星は風に勝るだろう【完結】   作:ノノギギ騎士団

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いつか星を見上げた。
かつて願いながら、逃げ場の無い納得を与えた光は、今も変わらず見つめている。
何も言わず、見ていてほしい。もう誰にも願いはしない、僕を最後まで。





「3分だ」

 

 パンジャは告げた。

 

「3分で撤退する。時間になれば、バニィが『しろいきり』で目くらましする予定だ。その後は考えうる限り最速で逃げられるだろう。だが、あのポケモンの脚を止める必要がある。ポットデスだけでは技の威力が足りない」

 

「ほのおタイプのセキタンザンがいます。大丈夫」

 

 パンジャは、一度だけ、後ろからマサルの肩を叩いた。

 

「──任せてください。僕、やれますから」

 

「いい返事だとも! ニューラ、来たまえ」

 

 パンジャは、背中の荷物から細長い筒を手にすると石門を抜けた。

 それを合図にしたように謎のポケモン──彼らはその名称を知る由も無かったが、その真なる名をブリザポスと言った──突進するように動き出した。

 

「ポットデス!」

 

 マサルの声に応じてポットデスの『サイコキネシス』がブリザポスに命中した。

 宙に浮いたまま4本の逞しい脚をばたつかせるブリザポスを、ポットデスが集中を振り絞ってブリザポスを宙に留めた。

 

「セキタンザン!」

 

 指先でセキタンザンのボールを弾いたマサルは、立て続けに指示を飛ばした。

 

「『ほのおのパンチ』っ!」

 

 セキタンザンが吠える。

 ゴゥ、と放熱が古い遺跡に放たれた。

 宙に浮いたままだったブリザポスの顔面をめがけて『ほのおのパンチ』は完全な命中を見せた。

 低い呻きのような嘶きを上げてブリザポスは凍てついた玉座まで吹っ飛んだ。

 衝撃を逃がすことができない空中での攻撃は、攻撃箇所を考慮しても威力・相性ともバツグンだったようだ。ブリザポスは、すぐに立ち上がったが凍った石畳を叩く蹄の力は弱い。

 

「ナイスだ、セキタンザン! 『ほのおのうず』!」

 

 続けてセキタンザンが炎を振り撒く。

 ブリザポスが嫌がるように炎を避けた。

 

「いいぞ! たたみかけるよ、セキタンザン、ポットデス!」

 

 この勝負、勝てる。

 それどこか捕まえることもできるかもしれない。

 マサルは、目を見開いた。

 

「デキタンザン、『かえんほうしゃ』! ポットデス──」

 

 指示を出そうとしたマサルは、頭上にかかる陰に言葉が途切れた。

 なんだか空が暗かった。

 

「え」

 

 空が曇ったのだろうか。

 思わず見上げたマサルは、すぐに違うのだと気付いて腹の底がヒヤリと冷えた。

 

「『つららおとし』? まさか、こんな規模で──」

 

 遺跡の空を埋め尽くす氷柱が、敵意を持ってマサルに襲い掛かった。

 その瞬間、聴覚として捉えきれない音波の攻撃が彼に墜ちるはずだった氷柱を砕く。マサルを救ったのは、ポットデスの『りんしょう』だった。

 いくつかの氷柱はマサルのすぐそばに刺さったが、直撃は免れた。

 しかし。

 

「……ア! 耳が……!」

 

 キーンと高い音が耳の奥から聞こえる。

 自分の声も聞こえるかどうか怪しい。本当に自分は声を出しているのだろうか。

 

「ぐッ! セキタンザン……!」

 

 すぐそばでポットデスがマサル前で心配そうにのぞき込んでいる。

 咄嗟に大丈夫、と唇だけで伝えた。

 セキタンザンを見ると『ほのおのうず』をうまく展開しながら、素早く動くブリザポスと戦闘を続けていた。

 

 何とか身振り手振りで無事であることを伝える。

 それを認めたセキタンザンが、ブリザポスの『にどげり』をガッシリした両手で受け止めた。そして、セキタンザンの身体から強烈な熱波が放たれた。

 

『オーバーヒート』──これからの戦闘で攻撃の威力が下がってしまうことも厭わない、身体の持ち得る限界ギリギリの強烈な熱量を放出する技だ。

 ブリザポスが後ろ足で激しく地面を揺るがしながら、セキタンザンの両手を跳ねのけ大きく後方に跳ねた。そして、太く逞しい脚が震えて、前右脚の力が突然抜けてしまったように折れた。

 

 ちょうど、その時だった。

 

(時間だ!)

