星は風に勝るだろう【完結】   作:ノノギギ騎士団

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パンジャ。シンオウ地方から来た旅人。
物腰柔らかに事実を列挙する、さながら書籍のような人だとマサルは感じている。深海が内包する恐怖を万遍なく備えている人だとも。
だから彼女の体験の多くは、海を越えた先にいる青年のことを語っているのだろう。素晴らしいと信じる存在を誰かに遺す為に。



贋作の価値

 ──私は、昔から人の顔色をうかがうことばかりが上手なのだよ。

 シンオウ地方からの旅人は、そのように前置きをして語り始めた。

 

「人と競い合うのは、疲れるだろう。蹴落とすのも、蹴落とされるのも心が痛むだろう。分かるよ。だからこうして休憩することが必要なのだ。君が参加しているのは興行だ。気苦労も多いだろう……」

 

 彼女は自分の鞄からおにぎりを取り出すと、控えめに一口齧った。

 マサルは、ゆっくりと肩の力を抜いた。

 だから彼女は墓碑の前で『要らぬ気苦労を背負うものではないよ』と言ったのだ。

 

 自分の分のカレーライスを作り、マサルは彼女が広げたレジャーシートの上に座った。

 

「……分かるんですか?」

 

 彼女は、一見で読み切るには曖昧過ぎる表情で眉を寄せた。

 

「分かるというか……何と言うべきかな」

 

 言葉を吟味する彼女は、答えた。

 

「実は、わたしは君を知っているんだよ」

 

「えっ」

 

 マサルは彼女に出会ったことがあるかどうか思い出そうとした。けれど、記憶に無いのだ。

 

「わたしが一方的に知っているだけだ。君は最近のチャレンジに関するニュースにも出ていたからね。ほら、チャレンジも終盤で挑戦者も少なくなってきただろう? だから、君の顔を知っていたんだ。名前とか成績は知らなかったけれど」

 

「あぁ、そっか。ニュースに……」

 

 マサルは、当然といえば当然のことを思い出した。もうしばらく見ていないことを告げると彼女は「精神安定上、その方がいいと思うよ」とこぼした。

 ジムチャレンジャーの参加者になるまでちっとも考えつかなかったのだが、テレビの軽いノリで胸に痛いことを聞いてくるのは疲れるのだ。また見返す勇気も無い。

 

「チャレンジャーの紹介をしていて面白いコーナーもある。とはいえ、君ならばチャレンジャー同士の手合わせ程分かりやすい理解の仕方も無いかな」

 

「ええ。それに、ニュースとか、テレビに出るのは恥ずかしいから……」

 

「そうか。テレビは時に過剰なキャラクターの切り取り方をするものだからね。……まぁ、そういうことを知っていたから君が疲れているように見えたんだ。君のことを知るわたしがいると旅行も穏やかではないかな」

 

「大丈夫です。全然、気にしませんよ。昨日は本当に助かりました。あ、そうだ。昨夜は何を調べていたんですか?」

 

「化石ポケモンが夜に何をしているのか観察していたのだよ」

 

「何をしていたんですか?」

 

「草を食べていた」

 

「草」

 

「草」

 

 マサルは何も言えなくなってしまった。

 昨夜の寒くて風も吹くなかを彼女は草を食むポケモン達を眺めて過ごしていたのだ。話を広げる余地が思いつかなかった。けれど「地味だなぁ」と思った。しかし、その地道な研究が実を結ぶこともあるのだろう。会話の糸口をマサルはつかんだ。

 

「え、と、それは、何か……分かりましたか……」

 

「『草を食べるんだなぁ』と思ったよ」

 

 マサルは、スプーンをくわえたまま「この人は本当に研究者なのだろうか」と見つめてしまった。

 よほど訝しい顔をしてしまったのだろう。パンジャは慌てたように手を振った。

 

「ご、誤解しないでくれ。ポケモンの生態研究は、友人の研究者に頼まれたのだ。彼の資料用でカメラを回してね。わたしはポケモンの生体構造の研究をしていて、ともかく、分野が違うんだ。詳しいことはよく分からないから『草食べているなぁ』としか言えなくてね。……君に講義できないことを彼も悔やむだろう。彼は脚が悪くて、ここに来ることができなったから」

 

「え。来て……いない、ですか……?」

 

