境界なきかつをぶし   作:照風めめ

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小さな柔らかい影

 翌朝。漢字ドリルを数ページだけ進めた宗太は、自由帳と筆記具を抱えて祖母に「自由研究する」と言い放つ。「遠くに行きすぎたらあかんよ」との忠告を曖昧に聞き流して家を飛び出た。ニャン太郎は呆れながらも、お目付役を兼ねて付いていかざるを得ない。

 宗太の自由研究の題は、この檜皮(ひわだ)檜皮ひわだの田舎にどのようなポケモンが生息するのかをスケッチする、というものである。しかし祖父母から言い渡されたのは、安全面から考慮して庭や畑から出ず、スケッチをするのであればそこにいるポケモンだけにせよ、との約束であった。

 (おおよ)そ正確にその姿を捉えているとは言い難い、やや珍妙なタッチで色鉛筆を使い分け、畑で休むレディバを描く。しかし正面を描きたい宗太からすれば、半身のレディバを見るだけでは上手く描けるはずもない。そこで、「なあ、ちょっとこっち向いてぇや」と声をかけるもレディバは驚いて飛び去ってしまう。

 薄羽を震わせて畑の木々に紛れていくレディバを目で追いかけたが、すぐに見失う。少し虚空を見つめて、ちぇっ、と吐き捨てた後に宗太は頬を膨らませる。

「思い通りに行かない事なんて幾らでもあるものだ。ほら、そんな顔をせず他のポケモンを探せば良い」

 ニャン太郎の言う事はごもっともである。何せポケモンはこの辺りを少し探せばいくらでもいるのだ。自由研究をこなすのであれば他のポケモンでも良い。そしてそれは宗太も理解している。理解しているからこそ、その言葉を素直に認めらたくないのだ。

「レディバが良い」

「何を言うか」

「レディバがええんや」

 軽く怒気を含んで言い放つと、宗太は筆記具を抱えレディバが消えた方へと走り出す。「これ、待たんか」と叫んで追いかけるニャン太郎を振り切って、斜面に整然と並んだ牡欒(オボン)の木々の間を抜けていく。その様子に驚いたカイロスが仰け反り、眠りこけていたクヌギダマが木から落ちる。ポッポは慌てて飛び立ち、エイパムは尾を揺らして笑った。まるで畑全体が祭りかのように賑やかになり、宗太も声を上げて笑った。

 胴回りがいくら太いとはいえ、少年では虎猫に足の速さで敵うことは能わず、ついにニャン太郎が進路を塞ぐ。すると宗太は横に逸れ、ニャン太郎から逃れる。そしてそれをまた追う。徐々に当初の意味を喪っていくが、それが楽しくなって一人と一匹は駆け回った。

 昨晩は四の五の言ってはいたが、結局の所ニャン太郎は宗太が好きであった。この天真爛漫な笑顔を見れば、ついつい自然とこちらも笑顔になる。これが情愛と呼ぶべきものなのだろうか。だからこそ、我々はもっと上手くやれる。そう思わずにはいられないのだ。

 走り続けてようやく疲れの色が出てきた頃。畑の傍ら、倒れ臥して動かない綿鳥を見つけた。見るからに顔色は悪く、遠巻きでも息が荒いのが分かる。急いで近くに駆け寄り、そっと手を差し伸ばそうとしたところ、

「これ、迂闊に触るでない」

 迫真の怒鳴り声に流石の宗太も手が止まる。

「でも、助けへんと」

「そんなもの分かっておる。それよりもこのチルット、毒を負っておる。迂闊に触って宗太にも毒が回ってはいかん。ワシの言う通り、背中に乗せるのだ」

 一度は膨れっ面を作ったが、ニャン太郎の言葉に宗太は笑顔で頷いた。言われた通り、チルットの体に直接触らぬよう、綿の羽を軽く掴んでそおっとニャン太郎の背中に乗せる。するとニャン太郎の発条(バネ)のような尾がチルットとニャン太郎の胴体を縛り付け、しっかりと固定する。

「先に家に戻り、毒消しなり準備をしておくれ」

 宗太はニャン太郎を心配したが、うん、と答えて駆け出した。

 

 太陽が空の天辺に到達した頃、チルットは畳に敷かれたタオルの上で目が覚めた。見知らぬ場所で覚醒したことと、まだ少し痛む羽が先刻の記憶を呼び戻す。部屋の引戸が開いて現れた少年と虎猫を見て、チルットは慌てふためき飛び立とうとする。