 

 マサルは辺りに立ち込める白い霧を見て、パンジャの言う『3分』が来たのだと気付いた。

 石門の方向さえ分からなくなってしまいそうな濃度だったが、目の前にバニプッチがやって来て小さな手で手招きした。

 

「セキタンザン! 戻って!」

 

 ポットデスを抱え、宙を浮くバニプッチの姿を見失わないようにマサルは石門を飛び出した。

 

「パンジャさ──」

 

 彼女の姿を探す。

 視界の隅に、彼女の青髪を見つけた時、マサルを衝撃が襲った。

 

「マサル君、舌を噛んではいけないよっ! さあ、滑降だ!」

 

 マサルを横抱きに抱えたまま、パンジャは走り出した。

 いや、違う。──マサルは彼女の足元を見た。

 ずっと彼女が背負ってきた荷物には細長い筒のような物があった。それが何だったのか。きっと、もっと早く気付いても良かったのにマサルは今になって知ったのだった。

 

「あ──や、やめ。は。は。は。や、やめてーッ!」

 

「ハーハッハッハッハ! 天運は我にあり! 往くぞーッ!」

 

 スキー板を装着した彼女は、険しい急斜面へ迷いなく踏み込んだ。

 

 ところで。

 トンネルが存在する意味を、パンジャは果たして知っているのだろうか。

 2地点の間の交通または物資の輸送を目的として作られるものだ。

 山頂トンネルが作られた理由が、マサルには分かる。山登りをするにしろ、下るにしろ、道行が困難過ぎるのだ。

 

 山頂トンネルを利用しない人は3種類の人間に分れる。

 ひとつ目は、死にたい人だ。

 ふたつ目は、恐れ知らずの人だ。

 みっつ目は、高い技術をもつ人だ。

 パンジャは、恐らく、3番目に該当した。

 

 誤解を恐れずに言えば、マサルから見える光景はただの断崖絶壁だった。

 山の断面図を考えれば、中途のここはただの急斜面なのだろう。しかし、急斜面に立つ人にとって目の前の光景は、距離の分からない壁が迫ってきているようなものだった。

 

「あぁぁぁーッ! 落ちるーッ!」

 

 身も蓋もない悲鳴を上げながら、マサルはパンジャの腕にしがみついた。自分が情けないことも自覚していたが、けれどプライドに代えがたいくらいに恐いのだから仕方が無い。

 ちゃっかりマサルにくっついているバニプッチが「コチコチ」と楽し気に氷を鳴らしている。

 この場において愉しんでいるのはパンジャのバニプッチだけだった。

 

「落ちない落ちない! 大丈夫、大丈夫! でも、暴れると落ちるから静かにしてね! 体重移動がスピード乗り過ぎていてちょっと難しいから!」

 

 彼女の声は、若干のドップラー効果の気味があり遅れて聞こえた。

 この頃になってマサルは、ようやく聴覚の痺れが治りつつあることに気付いた。

 

「地上に着いたら、たくさん話をしようぜ!」

 

 風の音に負けないように彼女は大きく声を張る。

 マサルは、ほんのすこしだけ首を曲げて山頂を見た。

 

 その先で。

 わずかな陽光が山頂を照らしている。

 そして、キラリと光った。

 

「…………」

 

 山頂に留まった時間は、思いかえせばあっという間だったような気がした。

 宝石のように光るブリザポスの姿が、見えた。

 見間違えのような光景は、マサルが山を登ろうとした時分に見たかったものではなかった。

 それでも。

 

(ねぇ、また来てもいいかな)

 

 マサルの腕に巻いたダイマックスバンドがキラリと光る。

 もし、あの謎のポケモンにも見えていたら嬉しいと思う。

 

 ここ最近のマサルは、野生のポケモンの対処に困ることはなくなっていた。この先も困ることは無いだろうと思っていた。

 けれど。

 純粋に強いポケモンと戦う楽しさを彼から学べそうだと思ったのだ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 滑降でパンジャが選択した道は、地図上の最短距離を描いていたのかもしれない。一時間立つ頃、雪原は、ようやく穏やかな傾斜面までやって来た。

 頬を撫でる空気も柔らかい。朝早く見た景色にマサルは、あの時は風景を楽しむ余裕があまりなかったと思い出していた。

 もうすこしで廃墟となった村が見えるという時。

 

「あ」

 

