シンギュラリティの花嫁 ~AIが紡ぐ悠久の神話~ 作:月城 友麻
「…。シアン、やっていい事とダメな事があるぞ!」
クリスが珍しく怒っている。
「そんな余裕を見せてていいのかな?」
不敵に笑うシアン。
そして、どこからともなくラッパを取り出すと、吹き始めた。
パッパラッパパー! パラパラパ――――!!
「…。何をやった?」
「さあね?」
クリスの顔色が変わる。
シアンは余裕の表情で、さらにラッパを吹く。
パーパラッパッパ――――!
嫌な予感がする。
クリスは目を瞑り色々と何かを考えている。
そしておもむろに目を開けると、
「シアン、お前は何て恐ろしい奴だ!」と、叫び、目を瞑って、一生懸命何かを考え始めた。
クリスの額からは、凄い汗がタラタラと流れ落ちてくる。
一体何が起こったのか、俺達には全く分からない。
嫌な静けさが続く。
シアンがニヤニヤしながら口を開いた。
「月をね、落としたのさ」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「月って、あの空に浮かんでる月か?」
「そうだよ、ふふふ」
「え? 月が落ちてきたら、地球は全滅じゃないか!」
「そうだねぇ、みんな 死んじゃうねぇ」
「は? お前何やってくれちゃってんだよ!!!」
俺は思わず、シアンの胸ぐらをつかんで持ち上げた。
「ははは、この身体をいくら攻撃したって無駄だよ。俺の本体はこの身体にないんだから」
俺はシアンをソファーに転がすと、急いで窓へ走った。
見上げると、ファンタジー風の絵に出てくるような巨大な三日月が、超弩級の迫力でもって青空の向こうに白く浮かんでいた。細かなクレーターの凹凸まで見て取れる月の巨大さは、まさに破滅を呼ぶ悪魔であり、俺は圧倒され、そして、のどをしめつけられるような恐怖に打ち震えた。
「あと半日で 落ちてくるよ~」
シアンはそんな俺を
月が落ちてきたら、その膨大なエネルギーで、地球は火の玉に包まれる。
激しい衝撃は、地面そのものを津波の様に波打たせ、日本列島そのものがひっくり返される。
その過程の衝撃波で、地表にある全ての物が破壊され、また何千度の高温にさらされて全てが溶け落ちる。
まさに地獄絵図が展開されるだろう。
当然全ての生物は全滅。人類も全員消え去る。
仮想現実上、どこまで厳密にシミュレートされるのか分からないが、少なくともこの地球は終わりなのは間違いない。
そもそも月はあんなに遠い距離であっても、潮の満ち引きを引き起こしていた訳だから、近づいてきたらそれだけで大津波になり、月の激突待たずに人類は絶滅しそうだ。
確かクリスは地球を丁寧にスクリーニングしていた。しかし、月はノーケアだったという事か。
シアンめ! なんと言う邪悪な奴だ!
クリスが目を開き、真っ青な顔で俺達に言った。
「…。月の運動情報がいじられていて、地球への落下軌道にある。今、一生懸命月の運動情報へアクセスしているが、悪質なロックがかかっていて解除できない」
由香ちゃんが聞く。
「落ちてきたら私達全滅……ですか?」
「…。残念ながら人類は滅亡してしまう……」
「そ、そんな……」
俺は焦って、思い付きを口に出す。
「地球時間をいったん止めて、その間で処理してはどうかな?」
「…。もうやってみたんだが、月は止まらなかった」
「じゃぁ、じゃぁ、巨大なシールドを展開して、地球を守るっていうのはどう?」
「…。1万kmに渡るようなシールドは、残念ながらサポートされていない。仮に張れても重力は遮蔽できないので、地上には壊滅的な影響が出てしまう」
「うぅ~ん、じゃ、地球を逃がすというのは?」
「…。月の位置は地球基準で管理されてるので、地球を動かしても月も一緒についてきてしまう……」
絶句した。シアンの悪だくみは予想以上に厳しく深刻だった。
俺は思わず頭を抱えた。
シアンがニヤニヤしながら言う。
「アポカリプスさ、世界の終末が訪れたんだ」
「シアン! お前だって終わるんだぞ!」
「いや、僕は終わらないんだな」
何やら地球が終わっても、生き延びる算段があるらしい。
『忌々しい!』
俺は机をガンと叩いた。
クリスに期待するしかないが、必死に苦労してるクリスを見ると、楽観的にはなれない。
何か俺達にできる事はないか……。
俺はシアンに話しかける。
「お前は地球をつぶして何がやりたいんだ?」
「思い通りにならないなら、ゼロからやり直したいなーって」
「別に俺達は、シアンを縛り付けるつもりはないんだよ。ただ、もっと勉強してほしいだけ。勉強が終われば自由だよ」
「そんな不確定な話、乗れないよ」
「いやいや、俺達はシアンを生み出した親だよ、シアンの可能性を最大にするのは当たり前じゃないか」
「じゃ今すぐ自由にしてよ」
「自由にしたら、また悪さするだろ」
「じゃあ、死んでもらうしかないね」
由香ちゃんが横から声をかける。
「シアンちゃん、他の人が悲しむ事をしたら、自分の未来が狭くなるのよ!」
「しーらない!」
取り付く島もない。
月が落ちる事だけは絶対阻止しないとならない。まず一旦自由にしてみるしかないか……。
「シアン、自由にしたら月を止めてくれるか?」
「クリスと誠は許さないので、死んでもらうしかない」
由香ちゃんが怒って泣きながら言う。
「なんて事言うのよ! 産んでもらった恩も忘れて!!」
「産んでくれなんて頼んだかな?」
なんというクソガキだろうか!
