1940年ローマオリンピック   作:神山甚六

3 / 5
「IOCは自分が責任をもってまとめる」エドストレーム副会長はいった。

 1936年7月20日。アルヘア・オリンビア市の空は、雲一つない快晴であった。

 

 ペロポネソス半島西部に位置する遺跡都市の名前は、ギリシャ語で古代オリンピア(アルヘア・オリンビア)を意味する。4年に一度、エーゲ海の各ポリスから集まった戦士たちは、この場所において最高神ゼウスに捧げる祭典を執り行ったとされる。ギリシャ世界が衰退すると伝統は途絶え、ローマの時代には、辺境の寒村に甘んじていた。ビザンツ帝国とオスマン帝国による平和を享受したアルヘア・オリンビアの住民達は、アルフィオス川沿いの痩せこけた耕作地を耕す農業と、イギリスの考古学者により「発見」された、遺跡見物の物好きな好事家を相手とした観光業により、細々と生計を立てていたのである。

 

 19世紀のオスマン帝国からの独立戦争により、ペロポネソス半島を含むバルカン半島南端が「ギリシャ」として独立すると、かつての遺跡都市は、再び脚光を集め始めた。おりしも欧州では、キリスト教以前のアイデンティティーを希求する新古典主義者を中心に親ギリシャ主義(フィルヘレニズム)、すなわち「偉大なるローマ帝国に影響を与えたギリシャ文明は、人類文明の起源である」とする主張が、一大ムーブメントを巻き起こしていた。各種の芸術家や文化人は競い合うようにギリシャを訪れ、歴史学者や考古学者は、パトロンや出資者から得た多額の資金を、惜しみなく発掘事業へとつぎ込んだ。

 

 かくして人口数百人の寒村は、人口数千人を超える一大観光都市へと発展した。

 

 オリュンピア遺跡のヘラ神殿。古代ギリシャの嫉妬深い女神の名前を冠する、崩れた古代遺跡の前には、ハーケンクロイツの紋章を腕に巻いたドイツ人の手により、奇妙な装置が組み上げられている。近代オリンピックのシンボルである5色の輪が施された白い大理石。その横には、金属製のボールをひっくり返したような凹面鏡(おうめんきょう)が設置され、白い一枚布を器用に編み込んだ古代ギリシャ風の長衣(へプロス)を身にまとう年若き少女達が、ぐるりと取り囲む。舞い上がる風による衣擦れの音すらも憚られるような緊張感が支配する中、穢れなき少女達の視線は、神々の住まうとされる天界へと向けていた。

 

 太陽が頂点近くに、装置の真上に差す。少女が金属製の松明を凹面鏡の上に差し出すと、くぼんだ鏡に反射する光が1点に集中し、白い煙が立ち上がった。次の瞬間、若人達の生命力が如き、眩いばかりの炎が立ち上がった。古代オリンピック以来の伝統に則り、聖火が灯されたのだ。

 

 神々から授かった炎の松明を、少女は初めてわが子を胸に抱く母親のような手付きで、聖火台の上へと移す。炎が安定するのを確認すると、別の少女の手により、クルップ製の金属製トーチに聖火が移され、最初のランナーであるギリシャ人のコンスタンティン・コンディリスに手渡された。

 

 コンディリスがトーチを高く掲げた直後、報道陣のカメラのフラッシュガンが激しく瞬いだ。

 

 聖火はギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアの7か国を経由して、最終目的地であるドイツはベルリンの、オリンピア・シュタディオン競技場の聖火台を目指す。総距離は約3187km。一定の距離ごとに交代するランナーの参加予定人数は、3331人。

 

 聖火リレーが、始まった。

 

 

 褐色の大地を駆け抜け、聖火がギリシャの首都アテネに入った。沿道には多くの人々が詰めかけ、ランナーに声援を送った。各国の新聞社と並んで、ドイツ国民啓蒙・宣伝省の海外報道局から派遣された撮影隊は、聖火リレーの記録を取り続けた。

 

 前年に王政復古(11年ぶり2回目)を果たしたアテネの議会では、王党派の勢力が派閥争いを繰り広げる人民党と、ヴェ二ゼロス派と反ヴェ二ゼロス派が主導権を争う自由党と、少数派ながらも勢力が拮抗する議会のキャスティングボードを握る共産党が激しく対立。共産党と連携する官公労のギリシャ公務員連合は、内閣辞職を求めてゼネラルストライキを宣言した。また軍部では、前年の王政復古クーデターを支持した新首脳部に対して、ヴェニゼロス元首相支持派であるパンガロス将軍派が(以下省略)

