1940年ローマオリンピック   作:神山甚六

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「IOC総会の延期が決まった」武者小路駐ドイツ大使はいった。

 1936年6月10日。ベルリン市内は活気に満ちた喧騒に満ちていた。

 

 第12回オリンピック競技大会の開会日まで残すところ2ヶ月を切ったこの日、落成したばかりのオリンピア・シュタディオン競技場が国際オリンピック委員会(IOC)の視察団と、各国の報道関係者に公開された。

 経験豊かなヴェルナー・マーチと新進気鋭のアルベルト・シュペーアの両名により設計された屋外開放型の陸上競技場は、着工から28ヶ月という異例の速さで完成したことに加え「メインスタジアムだけで5万人、周辺の円形競技場や広場を含めれば10万人を収用可能である」というドイツ側の説明は、視察団の度肝を抜いた。

 

『まるで古代ローマやギリシャの神殿が、突如として現代に蘇ったかのようだ。神聖すら感じさせる厳粛な舞台の上で、躍動する現代のオリンピアン達の活躍が見られることを楽しみにしている』

 

 前IOC会長のピエール・ド・クーベルタン男爵は、案内役を務めたドイツ帝国体育連合(DRL)のフォン・チャマー=オステン会長に称賛の言葉を惜しまなかった。

 視察団に随行した記者達は、男爵の発言を競い合うように記事にした。

 引退から10年以上になるが、今もなおIOC委員に絶大な影響力を持つ老貴族の発言は、関係者の期待値を否が応でも高めた。

 

 この場に現IOC会長の姿がないことに、疑問を感じたものは誰もいなかった。

 

 

 帝政時代より続くホテル・アドロン・ケンピンスキーは、ブランデンブルク門に隣接するドイツ有数の格式と伝統を有する名門ホテルである。

 そして現在のIOC会長であるアンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵の姿は、最上階の貴賓室にあった。

 

「どいつもこいつも」

 

 カイザー(ヴィルヘルム2世)も愛好した部屋でジャポン(日本)の駐ドイツ大使との会談を終えたベルギー人貴族は、落胆を露わに項垂れている。

 老貴族の眉間には長年の激務による肉体的疲労と精神的な苦悩による報いのような皺が、縦に深く刻まれている。

 

 ベルギー王国の首都ブリュッセルを有するフランデレン地方の政治家の家系の出であるアンリは、自他共に認める生粋の政治家である。

 競技選手経験を有してはいないが、1920年アントワープ大会を成功に導いた交渉手腕と実務能力を評価され1925年にIOC会長へ就任した。

 

 アンリの就任は、近代オリンピックの変質の象徴的な人事であった。

 世界大戦終結後の国際情勢の中、回数を重ねるごとに拡大する大会の運営、参加各競技の国際統括団体との交渉、スポンサー企業や報道機関との折衝、ドーピング問題や人種問題という新たな課題への対処等々。

 参加団体の利害関係が複雑さを増すなか、IOC会長に求められたのは外交官としての素質であり、理事会運営には誠実な調整役と、政治家としての果断な決断力であった。

 

 クーベルタン男爵の後任として、期待された役割を果たしてきたという自負心をもつアンリをして、今回のベルリン大会は苦渋の決断の連続であった。

 

 1933年に就任したヒトラー首相は、当初はワイマールの置き土産であるオリンピック開催に消極的であった。IOCからの働き掛けもあり開催を維持する姿勢に転換したものの、気まぐれな政治介入は絶えることなく続き、今では国際的な広報戦略と国威発揚の手段として堂々と利用するありさまだ。

 

 度重なる政治利用にアンリが開催地変更という強硬姿勢を示したこともあり、ナチス党のスローガンである反ユダヤ主義的なポスターは、街角から軒並み撤去された。 

 だからといって政治犯収容所が閉鎖されたわけでも、悪名高い1933年国籍法が撤回されたわけでもない。5月にはスイス在住のノーベル賞作家トーマス・マンが、政治的言動を理由に国籍を剥奪されている。

 

