シンギュラリティの花嫁 ~AIが紡ぐ悠久の神話~   作:月城 友麻

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4-6.ママという称号

 年が明け、新年を祝う時期となった。街のいたるところから(みやび)な『春の海』が流れ、破魔矢を持った和服の女性がちらほらと歩いている。そんな浮かれた雰囲気の中、俺はコンビニ弁当を買って会社へ向かった。赤ちゃんの世話は休むわけにはいかないのだ。

 赤ちゃんは思いのほか順調に育ち、今や身長は40cmを超えている。覗いてみると、透明なバッグの中で元気にキックを繰り返している。

 

「シアン!」

 と声をかけると、聞こえてるのか、ぴくぴくと反応するのが可愛い。

 

 

            ◇

 

 

 さらに2週間ほどして、いよいよ出産の日が来た。

 出産と言っても、羊水バッグから取り出すだけなんだけれども。

 

 テーブルに大きなタライを用意して、人肌のお湯で満たす。

 そして人工胎盤に繋がってる点滴やら人工肺やら透析装置を、全部止めて外した。

 

 もう戻れない――――

 

「いやぁドキドキするぅ!」

 由香ちゃんが少し離れたところで作業を見つめている。組んだ両手には凄い力が入っているようだ。俺も足元がふわふわしている。

 

 クリスが祈りをささげ、シアンはバッグから取り出された。

 シアンは、何が起こったのか良く分からず、蠢いている。

 俺は大きなクリップで、へその緒をお腹の前で止め、余った所をはさみで切る。

 

 Clack(チョキン)

 

 その瞬間、シアンは大きな声で泣いた。

 

 ほっぎゃぁ、ほっぎゃぁ!

 

 かわいい声を出して、大きく泣いた。

 田町のオフィスで、今、一つの命がこの世に解き放たれたのだ。

 たった10gしかなかった、ピンクの小さな生き物は今、3kgの赤ちゃんとなって目の前で元気に泣いている。人類の命運を背負って産まれた、この特別な赤ちゃんの泣き声を、俺は一生忘れないだろう。

 

 クリスが、ゆっくりとシアンをお湯の中に漬け、俺がタオルで全身をぬぐう。

 肌には、白い垢がいっぱいついているので、丁寧にとっていく。

 そして、綿でできた真っ白なベビー服の上に乗せ、袖を通して前を閉じた。

 シアンは泣き止んで、可愛く口をくちゅくちゅと動かす。

 

 抱き上げるとずっしりと両腕にかかる重みは、無事産まれた安堵を、命を預かる重みへと変える。俺は高揚感の中、腕の中でキックを繰り返す可愛い存在を、神妙な面持ちで見つめていた。

 いよいよ取り返しのつかない、本当のチャレンジが始まる――――

 

 俺は目を瞑り、大きく息を吐いた。

 自分が言い出したことではあるが、実際に赤ちゃんを腕に抱くと、何ともいい知れない不安と迷いが俺を(さいな)む。

 しかし、もはや退路などない。この赤ちゃんの力を借りてシンギュラリティを超える、そこにしか活路はないのだった。

 俺はキュッと抱きしめて、その温かくふかふかのマシュマロのような肌にそっと頬ずりをした。

 

 

       ◇

 

 

 シアンは無脳症、首から上は顔しかない。頭の部分がすっぽりと無くなっている。

 

 美奈ちゃんは

「ほんと、頭無いのね……」

 と、眉間にしわを寄せて、グロテスクなシアンを、まじまじと見つめた。

 

 さすがに、このままだと困ることになりそうなので、サイズを測って、人工の頭を付けてやらないとならない。

 

 由香ちゃんは少し離れたところで、心配そうにシアンを見ている。

 3か月もの間、血を提供してくれた功労者をねぎらう意味を込めて、俺はシアンを由香ちゃんに渡す。

 由香ちゃんは、おっかなびっくり受け取ると、

「うわ、思ったより重いですねぇ!」と、言いながら、ぎこちなく抱いた。

 

 シアンは一瞬目を開けると、次はゆっくりとあくびをして、口をもごもごと動かした。

「うわ、可愛いかも!」

 思わず笑みをこぼす由香ちゃん。

 

「先輩、私も~!」

 と、美奈ちゃんが手を伸ばしてきたので、そーっと渡す。

 

「ほんとだ、重~い!」

「私と誠さんの血の重みですよ!」

 そう言って胸を張る由香ちゃん。

 