 この事実にマサルは、なぜか頭の後ろが寒くなる思いがした。

 彼は、宿泊施設の部屋の隅に置かれた杖を思い出した。そこには荷物を置かせてほしい、と言った彼女の荷物が置いてあるのだ。そのなかに杖があった。荷物に括りつけてあったのだ。脚が悪い人が使うものだと思い込んでいたが──いいや、やはり杖は体に不調を抱えた人が使うものだ。なぜ彼女は自分が使うワケでもない杖を持っているのだろう? では、脚が悪い彼は今頃──。

 

 マサルの疑問は解決することができなかった。

 

「仕事熱心な人だ。たゆまぬ努力だけが成功の母だ。わたしのいっとう大切な親友だよ」

 

 彼女は食後のお茶を飲んだ。水筒のお茶はとっくに冷めているのだろう。湯気は立っていなかった。

 マサルは、飲み込めないこともあったがひとつ頷いた。彼女が気に留めるまでもないことのように振舞うので話すきっかけを無くしてしまったのだ。

 

 昼食を食べ終えると香りの良い茶の匂いが漂ってきた。ポットデスだ。

 

「む……。見たことがないポケモンだ。名前は何というのかな」

 

「ポットデスです。『冷え切った紅茶にさみしがりやな魂が宿った』と言い伝えがあります」

 

「では、ゴーストタイプかな。エスパーでもあるかな?」

 

「それがゴーストタイプだけなんです。エスパーやくさタイプの技も覚えますけどね。この子は、ずっと北西のルミナスメイズの森から一緒に旅をしているんです」

 

 彼女はマサルの説明に「ほうほう」と言い、ポットデスに手を振った。

 人見知りしない性格のポットデスは、しかし、彼女を遠巻きに見つめている。

 

「あれ……いつもは、こんなんじゃないんですけど……すみません。ポットデス、挨拶しよう?」

 

「いいや、正しい判断だ。わたしはどうもポケモンに恐がられる性質なようだから。……もう悪いことはしていないのにね」

 

 パンジャには不穏な陰がある。それが彼女の過去に由来するのか、意味深な振る舞いに惑わされてしまうからなのか、マサルはよく分からない。

 マサルが水筒のフタを外し、ポットデスに向けて傾けた。彼は一滴のお茶をくれた。

 

「仲が良いトレーナーだとたまにお茶をくれるんです。ちょっぴりですけどね。香りがいいです」

 

「甘い匂いだね。ふーむ。興味深い生態だ。そういえば、巨人の寝床で似たようなポケモンを見たような。こう、カップみたいな形で宙に浮いた……」

 

 彼女はアルミホイルをくしゃくしゃに丸めながら手で形を作った。

 

「きっとヤバチャですね。ポットデスの進化前のポケモンです」

 

「可愛いよね……」

 

 彼女は、素直な感想を述べた後でハッと辺りを見回した。

 

「いえね、わたしのバニプッチが他の子を褒めると怒るものだから。……そうだ、陽が高いからボールに戻したのだったよ」

 

「ああ、そういう」

 

「まぁ、気持ちは嬉しいんだけどね」

 

 彼女は腰のボールホルダーを撫でていた。 

 

「実は、ヤバチャには真作と贋作があって──」

 

「芸術的詐欺とは素晴らしい!」

 

 すごく食いついてきた。

 マサルは驚いて、すこし噎せた。

 

「大丈夫? それでそれで? どうやって見分けるんだい?」

 

 均整かな。模様かな。指折り候補を挙げている彼女は楽しそうだった。

 ヤバチャ・ポットデスの贋作真作問題は、有名な話でこの地方の人々ならば誰もが知っていることだ。だから当然、マサルも知っていた。

 

「食器の底にマークがあってそれが見分けるコツなんです、が……」

 

 言いかけたマサルは、シートの上に水筒のフタを置いた。

 気が塞いだように言葉を切った彼に、パンジャが「どうしたの?」と声をかけた。

 マサルは、昨日の考え事が今さらになって思い出されたのだった。ポットデスに遠慮したワケでは無かった。それも自己嫌悪に一役買った。

 

「あ、いえ……いいえ、やっぱり、真作がいいって思う人が多いんでしょうか」

 

「それは。マサル君?」

 

 テレビの話です、と言った。

 

「僕のポットデスは、贋作フォルムです。でも、だから彼の力が真作フォルムに劣るワケじゃない。僕は、面と向かって『どうして贋作フォルムのポットデスを使っているんですか?』なんて聞かれたことはないですけど……」

