姫島先輩の家の和室で握手をした俺はミカエルさんに連れ出され、神社の隅にある誰も居ない場所に二人だけで訪れていた。
「すいません。突然連れ出したりしてしまって」
「いえ、別に構いませんよ。俺になにか用があるんですよね?」
俺は手を横に振ってミカエルさんに大丈夫だと伝えて、なんの用なのかを質問する。
「はい。まずはあなたに謝罪させて下さい。サーゼクスから話は聞いていると思いますが、私たちの勝手であなたに迷惑をかけることになってしまいました」
ミカエルさんはそう言って俺に対して頭を下げる。
「頭を上げてください。嫌なら断ることができたんですから、迷惑なんて思ってませんよ」
俺は少し慌ててミカエルさんに頭を上げてもらうようにお願いする。
流石に聖書にも書かれている存在に頭を下げられては、俺もどう対応していいのか困ってしまう。
「ということは、会談で席に着いてくださるのですか?」
「はい。形だけですけど、会談では席に着かせていただきます」
「そうですか。ありがとうございます。私からもお礼を言わせてください」
俺の言葉を聞いたミカエルさんが安心したように優しげな笑みを浮かべる。
「だからお礼とかいいですって、それよりも他にもなにか話があるんですよね?」
俺は話題を変えるためにもミカエルさんにそう訊ねる。
わざわざこんな場所に連れ出して二人っきりになったんだ。この話以外にも、なにか人に聞かれたくない話があるんじゃないだろうか?
「はい……話には聞いているのですが、あなたが暴王の力を宿しているというのは本当のことですか?」
ミカエルさんはさっきまでの優しげな笑みとは一変して、真剣な表情で俺に訊ねてくる。
……コカビエルといい、ヴァーリといい、アザゼルといい、メルゼーは大人気だな。
俺は内心予想していた話の内容に心の中で溜息を吐いて口を開く。
「ええ、確かに俺の中にはメルゼー――あなたたちが言う暴王の力が眠っています」
「そうですか……こんな少年になぜ暴王の力が……」
俺の言葉を聞いたミカエルさんが俯いて呟きながらなにかを考えている。
「ミカエルさん。一つ聞いてもいいですか?」
俺はミカエルさんに今まで気になっていたことを聞くために話しかける。
「……はい。なんでしょうか?」
俯いていたミカエルさんだが、俺の声を聞いて顔をあげてなんの用か訊ねてくる。
「暴王ってなんなんですか? それになんでそんな力が俺の中に眠っているんですか?」
「……申し訳ありません。私は暴王については、殆どなにも知らないんです。神にその存在を伝えられただけで、実際に見たことがないもので」
ミカエルさんはそう言うと、本当に申し訳なさそうな顔する。
「……神は、神は暴王のことをなんと言っていたんですか?」
「神は私たち天使に暴王は完全に目覚めてしまえば、この世の全てを喰い尽くす存在だと仰りました。そして、暴王の力を持つ者が現れた場合は、その力が完全に目覚める前に、この世から排除しろとも伝えられています」
神が暴王の力を持つ者を排除しろと……まさか、ミカエルさんが俺を誰も居ない場所に連れ出した理由は!
俺は一瞬でミカエルさんから距離を取ると、なにが起こっても対応できるように最大限に警戒を高める。
「そんなに警戒しないでください……と言っても、自分の命を狙われていると思ってしまえば、そういう対応をするのは当然ですよね」
ミカエルさんは警戒する俺を見て悲しそうな表情を浮かべる。
「安心してください。私はあなたを排除するつもりはありませんから」
「……今はもう死んだとはいえ、神のしもべである天使の長のあなたの言葉を信じろと?」
普通の天使が神の言葉に逆らうとは考えられない。それが天使の長であるミカエルさんなら尚更だ。
「そうですね。私が口でなんと言っても信じられないのは当然ですよね……それなら、この翼を見てもらえませんか?」
「――ッ! その翼は……!?」
ミカエルが見せてきた一枚の翼を見て俺は目を見開く。
さっきまで金色に輝いていたはずのその羽が、今はうっすらと黒くなったり金色になったりと点滅している。
なんだよあれ? あれじゃあまるで……。
「神の残した『システム』は私が受け継いでいるとはいえ、神の言葉に逆い、こちらを選択すればこうなるだろうとは思っていました。流石にこの姿を他の者に見せるわけにはいきませんからね……これでも私のことを信じては貰えませんか」
「……なんで?」
優しげな笑みを浮かべて俺は見るミカエルさんが、俺には理解出来なかった。
その『システム』ってのがなんなのかは知らないが、今のミカエルさんになにが起こっているのかぐらいは理解できる。
「なんでそこまでするんだよ? そんなことしたら、下手すればあなた『堕ちる』んだろ!?」
「この状況で私の心配をしてくれるのですね。やはり、あなたはサーゼクスの言ってた通りの人物のようだ。そんなあなただからこそ、私はあなたに懸けることができた」
ミカエルさんは笑みを崩さずにそう言うと翼を収める。
「あなたなら神の仰った存在になることはないでしょう」
「そんなことよりも、翼は大丈夫なんですか!?」
「大丈夫ですよ。あなたがそのままでいて下されば問題ありません」
そう言って、ミカエルさんがもう一度出現させた翼は金色に輝き点滅はしていなかった。
「今日はあなたと話ができて本当によかったです。私はそろそろ行かねばなりませんので、この場で失礼しますね。他の方々にも私が帰ったことを伝えてください」
ミカエルさんがそう言うと、ミカエルさんの全身を光が包みこんでいき、一瞬の閃光のあとに、ミカエルさんはこの場から消え去っていた。
ミカエルさんが消えたあと、一人で姫島先輩の家まで戻った俺はミカエルさんが帰ったことを三人に伝えると、縁側に座って一人でさっきのミカエルさんとの話を思い出していた。
部長とイッセーはミカエルさんが帰ったことを聞くと、用事がなくなったのか帰ってしまった。
俺も一緒に帰るか聞かれたが、忘れないうちにさっきの話のことを色々考えたかった俺は姫島先輩に頼んで神社に残らしてもらった。
それにしても、ミカエルさんが神の言葉に逆らってまで、なにを俺に懸けたのかわからない。
一体、ミカエルさんは俺になにを懸けたのだろうか……?
