シンギュラリティの花嫁 ~AIが紡ぐ悠久の神話~ 作:月城 友麻
時間の流れはいつの間にか戻り、おしぼりは修一郎に命中した――――
俺は美奈ちゃんをなだめ、その場を取り繕う。
修一郎は話題をそらそうと、冷や汗を浮かべながら言った、
「か、乾杯しようよ、乾杯! 折角なんで、昨日のワインがいいな、ある?」
美奈ちゃんは憤然とした表情ではあったが、ワインの乾杯には惹かれている様子だった。
確かにあのワインは乾杯に合う。
「クリス、どうかな?」
「…。え?」
考え事をしていたクリスはそう言って、ちょっと疲れた表情で俺を見る。
「ワインだよワイン、昨日のワイン出せるかな?」
俺は酔った勢いで、図々しく催促する。
「…。ワイン? あ、そうだね……、それでは水をくれるかな?」
「マスター! ワイングラス5つと、ガス抜きの水を1本ください。それとワイン1本持ち込みいいですか?」
グラスを拭いていたバーテンダーが、こちらを向いて軽く会釈する。
「かしこまりました」
ワイングラスが並べられ、俺はミネラルウォーターの瓶をクリスに見せる。
クリスは頷いて、ニッコリと笑った。
俺が試しに注いでみると……それはルビー色のワインになっていた。
親父さんは驚いて
「あれ? それ、今頼んだ水……だよね?」
「細かい事は良いじゃないですか、乾杯しましょう!」
俺は次々とグラスに注ぎ、乾杯の音頭を取る。
「両社の繁栄を祈念してカンパーイ!」
「カンパーイ!」「カンパーイ!」「カンパーイ!」「…。乾杯」
親父さんは、キツネにつままれたような顔で、一口飲んだ。
しばらく口に含むと、大きく目を見開き、
「お、おぉぉぉ……」
感嘆の声を漏らした。
「な、なんだこれは……。鳥肌が立ったよ」
「イスラエルのワインです。お口に合いましたか?」
「最高じゃないか。いや、こんなの初めてだよ! マスター! マスターも一口飲んでみて!」
バーテンダーが、グラスを拭く手を休め、ワイングラスを手にやってくる。
「マスター、ちょっとこいつは凄いよ!」
「それではお言葉に甘えて……」
そう言って一口含んだ――――
バーテンダーは大きく目を見開いた、と思ったら上を向いて目を瞑り、直立不動で動かなくなった。
あれ? 何かまずかったかな、と思っていたら、マスターの頬を涙が一筋伝った。
親父さんは、
「マスター、座って座って」
そう言って、涙をこぼすバーテンダーを、隣に座らせた。
「分かるよ、
バーテンダーは下を向いて、
親父さんは、バーテンダーの背中をさすりながら言った。
「いや、マスターの奥さんがね、先日急に亡くなってしまったんだ。一緒にこの店を切り盛りしていた、素敵な人だったんだが……」
バーテンダーは一通り泣くと、ハンカチで涙をぬぐった。
「お見苦しい所をお見せしてしまって、すみません。
肩を揺らすバーテンダー……。俺たちはかける言葉も思いつかず、息が詰まる時間が流れた。
すると、ハンカチで顔を覆うバーテンダーに、クリスが優しい声で語りかける。
「…。マスター、弘子さんの魂から、あなたに伝えたい事があるそうです。聞いてみますか?」
いきなりの提案に、バーテンダーが仰天して食いついてくる。
「え? ど、どういう事ですか? そんな事できるんですか?」
クリスはにっこりとほほ笑みながら頷いて、言った。
「…。美奈ちゃん、ちょっと来て、弘子さんの言葉を伝えてあげてくれるかな?」
美奈ちゃんはいきなり呼ばれて、ビクッとしていたが、
「え? 私でできる事なら……」
そう言って席を移動した。
クリスは、美奈ちゃんをマスターの前に座らせて、手を握った。
美奈ちゃんは目を瞑ると、徐々にうなだれてきて……
そして急に背筋をピンと張った。
美奈ちゃんは大きく目を見開くと、バーテンダーをじーっと見つめ、口を開いた。
「たっちゃん、久しぶり……。私よ…… わかる?」