 

 けれど、何となく、分かる。そう聞きたがって仕方が無い観衆の声なき声が聞こえるのだ。たぶん、彼らが欲しいのは衝撃的な出会いの話とか、悲劇的な体験の話だとか、友情的な交流の話だとか、そういうことだと理解している。

 なぜか。『英雄』に『特別』は必要な要素だからだ。

 ダンデの思惑は分からないが、マクロコスモス社のローズが求めているのは恐らくそれだ。この地方を負って立つ勇者を求めているのだ。それが今はダンデというだけだ。

 

 しかし。

 

(──生きていて、必死で戦って、もう、ここに『いる』んだ)

 

 勇者の要素を持ち得ない自分が、それでもここにいる理由が必要だとしたら生きるということは何て難しいことだろう。僕も。ポットデスも。

 彼女は黙りこくったマサルを横目に「ふむ」と言う。そして、地平線を見つめた。

 

「君が本当に知りたいのは本物の価値ではなく、偽物の価値だろう?」

 

「え」

 

「『本物が優れて正しくて真っ当だ』ということは、もう分かりきっている。だから、贋作の方が気になるんだろう。偽物の価値は何なのか、と」

 

「そうかも、しれません……」

 

 力において贋作が真作に劣る理由は無い。

 ポットデスにまつわる話は、そこで終わってしまえるのだ。

 

 それでも、考え続けてしまうのは自分自身が『贋物』だと思ってしまうからだ。

 

 優れたチャンピオンがいるのに。

 優れたチャレンジャーがいるのに。

 ホップの情熱に感化された僕が立ち続ける理由が、探求心で良いのだろうか、と。

 

(でも。この悩み事の結論は、もう分かりきっているんだ)

 

 マサルは負けたくない。

 

 ユウリが待っている。彼女に勝ちたい。どうしても勝ちたい。僕だってここまで来たんだと言ってしまいたい。

 ホップが待っている。チャレンジャーとして戦いたい。君が手を引いた僕はここまで強くなったと証明したい。

 

 そして何より、みんなが目指した先が見たい。

 

 引き下がりたくない。臆病を優しさと言い換えてしまうことは簡単だ。

 ならば優しく無くなっていい。負けたくない。もう誰にも負けたくない。

 

 ただ、引き返し不能地点に踏み出す勇気だけが足りない。

 

「……君は、チャンピオン=ダンデになりたいのかい?」

 

 憧憬を滲ませる声音。

 彼女の顔をマサルは見なかった。その顔は、誰かの未来の顔をしているように思えたのだ。

 

「僕は……チャレンジャーとして、みんなが目指しているものを知りたいんです。僕が戦う理由なんてそれだけで……」

 

「わたしは良いと思うよ。探求心。善いことだ。分からないことを知り、理解する。分かったフリをするよりも、賢しい真似をするよりも、素晴らしいことだ。──全てを犠牲にするに足る理由だ」

 

 マサルが、いくら言葉を取り繕っても結局のところ行き着いてしまう結論を彼女は一口で述べた。

 

「探求心は、全てに勝り優れている。人間性を懸けるに値するとも」

 

 誰かに背中を押してほしい──そう思ったことは何度となくある。けれど、この言葉は違う。肯定だが、冷たい。否定されたら落ち込むクセにそう思ってしまうのだ。

 だって、これは。

 

「自分が犠牲になってもですか。同じことが言えるんですか」

 

 視点が欠けている。

 ユウリが、次の試合で自分が負けると露にも思わぬように。

 チャンピオンに憧れる目が常勝の王しか見ていないように。

 誰も自分の身の上に降りかかることだと思っていないのだ。

 しかし。彼女は違った。深海の色は、はるか西を見ていた。

 

「もちろんだ。それが心許す友だから、わたしは喜んで身を捧げている。わたし達は、どうしても研究者だから覚悟をしている。……彼は、ちょっとした淋しさで済むだろう」

 

 視点は満たされていた。単純に犠牲を許容しているだけだった。

 

「約束もしているんだ。それさえ守っていれば、わたし達の心は救われる」

 

 マサルは、大人の関係だな、と思う。ひょっとしたら世界は、この種の思いやりだけを『愛』と呼ぶのかもしれない、とも。

 

