体が浮かんでいるように感じた。
一瞬の浮遊感の後、少女は世界を見る。
極蒼色の世界だ。流体的な世界だった。その中で動いていないものはない。何もかもが動いている。すべてがすべて微振動していた。それが死体であろうと、そうでなかろうと。
そんなものはあくまで状態だ。本質だけしか存在しない世界からすると、そんなものは些事でしかなかった。
そして本質だけの世界において、ただ一人生身の少女は嘆息して動き出す。
ここにはすべてがある。すべてが存在する。存在していないはずの物質、存在していたはずの物質。未知と既知が混在している。
少女にはそのすべてが見て取れた。すべてを理解している。すべてをわかっている。
「って、こんな程度で万能感を感じるのはまだ早いって」
理解できるだけだ。応用はできない。完成系を知っていることと、それを作り出せることは必ずしもイコールではない。少女には技術が足りなかった。練習量も、熱量も足りない。
そんな少女にでも、できることはある。
「アベルくんがこんなところで死んじゃうなんて、私の筋書きにはないんだよ!」
少女が少年を見初めた理由なんてものはない。
暇つぶしのための道具として無作為に抽出しただけ。けれど偶然から始まった関係とはいえ、少年は彼女の予想以上に愚かで、愛おしかった。
だからこそ彼女は、セトを名乗る少年のために動くのだ。
「まったくもう、私にこんなに働かせるなんてアベルくんったら罪なんだから!」
月も、太陽も、直ぐ側にあるような世界。
世界を掌で転がせるようなそこであってなお、『打開策』は大変だ。
消失した少年の左腕。その傷口から押し出すようにして、彼女は現実を改変した。
「──いつか逢えるよね」
少女は口の中で小さく言葉を転がした。あまりに小さな声で聞き取ることはできない。
大きく弧を描いた唇からしか、誰を想っているのか想像はできない。
「──『詔』」
放たれた破壊の嵐に、オレはなすすべを持たない。
が、オレの死を避けるかのように妖精の左腕が呪力をまとう。オレの呪力をほとんど食い尽くし、それは効果を発揮する。
──一瞬。
ここから起こったのはすべて一瞬の出来事だ。
御莉蘭の剣から光が立ち上り、登場したのは一人の女性だった。
彼女は剣に目を向け、複雑そうな目をしたあと、迫りくる振動に対し同じく振動をぶつけ相殺。
そして気づけば男の首を、手刀で飛ばしていた。
金色の髪がゆらり揺れる。喉元から血をこぼし、勢いよく後ろに倒れ込んだ男。その体はびくんと一度大きく震えたかと思うと、二度と動くことはない。
女性の目がオレを刺した。いいや、正確にはオレの左腕……今は姿も形もない妖精の左腕を。
そしてつぎ込んだ呪力が空になったのか、粒子に還るようにして消えていった。
残されたのは、男の死体と、崩壊寸前のオレと、空を見上げながら涙を流す少女のみ。
時間にすると一瞬だ。
その一瞬で、なにもかもが崩れ去ったような気分。
結局、なにももたらされることはない。オレは生き残った。御莉蘭は死んだ。それは一体、何が隔てたのだろう。
決まっている。オレが子供だからだ。
だからこそ御莉蘭はオレをかばった。そうでなかったら、オレだけが死んでいた。
立ち上がる。
失血で体は重たい。動かすのが億劫だ。けれどそうする必要がある。
歩き出した。一歩進めるごとに、体が光となって虚空に消えていく。恐ろしい。そう思うのは当然だ。けれど、それで止まるという選択肢はなかった。記憶と一緒に正常な判断能力まで落っことしたようだ。
間違えてばかりいる。
正しいこと。そのほとんどが、オレにはできないことばかりだ。
少女の前に立った。
「ねぇ」「なんだ」「夢の終わりって、いっつも唐突なんだ」「お前の語り出しもな」「なんとなくわかってるの。なくしちゃいけないものがなくなったって。私、もう死んじゃうのかな」「……さぁ。人はあっけなく死ぬからな。場合によってはそういうこともあるだろ」「そっか。こわいなぁ」「まったく怖そうじゃないな」「怖いよ。けど、なんでかな。実感がわかなくて」「そういうもんだよ。オレもそうだ」「死んじゃうの?」「さぁ。死ぬのかな、死なないのかな。オレにはわからないよ」「そっか。……私はもう死ぬよ。だからね。一つお願いしていい?」「どうした?」「私の──唯乃のことは忘れてよ。それでさ。私のぶんまで生きてみて」「わかった。……おい。おい?」
