楓と付き合い始めてから変わったことが二つできた。一つ目は美優との距離が修復不可能なほど離れてしまったこと。もう彼女とは業務連絡以外で話す機会はグンと減ってしまった。
二つ目は楓からの誘いが美優に反比例するように増えたことだ。以前の彼女なら見せなかった表情を今は見せてくれる。
そんななか楓にドラマのオファーが来た。主演というわけではないが共演者は有名な人ばかりだ。これは楓も同じ舞台に立ち始めているということなのだろう。
「私にですか?」
「今勢いに乗ってるアイドルを起用したいだそうです。もちろん受けるのも受けないのも楓の自由だけど……」
「やります。せっかくのお仕事ですからね。ワークワークしながら頑張ります」
「楓に演技なんてできるの?」
ダジャレには触れずにからかいを引っ掻ける。ダジャレに触れないと若干不機嫌になるのがそれすらも愛しいと最近思うようになってきた。
「馬鹿にしないでください。こう見えて演技の勉強もしていますから」
「だといいけど……そうだ、今度の週末どこか遊びに行かないか?」
「デートですか!」
「普通そういうの言わないものなのに……じゃあ楓にはどこ行きたいかを考えていて欲しいな」
「そういうの男性が決めるものでは?」
「まあいいじゃん。じゃ頼んだよ」
もう美優を迎えに行かないといけない時間だ。楓は察してくれるているのか困った愛想笑いをするだけだ。ため息をつきながらも車のキーを片手に事務所を後にした。
俺との関わりが減ったせいか美優は以前にも増してレッスンを励んでいる。その証拠に今もレッスンルームに残っているのは彼女だけだ。
「時間です。迎えに来ました」
「はい」
短い返事、これで俺と美優の一日の会話は終了だ。もうしばらく美優の笑顔を見ていない。SNSでも彼女の笑顔が消えたことによってさまざまな憶測が飛んでいる。
さやかちゃんからもダイレクトメールで「イメージ変える指示でもでたの? 前の路線の方が好きだったのにな~」と言われた。
実際はそんなことないのだがこれでファンが離れるようならなにか手を打たなければならない。
ちょうどそんなことを考えていると美優が戻ってきた。なにか声をかけようと開きかけた口は虫を見るような冷たい視線と前を何もいなかったかのように素通りしたことによって塞がれた。
二人きりの車内は苦しい。深海にいるような重圧と呪物のような怨念がただただ俺のふがいなさを浮き彫りにした。マンションまでが遠い。
毎回なにか起こるのはきまって車の中な気がする。
「楓さんと付き合っているんですか?」
いつもの弱弱しい声は捨て去られ匠によって磨かれた鋭い刀のような声は鼓膜に直に届いた。
「えぇ……まぁ」
おどけた脇差でなんとか打ち返す。一刻も早くこの時間が終わってくれと心の底から願った。
「そうですか」
怖いもの見たさや好奇心が人にはある。俺はこの瞬間その気持ちに負けて美優を一瞥した。
その瞬きにも満たない判断の瞬間で俺は美優が後悔と叱咤に苛まれていることが分かった。それは多分彼女のことを誰よりも分かっている自負からだろう。
ああ、悔しい。本当のことを全て話したい。勘違いなんだって。
むなしくもマンションに着いた車から逃げるように美優は出て行った。一緒に部屋まで歩いた時間ももう多分戻らない気がする。
「晴れてくれて嬉しいですね」
「でも本当に良かったんですか? ただ散歩するだけなんて……もっとどこか行くとかできたのに……」
「普通がいいんですよ。それにこれからもっとたくさん楽しいことはあるんですから焦らずにいきましょう、ね?」
「楓がそれでいいならそれでいいよ」
日中の公園というのは日差しも気持ちよくのんびりするのには最適だ。名前も知らない小さな緑は押し入れにしまったぬいぐるみのように安らぎをくれる。
太陽に向かって大きく背伸びをする。デスクワークで凝り固まった骨盤がパズルのように元の位置にハマったような気持ちの良さが体にみなぎる。
「私朝はお米派なんですけど最近はトーストにはまってるんですよね」
「ダジャレの伏線ですか?」
「もう……普通にテレビで紹介していたのをそのまま試しただけです。それが思いのほかおいしくて」
「へぇー、だったら俺も今度試してみようかな」
「徹也君は朝とか抜きそうなタイプだと思ってました」
「ちゃんと作ってますよ、でも誰かのご飯を作ってもらうほうが俺としては……楽ですかね」
まるで洋画のようにセリフの間にアイコンタクトで会話を交わす。楓もその意味に気づいたのか「機会があったら伺いますね」と言ってきた。
楓は音符が見えそうなかすかな鼻歌を口ずさみながら緑を踏む。その絵だけで何かのCM……お茶とかそういう系のさわやかさがある。
こんな素朴でキラキラした時間がずっと続けばいいのに。でもラムネみたいな幸せを味わえば味わうほど喉の奥で二酸化炭素が自己主張するようにパラレルを押し出す。
美優がいなくても満足なのか?