 マサルは、パンジャから最も聞きたくなかった種類の声を聞いてしまった。

 これは『うっかりミスをした』とか『取り返しのつかない失敗をした』という意味の声だった。

 彼が問いかける間もなく、何かに躓いた衝撃があり、マサルは彼女の腕から投出された。ワァ、と声を上げたかどうか定かではない。だが、体を丸めたマサルに対し、地面と激突する衝撃はいつまで経っても襲って来なかった。

 バニプッチが咄嗟に放った『れいとうビーム』で雪が降り積もる雪原には、氷の道ができていた。

 飛び出した勢いが自然に止まる頃、マサルはハッとしてパンジャの姿を探した。

 

「ぅ、ぐぐッ……」

 

 彼女は仰向けで倒れていた。たぶん、一回転し損ねて背中から落ちたのだろう。

 マサルが滑って来た先を見れば、雪の陰に隠れて岩がちょこっとだけ雪原から頭を出していた。思いがけず、それに乗り上げてしまったらしい。そういえば、躓いた直後にギギッという歪なスキー板の音を聞いた。

 

「パンジャさんっ。だ、大丈夫、ですか?」

 

 マサルは、そう聞きながら「大丈夫」以外の返事が来るとは思っていなかった。

 謎のポケモンの突進を初見で避けて、大胆な大逃走をやってのけた彼女が、こんなことで立ち止まるハズがないと思ったのだ。すぐに立ち上がるだろう。

 しかし、今日はよく予想が外れる日だった。

 

「……なんかダメかも……」

 

「は?」

 

「……もうここに住もうかな……」

 

「なんだって?」

 

 聞き間違いを通り越して幻覚が聞こえていたのかとマサルは疑った。

 今のパンジャは、笑みを無くし、そう──卑近な喩えをするのならば、徹夜三日目に突入したソニアをもっと暗くして追い詰めた顔をしていた。

 その理由は、彼女が握る杖にあった。

 

「……折れちゃったんだよ……」

 

 中ほどから折れた杖をパンジャは、手袋のまま撫でた。

 その杖は、村を出る時からパンジャがずっと荷物に括りつけていた物だ。そして、恐らくは彼女の親友であるアオイの物だ。

 パンジャは悲し気に伏せた目を、のろのろとマサルに向けた。

 

「君は、優しい子だね。マサル君。これがどういう経緯でわたしの手にあるか知っていただろうに、聞いてはくれなかったね」

 

「僕は、聞いちゃダメなのかと思って……」

 

 思わず口を突いた本音を彼女は咎めなかった。

 

「あぁ。聞かないでいてくれて嬉しかったよ。……ダメなことをしているとは、とっくに分かっているのだから……」

 

「今は。どうして持ち出したのか。聞いてもいいですか」

 

「これはね。わたしが、ちゃんと彼のもとに帰るための約束なんだ」

 

 まぁ、一方的なものなんだけど……。

 彼女は大切そうにそれを胸に抱いた。

 

「わたしは、これを勝手に持ち出してしまったから、帰すために帰らないといけないんだ。けれど、普通に返したら怒られるだろう? だから、ご機嫌取りの素晴らしい成果をプレゼントを持って帰らないといけないんだ……」

 

 パンジャは、マサルの気の抜けた顔を見て「分かっているんだよ」と緩慢な瞬きをした。

 

「『何でそんなことを』って言うんだろう? わたしだってそう思っているんだ。でも、止められないんだ。……わたしが守ってあげられない時間を、すこしでも安全に過ごせるようにしてあげたいんだよ。だから……」

 

「──単純な疑問なんですけど、アオイさんとよく喧嘩しないんですか?」

 

 マサルは、彼女のそばに座った。彼女は、気怠く瞬きするだけだった。

 パンジャの重々しい感情に耐えられる人がいることに、マサルは少々疑わしく思ってしまった。ネット通話で彼が空想上の存在では無いことをマサルは知っているが、それにしても彼は苦労していないのだろうか。

 

「喧嘩? もうずいぶんとしたことはないよ。わたし達は、とてもとても仲が良いからね。大切だからこそ甘い。……わたしの下手な嘘にも気付かないフリをしてくれて、わたしの不安に寄り添うように今日だってお家にいるんだ」

 

「それなら、あなたはもう帰らないと」

 

 マサルのハッキリと輪郭が際立つ声に、彼女は蹴られたかのように体を震わせた。

 

「…………」

 

「そうでしょう? パンジャさん。あなたは帰って、謝って、次の杖を買いに行かないと」

 

