椅子に車輪をつけ、歩行を代行するもの。腕力で動かすため、上体の筋力が必要とされる。
使用者の青年が使わなくなった為、死蔵されていたが、彼女は埃を払い、駆動部に油を差し、いつでも使えるように整備している。理由を訊ねても彼女は静かに微笑むだけだ。未だ、愛ではなく忠であるから。
マサルは、洞窟というものに縁が無い。
これまで通ったことがある洞窟は、自然にできた構造物──というよりは、開発予定のトンネルといった人の手の工夫が見えるものだったからだ。
だから、目の前に広がるゴツゴツとした岩石のトンネルを見た時に「おぁ~」と感心の声を上げた。
「珍しいかい?」
「はい! とても久しぶりかもしれません……」
「自然洞窟だからね。見たところは、けれど、地図もある。まだマシな部類だ」
パンジャ曰く未踏の洞窟に迂闊に入ってしまった時は、にっちもさっちもいかなくて大変だったらしい。
自然にできた洞窟のなかは石質が同じであり、似たような構造が続く。そのため、注意しなければ道に迷うことが度々ある。
「その時からだよ。ちょっとした外出にもチョコレートを持ち歩くようになったのは。君もぜひそうするといい。準備は身を助けるものだからね」
彼女はリュックサックから電灯を取り出した。
「ところで、マサル君。洞窟が得意なポケモンとか、持っていたりする?」
「え……と。あ、バケッチャとか? 光るので」
「ありがとう。助かるよ」
マサルはモンスターボールを投げた。
パカンッと開いて現れたのは、バケッチャだ。
「やあ、バケッチャ。突然で悪いんだけど、洞窟探検中なんだ。すこし光ってもらえる?」
「すごい。ペカーッって光るんだね。こんにちは、バケッチャ。手助けありがとう」
お礼を言いながら、すかさずバケッチャの口に氷の塊を押し込もうとするバニプッチを制した。
「すまない。わたしのバニィは、みんな氷を食べるのが大好きだと思っているようなんだ。……アイスクリームと氷は違うんだけどね」
そう言い、彼女はバニプッチが作った氷を受け取って口に含んだ。
じゃあ、行こうか。
飴を砕くようにバキバキ食べながら彼女は進んだ。バケッチャがふわふわ浮いてマサルと顔を合わせる。彼女も困惑しているようだった。
■ ■ ■
マサルは、岩陰から顔を出した。
そっと覗く視線の先には、頂上に繋がる洞窟があった。
時計を確認したパンジャが、次に空を仰ぐ。天気は良い。崩れる予兆は無い。だからこそ、ふたりに立ちふさがった障害とは、視線の先にいるポケモンだけだった。
「うーん。大きいねえ」
ツンベアーがのしのしと歩く様子は、きっと彼女にも見えるハズだ。
「通り抜けられると思いますか?」
洞窟の前に居座るツンベアーを無視して洞内に入る道筋を考えるが、ツンベアーの類い希なる巨体に阻まれて想像も上手くいかない。
どうするのだろうか。
すこしばかり見上げる必要のあるパンジャの顔はマサルが見つめる間、ちっとも歪むことが無かった。彼女は浮遊するフリージオを手招くと作戦会議を始めた。
「フリィ、争いにならないように交渉してみるのはどうかな? 無理? ならば仕方ない、バトルしよう」
「判断が早いっ。もうちょっと、何とか、あの……」
彼女の判断は『思い切りが良い』と言われる類いだ。けれど、バトルを回避する方法は無いのか検討を尽くしてみたとは思えない。そんなことをやんわりと告げる。
「君は少々乱暴な結論と感じたかもしれないが、わたしはフリージオの判断を信じるよ。……それに匂いが少ないこの場所で、向こうがこちらに気付いていない可能性は低いと思うからね」
「……うーん、気付いているんでしょうか」
ツンベアーとは一度も目が合っていない。
マサルは、気付かれていないと思うのだ。
「まぁ、気付いていなくとも縄張り意識の強いポケモンだ。滅多なことがなければ、退くまい」
そう言われてみれば、この雪原のあちらこちらにいるフリージオやバイバニラの姿が洞窟の近くには見当たらなかった。
パンジャは深呼吸をした。
「……緊張しているんですか?」
「多少ね。わたしは長い間、研究畑の人間だったものだから」
本当かな?