 嫌な予感がしたニャン太郎は、するりと宗太の脇を抜け、やけに俊敏な動きでチルットに飛び掛かり、目先寸前で手を叩く。虚を突いた『猫騙し』に机の上の漢字ドリルは宙を舞い、チルットは思わず怯んだ。

「これ、無理に動くでない。消毒はしてあるがお主体力を失っているであろう」

牡欒(オボン)のジュース、ばあちゃんに作ってもらったから飲んでや。楽になると思うし」

 近付こうとすれば、依然チルットは警戒する。気にも留めずに接近する宗太に、ニャン太郎は制止を促した。その助言に従い、皿だけ置いて宗太は渋々後ろに下がった。

 普段はニャン太郎が使用する皿になみなみと注がれた木の実ジュース。チルットは辺りを見回し怯えながらも、直に匂いにつられて嘴を浸しながら飲み始めた。そうするうちに徐々に張り詰めていた緊張が弛緩したのか、チルットは「ありがとうございます」と会釈した。しかしその眼はどこか遠くを捉えているかのように感じられ、たまらず宗太は尋ねた。

「あんなとこで倒れてどないしたん?」

 すかさずニャン太郎が「宗太はポケモンの声が聞こえるのだ」と耳打ちすると、チルットは戸惑いながらも口を開いた。

母様(かあさま)と東に向かって飛んでいたら、紫の泥のようなポケモンをつれた人間の狩猟者に襲われて」と言うと辺りを見渡して「母様はどちらにいるの?」と尋ねる。

「すまなんだ。わしらが見つけたのはお主だけでな、その母様とやらは見ておらぬのだ」

 宗太は震えた声音で喋るチルットに衝撃を受けた。ポケモンを狙う狩猟者など、実在しない存在だと思っていた。地元の古鐘府にも良からぬ輩は多々いるとも聞くが、現にその害を被ったポケモンが目前に現れたのは初めてだった。ニャン太郎と接する時と、宗太を見つめる時、後者の時だけその表情が強張っているように感じるのは寂しかった。こんなことは初めてである。そして、自分の周りには人に愛されたポケモンばかりであることに気が付いたのだ。だからこそなんとかしてやりたい、そう思ったのだ。

「おれがそのお母さん助けるよ。どこにおるかわかる?」

 その申し出に二匹は目を丸くした。すかさずニャン太郎が異議を唱える。

「待て宗太、どうしてお主が助けに行く。救助を生業とする人間がいただろう、電話だの何だのして代わりに助けに行ってもらった方が良い」

 ニャン太郎は宗太が心配で仕方が無かった。流石に今回の事には危険が伴う。ただでさえ行くなと言われてる畑の外に出て、まともにやったことすらないポケモンの救助など出来るものか。無論、ニャン太郎もチルットの母とやらは気がかりであるが、見知らぬポケモンよりも目の前の宗太の方が当然優先するのだ。しかしそんなニャン太郎の心配をよそに、宗太は不満げに首を横に振る。

「人間に襲われた、って言われてんのに、救助隊の人がいっぱい来たら絶対驚いて逃げるやん。それに困ってる人がいたら助けなさい、って皆言うてるし」

 ニャン太郎はううむ、と唸りこそしたが、中々二の句が出なかった。その指摘が正しいか否かは現時点では判別不可能である。しかしそうしている間に宗太は立ち上がった。考える虎猫と違って、少年はただ純粋であった。あれやこれやと理屈をこねようとする虎猫には目もくれず、綿鳥を連れて縁側へ駆け出してしまった。なまじ言葉が通じるからといって、説き伏せる事が出来ると考えたのは哀れニャン太郎の迂闊の至りであった。言葉が通じようが通じまいが、宗太は変わらず宗太である。悲しいかな、それとも嬉しいかな。ええいままよ、と宗太を追いかけたニャン太郎には、せめて宗太の見に危険が及ばないようにせねばと努めるしかないのである。

 

 庭を飛び出し畑に入り、斜面を登っていく。やがては柵に至り、チルットはそれを飛び越えていく。その様子を見ていた宗太は少し戸惑った。祖父母とは畑から出るなと約束されているし、それを知られたら怒られるに違いない。どうしようもないが、ここにきて急に自分が可愛くなったのだ。