その時思わず目を閉じるほどの突風が吹いた。その瞬間に「きゃ」という小さな悲鳴と共に楓は俺の手をつかんだ。俺はその手をつかみ返せなかった。長時間鉄棒を握った後のように手に握力がない。
でも楓はそのことを気にしていないようで一方的に握っている。俺にはそれが数学の公式のように明確で国語の心理描写のように不明瞭だった。
翌朝事務所に一人で着いた。美優は意地を張るように俺を頼らず出社するようになったし楓もいつも電車を使ってここに来る。そろそろ有名になってきたし公共を使うのを避けたほうがいいんじゃない? と進言したこともあったが
「その時には事務所に近いところに引っ越します」
と自慢げに言っていた。だから基本交通は彼女たちに任せていたしそのことに疑問も後悔もなかった。でも今日は妙な胸騒ぎがした。
のろのろと自分の椅子に座るとすぐに電話が鳴った。
「おはよう、吉木さん。今までありがとうございました。そしてこれが最後です」
出会った時のような丁寧な音程、でも今ならそれが邪気を含んだ悪魔の声だと分かる。
「北原さん、いったい何の用ですか」
「メールを送ったので通話を続けたままそれを開いてください」
フィッシングのような怪しげなリンクを恐る恐る開くとなにかのマップが表示される。ここから遠くないところに二点の赤いピンが表示されている。
「なんですか……これ」
「三船美優と高垣楓を預かった。画面右上の場所に高垣が、左下には三船がいる。警察を呼ぶのも346に連絡をするのも結構。だが既にマスコミには情報が流れている。好きなほうから回収しに来い」
「お前! 自分が何やってるのか分かってるのか」
「好きなほうへ行け、選ばれなかったほうを殺す」
無情にも電話は切られ俺は夢中で奴の言うとおりに警察を呼んだ。マップを注視しながらエレベーターに乗り込む。
心を泥水で汚されるような最低の気持ちになった。まるで親友の葬式に出ているようなそんな気持ちの悪さ。
何故今なんだ。何がどうなって、北原はもう346をアイドル部門を破壊する準備はできているのか。
濁流のように憶測と最悪が絡まる。都会は少しの距離なら走ったほうが早い。電車に乗り遅れたであろう学生とすれ違いながら俺は地図のポイントを目指した。
走ること数分、目的地の周辺までやってきた。まさか346の近くにこんな寂れたシャッタービルが並んでいるとは思わなかった。人気のしない通りを全速力で走る。
遠くにサイレンの音が聞こえる。俺が呼んだ警察だろう。依然としてマップの印に動く気配はない。
【好きなほうへ行け、選ばれなかったほうを殺す】
昔からこういうどうしようもない心理テストをやる度に何が分かるのか疑問だった。好きな人を一人助けるか、関係ない人五人を助けるか。きっと主人公なら両方助けるのだろう。
しかし現実は非常で凡夫には前提条件を覆せるだけのエネルギーはない。
ずっと引っかかっていた。美優か楓かと問われたらどちらをプロデュースするのかを。
俺は────
手入れされていない店を蹴破り埃まみれの中へ入る。営業の後を根こそぎ奪ったせいなのか思ったよりも中は広くその広い部屋の中心に男、まさきがいた。
「お前こっちに来たのかよー。めんどくせぇなぁ」
まさきは椅子に縛り付けられた美優にナイフをチラつかせながら下品な薄ら笑いを浮かべている。同時に美優の苦悶の表情が見て取れる。
「てっきり高垣の方に行くと思ってたんだけどなー当てが外れたな」
「お前……自分が何してるのか分かってんのか?」
「いいよ、別に。この仕事こなせばたんまり金が手に入るって北原サンも言ってたしなぁ。そしたら顔変えて残った金でのんびりスローライフでも送るわ」
まさきには緊張感がないのか笑みを絶やさない。睨み合いが続く。
「警察は呼んである。もうお前に逃げ場はないぞ」
「今逃げれば話は別だろ。この辺りに監視カメラはないしな。それにこいつにも十分楽しませてもらったしな」