 

 という具合にギリシャは政治的に混乱していたが、独立以来の伝統行事であるため、誰も気にしなかった。

 

 7月23日。ゼネラルストライキに業を煮やしたギリシャのメタクサス首相は、国王の承認を得た上で、1年ぶり23回目(数え方によればさらに増える)となる憲法の停止と、半年ぶり35回目(数え方によれば桁が異なる)である戒厳令を実施。議会の全政党に対して解散を命じた。

 

 同日、ギリシャ国内の政局の混乱を横目に聖火ランナーが何事もなく国境を越えてブルガリアに入る中、アテネでは3人の人物が秘密裏に会合を持った。

 

 1人目は、スウェーデン人のヨハネス・ジークフリート・エドストレーム。国際オリンピック委員会(IOC)副委員長であるエドストレームは、北欧有数の重工業メーカーであるアセア社を率いる同国経済界の重鎮にして、国際陸上競技連盟(IAAF)会長を兼任するIOCの重鎮である。スイスとアメリカに留学した経験をもち、両国経済界やIOC関係者との人脈が深い。現在のIOC会長であるバイエ=ラトゥールの政敵とされるが、本人は祖国の外交政策と同じように「武装中立」路線を貫いているだけだと嘯いている。

 

 2人目は、ドイツ人のハンス・ゲオルグ・フォン・マッケンゼン。プロイセン王国以来の政治と伝統を継承するユンカーの出身であり、現在はドイツ外務省のナンバー2である政策局長の地位にある。実父はドイツ国防軍の長老であるアウグスト・フォン・マッケンゼン陸軍元帥、義父(妻の父親)は上司でもあるフォン・ノイラート外務大臣という華麗なる閨閥からもわかるように、ワイマール時代から続く国防軍と外務省の協調路線を象徴する人物だ。

 

 3人目は、イタリア人のアッキレ・スタレス。先の大戦で活躍した勇猛果敢な退役軍人であり、1931年から国家ファシスト党書記長を務めている。先のエチオピア戦争では自ら志願して現地に飛び、義勇兵を率いて戦った。古参のファシスト党員であり、指導者統領(ドゥーチェ)への忠誠心だけ(・・)は、万人が認めるところだ。また親ドイツ派として有名であり「民族政策についても学ぶところが多い」と公言している。

 

 この3者会談が、ベルリンIOC臨時総会における1940年夏季オリンピック開催招致の再々立候補(・・・・・)の流れを作ったということで、研究者の見方は一致している。

 

 

 学生時代のエドストレームは、欧州の陸上関係者ならば誰もが知るトップスプリンターであった。100mを11秒台で走れたというのだから、アマチュア選手としては相当なものだ。競技人生最後の大会で叩き出した150メートル競走のスウェーデンの国内記録は、今も破られていない。陸上競技における1秒の差は大きいとはいえ、本気で取り組めば10秒台も夢ではなかっただろう。

 

 卒業後、エドストレームはプロ契約を断り、工科高校への進学を選択した。スウェーデン屈指の重工業メーカーであるアセアに入社したエドストレームは、自らが技術者としての能力と管理者としての手腕、そして経営者としての知見を併せ持つことを証明した。アセア国内における公共インフラの巨大プロジェクトを次々と成功させたエドストレームは、1934年には代表取締役社長に就任。スウェーデン財界におけるリーダー的存在となった。武装中立国スウェーデンにおいて、軍事産業に関連する人材の層は厚いが、エドストレームの手腕を疑問に思うものはいなかった。

 

 企業経営者としての財界活動の傍ら、エドストレームはアマチュア・スポーツの普及に尽力した。スウェーデン・オリンピック委員会の創設メンバーとして、アマチュア・スポーツの祭典たるオリンピックの招致の旗振り役として私財を惜しみなく投入した。アマチュア・スポーツへの度を越した熱の入れように疑問を持つものはいたが、もともと寡黙な技術者であるエドストレーム自身は何も語らなかった。ひょっとすると、プロ・スポーツの道に進まなかったことに、内心で思うところがあったのかもしれない。「ただ走ることが好きだった」という解釈は、いささか感傷に過ぎるだろうか?