「……怖いんだ。何の成果も無いから……幻滅されそうで……怖いんだよ」

 

 右手で顔を覆ったパンジャは、力なく言った。

 マサルが、登る前に抱えていた悩みは晴れた。けれど、彼女は違うのだ。何も解決はしていないのだ。そして今なお解決するはずもない課題を抱えている。

 マサルは、そんな彼女に右手を差し出した。

 

「それでも『何も無いを得た』──今回は、それが、それだけが、結果なんでしょう?」

 

「…………」

 

 右手の隙間から、泣きそうに細められた目が覗いた。

 その目は、マサルが差し出す手を見つめ、やがて逸らした。

 スン、と鼻を鳴らし「まぁ」と意味の無い言葉を低い声で投げ出した。

 

「愚図っていても仕方が無いよな。もうやらかすことは全部やらかしてしまったのだし、謝って許してもらおう。杖も次を買えばよいのだし」

 

「切り替えが早い」

 

 マサルに見えるのが横顔だからだろうか。反省の色はどうにも見つけることができなかった。彼女は今だって『善意が空回ってしまった』程度に考えているのかもしれない。

 にこり。

 パンジャが、バニプッチに薄く笑いかけた。

 

「いい働きだったよ、バニィ! わたしの頼もしい子! 君も森が恋しい頃だろう……わたしもそうだ。だから、帰らなければね」

 

 パンジャは立ち上がるとマサルに手を差し伸べた。

 

「雪があるところまでこれで下っていけるだろう。追ってくる気配も無い」

 

 はい。

 伸ばした手は、お互いに手袋をしているので温度を感じない。

 だが、不思議と手の柔らかさを感じることができた。

 それに驚いてパンジャの顔を見つめる。

 初めて見る顔だった。

 すこしだけ疲れた、穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 たぶん。これがパンジャという女性の素顔のひとつなのだろう。マサルは思う。

 これまでは、きっと、山の魅力のようなものに憑りつかれていたのだ。

 

「さあ、行こうか」

 

 横抱きにされるのは恥ずかしいが誰も見ていないのだから、とマサルは自分を納得させた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 早朝出立したゲストハウスに帰宅したのは、午後3時だった。

 分厚い上着と荷物を下ろすなり、そそくさと部屋に戻り、そしてパソコンを持ち出してきたパンジャはテキパキとノロノロの動作を繰り返して、ようやくパソコンの設置を終えた。

 山から降りて来る道中でパンジャは報告を済ませしまう予定だと言っていた。

 トーストや紅茶を揃えて軽食を作業の邪魔にならない場所に置いた。

 

「ありがとう。……今日は電波が弱いな」

 

 フリーズ村は辺鄙な場所にある。ネット回線が不安定になっているようだった。

 

「何でしょう。曇っているからでしょうか」

 

「天候はあまり関係無いハズだ。ああ、でも。ガラル地方はエネルギーの在り方が独特だからな……」

 

「独特って?」

 

「ダイマックスだよ。主に影響を受けるのがポケモンだから危機感が薄いだろうけれど、噴水のようにエネルギーが湧き出しているということは、それだけで目に見えない磁場やら光線だとかを歪めてしまうんだ」

 

 そういうことがあるのか。

 マサルは感心して頷いた。

 30分くらいパンジャはパソコンの前でマサルの焼いたトーストを食べながら待っていたが、遂に繋がることはなかった。

 オフラインの画面を暗い顔で見た彼女は、サッと壁にかけたコートを担ぐと歩き出した。

 

「マサル君、悪いけど、パソコン見ていてくれるかな」

 

「はい。大丈夫ですけど……どこへ?」

 

「町長から『頂上へ行ったら様子を聞かせてくれ』と頼まれているんだ。話してくるよ。ついでに、あのポケモンのことも注意喚起もしておこうと思ってね」

 

 マサルは、パンジャを見送った。

 ビスケットを齧りながら、腫れたように感じられる頬をつねってみた。痛い。夢ではなかった。

 もうすこし紅茶を飲もうかと立ちかけた頃、突然、パソコン画面が切り替わった。

 

「あれ」

 

『モシ、モシモシ?』

 

 画面の端を見れば、ネット回線が回復した表示が出ていた。

 音声に遅れて、青い焔がゆらゆらと動いている。──ヒトモシだ!