まさきが下劣な笑い声をあげると同時に美優の顔が曇る。そのとき美優の衣服が荒らされていることに気が付いた。
「お前まさか……」
「ああ、安心しろよ。突っ込んだりなんかしてねーからさ。だってせーしから特定されることもあるんだもんなぁ」
まさきは美優の髪留めを強引に取ると髪の毛を引っ張りながら匂いをかいでいる。抵抗することのできない美優は今にも泣きだしそうだ。
「おっとそれ以上近づくなよ? もし近づいてきたら……」
「俺を刺すのか?」
まさきからニヤニヤが消える。俺は奴の間合いにどんどん入っていく。こういうクソ野郎がいるから沙織も殺されたんだ。ふつふつと湧いてきた正義感は愉快犯への恐怖をかき消してくれた。
「て、てめぇーあんま調子にのってっと」
まさきはナイフをチラつかせてきたが全て俺の寸でで止まる。その手は震えて見えた。
「お前ほ、ほんとの殺っちまうぞ!」
「やってみろゴミ野郎!」
大きく振りかぶった拳がまさきにヒットする。そのせいかまさきは青ざめた顔のまま後ずさりする。
「ち、違う。お、俺はそ、そんなつもりじゃ……」
どうも様子がおかしい。だってさっきからやけに視界が見づらくてわき腹のあたりがやけどしたみたいに熱い。
まさきは悲鳴を上げながら店の外へ出て行った。追いかけようと思っても思うように体が動かせない。仕方がないので目的を美優に変え彼女を縛っていたロープを外し口についていたガムテープも優しく剥がす。
「て、徹也さん……そ、それ」
「何のことですか?」
美優に指さされたところを見るとナイフが俺のおなかに刺さっていた。美優は俺の手を取る。
「大丈夫なんですか? 痛いところは……って痛いですよね。えっと、こういうときってどうすれば……」
「ふふふふ、あはははははは!」
「徹也さん意識をしっかり持ってください! 死んじゃ、死んじゃだめです」
アドレナリンは中々効果的なものらしくまるで痛覚がマヒしている。むしろそんなことよりも美優と話せるのがなにも隠さなくていいのがどうしようもなくうれしい。
血がスーツをじわじわと侵食していくのが触覚を通じて分かる。たぶん今はランナーズハイってのと同じ感覚なのだろう。
視界も思考も感情も青空みたいに澄んでいく。でも唯一おぼつかない足取りだけは美優がカバーしてくれる。
「と、とにかく病院に!」
「それよりも先に行かなければいけないところがあります」
我に返ってスマホをいつの間にか床に落としていたことに気が付いた。美優に拾ってもらい画面を開いたが右上の楓がいる場所を示すマークはまだ動いていなかった。
「この場所に楓がいるんだ。助けに……」
「徹也さんは休んでください。このままじゃ本当に死んじゃいますよ!」
「死なないから」
嘘をついた。滴り落ちる血はすでに大きな湖のように床を染めている。人間がどれくらい血を失うと死ぬのかは知らないがこの量だけでも相当危うい状況なのもわかる。
でもここで北原さんとの決着をつけたかった。だから平気そうな顔を繕い美優に肩を貸してもらった。
二人三脚のようにタイミングを合わして一歩一歩目的地へ向かう。
「ごめんな、本当に……」
「いえ、もう大丈夫ですから」
どれだけの時間をまさきに弄ばれたのかは分からない。でもいつもの服の所々に肌が見える切り傷がある。それを見るだけで心苦しかった。
「でも……久しぶりだな。美優とこうしてゆっくり話すのは」
「徹也さんがいけないんですから……沖縄から帰ってきてから突然冷たくなって……私嫌われてしまったのかと」
「嫌いになるわけないだろ。美優が星のようなアイドルにするって約束だろ?」
マップに示された場所が見えるほど近くに来た。同時に壁を無数に反響するサイレンの音も聞こえる。もしかしたら北原は逮捕されているのかもしれない。
だとしたらここまで無駄足だ。しかし無情にもメールは届いた。
「私のいる場所は完全に包囲されたようだが君が今通っている近くのマンホールから中へ入れる。来たければ来い。来たくないなら外の警察にでも伝えろ」