バーテンダーは驚いて、しばらく動かなくなった。
話しているのは美奈ちゃんだが、明らかに語調が違う。イタコみたいに弘子さんが
「そんな驚かないで……。私よ私……ごめんね、たっちゃん残して突然先に逝っちゃって」
「弘ちゃん……なのか? 本当に?」
彼女はちょっと思案するそぶりをして、いたずらっ子の微笑みで言った。
「二人だけの秘密、言おうか? 3年前……あなたが浮気した時、どういう条件で仲直りしたか……とか……」
「いやいや、そういうの止めて! 信じた、信じたから!」
バーテンダーの額に冷や汗が浮かぶ。
「私いきなり死んじゃったでしょ? だから大切な事、伝えられなかった……。私ね……本当に幸せだったの。もちろん、仕事はきついしあんまり儲からないし、不満が無かったと言えば、嘘になっちゃうけど……、それでも、あなたと過ごせた10年間、本当に……幸せだったわ……」
心のこもった言葉に、聞いている俺達も、つい涙ぐんでしまう。
「弘ちゃん……」
「だから、もう……私の事で思い悩まなくていいのよ。もっと伸び伸びと、たっちゃんらしく沢山笑って暮らして」
「でも、弘ちゃんがいなくなって、全てが色褪せてしまったんだ……」
バーテンダーはしょげながら、そう言った。
彼女は少し首を傾げた。ピアスが、さっきまでとは違う輝きで光る――――
「大丈夫、徐々に慣れるわ。宮原さんの所のさやかちゃん、いるでしょ? あの娘、あなたの事気に入ってるみたいだわ。あの娘なら……あなたの事託してもいいかなぁ……」
「そんな事言わないでよ! 弘ちゃん」
つい大きな声を出してしまうバーテンダー。
「だって仕方ないじゃない! 私はもう、この世に居ないんだから……」
「弘ちゃん……」
弘子さんとしても、断腸の思いではあるだろう。死者は辛いな。
どこからともなく、サンダルウッドやパチュリのような、東洋っぽいフローラルな香りが、微かに漂ってくる。
その香りに触発されたように、バーテンダーは一つ大きく息を吸った。
そして、覚悟を決めた様子で、クリスに言った。
「私を、弘子の所へ、連れて行ってくれませんか?」
俺達に戦慄が走る。これは自殺したいって事……だろう。大変な事になった……
クリスは、じっとバーテンダーを見つめ、そして、ゆっくりと諭すように言った。
「…。それはできません」
バーテンダーは食いついてくる。
「俺も死ねば、弘子の所へ行けるんですよね?」
クリスは一呼吸おいて、バーテンダーをしっかりと見つめて言った。
「…。今、死んでも会えません」
「なんでだよ! 弘子を呼べるなら、俺も弘子の所へ連れて行ってくれよぉ!」
バーテンダーは涙を流しながら、訴える。
「…。弘子さんが、それを望まれていないので、無理なのです」
バーテンダーは彼女を睨んで言う。
「なんだよ! 弘ちゃん、俺は邪魔なのか!?」
静かに聞いていた彼女は、目に涙を貯めながら、
「たっちゃん……。私のために死ぬとか、馬鹿な事言わないで」
「なんでだよぉ! 俺はこんな暮らし、もう嫌なんだよ!」
バーテンダーは突っ伏してしまった――――
その様子を愛おしそうに眺めた後、彼女はなだめるように言った。
「ふふふ、困った人ね……。私はね、生き生きと生きる、たっちゃんが好きなの……。自殺するようなたっちゃんは……嫌いだわ」
「もう嫌なんだよぉぉ!」
バーテンダーの魂の叫びが、部屋にこだまする。
彼女は、大きく息を整えると言った。
「……。わかったわ……。しょうがない人ね……。たっちゃんが寿命を迎える時、私が迎えてあげる。だから……、それまでは精いっぱい生きるのよ。心に正直に、のびのびと生きて。ずっと……見てるから」
「弘ちゃん……うわぁぁぁ!」
しばらく嗚咽する声が部屋に響いていた。
そして、バーテンダーは、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて言った。