 

 1912年のストックホルム大会開催が決定すると、エドストレームは大会組織委員会の責任者に就任。自身の選手経験から、陸上各種目における国際的なルール策定と、国際的な統括団体の創設を主張した。エドストレームが選手として活躍した1890年代は、アマチュアスポーツの国別対抗試合の創生期である。国ごとに異なる競技ルールの違いや文化的差異によるトラブルが、選手個人の心理的負担になるということを、彼は選手として経験していた。その努力は、国際陸上競技連盟(IAAF)の創設として結集する。

 

 アマチュア・スポーツの祭典たるオリンピックに人生を捧げてきたエドストレームは、それを冒涜する存在を許容しない。フライング・フィン(空飛ぶフィンランド人)こと、パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミのオリンピックからの「追放」は、彼にとっては当然のことであった。

 

 フィンランド人のヌルミは、現代陸上界における英雄である。貧しい労働者階級の息子に生まれた彼は、靴どころか食事にも事欠く環境で育ち、その中で強靭な肉体と精神、そして独自のトレーニング方法を編み出した。1934年に37歳で引退するまでのヌルミの14年の競技人生は、輝かしい成績と勝利に彩られている。通算の世界記録は22個。オリンピックには3回出場(1920年アントワープ、1924年パリ、1928年アムステルダム)、長距離から短距離まで、あらゆる種目に出場。殆どの種目でメダルを獲得(金メダル9個、銀メダル3個)。特にクロスカントリーと10000mでは、14年間無敗のまま引退した。文字通り伝説的な陸上選手であり、フィンランドのみならず世界的にも知られた存在であった。

 

 ヌルミは1932年のロサンゼルス・オリンピックの出場を目指した。選手としてはすでに高齢であったが、陸上競技の王者ともされるマラソン競技の金メダルで、自らの競技人生に幕を閉じようと考えたからである。彼の競技人生最後の挑戦を誰もが応援し、そして実現可能な目標であると考えていた。

 

 オリンピックの開催直前。エドストレームが招集したIAAF理事総会は、ヌルミの複数企業とのスポンサー契約や広告出演を理由に「プロ選手の疑いが生じる」と認定。同大会への出場停止を決定する。この決定に、世界中の陸上ファンと報道関係者は怒り狂った。

 

 当時はアマチュアとプロの境界が曖昧であり、確かにヌルミの活動はプロとみなされる余地は存在した。それでも肝心の「ヌルミの選手活動がプロかアマチュアであるか」の判断を総会が保留したことは、いかにも姑息な印象を与えた。恣意的な英雄の狙い撃ちであるとしてIAAFの議決には「もっとも恥ずべき政治行為」として非難が集中。「オーランド諸島領有問題をめぐる、スウェーデンのフィンランドに対する意趣返し」「エドストレームが、英雄ヌルミに嫉妬しているのだ」などとと書き立てたイエローペーパーもあった。

 

 ヌルミ問題は1934年まで尾を引いた。IAAF内部でも「やりすぎではないのか」として、決定に異議を唱える声が強かったためだ。ヌルミは直接的なコメントを避けたが、プロへの転向は拒否し続けた。結局、ヌルミはアマチュアのまま1934年に引退する。英雄の潔い進退も、スポーツファンのIAAFへの批判を増幅させた。

 

 おびただしい批判や罵倒に対する本音はどうであれ、このようにエドストレームは「オリンピックは、アマチュア選手のためのスポーツ祭典」であると主張してきたのであり、実際の行動もそれを裏付けている。バイエ=ラトゥールIOC会長の理事会運営に対する批判も「アマチュアリズムの軽視」という観点に重きが置かれたものだ。彼にとって民族政策を理由に開催地の変更を突き付けるなど、それこそがオリンピックの政治化に他ならない。

 

 オリンピックがアマチュア・スポーツの祭典である限り、エドストレームは開催地がどこであろうと問題はない。そのため1940年大会の開催地について、IOC執行部の支持する東京にも、北欧諸国が支持するヘルシンキにも中立を維持していた。

 

 1936年7月12日。ベルリン大会組織委員会のカール・ディーム事務総長が、聖火リレーの正式コースを記者団に発表したこの日、エドストレームはフィンランドのIAAF関係者から、1940年ヘルシンキ大会における複数のアイデアについて報告を受けた。東京開催が絶望的という観測が広まるにつれ、この手の先走った話はヘルシンキ関係者から漏れ聞こえるようになっており、そのこと自体にはエドストレームに驚きはなかった。

 

 問題は、その内容である。

 

「聖火リレーの最終ランナーは、フライング・フィン」

 

 エドストレームの脳裏に、とある近い未来の光景が浮かんだ。

 