 開催国ドイツの姿勢を真っ向から批判しているのは、アメリカ選出のアーネスト・リー・ヤンキーIOC委員である。

 ユダヤ人迫害政策と政治犯収容所の存在に警鐘を鳴らした批判の矛先は、IOCとアンリにも向けられ「IOCの沈黙は、ナチズムの片棒を担いでいるに等しい」と痛烈に批判。独自のボイコット運動を開始している。

 

 すでに彼に対してはアメリカ・オリンピック委員会(USOC)から解任動議が提出されているが、アンリからすれば忸怩たる思いである。

 IOC会長としてボイコット論には賛同出来ないが、ナチス政権の政治介入に苦い思いをさせられたのは一度や二度ではない。

 

 そもそも、何を好き好んでベルギー人である自分がドイツの民族主義者の片棒を担がねばならないのか。

 

 アンリの頭痛の種は今大会だけではない。

 次回の1940年大会の開催都市が決まっていないのだ。

 

 経緯はこうだ。

 

 1940年オリンピック夏季競技大会の開催地は、前年のオスロ(ノルウェー)におけるIOC総会において選出される予定であった。

 夏季大会の開催国には、冬季大会開催の優先権が与えられることが慣例となっており、事実上、両大会の開催国が決定することになる。

 

 ところが「某国」が土壇場で対応を変更したことで、総会が史上まれにみる紛糾を来す。

 結果、1936年7月のベルリン総会まで決定は延期された。

 

 現段階で立候補を表明しているのは、北欧フィンランド共和国の首都ヘルシンキ、そして極東の古の帝国の都であるトウキョウの2都市である。

 前回のオスロ総会における決定延期には、最有力候補であったトウキョウの関係者は無論のこと、北欧圏やバルト諸国からの支持を期待していたフィンランドの世論も激しく反発した。

 もしも今回の総会で決定が出来なければ、アンリのIOC会長としての責任問題となりかねない。

 

 こうした状況で行われたジャポンのムシャノコージ(武者小路)との会談内容は、アンリを大いに失望させた。

 

『7月のIOC総会を、8月のベルリン大会後に延期して頂けないか?』

 

 アンリとしてもある程度の無理難題や要望は覚悟していたつもりであったが、招致活動の継続にしろ撤退にしろ、政府としての何らかの決断が伝えられるものと予想していた。

 

 それが、まさか決定の先送りを求めてくるとは!

 

 2月に発生した軍事クーデター未遂事件がジャポンの政局を大いに揺るがしたことは、現地を訪問したアンリも承知している。

 クーデター事件直後の3月、かねてからの予定通り視察のためトウキョウを訪問したアンリは、IOC関係者や政界関係者と会談。皇帝(天皇)と謁見する機会も得た。

 この視察により「クーデター未遂の影響は最小限である」と判断したアンリは「オカダ(岡田)が辞職したことは痛手ではあるが、同じく招致に前向きな外務大臣のヒロタ(広田)が首相に就任した。招致活動への影響はない」という結論に至り、IOC理事会にも同様の報告を行った。

 

 ところが3月末にアンリがヨコハマを出発し、5月にベルギーへと帰国するまでの間、トウキョウの政局は激変した。

 財務担当大臣によるオリンピック関連予算見直し発言により、閣内不一致を露呈。  

 政治責任を追及された財務大臣が単独辞任を拒否したことで、ヒロタ内閣は発足から1ヶ月もたたずに崩壊してしまう。

 

 ジャポンは政党や軍部、財界に官僚が入り乱れた政争の季節に突入している。

 陸相のテラウーチ(寺内)、元陸相のハッヤーシ()元老院(貴族院)議長のコノーエ(近衛)コリア(朝鮮)総督のウッガーキ(宇垣)……首相候補の名前が浮かんでは消え、消えては浮かび、その度に1から政局をやり直す。

 トウキョウ市の戒厳令は継続中であり、市場心理の冷え込みから株式市場は下落に転じた。

 ムシャノコージ大使は再度のクーデターの可能性については断固として否定して見せたが、それも怪しいものである。

 悉く予想を裏切られ続けたアンリは、悲観的にならざるを得なかった。

 

