何もかもが変わっていく。誰も彼もが変わっていく。『二度と元に戻らない』という結果を見つめなければ、時間を認識できないわたし達は、変わっていくことに耐え切れないので、せめてそれを成長と呼ぶことにした。
ジムチャレンジは、期間内であれば何度でもジムリーダーに挑むことができる。
ナックルシティのジム到達期限は、まだ数週先だ。幸いなことに自分を見直す時間は、たくさんある。
だから、帰るべき場所に帰って来たのだ。
「ただいま、母さん」
ハロンタウンの実家の扉を叩く。
電車を乗り継いで来たら昼に近い時間になってしまった。
扉はすぐに開いた。
母は驚いた顔をした後でニッコリ笑った。
「あら、マサル! 帰ってくるなら電話すればよかったのに」
「思い付きで帰ってきちゃったんだよ。これ、お土産ね」
そう言って甘味を渡した。
おいしいと思ったものを買ってきた。母も気に入ってくれたらいいなぁ、と思っている。
嬉しそうに受け取った母は、小さく首を傾げた。
「ありがと。そうそう、ユウリちゃんと何か約束があるの? お食事とか」
「いいや、別に……? ええっ! ユウリ、帰って来てるの!?」
マサルは、思いがけない情報に思わず森の方向を向いた。
「シュートシティまで行くために準備するって。ほら、道中は寒いでしょう? 昨日、ちょうどユウリちゃんのお母さんとお話ししているところで帰って来たのね」
「僕、会ってくる……!」
背負っていた荷物を全て押し付けてマサルは踵を返した。
(会って……僕は、何を……いいや、聞きたいことが……)
走るマサルは、まどろみの森を目指す。
森の端、そこに彼女の家はある。
そして見つけた。庭の花を見ていてるユウリは、人影に気付いて顔を上げた。
「ユウリ……」
「やぁ、マサル。元気そう」
彼女は普通だった。
普通。ごく普通に話しかけてきた。
ひらひらと手を振る彼女に、マサルも反射的に手を挙げた。
何か重大な使命を背負った気分でいる自分が、空回りをしている気分だった。
「元気……まぁ、元気……だよ。ユウリは、その、元気?」
「うん。元気だよ。どうしたの? マサル?」
何もかも普通であるのに彼女の目には、驚きがあった。
そして、そのうちフッと目を細めた。
言葉を選び、吟味するマサルの内心を知っているかのような、透き通った感性が浮かんでいた。
「ホップと話したんだね」
それを察してしまったのなら、話は早い。
マサルは胸に手を当てた。
「僕には、ライバルでいてくれるかとは言わないんだね」
言葉は、すこしだけ拗ねた子供っぽい声音で紡がれた。
「マサルは……ライバルとは、ちょっと違うっていうか……うん、とにかく違うんだ」
「…………」
理由もなく悔しい。
『もう一緒に並び立って戦うことは無い』と宣言されたように聞こえてしまう。
「自分自身をライバルにはできないでしょ。そういうことだよ」
「……どういうこと?」
彼女は何でもないことのように、確信を持って言う。
果たして。彼女が確信を持ち、言葉少なに頷ける情報があったかどうか、マサルは考える。何度も頭の中で繰り返したが、分からない。
「それだけなんだよ」
「全然……分からないよ。……ユウリ、もっと僕に分かるように言って」
「ライバルよりも『近い』ってこと。ライバルみたいに『比べる』よりも、そばで見ていて欲しいって思っている。ずっと一緒だったから、うん、これからもそれがいいなって……」
彼女は説明しながら、しかし、しっくりこないという顔をしている。
言葉はいつだって不十分だ。
幼いふたりにとって心情を説明するには語彙が足りないのだ。
「……ユウリ、君は……」
それでも、分かることはある。
例えば。
「次の試合で自分が負けるとは、ほんのちょっぴりも思っていないんだね」
マサルは自分がどんな顔をしているのか分からない。怒った顔をしているかもしれない。あるいは泣いた顔をしているのかもしれない。内心を照らせば、どちらも正解なので彼女にもそう見えていたら嬉しいと思う。だって『傍で見ていて欲しい』なんて、まるで遠いところへ行ってしまうための言葉だ。
彼女は頷き、満足そうに言った。
「…………うん、そうだよ」
彼女は、マサルの知らない貌で微笑んだ。
穏やかな、しかし、確信めいた相貌だった。
「わたしは、チャンピオンになるよ。わたしはバトルなら負けない。だから、誰にも止められないだろうね。ダンデさんがそうだったように、勝って、勝って、勝ち続けてチャンピオンになるよ」
「…………」
「挑めるなら、戦いたい。戦うなら、勝ちたい。勝てるなら、徹底的に。わたしは勝つよ。もう決めたんだ」
ユウリはニコリともせずに言った。
それは冗談ではない。しかも果たす宛てのない夢でもなかった。
彼女の目に宿る光からは『手の届く場所にいる』という事実を感じさせた。
「マサルはどうするの?」
不意に、彼女の瞳がマサルの奥底を覗き込んだ──ように錯覚した。
知らず知らずのうちに、マサルは一歩退いていた。
「分からない。……まだ、分からないよ。ユウリのように僕は、強く、ないから……」
「そう」
「でも、ホップのこと……っ……」