 1940年8月のフィンランド共和国ヘルシンキ。新設された競技場に詰めかけるのは、全世界の陸上ファンとフィンランド国民。彼らの割れんばかりの拍手と大歓声の中、1人の聖火ランナーが入場する。飄々としてつかみどころのないフィンランド人は、気恥ずかしげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと聖火台に通じる階段を上り、聖火の炎を灯そうとしている。そして貴賓席から、それをなすすべなく見守るしかない自分……

 

 静かなるスウェーデンことエドストレームが、ヘルシンキ大会招致反対の急先鋒に転じたのは、この日からである。

 

 

 1918年の革命により、ドイツには最高意思決定者である皇帝(カイザー)が不在となった。新たな指導者であるワイマールの政治家は政争に明け暮れ、その関心も内政と経済問題に集中していた。彼らは「ヴェルサイユ体制の修正」「賠償金支払いのボイコット」「偉大なるドイツの復活」などといった有権者向けの勇ましい選挙公約とは裏腹に、具体的な外交安全保障政策に関しては、ほとんど関心を持たなかった。

 

 こうした中、国防軍と連携した外務省が共和国外交のイニシアチブを握るようになるのは、ごく自然なことであった。

 

 1933年。外務省と国防軍は「ヴェルサイユ体制打破」を掲げるヒトラー内閣の発足を許容した。だがこれはワイマール時代からの外交政策のイニシアチブを、ヒトラーに預けたことを意味しない。両者はヒトラーはワイマールの政治家同様、内政と経済に関心が集中しており、「ヴェルサイユ体制の打破」はスローガンに過ぎないと考えた。仮に実行に移したとしても、外交素人の「オーストリアの伍長」ならば御しやすいだろう。

 

 彼らの誤算は、ただ一つ。ヒトラーが何事にも「本気」であったということだ。

 

 ヒトラー新首相は外交の継続性を内外に示すために、帝政時代からのベテラン外交官であり、前内閣でも外務大臣を務めたノイラート男爵を留任させる。同時に自分の政治顧問であるリッベントロップを、自分直属の外交特使に任命した。この人事について、外務省に相談はなかった。

 

 ベルリン政界におけるウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップの立ち位置を一言で言うのなら、「鼻つまみ者」である。大戦後に実業家として成功をおさめ、共産党に脅威を覚える保守系財界人として活動。ナチス党に接触すると、ヒトラーに心酔して熱心な支援者となった。ヒトラーが首相に指名される際には、水面下での政界工作に功があった。前述のように総統直属の外交特使に任命されると、自分が出資し、自らの名前を関した外交政策研究機関(シンクタンク)を開設。特使として欧州各国を飛び回っている。

 

 つまり現在のリッベントロップの地位は、アドルフ・ヒトラー個人との直接的な関係に依拠している。おまけに「外様」の「新参者」とあっては、ヒトラーを頂点とした新たな宮廷政治が日夜繰り広げられるナチスドイツにおいて、彼を嫌う相手には事欠かない。ルドルフ・ヘスに代表される古参のナチス党幹部、フォン・ブロンベルク率いる国防軍、フリック内相やゲーリング国会議長などの政府閣僚も「成り上がりの貴族」「おべっか使いのワイン売り」として嫌悪していた。

 

 ただ、直接的な権限や職務範囲がぶつからない彼らとは異なり、外務省はリッベントロップの存在を許容する余地はない。外交政策における自らの主導権の確立に強いこだわりを見せているヒトラーの切り札がリッベントロップである。この男を通じてドイツ外務省から主導権を奪い取ろうとする総統官邸に、外務省は動揺した。

 

 どの国家であれ、職業外交官は外からの介入を嫌う性質を有する。それが「素人」であれば猶更である。上昇志向が強い上にスタンドプレーを好むリッベントロップは、「総統閣下の御意向」を根拠に、外務省との事前折衝や調整もなく独断で外交交渉を繰り返した。現地の大使館は総統特使発言の釈明に追われ、日常業務もままならない。国内のみならず国外においても、既存の外交政策に批判的な言動を繰り返すのだから、ノイラート外相とリッベントロップの関係は悪化の一途をたどった。

 

 だが外務省という巨大官僚組織がバックにあるノイラートと、シンクタンクとは名ばかりの個人事務所を率いるリッベントロップでは組織力という点で勝負にならない。リッベントロップ特使の外遊が成果を上げられなかったのは、外務省の協力が得られなかったことが大きい。