 

「あ! つ、繋がっちゃった。ど、どうしよう……!」

 

 パンジャが出て行って数分経つ。

 彼女の足ならば、もう町長の家に着いているだろう。それでも呼び戻すべきだろうか。

 

『──ミアカシさん、どうしたんだい?』

 

 パソコンの前でおろおろするマサルの耳に、パソコンのスピーカーから穏やかな声が聞こえた。

 

『おや。パンジャからの通信か。お話していたのかい? あら、違うのかい?』

 

「あ、あの、もしもし……。僕です。マサルですけど、聞こえますか?」

 

『モシモーシ!』

 

 もしもし、と応答を受けたことが嬉しかったのかもしれない。画面の向こうのヒトモシがしきりに──パンジャの親友である──アオイの袖を引いて、画面を指した。

 椅子の背もたれをしっかり掴んでいた手が、カメラの角度を調節した。ガチャガチャと音が聞こえる。

 

『ああ、君か。無事に戻ってくれたようで何よりだよ』

 

 赤い髪をキッチリ切り揃えた青年は、慎重すぎる動きで椅子に座った。

 その膝に飛び込むようにヒトモシが座った。ちょこんと書斎のテーブルに手を乗せて機嫌良さそうにしている。

 

『……いろいろと大変だったろう? いろいろとね』

 

「えと、その、でも、勉強になることもたくさんあったので。あの、プラマイゼロ的な?」

 

『控えめな申告をしてくれてありがとう』

 

 画面の向こうで彼が笑った。パンジャが、そうするように薄い笑みを浮かべていた。不意に、彼がパンジャに似ているのではなく、パンジャが彼に似ているのだと気付いた。だからといって何かが起きるというワケでもないが、絡まった謎の正体がほんのりとマサルには見えた気がした。

 

「僕たちは、山に登ったんですけど……何も無かったですよ」

 

 ガッカリするだろうか。

 マサルは、恐る恐る彼を見たが、ただ静かに目を伏せただけだった。

 

『そうか。やはり、というべきなのだろうね。パンジャが気に病んだりしていないだろうか?』

 

「病んでますけど前向きでしたよ」

 

『いつも前向きなのは、彼女が私より優れている点だと思っている。控えめな賞賛をありがとう。君は良い子であるようだ。巻き込んでしまって胸が痛むよ』

 

「いいえ。とても良い……良い経験でした。独りなら、乗り越えるために……きっと、タイム・オーバーな位の時間がかかってしまったでしょうから」

 

 アオイは、画面の向こうで数秒だけ目を閉じた。

 そして。

 

『これだけ聞かせてくれないか。──楽しかったかい?』

 

「はいっ」

 

 マサルは、淀みなく答えた。

 今では悩んだ時間に価値はあると思えるのだ。

 

「そう。ならば……ならば、ええ、良かったよ」

 

 アオイは、この言葉以上の何かを伝えようとしていたが、口を閉じて、ひらひらと手を振った。

 マサルが分からず首を傾げると「おや」と頭上から声が懸けられた。

 

「──アオイじゃないか。いやはや、思いがけない時間に繋がるものだね。難儀なことさ」

 

「パンジャ。無茶はしていないだろうね。君と話すことができて嬉しいよ。僥倖というものだね」

 

 マサルの予想に反して、パンジャは苦味はしった顔をしていた。

 彼は立ちあがり、パンジャのために席を開けた。彼女は「ありがとう」と心にも思っていないことを言った。

 

「あの、それで、えーと……どこまで聞いたかな」

 

『頂上には何も無かったと。君には無駄足をさせてしまった。精査が足りなかったようだ。申し訳ない』

 

 アオイが椅子の上で不自由に頭を下げた。

 それを見て「やめて」とパンジャはヒステリックな響きを抑えた声で言った。

 

「わたしは何も苦ではないのだから」

 

『私は、無駄な時間を使わせたことを謝っているのだよ。──それで、いつ戻るかな? 航空券を押さえなければ』

 

「そ、その前に、そのぅ、わたしは謝らなければならないことがあって……」

 

 マサルはカメラの外で両手をグッと握った。

 頑張って謝ってほしかった。

 

『何を、かな?』

 

 アオイがさり気なく、口元に手を置いたのをマサルは見た。なぜだろう。隠しきれない口の端は、わずかに上がっているように見えた。

 

「え、えええと、君の杖なんだけど、わたしが──」

 

『……。ああ、その件か! 実は、あの後、見つかってね。わたしの置き忘れだったようだ。寝室の隙間にあったよ』

 