「淋しいと思う気持ちがあって……互いを想いやる気持ちがあるのに……どうして夢を止められないんでしょう。僕は夢を諦めたくない。でも、彼らに負けてほしくないとも思うんです」

 

「…………」

 

 パンジャは隣で笑った。

 それが、会心の失笑だったのでマサルは思わず彼女を見つめてしまった。

 

「いいや。嗤ったワケでは無いのだ。君は、若いのにちゃんと考えている。だから、安心したのだよ」

 

「……どっちつかずの甘ったれだっていうことは分かっているんです」

 

 すこしだけ拗ねたように唇を尖らせた。マサルの自己評価を彼女は肯定した。

 彼女は、立ち上がる。まるで舞台女優のように大袈裟にマサルへ手を差し伸べた。

 

「君は、偽物の偽造品の不正規品の非正規品で、海賊版でワケ有りの類似品の模造品かもしれない。──しかし、動力は何かな」

 

「僕は……」

 

 思い出す。何度も心の中で呟いた。思い返した。彼らの顔が思い浮かぶ。

 

『ふたりで鍛え合って、そしてチャンピオンになるんだ! どっちがなったって、おあいこだ。お互い、今だってそうだ。頑張っているんだから!』

 

『恐いワケがないだろ! ダンデを越えたら次の夢を見つけるだけだ。アイツが届かなかった先があるのなら、その先へオレが往くだけだ! ガラルを引っ張って、どこまでもな!』

 

『わたしは、チャンピオンになるよ。わたしはバトルなら負けない。だから、誰にも止められないだろうね。ダンデさんがそうだったように、勝って、勝って、勝ち続けてチャンピオンになるよ』

 

 夢を語る彼らに、その時は言えなかった言葉を。

 夢に懸ける熱は、君にも負けていないと胸を張って言いたいのだ。

 

「僕の夢は……みんなに勝って、未知の先へ行きたいと思う。みんなが憧れた先へ僕は行ってみたい。やっぱり、諦めたくないんだ。これは、これだけは、僕の夢なんだ。僕は僕の夢を大切にしたい……!」

 

 この想いは、自分だけのものだ。誰にも遠慮したくない。

 彼女は拍手した。

 数回のそれは、巨人の寝床によく響くものだった。

 

「素晴らしい! ならば、その価値を探しに行こう。──わたしと共に頂上に登ってみないか? どうしようもなくワケ有りで、あきれる出来の類似品で、分かりきった模造品の頂上だ」

 

 陰のある、冷たい瞳の研究者は、これまでに見たどの笑顔よりも穏やかに笑っていた。

 彼女の指先は、雲に隠れて見えない頂上を指していた。

 

「それでも、登り切ったら何か別なものが見えるかもしれないぜ」

 

 カンムリ神殿。

 そこは、フリーズ村が忘れてしまった古の祭祀場。

 雪中渓谷を進み、登頂トンネルをくぐり、頂への雪道を踏破しなければ辿り着けない極寒の地。

 

 確かに山頂という意味の頂上だが、マサルの求める頂上ではない。

 それでも、今のマサルには必要な一歩に思えた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

『それで、まんまと同行者を手に入れたワケだ』

 

 シェア住居型ゲストハウスの備え付けの無線LANは、共用リビングルームが最も電波を強く受信するようだ。そのため、パンジャは持ち込んだパソコンを共用テーブルに置いていた。幸いなことに、他の入居者はそれぞれ探索や散歩に出ているのだろう。午後三時ともなれば、まだまだ明るい。彼らは当分戻ってこないだろう。

 時おり止まるテレビ通信で画面に映ったのは、赤髪をきっちりと切り揃えた青年だった。名前をアオイと言うらしい。冷え冷えした声色にマサルは叱られている気分になり、お腹が痛くなった。

 

『天候が悪いのではないか? 取りやめたまえ。危険を冒すべきではない』

 

「明日が最も天候が良い日なんだよ。雨も雪も止んだ」

 

『──異常気象だというのに従前の予測が役に立つのか?』

 

 アオイにこれを言われるとマサルは反論ができなくなる。けれど、パンジャは違ったようだ。

 

「明日の天気くらいは検討がつく」

 

 彼女は、雲と気流の話をした。滔々と流れるような説明に画面の向こうの彼は多少、納得した風であった。しかし、本心は違うのだろう。

 

