秘する生きた荒御魂の強さは、優れた傑物や畜生程度では、もはや決して届かない。
「──────否、まだだ」
ならばこそ、条件は達成された。
英雄の力を超えて、敗者の涙を踏み潰し、長き死闘を繰り広げて、致命の技を叩き込み、覚醒を果たしたことで──男の心に光が宿る。
容易ならざる困難を乗り越える翼とは、飛翔するための道具を指し、自らの背に生えるものに限定しない。
局面を打開し得る存在の降臨······その起爆剤が総て揃ってしまったのだ。
胎動する光の波濤──
煌めき始める潜在力──
もはや、語るべき言葉は存在しない。
「それが、この世界の“運命”だと言うのならば······
私達は敢えて“それ”に逆らおう」
黙し、拝聴せよ──■■■が駆動する。
「···············、─────」
刹那、波のように動き出す氷の庭園。
嘆きの連鎖を断ち切る輝きが、遂に女帝の花園を己が庭園へと塗り潰す。
少年を閉じ込めた氷の柩が砕け散り、一人の男が戦場に降臨した。
たなびく鬣の如き長髪は黄金。
女帝を睥睨する王者の瞳も、やはり黄金。
この世の何よりも鮮烈であり華麗であり、美しく荘厳であると同時に、悍ましき黄金。
何故か人の世に存在することを許された、愛すべからざる光の君。
悠然と響く軍靴は、何処までも凛々しくて。
翳り一つなく玲瓏で。
それこそ何かの諧謔みたいに、静謐な威容を携えて、女帝の前へと姿を現す。
「さて···、ここからだ。来たまえ──今度は私が相手をしてやろう」
そして、知るがいい。
卿が映した前世は、死への招待状。
卿の奏でた狂詩が、その序曲となったことを──