メールに言われた通り近くのマンホールには小さな隙間が空いているところがあった。その隙間を美優と二人で引っ張り上げる。
「こんな場所に行くんですか?」
美優が不安になるのも分かるほど先が見えぬ暗黒。スマホのライトをかざしてようやく足元が見えるくらいだ。
「ええ、行かないと」
「……わかりました」
下に降りると鼻を覆いたくなるような悪臭が嗅覚を乱暴に襲う。コンクリートの足場はぬかるみがひどく支えあわなければ隣の下水に落ちてしまいそうだ。
スマホを頼りに右へ左へ行くと天井から光が漏れている場所があった。
真下から恐る恐る見上げたが北原がいる様子はない。鉄のはしごを慎重に上って出たところはさっきの店の中のような取り壊し寸前の錆びれた場所だった。
「遅かったね」
美優が穴から顔を出すと同時に背後にいた北原は俺に声をかけてきた。
「楓を返せ!」
「そう焦らなくても返すよ。もう目的は達したし」
「楓ちゃん!」
美優が駆け寄った先には楓がいた。特に殴られた跡や縛られた後もない。ただただ虚ろな目をして俯くばかりだ。
「楓に何をした!」
「なにもしてないよ。僕の目的は誘拐してその情報をマスコミに流すだけだから」
「じゃあなんで……」
「高垣楓はあんな様子なのか? とでも言いたいのかな? 簡単なことだ。彼女には計画を話して協力してもらっただけさ」
壁の向こう側でバタバタと幾重にも重なる足音が聞こえる。俺たちが来たのと同時に警察は突入を決行したようだ。
「協力だって?」
「そう、彼女に頼まれたんだ。吉木徹也に究極の二択を出すためにね。私か美優さんかどちらを先に助けに行くかを試してほしい、それをしてくれるなら大人しく誘拐されるって。だから予定にはなかったけど三船美優をわざわざまさき君に任せたんだよ」
恐ろしくなって後ろを振り返る。楓は美優ではなくただ一点。俺を見つめていた。ホラー映画のワンシーンのように心臓まで凍り付くような恐怖が刺さる。
ダメ押しのように擦り切れそうな楓の声がか細くそれでいてはっきりと耳に届いた。
「どうして……私じゃないんですか? あなたのためなら悪魔にだってこの身を預けても構わないのに……どこまでだって尽くすしどんなことだってできるのに……なんでいつも最後は美優さんなんですか」
「楓……」
わからない。いや分かっていた。心理テストに両方はない。左を選べば右に向かうことはできない。
誘拐という一刻を争う、下手をすれば殺されてしまうかもしれない状況下で俺は先に美優を助けに行くことを選んだ。
「モテる男というのもつらいものだね。楓は恋人になったから三船美優よりも自分の方が上だと自分に言い聞かせたかったのだろうね」
「北原ぁ!」
「さてそろそろ終わりにしようか」
北原はナイフを高々と掲げた。それと同じタイミングで透明の盾を持った人たちが押し寄せてきた。
「どうやったら346をぶっ壊せるか真剣に考えた!」
広い部屋は犯人を取り押さえるために人がどんどん押し寄せてくる。あらゆる音に負けないように北原は叫ぶ。
「それは自分の命を持ってこの社会に一石を投じればいいってなぁ!」
その瞬間は時が止まったぐらいスローモーションだった。警官と警官の間から北原が見えた。彼と目が合う。どこまでも底が見えないような暗い目だった。そして彼は自分の首にナイフを当てそのまま引いた。
鮮血が飛び散り北原を警官が幾重にも重なり彼の姿を目視できなくなった。遺書を書いたときに頭の中で思い浮かべていた光景は現実にするとひどく哀れな、滑稽なものだった。
警官の間をすり抜け美優と楓のもとへ向かう。二人とも警官に連れられながら奥へ歩いて行った。よかった、これで一安心だ。
ため息と尻もちを同時につき体から緊張が抜ける。徐々に頭がクラクラして瞼が徹夜後のように重い。体を支えていた両腕はついに力をなくし俺は固い床を背に倒れこんだ。
何も感じない。目の端で警官と白衣を着た人が死に物狂いで何かをしている。そんなに慌てなくてもだいじょ──
~完~