「分かったよ…… 絶対待っててくれよ! 俺、それまで精いっぱい生きるから……」
そう言って、また嗚咽した。
「そろそろ行かないと……。たっちゃんの事、見守ってるね……」
そう言って、美奈ちゃんはがっくりとうなだれた。
「弘ちゃん!!!」
皆の沈黙の中、緩やかなジャズの旋律が、静かに流れている。
クリスは、美奈ちゃんをゆっくりと引き起こすと、バーテンダーに優しく言った。
「…。弘子さんは素敵な方ですね」
「……そう、私には……もったいない女性でした……」
クリスはゆっくりとほほ笑んで、うなずいた。
「弘子さんの冥福を、祈りましょう」
そう言ってクリスは、手を組んで祈り始めた。
俺も慌てて手を合わせた。
俺もいつかは死ぬ。こうやって惜しまれるような、生き方をしたいものだが……そう生きられるだろうか……。
弘子さんが元気だった頃のお店の様子を想像しながら、冥福を祈った。
目を開けると、バーテンダーはまだ手をぎゅっと組んだまま、祈り続けていた。
修一郎と親父さんは、そんなバーテンダーを、心配そうに見つめている。
ビジネスの話をしていたのに、なぜかイタコ芸になってしまった。
俺は軽く咳払いをして、
「そろそろ、我々は引き上げます。田中社長、来週、御社にお伺いして契約を詰めたいので、可能な日程を幾つか、修一郎君に伝えてもらえますか?」
「わ、わかった」
「では、失礼します……」
俺たちはバーを後にした。
裏路地から銀座の通りに出て、駅へ向かう。
クラブの小さな看板が明るく並び、街路樹には少し抑制をきかせたイルミネーションが光っている。
AIを開発しようとしていたら、死者を呼び出されていた。死者の魂とAIは全く対極にある存在だが……今の俺には、全く無関係にも思えなくなってきた。何がどう繋がっているのか、今はまだ言語化はできないのだが……。
俺は思い切ってクリスに聞いてみた。
「死後の世界って何なの?」
クリスを俺を見るとニヤッと笑って言った。
「…。それは死んでのお楽しみ」
そう簡単には教えてくれないようだ。そこで、質問を変えてみる。
「生まれる前と死後の世界があるなら、この生きている間の世界は何なの?」
「…。ステージの上に立つという事だよ。人生はステージなんだ」
「ここはステージ?」
俺は意外な返事に戸惑いを感じた。
「…。そう、この煌びやかな世界、街ゆく人たち、美しいステージじゃないか」
そう言って、クリスは嬉しそうに手を広げて銀座の街並みを示した。
「死ぬと舞台裏に降ろされる?」
「…。そうだね、生まれる前に戻るんだ」
「人類が滅んじゃうと誰もステージ上からいなくなるって事?」
「…。いや、ステージは取り壊し……だな」
そう言ってクリスは暗い顔をする。
「え!? 人類が居なくなったら地球も消滅するって事?」
「…。ノーコメント」
そう言ってクリスはニヤッと笑った。
俺はどういう事か困惑してしまった。この地球は人類のために用意されたステージ、そんな事あるのだろうか? ビッグバンは? 進化論は? 俺は、今まで学んできた科学の基本が根底から覆ってしまう恐怖に震えた。
そもそも現代の科学では死後の世界なんて無い事になっている。しかし、さっき確かに弘子さんの魂は居たのだ。この矛盾はどう考えたらいい?
ここで俺は、生きている事がどういう事か分からなくなった。生まれて、物心がついて、いろんな体験をして学んで、世の中の事を知ったつもりになっていたが、生きている事そのものが何なのか、分かっていなかったのだ。
俺は今、生きている。心臓の鼓動を感じ、頬に風が当たり、煌びやかなネオンが視野一杯に映っている。頬に手を当てれば温かく、街の雑踏は心地よく耳に響く。しかし……一体これらは何か? と、聞かれたら答えられない。『感じました、考えました』でしかないのだ。
クリスはステージだと言うが、ステージって何だろう? 観客はいるのか?