 朗らかにアオイは言う。『まるで大した問題ではなかったのだ』という響きがあった。

 

「え」

 

 これにはパンジャもマサルも思考が停止してしまった。

 ──では彼女が持っている、折れてしまった杖は何なのか。

 パンジャは、すっかり狼狽えてしまって手にした杖をカメラの前に置いた。

 

「で、でも、でもね、わたし……これ……折っちゃったの……」

 

『その杖。何だか見覚えがあるなぁ』

 

「あぅ……」

 

 パンジャは釈明や言い訳を考えていたのだろう。しかし、アオイの言葉に全てが飛んでしまったに違いない。しゅんと肩を落とした。

 

『あぁ、うんうん。どこかで見たような気がするなぁ。ねえ、パンジャ。その杖の持ち主とは、私が鏡を見れば分かる者だろうね?』

 

 もうやめてあげて……。やめて……。

 マサルは心のなかでそれ以上の追及が無いことを祈った。

 パンジャは「うぅ……」と呻いた。心は瀕死状態のようだった。

 

「……折ったのは良くなかったと思う……ます……」

 

『…………』

 

 アオイは、パンジャをじっと見つめて、口元を覆っていた手を解いた。

 その口は最初から笑っていて、楽しそうだった。

 

『及第点としよう、パンジャ。ただの杖だ。そう気にすることは無い。気に病むことも無いだろう。わたしも久しぶりに家事が思う存分できて充実していた』

 

「でも……」

 

 湿っぽく重々しい感情の気配をアオイは瞬時に悟ったらしい。

 笑みを拭うように消し、わずかに前のめりになった。

 

『この話は、できるだけ直接話したいものだ。誤解するのもされるのも私達にとって良い結果をもたらさないだろう。分かってくれるだろうね。私達が争うことは全くの無駄なのだから。──それから、君にすこしでも罪悪感があるのならば、早く戻って来てくれないか。罪滅ぼしの遠回りなんて無駄な抵抗はやめたまえ。君の望むとおりに私は家にいるのだから、そろそろご褒美があってもいい頃だと思ってくれ。君のいない家は退屈だ。私とミアカシはお手玉のプロになってしまったし、神経衰弱はリグレーの圧勝だ。……あぁ、不思議なことさ。君のいない時間の方が長かったハズなのだがね』

 

「今から帰る。一番、早い便を頼む」

 

『承ろう。パンジャ。私の親しい人』

 

 フッと息が抜けるようにアオイは笑った。穏やかだった。

 パンジャもまた穏やかだった。狂が醒めれば、遠方の恋人に話しかける──ただの女性に見えた。

 

「今度は、また君と旅がしたいよ、アオイ。独り旅は寒くて堪らない」

 

『研究の進行次第だ。しかし、心に留めておこう。……悪いようにはしないさ。あぁ、フフ……』

 

 アオイの膝の上でヒトモシが小さな手を振った。

 電波の状況が悪くなったのだろう。それを最後に音声が、映像が止まってしまった。

 オフラインの暗い画面をパンジャはパチリと閉じた。

 

「マサル君、わたしは──」

 

「はい。気を付けて帰ってくださいね。寄り道しないように、ね」

 

 言葉を先に取られてしまったことでパンジャは喉を詰まらせたが、しかし、話が早いと小さく声を上げて笑った。

 

「君には本当に迷惑をかけてしまった」

 

「そんなことは……うーん。うん……でも、僕も楽しかったです。本当に、楽しかったです。行って良かった、と今では思いますから」

 

 パソコンを鞄に入れたパンジャは、無言だった。

 しかし。

 

「負け惜しみを言ってもいいかな」

 

「何ですか?」

 

「頂上で戦っただろう? わたしが負けるところだったが、あのポケモンのせいで勝負がうやむやになった」

 

 マサルは、そういえばそういうこともあった、と思い出していた。時間にして数時間も前のことではないはずだったが、いろいろな出来事が重なったせいで遠くに感じられた。

 

 彼女は背中を向けたまま、言った。

 

「わたしは、ジムチャレンジが嫌いだよ。……君達の大切な時間を興行で消費してしまうことが、耐え難いと感じている」

 

 声音は、憤りよりも悲しみを感じさせた。

 震え。かすれた声だった。

 

「わたしには、わたしの夢が無い。わたしの夢は、いつだってアオイの夢だ。後悔はしていないけれど……だからこそ、自分で自分の夢を見つけることの幸いを知っている。君は、君のために、君の見たい夢を見るべきだとさえ思うんだ」