マサルは、しぼりだすように声を出した。
次の問いは、卑怯なことだと知っている。
「ユウリは、倒してもいいと思っているの?」
それでも、聞きたかった。
微かにユウリが痛みを抱える目をしたのを見て、うっすら後悔を覚えたが、瞬きの間に彼女の顔色から拭い去られてしまった。
「もちろん。だって、ホップが越えたいと願うチャンピオンは、わたし達より強いよ」
「そう、だね……。そうだ。きっと、そうだ」
力なく笑いながら、マサルは頷く。何度も。何度も頷いた。
チャンピオン=ダンデは強い。恐らく、この地方の誰よりも強い。
だから『みんな』が憧れているのだ。
ユウリは、森を眺めながら言った。
「わたしは、もう決めちゃったけどさ。マサルは、マサルの好きなことをやったほうがいいと思うよ。だって、今のマサルは、どこにだっていけるし、どこにもいかなくていいし、何にだってなれるし、ならなくていいし、続けてもいいし、やめてもいい」
「きゅ、急に何を言い出すんだ……! 僕は、やめないよ」
「たとえ話だよ。可能性の話なんだよ。……でも、やめないのは嬉しい。わたしは、君を置いていきたくないからね」
ユウリの言葉は抽象的だ。複雑な概念を必要としない。
それは共通した価値観を共有しているからだ。
「……僕もずっと同じだったらいいのにって思うよ」
「そうだね」
故郷のハロンタウンは何も変わらない。
真昼に薄暗い森は、今日も呼吸するように空気が流れている。
「ほんとうに、そうだね」
数秒だけ目を伏せた。
変わってしまったのは、僕たちだけだ。
ここはハロンタウン。故郷だ。
最も心が安らぐ場所にいるはずなのに、取り残された気分になってしまうのはなぜだろう。この心境の変化を成長だと言うのなら、この成長は本当に正しいものだったのだろうか。分からない。
分からないから、答えは未来にあると信じて進むしかない。
そして、道は自分で選ぶことはできる。
彼女が言ったのは、そういうことだろう。マサルの物分かりの良い頭は、結論を弾き出した。
「僕は、行くよ。……ユウリ、シュートシティで会おう」
「どこでだってわたしが勝つよ。それでも?」
彼女は薄い笑みを浮かべた。
恐らく事実なので、マサルは強く否定する言葉を持たない。目を見開いた。
それでも、良かった。
ユウリがホップに尋ねた『ライバルでいてくれるか』という言葉は形を変え、たった今、マサルへ放られた。
「勝負は最後まで分からないからね!」
彼女と同じ色のダイマックスバンドに触れて告げた。
ユウリは、どこかへ歩き出しながら言った。
「先に待っているよ。でも、待たせないでね」
「うん。すぐに追いつくよ」
とても遠回りをしてしまうかもしれないけれど。
マサルは、彼女の背中を見ていたが、やがて背を向けた。
早く並び立たなくては──。
ひとつ。目的が見つかる。気持ちは上向いていた。
■ ■ ■
家に帰るとすぐに外へ出かける準備を始めた我が子を、母は見つめていた。
「マサル。またすぐに出るのね」
「うん。…………ごめんね」
キャンプ用の食料と衣服、そして消耗品。
不足が無いか数えていた手を止めてマサルは振り返る。
母は笑っていた。
「いいの。でも、無茶しちゃダメよ」
「うん。ありがとう。……もうちょっとだけさ、僕のこと応援してくれる?」
「お母さんは、いつでもマサルを応援しているわ」
「ありがとう。母さん」
感謝の言葉は足りない。
まだ。もっと。
欲張りそうになるマサルを見た母は、ただ静かに笑うだけだった。
「そういうことは全部、終わってからでいいの。わたしもこれを渡すから」
母に渡された紙を見る。
「……チケットだ。カンムリ、雪原?」
南にある雪原のことをマサルは知識でしか知らない。
けれど、これを持っている母のことはもっと分からない。
「今は夏でしょう? カンムリ雪原はオフシーズンでパスが安かったのよ」
「……僕が使っていいの?」
「ホテルもいいけど大自然もステキでしょ? 息抜きしてきなさいな」
「…………」
母さんには、何でもお見通しだ。
マサルはリュックを背負う。
自然な笑みがこぼれてしまった。
「……うん。じゃあ、行ってみようかな。きっと、ユウリもホップも行ったことがないところだ。母さんは、行ったことある?」
「まだないわ。あとでどんなところだったか、教えてね」
「写真、たくさん撮ってくるよ」
あのふたりの知らない冒険──不思議と胸が躍る旅だと思えた。
マサルは、すっかり馴染んだ靴を履いた。
「いってらっしゃい。今度帰ってくるときは先に連絡しなさいね。ごはん作って待ってるから」
「はい。いってきます」
マサルはハロンタウンを旅立った。
二度目の旅立ちは、独りだ。
最初に抱いた不安も希望も、それほど多く抱えていない。
まるで天から見放されてしまったように身軽だ。
また戻ってくるための、いくつかの約束だけがマサルを動かしていた。
「カンムリ雪原か……」
何だか、とても寒そうだ。
帽子を買って行こう。
結果的に名案になる思い付きを胸に、彼は駅に向かった。
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