 政局混乱の余波を受け、1940年冬季大会の開催地決定の動きも停滞した。

 サッポロ、ニッコー、ノリクラダッケーと、開催候補地が首相候補のように乱立し、さながら地域対立の様相を呈している。

 IOC総会に出席予定のカノウ(嘉納)委員の出発が直前で中止となったことも、トウキョウ開催を支持していたアンリを失望させた。

 あの尊敬するべき小柄な巨人がいなければ、海千山千の委員の心を動かすことなどかなわないだろう。

 

 だからといってムシャノコージの提案したIOC総会開催の延期の申し入れは、アンリにとって受け入れられるものではない。

 「招致活動に影響はない」としたアンリの理事会報告への批判は高まりつつある。

 これ以上の妥協は、対立候補であるヘルシンキが納得しない。

 IOC理事会の開催を開催国の政局に従わせるとなれば、一体どこにIOCの独自性があるというのか。

 

 IOCの独自性(・・・)だと?

 

 自分の脳裏に浮かんだ言葉の滑稽さに、アンリは唇を奇妙に歪めた。

 オリンピックに限らず、現実から無縁でいられるスポーツなどありえない。

 もしもそんなものがあるのなら、IOCは現在のような醜態をさらすことはなかった。

 ソビエト連邦はスパルタキアードと称する独自の大会を開くことはなかっただろうし、スペインもボイコットという選択肢はとらなかっただろう。

 

 近代オリンピックが目指す、オリンピック精神の普及を通じた国際平和を希求するという高尚な理想が全くの無意味だとは思わない。

 そのために現実政治と向き合い続けてきたのは、外ならぬ自分であるという自負もある。

 だがIOC会長であるアンリに、ドイツ軍の軍靴に踏みにじられたベルギー人としてのリアリズムが激しく警鐘を打ち鳴らす。

 政治とは現実であり、現実といかに向き合うかが政治の本質ではないのか。

 現実から目を背けているのは、果たしてどちらなのか。

 

 オリンピック憲章には、クーベルタン男爵が目指すべき理想とするオリンピック精神が掲げられている。

 

 すなわち人類が古代ギリシャより継承してきた文化と教育の象徴たるスポーツを通じて、人間個人の体力・知性・意思の総合的な育成を目指す人生哲学がオリンピック精神である。

 その育成と普及を通じた相互理解の促進による世界平和の希求を目指す。

 

 これがIOCの設立目的である。

 つまり4年に一度の競技大会は、オリンピック精神を確認するための「手段」であって「目的」ではない。

 

 アンリがIOC会長としての公平性を疑われる危険性がありながらアジア初となるトウキョウ大会を後押ししたのも、IOC内部の慎重意見を押し切り開催地変更というカードによってドイツ政府に民族政策の「修正」を迫ったのも、それがオリンピック精神の普及というIOC本来の目的に合致すると考えたからだ。

 

 そして今回のベルリン大会において見せつけられた現実、政治を前面に押し出した「目的」と「手段」の逆転は、偽善と批判されつつも理想主義を貫いてきたアンリの価値観に重大な挑戦を挑んでいる。

 

 ドイツの姿勢を疑問視する声は、IOC内部では少数派だ。

 

 ジークフリート・エドストレーム副会長(スウェーデン)や、アメリカ・オリンピック委員会(USOC)のアベリー・ブランデージを中心とする国際陸上競技連盟(IAAF)は、「オリンピックに政治を持ち込むな」をスローガンに、むしろ開催地変更をドイツ政府との交渉カードにしたアンリの姿勢を厳しく批判している。

 1890年代のスウェーデン陸上界を代表する短距離選手としてIAAFを立ち上げ、現在も会長の座にあるエドストレームと、近代五種と十種競技のアメリカ代表として1912年のストックホルム・オリンピックに出場経験を持つIAAF副会長のブランテージは、共に両国を代表する企業経営者として、IOCの有力なスポンサー企業でもある。

 彼らのように競技選手経験者が各国オリンピック委員会の中核を担い始める中、純粋な職業政治家であるアンリの発言権は低下しつつある。

 