 

「……パンジャさん」

 

 荷物を整え終わったパンジャが、振り返った。

 初めて出会った時と同じ服装だった。

 変わったのは、マサルの心だけだった。

 

「僕は、僕の夢を誇りに思いたい。誰かの夢を破る時、誰であっても相手を思いやる気持ちを忘れてはいけないんでしょう。覚えていることが大切なんじゃないかと思います。もし、僕の夢が破れる時、僕ならそうしてほしい。彼が、彼女が、誇りに思う夢で僕を越えて欲しい。僕も、そうありたいから」

 

 深海の色が、初めて揺らぎを見せた。

 

「君は、難しく、けれど素晴らしいことを言う。思いやり。記憶。……わたしは、真逆だよ。夢を持つ人を踏みにじって来た。──わたしは、アオイの夢以外を尊重しない」

 

「…………」

 

 夢の後に遺るのは、ただの、事実で結果だ。

 彼女が山頂で言った言葉を思い出した。──『人は自分の夢のために命を懸けるべきなのだ。それができないのなら、他人の夢に命を捨てるべきなのだ』

 すでに終わった関係について、マサルが語るべき言葉は無かった。

 それでも、何かを伝えるとしたら。

 

「出来る限り覚えていてください。夢が無いあなたが壊した夢は、ひょっとしたら、あなたの夢だったかもしれないんですから」

 

 ピクリと彼女の口の端が不吉に持ち上がった。

 見間違えのような一瞬の後で。

 

「あぁ、素晴らしい教訓を得た! フフフ、君の言葉を記憶しておこう! そうだ。そうだな! そうだった『かも』しれない! わたしの、僕の、私達の、夢だったかもしれない!」

 

 彼女は、大きな口を開けて笑った。

 

「マサル君、君に幸運を。幸福を。そして、お別れを。──『もしも、ポケモンと友になれるなら』。ニリノモリ教授の夢が、世界に革新をもたらした。そのように君の夢が、君を導いてくれますように」

 

 パンジャが手を差し出した。

 マサルは、彼女の手を握った。

 

「ありがとうございます。……きっと、僕は、ジムチャレンジのなかで夢を見ることを後悔しません」

 

「ジムチャレンジは気に喰わないが、けれど君のことは遠い地から応援させていただくよ。Best Wish! 君に幸運が傾きますように」

 

「僕も、あなたの幸せを願っています」

 

 パンジャがゲストハウスを退去した。

 もう二度と会うことはない。

 旅人の出会いとは、そういうものだということをマサルはここで学んでいた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「あぁ、アオイ。……君の夢だけが、ただ、それだけが、わたしに夢を見せてくれるんだ。今は……まだ」

 

『誰よりも先へ、誰も見たことがないものを、聞いたことがないものを、知りえないものを』

 アオイの夢を思い出す。何度も、何度も回想した。彼が望む夢を、パンジャも見たい。その夢のためならば、何もかもを費やしてしまえるのだ。

 フリーズ村を見下ろす丘の上で。

 

「夢には二種類しかない。君の夢。誰かの夢。比べる価値が無い。だから、マサル君。優しい君が、誰を傷つけても、最後はそうして良かったと思えるようになりますように。祈っているよ」

 

 短い言葉を最後に、その姿は、駅に消えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 マサルも荷物を整え、フリーズ村から出立の準備を進めていた。

 3日後、キバナへ挑戦を挑む予定だ。これからハロンタウンに戻って調整をする。

 ユウリは、もういないだろう。でも、彼女を待たせ過ぎるつもりはなかった。

 

 黙々と荷物を詰め、テーブルの上に置いたままだったモンスターボールに手を伸ばす。ポットデスがボールの陰から顔を出していた。

 

「ポットデス……」

 

 キュルル、と声を出して、彼はマサルが伸ばしかけた手に触れた。

 ゴーストタイプらしからぬ、ぬるい温度が心地よかった。

 マサルは、笑いかけた。最初に彼と出会った時のように笑うことができた。

 

「ねぇ……ありがとうね。一緒に来てくれて、ありがとう。僕と一緒にまた歩いてくれて、ありがとう。だから、うん、お茶会しようか?」

 

 午後3時30分。

 インスタントの紅茶の安っぽい香りが、ヤバチャの香りと混ざる。

 

(あぁ……帰って来たんだな……)

 