 

 流れが変わったのは、1935年の独英海軍協定締結の成功である。この年の4月、イタリア北部のストレーザにおいて、イギリス・フランス・イタリアの3国首脳会談がおこなわれ、ドイツに対する共同歩調が確認された。欧州におけるドイツの外交的孤立が鮮明になる中、リッベントロップは外務省の猛反対を押し切る形で渡英。両国の長年の懸案であり、再軍備の一里塚とされた独英海軍条約の締結交渉に臨んだ。

 

 外務省が危惧した通り、外交素人のリッベントロップはヒトラーの猿真似である威圧一辺倒の交渉を繰り返した。ところが外交素人という点ではリッベントロップと大差のない労働党政権が、まさかの腰砕けによる妥協を選択。再軍備をイギリスに認めさせた上に、ストレーザ戦線の崩壊による英仏の関係悪化という副産物まで引き出す「大成果」をドイツ外交にもたらした。リッベントロップの外交勝利を絶賛したヒトラーは、同時に外務省の非協力的な姿勢を激しく叱責した。

 

 リッベントロップと外務省が対立しているのは、その方法論だけではない。対仏戦争計画にはイギリスの参戦による第2の世界大戦になりかねないとして慎重な外務省に、独英同盟の締結による英仏分断を主張するのがリッベントロップである。ラッパロ条約以来のソ連との関係を重視する外務省と国防省に、ナチス党の公約通りの反共政策を教条的に振りかざすのがリッベントロップ。アジア外交で国防軍と足並みをそろえ、中華民国政府との同盟関係を重視する外務省に、「腐敗したチャイナ」よりも日本との同盟関係を考えるべきだとするリッベントロップという具合に、具体的な外交政策でも両社は真っ向から対立している。

 

 独英海軍協定の締結により、英仏分断というリッベントロップの主張は、にわかに現実性を増しつつある。ドイツ外務省内でもリッベントロップに理解を示すものが増え始め、1936年に入ると、リッベントロップの駐英大使案が浮上した。もしもリッベントロップが独英関係の再定義に成功し、その成果を背景に外務大臣に就任しようものなら、これまで外務省が積み上げてきた政策や人事体系は崩壊してしまう。

 

 リッベントロップの駐英大使人事が正式に決定されると、ノイラート率いる外務省主流派の危機感は強まった。

 

「むしろ好機ではありませんか。あの男がベルリンにいないうちに、こちらも手を打つのです」

 

 外務省政策局長のハンス・ゲオルク・フォン・マッケンゼンは、義父であるノイラートに提案した。マッケンゼン元帥の長子であるハンスは、国防軍将校にも顔が広い。国防軍のナチス化を推進するブロンベルグ国防大臣に反発する反ブロンベルグ派閥は、古き良き国防軍の伝統を守り、ソ連とヒーナ外交を外務省と国防省の伝統的な政策に引き戻すため、この策謀に協力した。

 

 日本の政局的混乱は、ハンス達には千載一遇の好機と映った。そして、この好機をリッベントロップに対する反撃につなげるためのアイデアも、すでに彼らは用意していた。

 

「イタリアを、オリンピックに立候補させましょう」

 

 独英海軍協定によりストレーザ戦線が崩壊した以降「持たざる国」として接近しつつあった両国だが、そもそも先の大戦においてイタリアは中央同盟を裏切った、まごうことなきドイツの「敵」である。ファシズム体制を築き上げた統領が、内心ではドイツの総統を侮蔑しているということは、イタリア駐在のドイツ外交官の間では有名な話だ。

 

 リッベントロップの後ろ盾であるヒトラー自身、統領に対する個人的敬意とイタリア政策を別個のものと判断している。昨年発生したイタリアのエチオピア侵攻では、エチオピアに対する軍事支援物資を検討しているほどだ。ドイツ民族の悲願であるアンシュルス(オーストリア併合)の障害となるのは、オーストリアの後ろ盾となっているイタリアのファシスト政権。その弱体化はヒトラーも歓迎するだろう。

 

 ハンスを中心とする反リッベントロップ派は、自分達の策謀に熱中した。

 

「東アフリカ帝国建国記念とでも理由をつけて、オリンピックをやれと扇動するのか」

「ファシズムの先輩風を吹かす統領のことだ。ベルリン大会よりも小規模な大会はやれまい。財政的に雁字搦めにして動けなくさせるのだ」

「しかし、あの男がそれを受けるか?あの党派乱立のイタリア政界をまとめ上げた男だぞ」

「ローマ帝国の再来を夢見る男だ。パンとサーカスの重要性は理解しているだろう」

「来月ベルリンに来るイタリアのオリンピック協会会長は、確かファシスト党の書記長だったな」

「あてになるのか?」

 