 ナチズムに反発する各国の社会民主勢力や共産党、左派系の新聞や文化人はIAAFとは全く異なる視点でアンリのIOC運営を批判した。

 

 彼らに言わせれば、ベルリン大会におけるIOCの政治的な努力は「ナチズムの暴力性を糊塗する企みに乗せられている」に過ぎず「オリンピック精神を踏みにじる」振る舞いであり、アーネスト・リー・ヤンキーの除名問題に沈黙を保っているアンリはナチスと同列なのだという。

 この批判を背景にスペインの人民戦線内閣を率いるアサーニャ首相は「ファシストの政治宣伝に利用される」として、オリンピックの正式ボイコットを宣言。

 それのみならず独自に「人民オリンピック」なる競技大会を7月に開催すると宣言する始末だ。

 8月ではなく7月に開催期間をずらしたのは政治的配慮のつもりなのだろうが、IOCとベルリン大会への挑戦であることに変わりはない。

 

 ……いささか思考が脱線したようだ。アンリは首を振り、思考を戻す。

 

 ムシャノコージ大使が延期を提案した7月のIOC総会では、主に3つの議題に議論が集中することが予想される。

 1940年夏季競技大会の開催都市選定、これは冬季大会の開催国決定を兼ねる。

 人民オリンピックを看過するスペイン・オリンピック委員会の除名問題。

 アーネスト・リー・ヤンキーIOC委員の解任動議。

 

 スペインの除名とリー・ヤンキー委員の解任動議を強硬に主張しているのは、やはりIAAFを中心とするIOC委員である。

 「オリンピックに政治を持ち込むな」「政治的理由で、選手の出場機会を奪うべきではない」というエドストレーム副会長の正論に、IOC委員が反論することは難しい。

 

 IOC会長としてもアンリ個人としても、ボイコット議論には与しない。

 今大会の政治利用の是非は別として、開催国の政権交代や政治的主張を理由に開催権を剥奪したと解釈されれば、近代オリンピックの掲げる政治的中立性は損なわれ、存在価値を失うことになるだろう。

 しかし現実から目を背け続けることは、オリンピック精神をIOC自身が踏みにじることにもなりかねない。

 

 果たして今の自分の判断が、後世の批判に耐えうるものであるのか否か。

 老練な政治家であるアンリをしても確証が持てずにいた。

 

「どうしたものか」

 

 再び視線をパリ広場に向けると、柱の影が先ほどよりも長く伸びている。

 腕時計を見やると、次の予定時刻が迫っていた。

 

 

 イタリア王立オリンピック委員会(CONI)委員長のアッキレ・スタレス。

 陽気な南イタリアの男は、1889年生まれの47歳。

 卵のようにつるんとした肌は日に焼けているが、これはエチオピア帰りだからだろう。

 

 これまでエチオピア帝国はオリンピックに参加したことはないが、おそらくこれから先もない。

 1935年10月から開始されたイタリアの第2次エチオピア戦争(侵略)は、本年5月7日の「東アフリカ帝国」の樹立宣言により終結した。

 現地では残党勢力による抵抗が続いているが、少なくとも国家としての戦争は決着したと扱われている。

 

 国家ファシスト党の書記長であるスタレスは、自ら義勇兵である黒シャツ隊を率いて東アフリカ各地を転戦した。

 頼まれもせずに本人が彼方此方で言いふらすため、ベルリンで彼の「武勇伝」を知らないものはない。

 

 御調子者の帽子につけられた黒い羽根は、彼がベルサリエリ狙撃歩兵連隊の出身者であることを示している。

 サルデーニャ王国以来の伝統を誇るベルサリエは、眉目秀麗かつ勇敢な兵士のみが配属されるエリート部隊。

 少なくともスタレスが勇猛果敢な兵士であったことは事実であり、世界大戦中はいくつもの勲章を獲得している。

 故に東アフリカにおける義勇兵としての「武勇伝」も、あながち誇張ばかりではないのだろう。

 