『……私は、君を案じているだけだ。パンジャ。私の大切な隣人。私の親しい人』

 

 マサルは「おや」と思った。彼らの関係は、ドライなものだと思っていたのだ。温い。そっと画面から視線を外したくなったマサルだが、彼と目が合った。

 

『君も怖いのならば、止めておきなさい。彼女は体が丈夫だから多少の無理が効くだけだ。雪の山道は辛いだろうよ』

 

 マサルは、彼らの間に交わされた会話が分からない。けれど、快く引き受けたということにしないと出発が遅れることは予想できた。

 

「体力なら自信があります! それに、村長さんに聞いたんですが看板も立っているそうなので道には迷わないと思います」

 

『…………むぅ』

 

「大丈夫だよ」

 

『しかし、予測不能な要素はできるだけ排除して──』

 

「この村で文献や研究資料が手に入らない以上、現地調査が必要だ。神話の解明に必要な手がかりがあるかもしれない」

 

 断定的な口調に、ついに彼は唸った。

 顔を顰めてしまった彼も認めざるをえない事実なのだろう。

 

『万難を排して向かえ。良い報告を待っている』

 

「ああ、楽しみにしていて」

 

 彼は、言うべきかどうか視線をやや迷わせた後で忠告した。

 

『……君は、くれぐれも引き際を間違えないように。君は事が有利に運ぶと調子に乗る悪癖があるからね』

 

「さすがに他人を巻き込むことはしないよ」

 

 あまり信用していなさそうに彼は「だといいがね」と吐息のような相槌をうった。

 それから。

 姿勢をあらため、画面越しに彼女を見た。

 

『ところで。話は変わるのだが……』

 

「何かな?」

 

 世間話が始まるのなら、席を外そうと思ったマサルはソファーから腰を浮かした。

 

『私の杖を知らないか? 君が出て行ってから見かけなくてね。外……散歩ができない。困っているのだが』

 

 慎重に、とりとめのないことを装った言葉だった。

 マサルは、顔が強張った。すぐにフレームアウトしたので彼には悟られていないと思う。

 ポットにお茶を淹れようとしたマサルは背中で彼らの会話を聞いていた。

 

「……。さあ、分からないな。どこかに置き忘れているんじゃないかな?」

 

『……。心当たりが無いのは残念だ。あらかた探し終えたと思ったけれど』

 

「だいたい困ることは無いだろう? 外へ行く用事も無い。食料は買い込んでいるんだから」

 

『……普通に家の中を歩く時に使うんだが』

 

「そもそも、杖が無くたって歩けるだろう? あんな物に頼らなくたって」

 

『手すりが無いところもあるだろう。安心感の問題だ。まぁいいさ。実に幸いなことに、外出の要は無いからな。君が帰ってくるまで大人しくしているとしよう。戸棚にある君の秘蔵のお菓子など食べても構わないだろうね。──お互いに、過度な危険を冒すことなく過ごせたら幸いなことだよ』

 

「ああ、そうだね。できるだけ早く帰る。わたしの親しい人、愛しい人」

 

『ぜひ、そうしてくれるよう祈っているよ。私の親しい人、恋しい人』

 

 最後は軽めの談笑を交え、通信は終わった。

 マサルは未だ彼女に背中を向けたまま、お茶を淹れていた。その間にも『彼女の荷物に見えた杖は見間違いだった』と思い込もうとして失敗し続けていた。

 

(あの人は、絶対に、気付いているのに! どうして責めないんだろう? もう持ち出したことが分かっていて無駄だから? 呆れているから? それとも──)

 

 紅茶の水面に、未だ強張った顔のままの自分が映っている。

 にわかに水面が翳った。

 

「君、わたしにもお茶を一杯くれるかな? それとも、わたしとお喋りするかい?」

 

 ──あぁ、ここに甘いお菓子があるから、わたしはお茶がいいと思うな。

 

 独り言にしては、大きくハッキリ聞こえたので、マサルは紅茶で満たしたカップを差し出した。

 




【あとがき】
 わりと冒頭の台詞(「人と競い合うのは、疲れるだろう。蹴落とすのも、蹴落とされるのも心が痛むだろう。分かるよ(略)」byパンジャ)について、過去作を読んでいらっしゃる人であれば「なに言ってんだ、コイツ」となる台詞なので大いに呆れていただけたら幸いです。

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