 にこやかだった美奈ちゃんの眉がピクッと動いた。

 

「シアンちゃん、ママでちゅよ~!」

 ワザとらしい笑顔で、美奈ちゃんはシアンに声をかける。

 

「え~、ママは私です! 返して!」

 由香ちゃんはそう言いながら、奪うように美奈ちゃんからシアンを取り返した。

 血をあげ続けた自負があるらしい。

 

「うふふ、じゃ、パパは誠さんかな~?」

 いたずらっ子の表情でからかう美奈ちゃん。

 

「えっ? そ、そういう意味じゃ……」

 そう言って、シアンを抱きながら(ほほ)を赤らめる由香ちゃん。

 俺も思わず赤くなる。

 赤ちゃんを通じて、可愛い女子大生と縁がある、何とも不思議な事態だ。

 

 シアンは口を大きく開け、ちゅくちゅくと唇を動かす。

 

「ママのおっぱいが欲しいのかな~?」

 また余計なことを言う美奈ちゃん。

 

 由香ちゃんはハッとした表情で、胸に抱きかかえたシアンを見つめ……

 

「うぅ、ママ失格かも……」

 そう言いながら肩を落とし、うなだれてしまった。すっかりママになった気でいるようだ。

 

「先輩ほど立派な胸なら、出るんじゃない?」

 

『どうしてそう余計な事を言うかな、美奈ちゃんは……』

 俺は眉をひそめる。

 

 由香ちゃんはちょっと自分の胸を触って、

 

「なんか本当に出そうな気になってきたわ……」

 と、まじめな顔して言っている。

 

『おいおい、そう簡単には母乳なんて出ないぞ……』と、思ったが、保育園の保育士が母乳出た、って話は聞いた事あるし、本心から『自分がママだ』と思い込めたら出てくるのかもしれない。

 

「誠さん、揉んであげなさいよ!」

 いきなり、とんでもない事を言い出す美奈ちゃん。

 由香ちゃんは、赤くなってうつむいている。

 俺は焦って

 

「ハイ! セクハラ! レッドカード!!」

 そう言って腕を×にして却下した。

 

 セクハラ呼ばわりに気を悪くした美奈ちゃんは、

「なによ! だったらまた私の胸揉む?」

 

 そう言って、俺に向かって胸を突き出したポーズで挑発してくる。クリーム色のニットを形よく盛り上げる胸は、由香ちゃんほどの大きさではないものの、まぶしいほどの魅力を放って俺に迫ってきた。

 

「う……」

 すっかり圧倒され、頭が真っ白になる俺。

 

「ほれほれ!」

 調子に乗って、胸を近づけてくる美奈ちゃん。

 

 情けない事に返す言葉が浮かばない。

「も、も、揉むって……」

 

「ははは、冗談よ! 意気地なし~!」

 美奈ちゃんは俺の額を人差し指で押して、ケラケラ笑いながら部屋を出て行った。

 

 唖然とする俺たち。

 

「うーん、困った姫様だな……」

 折角のおめでたいシアンの誕生が、変な事になってしまった。

 俺は思わず大きく息を吐いた。

 

 すると由香ちゃんは、シアンをゆっくりと揺らしながら、

 

「『意気地なし』って事は、本音は『口説いて欲しい』って事でしょうか?」

 と、真面目に美奈ちゃんの言葉を考えている。

 

「いや、そんな深い意味ないと思うよ。口説いて口説けるとも思えないしね」

 

「口説けたら口説きたいんですか?」

 由香ちゃんが無表情で俺をじっと見て、鋭く突っ込んでくる。

 

「う……」

 また言葉に窮する俺。

 

「さ、さぁどうかなぁ……」

「ふぅん、否定はしないんですね」

 

 由香ちゃんはそう言って、シアンをベビーベッドの方に持っていって、寝かしつけた。

 

「誠さんはもういいですよ、私が夕方まで様子見てるので」

 淡々と事務的に言う由香ちゃん。

 

「あ、そ、そう? じゃ、お願い」

 居場所を失った俺は、そう言ってトボトボとオフィスの方へ降りて行く。

 

 どこかで言葉を間違えた気がするのだが……どこをどう間違ったのかが分からない。

 モヤモヤする。

 

 今は、シアンが無事生まれた事を、素直に喜ぶべきなのだが……。

 何だろうこれは……すごい負けた気がする。

 それも、誰にどう負けたのかすら、わからない負け方に、俺は途方に暮れた。

 

 


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