 何より眉目秀麗という条件に関しては、万人が認めるところである。

 透き通った眼差しは純真さを、太い眉は意志の強さを感じさせる。

 頭髪こそ年相応に後退しつつあるが、顔のパーツのすべてが完璧なまでに計算されつくしており、さながらミケランジェロの手による塑像のようだ。

 ころころと変わる表情には愛嬌があり、ひどく人好きがする印象を与える。

 他人を魅了する根拠のない好印象を与えずにはおられないという意味では、スタレスは完璧に近い。

 

 だが神の手による努力は、そこで唐突に力尽きる。

 

 「統領(ドゥーチェ)の腰ぎんちゃく」「無教養かつ無鉄砲な人種差別主義者」というのが、スタレスに対する一般的な評価であるが、それは正しい。

 年を重ねても短気で粗暴な性格は変わらず、敵とみなせば誰であろうと手当たり次第に噛み付く。

 自分を大きく見せることに汲々としており、政治的闘争のためにはいかなる馬鹿げた考えにも飛びつく。

 

 弁舌が得意であると自負しているが、長いわりに中身はない。

 交渉とは威圧と恫喝であると心得違いをしている。

 成果主義を好むが、本人は形式に固執する。

 党書記長として公私の区別がないと批判されるが、それは単に性格が大雑把であるためだ。

 

「私が呼吸をするのは、統領(ドゥーチェ)に許可を得ているからだ」

 

 このあまりにも有名なスタレスの言葉を「見え透いた追従である」と批判するファシスト党員はいない。

 念のために断言するが、スタレスを恐れているからではない。

 統領が息を止めろと言えば、この男は間違いなく死を選ぶ。

 それほどまでに無条件かつ絶対的な忠誠心の持ち主であるとスタレスは認識されている。

 つまり、それ以外は何も期待されていない人物である。

 

 「握手はアングロサクソン流の脆弱な文化である」と信じて疑わないCONIの会長は、入出する際に見事なローマ式敬礼によってIOC会長に対する最大限の敬意を示した。

 アンリは表情筋を動かさないように努めながら、どこまでも形式的な社交辞令を伝えた。

 

「東アフリカでは、随分とご活躍であったようですな」

「いやいや、我らファシスト民兵には鋼鉄のごとき敢闘精神がありますからな!土人ごときは物の数ではありません!」

 

 欠点も突き抜ければ長所に転じるのであろうか。

 ある意味では傑出した存在には違いない。

 感嘆とも諦念ともつかぬ感情をおぽえるアンリに対して、スタレスはいつもの長ったらしい前振りもなく、単刀直入に本題を切り出した。

 

「1940年大会に、ローマは再度(・・)立候補します!」

「……は?」

 

 

 IOC委員との交渉経緯に関する報告書

 

  作成:1936年6月18日

 

 報告者:子爵武者小路(むしゃのこうじ)公共(きんとも)(在ドイツ国特命全権大使)

 

 6月10日に受領した本省訓令第3452号に従い、IOC会長のバイエ=ラトゥール伯爵と会談。

 ベルリン大会後への総会延期を申し入れる。伯爵は不快感を示す。

 会談内容の詳細については別紙に記載。

 

「総会の開催及び会期の変更については、IOC総会に議決権がある」

「一定数のIOC委員の要求により開催される臨時総会により、出席委員の過半数の支持を得た場合であればIOC会長として考慮の余地があると判断する」

 

 IOC総会の延期は可能性があると判断。

 ベルリン滞在中のIOC委員と接触を開始。

 イタリアのスタレス委員以外の反応は悪く、交渉は難航……

 

 12日、ドイツ外務省政務局長のフォン・マッケンゼン氏と会談。

 同日午後、同氏の仲介によりIOC副会長であるエドストレーム氏と会談。

 総会延期に関する臨時総会開催の支持を得ることに成功する。

 エドストレーム副会長を通じて、IOC委員の説得工作に着手。

 

 (中略)

 

 16日の段階で、臨時総会の開催に必要な委員を確保。

 

 ここに私は、IOC総会の延期が決まったことを報告するものである。

 

 

 De gekken krijgen.de beste kaarten(最も良い手札を引く者、それは愚か者である)

 

 - ネーデルランドの諺 -


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