 足元の愛猫の顔を伺うも、彼もまた、少年の顔を伺っていた。どないしよう、という問いかけを喉の奥で留め、飲み込んだ。チルットの母親を助けるといったのは誰だ。自分ではないか。きっと見つかったりすればこっぴどく怒られてしまうだろう。自宅へ帰るまでの数日間、いよいよ家から出てはいかんと言われるかもしれぬ。迎えに来た母はこっぴどく叱り、父は苦笑を交えて一言二言(こぼ)すであろう。チルットの母を助けたい、というのはあくまでも自己の欲求である。しかしそんな動機はなんであれ、自分のためでなく、他者のために約束を破ることを決意した。いつもの我儘とは違う。指に食い込む柵がその通りだと促しているような気がした。

 柵を越えればいよいよ斜面の傾斜が厳しくなる。チルットのように羽も無く、ニャン太郎のように柔らかくしなやかな体躯をもたない宗太には少し険しい道のりである。人の手が入らない山の中は、それぞれ好き放題に伸ばした枝葉が生い茂り、陽光が差し込む隙などほとんどない。ほどほどに歩いていると、突如として開けた空間が現れた。陽光に照らされ、そよぐ風の下、大きな綿鳥が地に伏していた。顔色は悪く頰もこけ、まともに起き上がることが出来ないほど衰弱しているのが宗太にも分かるほどだ。全身に浴びたヘドロが綿のような羽毛と混ざり、毒々しい色になっている。子のチルットの様子からは想像もつかないほど異なる色だ。

「人間、何をしに来た」

 弱々しいが、それでいて明確な敵意を感じて宗太は自然と背筋が伸びた。下手をすれば攻撃をされかねない。そんな緊張感の中、少年は物怖じない。なにせ常日頃から怒られ続けて来たものだから、こんな所で何糞負けてたまるものか。既に退路は断っている、となれば妙に強気になるものである。

「そんなん、助けに来たのに決まってるやん」

 返答があったことにチルタリスは驚いた。毒によって回った熱に(うな)されているからかは分からぬが、どうも会話ができるらしい。

 であるならば、とチルタリスは宗太を見つめ、「お前がか?」と憫笑(びんしょう)した。「私達は人間に危害を加えたことなぞ一度も無かった。なのに人間は私達を襲った。そんな私達を事もあろうか人間が救う? 信じられるものか」

「そんなん言わんといてや!」と宗太は、いきり立って反駁した。「確かに悪い人もおる。でも、良い人だっておるんや」

「私達家族が襲われたのは此度一度きりでは無い。人間に住処を追いたてられ、私達は住処を、故郷を捨てて生きようと東へ飛んで生き長らえようとしている。そんな私達に人間は手を差し伸べるどころか何度も襲いかかってきた。口では、どんな清らかな言葉も出るものよ。そんな人間の所業を受けて来た私は人間を憎む。差し詰め、お前も私達に害を為すに決まっている。だからこそお前達の施しは受けぬ。傷口に塩を塗られては困るのよな」

「違う! 人間がポケモンを助けて悪いんか。可哀想やと思ってんのに助けたらあかんのか?」

 募り積もったチルタリスの怨嗟の声に、宗太は少し躍起になった。このままでは平行線、そうお互いが感じ始めた時。ニャン太郎の背で休んでいたはずのチルットが親鳥の前に躍り出る。

「母様、一度だけで良いので彼のことを信じてやってください。母様を救おうとして力尽きていた私を、彼は助けてくれました。私だけでは母様を救うことが出来ませんでした。でも、私を助けてくれた彼ならば、信じられると思うのです」

 愛する娘の嘆願に、チルタリスは渋々とそれを受け入れた。「そこまで言うのであれば好きにするがいい」そういうと、宗太とチルットは目くばせをした後、声を出して喜んだ。

「必ず戻ってきて助けるから、ちょっと待っといて!」

 チルタリスは鼻で笑った。どうせ動けぬ。あの狩猟者のポケモンが放った毒が回り、身体中痺れて話すのがようやっとといったところである。いずれにせよ朽ちゆく命、最後くらいは娘の嘆願を受け入れるのも良いだろう。

 宗太一行はチルタリスに手を振って、行った道を引き返す。森を抜けて畑に戻った頃、入道雲が一人と二匹を遠巻きに眺めていた。

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