マサルは実に疑わし気にパンジャを見上げた。
彼女の並外れた体力と気力、何より判断の速さは机上で物事を考える人間のものであると素直に思い込めないのだ。
パンジャは薄く笑った。
「察しの良い子供は好きだとも! ああ。大好きだよ。わたしは、ごく普通な研究員で今は片田舎の司書さんなのだよ。そして未来は穏やかな生活を送るただの隣人でありたいと思っている。いえ、ホント、ホント、ホントントン。まあ、そんなことはどうでもいいね。──合図したらあの洞窟、登頂トンネルに駆け込んでくれ。いいかな?」
「はい!」
マサルはリュックをしっかり背負った。
それを見て、彼女はひとつ頷く。帽子を目深に被り直した。
「よろしい。お互いに幸運を祈ろうじゃないか。──フリィ、行くぞ!」
バニプッチがカチコチと音を立ててパンジャとフリージオを見送る。
マサルも岩陰にひそみながら、その背を目で追った。
「だ、大丈夫かな……」
岩陰の向こう。
凛とした声が雪原に響いた。
──我、異邦より来たる探求者なり! わたし達の夢のため、そこをどいてもらうぞ!
そして先手必勝とばかりにフリージオの『ぜったいれいど』を撃ち込んだ。
残念ながら直撃は外れてしまったが、ツンベアーの敵対心を煽る役割として過ぎた威力だった。
(すごく堂々とバトル売ってる)
マサルの想像の数十倍程度大丈夫そうな様子が確認できる。バケッチャを胸に抱えて、駆け出す準備をした。
攻撃をかわしたフリージオが『リフレクター』を展開した。その隙を逃さずパンジャが手を挙げた。
「マサル君!」
合図だ。
マサルは走り出す。バニプッチが急かすように小さな氷の粒をマサルに投げつけた。
「フリィ!」
追いかけたツンベアーにパンジャの指示に応じたフリージオが『れいとうビーム』を放った。それは鼻先に直撃し、ツンベアーが怯む。洞窟まで辿り着いたマサルはバケッチャを手放した。
「バケッチャ、援護するよっ! 『タネマシンガン』!」
「上昇しろ、フリィ!」
フリージオの大きなからだでツンベアーの視界を塞ぐ。『タネマシンガン』が放たれると同時にフリージオがツンベアーの眼前から上空に逃げた。
それは一瞬の出来事だった。
フリージオを見失ったツンベアーは、彼を探すことができなかった。眼前に迫る『タネマシンガン』の榴弾が今度こそ直撃したからだ。
ひとつ。大きな声で吠えるとツンベアーは目を回してドウと倒れた。
「さ、行こうか」
服に舞い降りた粉雪を払い、パンジャは洞窟に入った。
「だ、大丈夫でしょうか」
「野生のポケモンは丈夫だ。なんせポケモンセンターが無いからね」
それは、そうですけど。
小さな声で応えたマサルは背負ったリュックからきのみを取り出した。そのうちカレーの具にしようと思っていたが、ここで使ってしまおうと思った。オボンの実をひとつ、ふたつ、と数えて、結局三個置いていくことにした。ツンベアーの傍に置いた時、鼻がヒクリと動いたので目覚めはそう遠くないのかもしれない。
その様子を眺めていたパンジャは乾いた笑みをこぼした。彼女が初めて見せる疲れた横顔だった。
「君の優しさは、決して周りを不幸にする類のものではないのにね……」
「いけないことだった、ですか」
野生のポケモンにきのみをあげることについて。トレーナーの間で議論があると知っている。彼女の意見に沿わなかっただろうか。マサルが訊ねると彼女はヒラヒラと手を振った。彼女の右手は「興味が無い」と言っていた。
「わたしは『優しさ』というものに、敏感でありたいのだよ。わたしの優しさは、堕落させて傷つけるばかりだから。気付くと周りを不幸にしてしまう。だから、君の優しさが羨ましい。こうして、さりげない、けれど、たしかな思いやりがあるじゃないか」
──わたしならば、邪魔なものに情けをかけることはないだろう。
言外に聞こえた言葉をマサルは冷たいものだとは思わなかった。そういう考えもあっていいだろう。許容できたからだ。
「パンジャさんだって優しいですよ。とても気遣いができるじゃないですか」
彼女は悩まし気に「うーん……」と眉を寄せた。
「いつものわたしは、もっと、手段を選ばない人間だ」
「そうとは思えないですけど」
「ありがとう。そうであれば成長していると言える。……前回ね、たいそう痛い目にあったから多少学習したんだよ」
本当にそうかな?