 彼らの議論を引き取った「第三帝国の高貴なるプロイセン人」の息子は、酷薄な笑みを浮かべて言った。

 

「なまくらなハサミでも、使いようによっては役に立つものだ」

 

 

 政治的なパフォーマンスを優先するあまり、数々の奇行と珍言を繰り返したことで、イタリア国民に数々のジョークの材料を提供し続けているアッキレ・スタレスであるが、彼は「自分が政治家としては無能である」という自覚がある。「無知の知」なる格言に従えば、自分が無能であることを知る自分は、上等な部類に入るだろうと考えている。ただ他人に対する自分の評価よりも、少しばかり過大に評価している嫌いはあったが。

 

 大戦中はベルサリエリ狙撃歩兵として幾多の功績をあげたスタレスは、同じベルサリエリの一員であり、大戦後は国政から腐敗した既存政治と社会主義者を叩き潰した統領に、絶対の忠誠を寄せている。国家ファシスト党の創成期から統領の兵士として戦うことが出来たのは、彼が最も誇りとするところだ。政治的な賭けであったローマ進軍が成功した時の感動は、今でも忘れることはない。最も苦しい時期に党を支え続けた自分こそが書記長にふさわしいと、彼は確信していた。

 

 だが党内では自分を追い落とす動きが強まりつつあるという。スタレスは兵士としての自らの原点に戻り、義勇兵である黒シャツ隊を率いてエチオピアに渡った。獅子奮迅の大活躍(スタレスの主観)により、党内の地位は確固たるものになるかと思いきや、帰国してみると、その動きはさらに激しさを増していた。

 

 ローマ進軍を見よ!ファシスト党は政権を戦って獲得したのである。戦争の英雄である自分を追い落とす大義名分が、一体どこにあるというのか!このようにスタレスは激怒してみせたが、誰の賛同も得られなかった。党の書記長が党を長期間不在にしたという事実を考えてみれば、その理由もわかりそうなものだが、この辺りがアッキレ・スタレスが二流と評される所以なのだろう。

 

 このままでは駄目だ。スタレスはこの男なりの危機感を高めてはいたが、戦うことしか知らない兵士である彼に、有効な打開策が思い浮かぶはずもない。精々、ローマ文明からのアングロサクソン文化の排除に勤しむぐらいが関の山だ。それでも、おめおめと書記長を譲る負け犬となるつもりはなかった。ローマ進軍以前は路傍の野良犬を見るがごとき視線を向けていた連中が、政権を握るや手のひらを返す様を嫌というほど見てきた。あのような信用に値しない連中を、統領に近づかせるわけにはいかない。ではどうすればいいのか。自分が統領を支え続けるためには、どうすればいいのか。

 

 悩みを深めながらIOC総会に出席するためベルリンを訪問したスタレスに、接触してきた男達がいる。

 

 敗戦後もドイツ外交の前線に立ち続けた海千山千の職業外交官は、熱意を込めてCONI会長を説得した。

 

「昨年のオスロ総会におけるローマの辞退は、東京開催が前提でした。そして招致活動を取り巻く環境は変わりました。ドイツとイタリア両国の友情と関係関係の証として、ドイツは1940年大会のローマ開催を支持します」

 

 IOC創成期から第一線に立ち続けるスウェーデンの財界人は、CONI会長に確約した。

 

「東京開催の可能性はないというのが、IOC委員多数派の見解だ。ヘルシンキ市の財政規模では、ベルリン大会と同じ大会規模を維持することは期待出来ない。ベルリン大会の次、1940年大会の開催都市はローマをおいてほかにはないと私は確信している。IOCは自分が責任をもってまとめる。IAAFの支持は、会長である私が保証する」

 

 空腹のガチョウの如く、スタレスは差し出された餌に飛びついた。

 

 

「東京オリムピック招致活動につきましては、国際オリムピック総会において複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑みまして、東京市及び大日本体育協会との三者協議の結果、従来準備し来った招致活動は之を打切る決断に至りました。慚愧の念に堪えません」

 

 - IOC臨時総会を受けた平沼騏一郎総理談話(9月15日) -


▲ページの一番上に飛ぶ
Twitterで読了報告する
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。