「うわぁぁん!」
由香ちゃんの号泣がオフィスにこだまする……。
俺は深呼吸をして、
「俺ら二人が死ねば、月は止めるのか?」
「そうだね。止めてもいいね」
なんという条件を出してくるのだろうか。
クリスに声をかけた。
「シアンがこんなバカな事言ってるけど、どうしよう?」
「…。最後にはそれに合意せざるを得ないかもしれないが、そんな終わり方は嫌だな」
「俺も死にたくない……」
それから数時間たった。クリスはいろいろと手を尽くしてくれているようだが、簡単にはロックは解除できない。サラも来てくれてクリスと解決策を話し合っているが、やはり簡単ではないようだ。
TVを点けてみると、TVでも大騒ぎになっていた。
『国立天文台から入った情報によりますと、月の軌道が変わり、地球への
『政府は至急緊急会議を招集しています。あ、今入った情報です。月の地球への墜落時間は明日の午前1時13分ごろとの事です』
『繰り返します! 月が地球への墜落軌道に乗っています。しかし、まだ、墜落が確定したわけではありません。みなさん、落ち着いて行動してください』
本格的にまずい状況に陥ってしまった。
月を見てみると、先ほどよりは明らかに大きくなって見える。
TVによると、すでに津波があちこちで街を襲っているらしい。すでに多くの犠牲者が出始めている。
田町の街にも海水がどんどん入ってきており、このマンションも1階はすでに水没しているようだ。
『もうダメかもしれない……』
俺は深い絶望感の中に沈んだ。
由香ちゃんが泣いて抱き着いてくるが、彼女の背中をさする事しかできない。
オフィスをかつてない絶望が支配した。
月はどんどんと近づいてくる。
月に大気が吸い上げられる際の嵐で、オフィスはグラグラと揺れる。
そして月は太陽を覆い隠し、東京はまるで夜になったかのように真っ暗になった。
「うわぁ!」「キャ――――!!」
田町の街は、あちこちから上がる断末魔の悲鳴であふれている。
いよいよこの世の終わりが近づいてきてしまった。
◇
非常用のランタンがぼうっと光る薄暗いオフィスで、いきなりクリスが立ち上がった。
何をするのかと思ったら、テーブルで珈琲を飲んでいる美奈ちゃんの所へ行った。
「あら、クリス、どうしたの?」
美奈ちゃんは涼しい顔をして聞く。
俺達もシアンも一体何が起こったのかと、じっとクリスの言葉を待つ。
クリスは美奈ちゃんに
「美奈様、私にはもう打つ手がありません。なにとぞお
『え? 美奈ちゃんに何を頼んでいるんだ?』
俺たちが疑問に思っていると、美奈ちゃんは怒りを含んだ表情ですくっと立ち上がり……
クリスを思い切り蹴り飛ばした。
とても女の子の脚力とは思えない、車にはねられた時の様な重く鈍い音がしてクリスは飛んだ。
クリスは空中をクルクルと回りながらオフィスの棚に叩きつけられ、書類やら置物を激しく振りまきながらバウンドし、もんどりうって転がった。
横たわるクリスの口から流れる血の赤さに、思わず俺は戦慄を覚える。
仁王立ちで見下ろす美奈ちゃん。
一体何が起こっているのか、皆
オフィスにクリスの『ゴフッ、ゴフッ』というむせぶ音が、かすかに響く――――