触れると、少女は死んでいた。
体の崩壊は停止する。まるで崩壊を拒むかのように、逆再生のように体が再生する。
彼女が誰なのかはわからない。大切な人だったのか、そうでなかったのか。
けれどこうして死を看取ったということは、オレにはやるべきことがあるということなのだろう。
左腕は、崩壊前と形状が変わっていた。
以前は半透明ながら真っ当な人の腕だったが、今のオレの左腕は機械的な容貌をしていた。
骨に沿うように蒼のラインが通っている。皮膚は黒くも、白くも見えた。手は義手のように関節がむき出しで、動く様子がよく見える。触ってみると金属の冷たさを感じられる。そして指先は以前よりも透明度を増し、ほとんど存在しないようなものになった。
そしてその地肌を覆うようにして、枷が嵌る。手甲のような金属の拘束。その上には呪符を包帯のようにぐるぐる巻に。それが肩口まであった。
位階の上昇に伴って、封印をしたのだろうか。
これをやったのは──きっと、妖精だろう。
生き残ったのはオレだけ。
少女を持ち上げる。
落ちていた剣を拾う。先程跡形もなく壊れたのを見たはずだが、左腕の暴走のときに再構成されたのだろうか。
そしてオレは歩き出した。
行く宛はない。
寄る辺もない。
今はただ、歩きたかった。
消えた記憶は辿ることができない。
今回に関しては、消えたことすらわからない。
さながら雑な悲劇のように、オレだけが生き残ってしまった。けれど、それは弱さのせいでもあるだろう。
オレは弱い。そう、弱い。決して強くはない。
奇妙な左腕こそ持っているが、だからと言ってそれでなにかが変わるわけじゃない。
オレの前に立ちふさがる影があった。
呪詛師か。
オレが疲弊するのを待っていたのかもしれない。あるいは、御莉蘭が消えるのを。
懸賞金とやらは、どこかに預けられているのだろうか。払い主が死んだ今でも有効なのか。
そんなことを思う程度には、今のオレは危機感を感じられない。
顔面を一発。妖精は黙っている。指示もない。これまでの戦闘経験が、今のオレのすべてだ。
そんなオレでも簡単に相手を倒すことはできる。向かってきた相手の顎を蹴り上げた。オレの体は、やけに柔らかい。足が真上に届くほどだ。
一撃で仕留めた。あんまりにも退屈な終わり方で、オレはため息一つ。
また歩き始める。
足跡から蒼の光が立ち上った。
それはくゆり、踊るようにオレの周囲をぐるぐる回った。
五条悟はその少年を見たときのことを、きっと忘れないだろう。
(呪霊じゃない。けどこの感じ、人間でもない? 九相図というわけでもないか。里香のときと同じ──
やぁ。声をかける。少年は振り返った。綺麗な金色の瞳に、人を呪い殺せそうなほどほの暗い明かりを宿している。
いいや、実際に目から術式が発動するようになっているのだろう。
邪視。あるいは魔眼。呪術としては原始的であるが、強力なことこの上ない。
術式と同じく、基本は生まれ持ったものだ。才能に大きく影響されるもの。
けれど、彼は珍しくも後天的な邪視者であることが見て取れた。
「……なんスか?」
「いやぁ。なんだろうね。……スカウト?」
「はぁ?」
絶対零度のような、冷たい声音。
常人であればおそらく怯んだであろうが、あいにくと五条悟は最強なのだ。なにも問題はない。そんな威嚇なんて、彼には効果もない。
「君、妖精の左腕の適合者でしょ」
「そうですけど、何か」
「仏陀御莉蘭は僕の後輩、って言ったらわかる?」
「……なるほど」
少年は、そういうと瞳の剣呑な色を落ち着けた。
「遺言、知りたいですか?」
「……あるのかい?」
「ええ」
左腕が一瞬輝いた。
「『
まるで違和感のある言葉だった。
遺言の伝言なのだから仕方ないことなのだが、それにしてもどこか奇妙。
それはまるで、死んだ後に語った言葉のようではないか?
「そうか」
それは間違いなく仏陀御莉蘭の言葉だろう。
確実だった。
疑いようもない、事実だった。
『──五条さん』
声が聞こえた。
記憶の投影だったかもしれない。
けれど。
五条悟はたしかに、死者の声を聞いたのだった。
「──君、呪術高専に来ない?」