マサルは「はあ」とか「まあ」とか曖昧な応答をしながら、うっかり視界に入ってしまった誰かの『杖』を見て疑問に思った。しかし、この疑問は永遠に胸にしまっておくことにした。この冷たく高い山の中で、敢えて訊ねてみようという無謀な好奇心は持ち合わせなかったのだ。
■ ■ ■
「フリィ、ありがとう。すこし休んでくれ」
パンジャがフリージオをボールに戻す様子を見ていた。
マサルがその理由を訪ねたところ。
「今日は天気がいい。わたし達にとっては幸運だがフリージオにとっては、すこしばかり暑すぎる。彼にはもう一働きしてもらわなければならないし……」
「もう一働きって?」
「研究の仕事さ。わたしの目的だからね」
「ああ、そういう……。そうだ。ポットデスも戻る?」
断られてしまったので、ポットデスの好きにさせた。同じようにボールに戻らないバニプッチと宙にふよふよと浮いて、周囲のポケモンとコミュニケーションをはかっている。
結果として、彼女の判断は正しかった。
洞窟の地図は役に立たず、数時間を登頂トンネルで過ごすことになったからだ。
目印らしき看板はポケモンの爪とぎに使われたのか何なのか、ほとんどが形を無くしていることが大きな理由だ。だが、もともと洞穴という構造を平面図で作画することが難しかったのかもしれない。
「地図に無い道がある」
「やめましょう」
「ああ、やめよう。ふふっ、ククッ、役に立ちやしないね。まったく困りものさ」
こんな会話が五回ほどあった。坂を上った先が断崖絶壁だったことは、十回以上ある。パンジャも最初の三回くらいは笑っていたが、最後は笑わずに無言のうちに地図を畳んだ。彼女は『気遣いのできる大人』なので、もちろんマサルに八つ当たりなんてことはしなかったが、相当苛立っていたのだろう。目の奥に幕が下りてしまったように暗くなったのをマサルは見た。
また、ふたりとも『山中の洞窟』という特殊な環境にも多少影響されていた。
洞窟は身を打つ風雪こそ無いが、空気が停滞している。湿度と温度が一定に保たれているせいだろう、喉の奥に張り付く空気の澱みがあった。しかも、それは時に喉かきむしりたくなるほど煩わしい。彼女の後をついて歩いているマサルでさえ妙に気分が尖ってしまうのだから、知らない洞窟を引率するパンジャのストレスはどれほどだろう。マサルはできるだけ彼女の感情を刺激しないように言葉を選んだ。バニプッチやポットデスでさえ不穏な空気を察しているらしい。雪原で見せたはしゃぎようが嘘のような静まりを見せている。
しかし、マサルは悲観しなかった。
「うんうん。だんだん分かって来たぞ。ああ、完っ全に理解した。わたしは、こう見えて空間把握が得意でね」
地図の代わりに開いた手帳。それにガリガリと音を立てて地図を書き込んでいくパンジャは、頼もしい限りだった。マサルには読めない文字で知らない記号を並べて洞窟内の把握を進めていく。
彼女は決して無理をしなかった。ゴルバットが群れている地下に接触することなく、トンネルを巣にしているグリムガンを必要以上に警戒させることなく、何よりマサルの体力を気遣って進んだ。
「こちらだ。マサル君、行こう」
山頂へ続きそうな道を見つけた。
その段になり、マサルは「ようやくたどり着くのか」という思いを抱えた。
雪山を登っている間は考え事に悩まされたが、洞窟は探検に集中していて考え事の暇も無かった。
歩き通しで立ちっぱなしは、疲れた。着実に疲労は溜まりつつある。山頂についたら、すこしだけ休みたい。
「この道がアタリか。ようやくビンゴだぜ」
洞窟の坂道を登った先。
光が見えてパンジャが言い、パタンと勢いよく手帳を閉じた。
(ああ、やっと)
わずかに空気の流れを感じて気分が高揚する。
風が待ち遠しい。
早足で洞窟を抜けた。
その直後、眩しさに目を奪われる。
パチパチと瞬きした後で、マサルは呟いた。
「なんだよこれ」
思うように足が進まずに足元を見れば、新雪が積もっていた。
洞窟を抜けた先は──洞窟を抜けた先も、雪山だった。洞窟で迷っている間に、外の天候は変わったらしい。
雪が空から吹き下ろしていた。
『登頂トンネル 下山口』という古ぼけた木の看板が、見上げる先に突っ立っていた。
「おや、まだ登るのか。やれやれな気分だが、トンネルも抜けたことだ。もうすこしだろう。さ、行こう。マサル君」
マサルの隣で、パンジャが雪を踏みならしながら進む。
