紀述者より   作:moti-

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症例番号44番 - 5

 体が浮かんでいるように感じた。

 一瞬の浮遊感の後、少女は世界を見る。

 極蒼色の世界だ。流体的な世界だった。その中で動いていないものはない。何もかもが動いている。すべてがすべて微振動していた。それが死体であろうと、そうでなかろうと。

 そんなものはあくまで状態だ。本質だけしか存在しない世界からすると、そんなものは些事でしかなかった。

 そして本質だけの世界において、ただ一人生身の少女は嘆息して動き出す。

 

 ここにはすべてがある。すべてが存在する。存在していないはずの物質、存在していたはずの物質。未知と既知が混在している。

 少女にはそのすべてが見て取れた。すべてを理解している。すべてをわかっている。

 

「って、こんな程度で万能感を感じるのはまだ早いって」

 

 理解できるだけだ。応用はできない。完成系を知っていることと、それを作り出せることは必ずしもイコールではない。少女には技術が足りなかった。練習量も、熱量も足りない。

 そんな少女にでも、できることはある。

 

「アベルくんがこんなところで死んじゃうなんて、私の筋書きにはないんだよ!」

 

 少女が少年を見初めた理由なんてものはない。

 暇つぶしのための道具として無作為に抽出しただけ。けれど偶然から始まった関係とはいえ、少年は彼女の予想以上に愚かで、愛おしかった。

 だからこそ彼女は、セトを名乗る少年のために動くのだ。

 

「まったくもう、私にこんなに働かせるなんてアベルくんったら罪なんだから!」

 

 月も、太陽も、直ぐ側にあるような世界。

 世界を掌で転がせるようなそこであってなお、『打開策』は大変だ。

 消失した少年の左腕。その傷口から押し出すようにして、彼女は現実を改変した。

 

「──いつか逢えるよね」

 

 少女は口の中で小さく言葉を転がした。あまりに小さな声で聞き取ることはできない。

 大きく弧を描いた唇からしか、誰を想っているのか想像はできない。

 

 

 

 

 

 

 

「──『詔』」

 

 放たれた破壊の嵐に、オレはなすすべを持たない。

 が、オレの死を避けるかのように妖精の左腕が呪力をまとう。オレの呪力をほとんど食い尽くし、それは効果を発揮する。

 

 ──一瞬。

 

 ここから起こったのはすべて一瞬の出来事だ。

 御莉蘭の剣から光が立ち上り、登場したのは一人の女性だった。

 彼女は剣に目を向け、複雑そうな目をしたあと、迫りくる振動に対し同じく振動をぶつけ相殺。

 

 そして気づけば男の首を、手刀で飛ばしていた。

 

 金色の髪がゆらり揺れる。喉元から血をこぼし、勢いよく後ろに倒れ込んだ男。その体はびくんと一度大きく震えたかと思うと、二度と動くことはない。

 女性の目がオレを刺した。いいや、正確にはオレの左腕……今は姿も形もない妖精の左腕を。

 

 そしてつぎ込んだ呪力が空になったのか、粒子に還るようにして消えていった。

 

 残されたのは、男の死体と、崩壊寸前のオレと、空を見上げながら涙を流す少女のみ。

 時間にすると一瞬だ。

 その一瞬で、なにもかもが崩れ去ったような気分。

 

 結局、なにももたらされることはない。オレは生き残った。御莉蘭は死んだ。それは一体、何が隔てたのだろう。

 決まっている。オレが子供だからだ。

 だからこそ御莉蘭はオレをかばった。そうでなかったら、オレだけが死んでいた。

 

 立ち上がる。

 失血で体は重たい。動かすのが億劫だ。けれどそうする必要がある。

 歩き出した。一歩進めるごとに、体が光となって虚空に消えていく。恐ろしい。そう思うのは当然だ。けれど、それで止まるという選択肢はなかった。記憶と一緒に正常な判断能力まで落っことしたようだ。

 間違えてばかりいる。

 正しいこと。そのほとんどが、オレにはできないことばかりだ。

 

 少女の前に立った。

 

「ねぇ」「なんだ」「夢の終わりって、いっつも唐突なんだ」「お前の語り出しもな」「なんとなくわかってるの。なくしちゃいけないものがなくなったって。私、もう死んじゃうのかな」「……さぁ。人はあっけなく死ぬからな。場合によってはそういうこともあるだろ」「そっか。こわいなぁ」「まったく怖そうじゃないな」「怖いよ。けど、なんでかな。実感がわかなくて」「そういうもんだよ。オレもそうだ」「死んじゃうの?」「さぁ。死ぬのかな、死なないのかな。オレにはわからないよ」「そっか。……私はもう死ぬよ。だからね。一つお願いしていい?」「どうした?」「私の──唯乃のことは忘れてよ。それでさ。私のぶんまで生きてみて」「わかった。……おい。おい?」