俺は、頭がパンクしそうになった。
「なーに難しい顔してんの?」
美奈ちゃんが俺の顔をのぞきこんで言った。
「あ、いや、生きてるって何だろうな……って」
「あはは、考え過ぎよ。ワクワク、ドキドキするのが生きてるって事よ!」
美奈ちゃんは人差し指を立てながらそう言った。
「え?」
俺は間抜けな顔をして聞き返す。
すると美奈ちゃんはいたずらっ子っぽい笑みを浮かべ、いきなり俺の腕にしがみついてきた。
「こういう事よ!」
俺の二の腕に美奈ちゃんの柔らかな胸がムニュっと当たり、ブルガリアンローズの香りに包まれ、俺の鼓動は一気に高まった。
「な、何!?」
ドキドキして狼狽する俺を見て、美奈ちゃんはからかう様に言った。
「これが生きてるって事よ!」
そう言って俺から離れ、ケラケラと笑った。
『いや、そんな事じゃないんだ』と否定しようとしたが……、生きているかどうかは結局意識の問題であって、それは結局心の在り方の問題だから、実は美奈ちゃんの言う事は真実に近いのかもしれない……。
『これが生きてる事……?』
俺は胸の柔らかさと香りの余韻の中、まだ高鳴っている心臓の音を聞きながら、しばらく呆然としていた。
◇
みんなと別れ、八丁堀の自宅に戻ると、電気が点いていた。
あれ……消し忘れ……な訳ないよな……。
奥の部屋の方から甲高い声が聞こえた。
「誠君、こんばんは。ちょっと事情があって、こんな形で失礼するよ」
侵入者がいる!?
俺は、玄関に立てかけておいたビニール傘をそっと取り、両手に握りしめると、侵入者に言った。
「人の家に勝手に侵入して、どういう事ですか? 警察呼びますよ」
「まぁそんな怒らんでくれ、いい話じゃよ。誠君は、クリスの奇跡を自分でもやってみたいと思わんかね?」
いきなり、とんでもない話を持ち掛けられた。
「ちょっと待ってください。私も奇跡を……使えるようになるんですか?」
「やってみたいじゃろ?」
「それは……そうですが……」
侵入者が提案してくるオファーに、まともな物があるとは思えないが、奇跡は使ってみたい……
「ワシが誠君に奇跡の力を授けよう。ただ……クリスが邪魔するじゃろうから、クリスに睡眠薬を、飲ませてやってくれんかの?」
なるほど、クリスに敵対する勢力という事なのか。面倒な事になってきた。
俺は毅然とした態度で
「クリスを裏切ることはできませんので、お引き取りください」と、返した。
「ま、そうじゃろうな」
侵入者がそう言った瞬間、雷が落ちたかの様に目の前が激しくフラッシュした。
クラクラとした俺は、催眠術をかけられたように、急速に思考力を失っていった――――
侵入者は、ゆっくりと部屋から出てくると、俺の手のひらに何かの粒を載せて言った。
「誠君は、クリスの飲み物を持った時、この粒を入れる」
俺はなぜか復唱する
「クリスの飲み物を持った時、この粒を入れる」
するとその粒は、俺の手の中にすぅっと溶け込んで消えていった。
「頼んだぞ!」
「頼まれました」
「一口でも飲ませられれば、クリスは即死じゃ。くふふ……、積年の恨み、思い知ってもらおう」
「クリスは即死だ」
「よし、10数えろ。数え終わったらワシの事は一切忘れる。いいな?」
「10数えたら忘れます。1……2……3……」
そして、侵入者は窓を開け、
カッカッカッカ!
と、笑いながらベランダからダイブし、スカイツリーの青い光が煌めく夜景の中に消えていった……。
光あれば影あり。
俺はこうして『神殺しの呪い』を受けてしまった。