彼女の後ろをついていけば楽に歩けるだろう。これまでの道と同じように。
そうは思うのだが、マサルの脚は動かない。
疲労のせいだろう。
心の底から、そう思いたい。
■ ■ ■
「……大きな樹が見える。何の樹木だろう? シンオウでは見ない種だ。雪原の中央にある、ダイ木とかいうものと同じ種類なのだろうか。そういえば、ねぇ、マサル君。あれはガラル地方では一般的なものなのかい? ……? ……マサル君?」
パンジャは風雪の切れ目に見える巨木を見ていた。そして、訊ねた。
いつもの返事が返ってこない。
振り返ると登頂トンネルの出口で立ち尽くす少年がいた。
「……なぁ、君。どうしたんだい」
疑問は、ごく自然に零れた。
回答も、ごく自然に受けた。
「すみません……なんだか……あぁ……足が……うまく、動かなくて」
少年は時間をかけて言葉を吐き出した。
それから『ようやく伝えられた』という顔をした。
だからこそ、足の進まない原因とは。
怪我ではなく。
病気ではなく。
彼の心の問題なのだとパンジャにも分かった。
だから。
自分は、今すぐに荷物を下ろしてでも彼を抱えて山を降りなければならない。
思考が弾き出した行動規範は、どう考えても正しい。
パンジャには登頂を諦めた彼を保護する必要があった。
けれど。
どうしてもパンジャにはできなかった。
理由は、マサルと同じだった。
「ああ。そう。そうか。そうなのか。いいえ。いえ。そうなのか。あぁ、そうだとも。……君の気持ちは分かるよ。……。だって! わたしは『気遣いのできる』人間であるのだから! 君の気持ちが分かるんだ!」
声が大きくなる。裏返る。
バニプッチが隣で怯えたように震えるのが見えた。
だが、気にしなかった。
彼は足を止めた。
それが、こらえようもなく嬉しくて心が舞い上がってしまいそうだった。
「ああ、君は頑張った。頑張ったよ。これまで坂道ばかりだった。疲れただろう。疲れただろう。夢を叶えるのは難しいことだ。『山に登る』なんて、たったひとつの、ちっぽけな、他愛のない夢さえ叶えるには難しいのだから!」
寒くてかじかむ舌は、止まらない。
それでも嬉しくて、嬉しくて、嬉しすぎて笑わずにはいられなかった。
「だから、そこで休んでいると良い。あぁ、そこにいてほしい。君が動けなければ、私は安心だ。君には分からないだろう。ああ、分からないだろうね! こんな気持ち、誰かに理解されてしまったら僕はたまらない気持ちになってしまうのですから。わたしは、君の想像がつかないくらい、とっても安心しているんだ。──だって君は限界まで頑張ったのだから!」
過去、最も心を寄せる人に言ってしまいたかった言葉を余す語彙無く伝えた。
これは、真心からの善意である。また、彼女の思いつく限りの優しさだった。
(あぁ、気分が良い)
君に優しくできる自分のことを、彼女は好ましく思う。
パンジャ・カレン。
彼女の優しさとは独善的で善悪を斟酌せず、まともに取り合えば破滅の誘い水として飲み下すことになるだろう。自覚している彼女は自重する。思いがけない例外が生まれてしまったのは、マサルの懸命で賢明な姿が似ていたからだ。
彼の夢に憧れた。
彼の後悔を救いたかった。
彼の隣で並び立っていたかった。
そして、何より彼の心を理解したかった。
全て届かずにパンジャの願いは潰えた。
結局のところ。
彼は自分で自分の後悔を拭い、心を救ってしまったからだ。
パンジャは言葉が過ぎたことを頭では理解しているが、後悔しない。するはずがなかった。
彼女は、自分が善行を施していると信じ込んでいるのだから。
一方で。
凍てつく理性は、囁くのだ。
(ほら、マサル君。わたしは、やはり『優しく』はないのだよ)
──夢を諦めたくない君に、夢を諦めてもいいと肯定することは『易しく』あっても正しく『優しい』行いではないだろう。進み続ける君に、こんな優しさは要らない。だから、わたしもこれを優しさとは言ってはいけないし、まして愛などと呼んではいけないのだ。
今日は薄曇りで雪がちらつくものの、明るい。
だから狂が醒めるのも早かった。
山頂へ向かい、マサルに背を背けたパンジャは空に白い息を吐いた。
「アオイ。わたしは、動けない君が何よりも愛しくて大切に思えるんだ。……だから、どうか軽蔑してほしい。そして許してはいけないのだ。君は今ごろ杖が無くて困っているのに」