 

 触れると、少女は死んでいた。

 体の崩壊は停止する。まるで崩壊を拒むかのように、逆再生のように体が再生する。

 彼女が誰なのかはわからない。大切な人だったのか、そうでなかったのか。

 けれどこうして死を看取ったということは、オレにはやるべきことがあるということなのだろう。

 

 左腕は、崩壊前と形状が変わっていた。

 以前は半透明ながら真っ当な人の腕だったが、今のオレの左腕は機械的な容貌をしていた。

 骨に沿うように蒼のラインが通っている。皮膚は黒くも、白くも見えた。手は義手のように関節がむき出しで、動く様子がよく見える。触ってみると金属の冷たさを感じられる。そして指先は以前よりも透明度を増し、ほとんど存在しないようなものになった。

 そしてその地肌を覆うようにして、枷が嵌る。手甲のような金属の拘束。その上には呪符を包帯のようにぐるぐる巻に。それが肩口まであった。

 

 位階の上昇に伴って、封印をしたのだろうか。

 これをやったのは──きっと、妖精だろう。

 

 生き残ったのはオレだけ。

 少女を持ち上げる。

 落ちていた剣を拾う。先程跡形もなく壊れたのを見たはずだが、左腕の暴走のときに再構成されたのだろうか。

 そしてオレは歩き出した。

 行く宛はない。

 寄る辺もない。

 今はただ、歩きたかった。

 

 

 消えた記憶は辿ることができない。

 今回に関しては、消えたことすらわからない。

 さながら雑な悲劇のように、オレだけが生き残ってしまった。けれど、それは弱さのせいでもあるだろう。

 オレは弱い。そう、弱い。決して強くはない。

 奇妙な左腕こそ持っているが、だからと言ってそれでなにかが変わるわけじゃない。

 

 オレの前に立ちふさがる影があった。

 呪詛師か。

 オレが疲弊するのを待っていたのかもしれない。あるいは、御莉蘭が消えるのを。

 懸賞金とやらは、どこかに預けられているのだろうか。払い主が死んだ今でも有効なのか。

 そんなことを思う程度には、今のオレは危機感を感じられない。

 

 顔面を一発。妖精は黙っている。指示もない。これまでの戦闘経験が、今のオレのすべてだ。

 そんなオレでも簡単に相手を倒すことはできる。向かってきた相手の顎を蹴り上げた。オレの体は、やけに柔らかい。足が真上に届くほどだ。

 一撃で仕留めた。あんまりにも退屈な終わり方で、オレはため息一つ。

 また歩き始める。

 

 足跡から蒼の光が立ち上った。

 それはくゆり、踊るようにオレの周囲をぐるぐる回った。

 

 

 

 

 五条悟はその少年を見たときのことを、きっと忘れないだろう。

 

(呪霊じゃない。けどこの感じ、人間でもない? 九相図というわけでもないか。里香のときと同じ──正体不明(わからない)、か)

 

 やぁ。声をかける。少年は振り返った。綺麗な金色の瞳に、人を呪い殺せそうなほどほの暗い明かりを宿している。

 いいや、実際に目から術式が発動するようになっているのだろう。

 

 邪視。あるいは魔眼。呪術としては原始的であるが、強力なことこの上ない。

 術式と同じく、基本は生まれ持ったものだ。才能に大きく影響されるもの。

 けれど、彼は珍しくも後天的な邪視者であることが見て取れた。

 

「……なんスか?」

 

「いやぁ。なんだろうね。……スカウト?」

 

「はぁ?」

 

 絶対零度のような、冷たい声音。

 常人であればおそらく怯んだであろうが、あいにくと五条悟は最強なのだ。なにも問題はない。そんな威嚇なんて、彼には効果もない。

 

「君、妖精の左腕の適合者でしょ」

 

「そうですけど、何か」

 

「仏陀御莉蘭は僕の後輩、って言ったらわかる?」

 

「……なるほど」

 

 少年は、そういうと瞳の剣呑な色を落ち着けた。

 

「遺言、知りたいですか?」

 

「……あるのかい?」

 

「ええ」

 

 左腕が一瞬輝いた。

 

「『()()は後悔していない。自分のやるべきことをやっただけだ』──ですって」

 

 まるで違和感のある言葉だった。

 遺言の伝言なのだから仕方ないことなのだが、それにしてもどこか奇妙。

 それはまるで、死んだ後に語った言葉のようではないか?

 

「そうか」

 

 それは間違いなく仏陀御莉蘭の言葉だろう。

 確実だった。

 疑いようもない、事実だった。

 

『──五条さん』

 

 声が聞こえた。

 記憶の投影だったかもしれない。

 けれど。

 五条悟はたしかに、死者の声を聞いたのだった。

 

 

「──君、呪術高専に来ない?」

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