 山は、寒かった。

 あの温度を忘れないように、けれど、感じないように。

 マサルは手の中でポットデスの温度を何度も確かめた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 スポットライトは、いつも煌々とチャレンジャーを照らす。

 手袋の中が蒸れて嫌だった。けれど、腕に光るダイマックスバンドがその不快感を忘れさせた。

 顔が燃えるように熱い。久しぶりの緊張に、マサルは意識して呼吸を長めに保つ。

 同じフィールドのなか、唯一、立っているキバナが緊張を察してニヤリと笑った。

 

「だが、迷いは晴れたって顔だ。ああ、ダンデに憧れるヤツはそうだ。みんなそうさ。その顔をする。知ってるぜ。──いいぞ。さぁ、来いっ!」

 

「胸を借りますよ、キバナさんっ!」

 

「生意気──だが、許す! 全力を出せよ!」

 

「はいっ!」

 

 マサルは、ボールを手にした手を胸に置いた。そして目を閉じる。

 照明が三方向から、マサルを照らす。

 目を開いた。会場が震えた。

 

「僕は、ジムチャレンジャー! 背番号000! ハロンタウンのマサル! 0を1にするために。僕は、あなたに勝負を挑むっ!」

 

 キバナが、白い歯を見せて吠えた。

 

「その勝負、ナックルシティ=ジムリーダーのキバナが受けて立つ!」

 

 声! 声! 声!

 観客は、口々に何かを叫び、空気を震わせた。

 

「僕が勝ったら、記念撮影とサインをお願いします!」

 

「最高のファンだな! いいだろう! ──さあ、この先は荒れるぜ! 乗りこなしてみせろッ! さもなきゃ、俺のオンリー・タイムだ!」

 

 応えるようにマサルも笑う。心臓が苦しいくらいに鳴っていた。

 ──ユウリ。

 マサルは、小さく、誰にも聞こえないような名前を呼んだ。

 

 僕は、夢を見定めた。

 それは、暗闇のなかで星を見つけたことに等しい。

 だから。

 僕はもう迷わない。星は風よりもたしかに、僕の勝利を見守ってくれるだろう。

 

「僕は、君を、ホップを、越えていく。そして『これが僕の夢だ』と誇りたい。だから! 今! 僕に勝利を!」

 

 ナックルシティのジムの天井が開く。

 星の直下。

 マサルが投げたボールが、白い光を弾いた。




【あとがき】
最終話まで見ていただき、ありがとうございます。
本作は、雪原に足を踏み入れてから、山を登るまで、こういう話があったんじゃないかと考えていたことをグネグネ練り出したものです。

本作において。
作品内の主張は、全て登場人物たちの因果により発生し完結するべきだと考えているのですが、ジムチャレンジ関連でパンジャの言った「負け惜しみ」は、当時、ジムチャレンジの詳細が発表された時分に何だか、これまでのバトル風景を思うとすごく言葉にできない感じがあったことの一面と重なるものでした。

今ではすっかり違和感も無く、そういうバトルコンテンツもあっていいかな、として楽しんでいるジムチャレンジですが、当時は、観衆がいるというステージ自体がコンテスト系のイベントくらいだった(あとはBWのジム演出であったかな? たぶん)ので、真剣勝負のバトルに、お遊びの価値観が入ってくるような感じがして、バトル観念を揺るがすような感覚がありました。

これまでの筆者のバトル観念は、シロガネ山でレッドと戦った時が代表的ですが、秘境で誰も知られない一対一の戦いロマンというものを至上に置きすぎてしまったのでしょう。価値観がひっくり返ったような衝撃を受けました。しかし、ポケモンバトルは、太かった。エンターテインメントに昇華されても、けっして消化されることはなかった。

剣盾はとても自分のなかで印象的な作品になりました。その熱量をささやかながら、小さな作品2編に収めることができたことは、とても幸いなことでした。自分が楽しくて書いている物が、もし、誰かのささやかな楽しみになれば、とても嬉しいことです。

『星は風に優っていた』を最後に、しばらく原作ポケモン関係の作品連載をお休みします。
そのうちBW+5Yの作品は書きたいと思うのですが、ポケモンのことをずっと考えすぎて頭がパァンになってしまい、焦点が近すぎて自分が何を書いているのかよく分からなくなってきました。すこし熱を冷ましてきます。
別原作の作品は投稿し続けるので、もし、どこかで見かけたらよろしくお願いいたします。また、そこでお楽しみいただけたら幸いなことです。

作中、面白かったもの・興味深かったものを教えてください。

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