異国にいる彼は答えない。当然だった。
登山途中で聞こえていた風鳴り混じりの幻聴もいつの間にか聞こえなくなっていた。
何となく、彼にさえ見放された気分になったが、そもそも幻聴だった。最初から頼りにするには虚しい存在だ。形も無い。
パンジャは、わずかに頭を振って道を進んだ。
(あの子は、来るだろうか)
来てほしいのか。来てほしくないのか。
歩み続けるパンジャは、自分の心が分からなかった。
けれど、願うことが許されるのならば、来なければ良いと思う。小さな失敗に転んで、二度と起き上がれなければ更に良いと思う。
そうすれば、親友と決定的な破局を迎える前に諦めきることができる。大きな後悔を得たとしても、小さな幸せを抱えて生きるならば、おおむね良い人生と言えるだろう。親友との絆は、幸せな人生にはかけがえのないものだ。挑まなかった後悔と引き換えにする価値がある。
(──けれど夢なんだろう。夢。君の、君だけの探求だ)
パンジャが愛する探求心とは。
誰かが抱く夢や肉親への愛情や人生を貫く信念を全て平らげて、貶めて、蹂躙するに十分過ぎる理由を持っているが、きっと、彼は違う。パンジャとアオイは探求心を至上の価値としたが、これは万人に適用されるものではない。
彼は、自分の小さな疑問から生まれた探求心の扱いに、すこしだけ戸惑っているだけなのだ。
(もっと時間があれば良いのに)
もし、彼はジムチャレンジのチャレンジャーではなかったら、パンジャは静観しただろう。
でも、彼はどうしようもなくチャレンジャーだった。時間は有限だ。いずれ来る決断の時は──この手の類は──早ければ早いほど事態が好ましく転ぶ。彼もそのつもりで登山への誘いに乗ったのだろう。だからこそ、試練は与えられた。
(探求を夢とするのならば、それは幸いなことだ)
『夢』とは『欲望』の言い換えに過ぎない。
だからこそ、素敵だ。最高だ。
究極的に『わたしが、わたしのために生きている』と言えそうだ。
夢の果てに、求めた真実があるのならば幸いな人生だろう。たぶん。良い人生と言えるだろう。
探求を夢に掲げるパンジャが、幸せな良い人生だと自信をもって断定できない理由は、たくさんあった。
「寒い。あぁ、寒いな」
雪が深い。よろめいた拍子に、凍り付いた外套を見た。
──どうりで熱いくらいに痛いワケだ。
突き刺さる寒気で、表出している皮膚のあちこちが引き攣っている感覚があった。
「どうして寒いんだろう。こんなに寒いのに。どうして君が隣にいないんだろう……」
夢の道中は、痛く、冷たくて、心が凍えそうになる。
こういう時にこそ、彼には隣にいてほしいというのに。
今は無性に彼の声が聞きたかった。
いつもの命令のように形式的に尊大な言葉で命じてほしかった。
彼の夢に生きる自分は、その遂行のために何もかもを尽くしてしまえるのだから、痛みを忘れられるほどの使命と寒さも忘れる情熱を思い出させてほしい。
再びパンジャは空を見上げた。
マサルの気持ちが分かるのは、嘘ではなかった。
(わたしだってアオイと見る夢でなければ、こんなこと続けられなかった)
マサルにとって、この登山の意味は、実のところ無い。ジムチャレンジには一切関係の無いイベントだ。
自分の行いの価値を疑うこと。道程が徒労であると気付くこと。それらが心を病ませる原因になることは、よく知っていた。覚えのある病識だった。
縋る物が欲しくなったパンジャは、荷物に括りつけた杖の存在を思い出した。相変わらず、彼の声は聞こえない。寒いままだった。それでもパンジャは立ち上がり雪を踏みしめて歩き出した。彼女は『誤って彼の杖を持ち出してしまったので仕事を果たし、返すために帰らなければならない』からだ。道を行くため先立つ杖は、同時に彼女の後退を許さないために存在した。
しかし、理由さえあれば、人はこのように辛苦を耐えられる。
(あの子は、来るだろうか)
思考は、数秒前と同じことを考える。
これは何度でも思考する価値があった。
作中、面白かったもの・興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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世界観
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文章表現