「お茶ですわ」
「えっ? あ、ありがとうございます」
ミカエルさんの言葉の意味を考えていると、姫島先輩がわざわざお茶を淹れて持ってきてくれた。
いきなり話しかけられて少し驚くが、お礼を言って姫島先輩からお茶を受け取ると、姫島先輩はそのまま俺の隣に腰を下ろす。
俺はちょうど喉が渇いていたので、姫島先輩が淹れてくれたお茶を飲む。
いつもは紅茶だけど、神社にはこっちのお茶の方があってるよな。
「先程からなにを考えているのですか?」
「いえ、ちょっと、さっきミカエルさんと話したことが気になることがあって」
姫島先輩になにを考えているのか話した瞬間、しまったと思ってしまう。
ミカエルさんの翼の件もあるので、人に話していい内容ではなかった。
「ミカエルさまとなにを話されましたの?」
「え、えーっと……」
姫島先輩に話の内容を聞かれて困ってしまう。
どうしよう。あのことを話せるわけないしな……。
「なにか他人に聞かれたらいけないことだったかしら?」
「いや、そういう訳ではないんですけど……」
どうするか悩んだ俺は、仕方ないので神の言葉やミカエルさんの翼のことを隠して話すことにした。
「実は俺の力のことについて聞いていたんですよ」
「楠緒くんの力って、PSIのことですわよね?」
「ええ、そうなんですけど、もっと詳しく言えばライザーやコカビエルに使った黒いPSIのことです」
「黒いPSIって、あれは他のPSIとなにか違うのですか?」
少し驚いた様子で問い掛けてくる姫島先輩を見て、そう言えば詳しく話したことはなかったことを思い出す。
まあ、姫島先輩にはメルゼーのことを話してもいいだろう。
「そう言えば詳しく話したことなかったですね。あの黒いPSIは普通のPSIとは違って、サーゼクスさまたちは暴王の力っていうんですけど、正確には俺の頭の奥に潜むメルゼーっていう悪魔の力の一部なんですよ」
「メルゼー……」
俺の話を聞いた姫島先輩が信じられないといった目で俺を見てくる。
「どうしたんですか? なにか気になることでもありましたか?」
姫島先輩の様子は明らかにおかしい。
なにか変なことでも言っただろうか?
「いえ、メルゼーって名前に聞き憶えがあったものですからつい、でも、そんなはずないですわね」
「聞き憶えって、メルゼーのこと知ってるんですか!?」
姫島先輩の話に今度は俺が驚く番になってしまった。
なんで姫島先輩がメルゼーのことを知ってるんだ!?
俺は興奮して姫島先輩に両肩に手を置いて訊ねてしまう。
「え、ええ、ですが、あれは……」
「なんでもいいんです! 知ってることがあれば教えてください!」
「……わかりましたわ。ですが、流石にこのままでは少し話しずらいので少し離れて下さいますか?」
「えっ?」
姫島先輩の言葉で少し冷静になると、ものすごい近い場所に姫島先輩の顔があった。
「うおわっ! す、すいません!」
俺は慌てて謝りながら急いで姫島先輩から離れる。
どうやら興奮して気づかないうちにあんなに近くに詰め寄っていたようだ。
「あらあら、そんなに慌てて、うふふ、たまには強引にされるのもいいかもしれませんわね」
姫島先輩は笑顔でそんなことを言いながら慌てて離れる俺の様子を見ていた。
「はぁ、はぁ、それで、姫島先輩の知ってるメルゼーって?」
俺は深呼吸をして心を落ちつかせると、再び姫島先輩にメルゼーのことを訊ねる。
「わかりましたわ。メルゼーというのは確か、私が偶然読んだ冥界の御伽話に出てくる名前のはずですわ」
「冥界の御伽話ですか……?」
なんで冥界の御伽話にメルゼーの名前が出てくるんだ?
確かに親父の資料に書かれていた男はメルゼーのことを悪魔と言っていたが、それは抽象的なもので実際の悪魔ではないはずだ。
「その御伽話って、どういう内容か憶えてますか?」
「そうですわね……」
俺の質問を聞いて、姫島先輩は頑張って御伽話の内容を思い出そうとしてくれる。
「あれは、強大な力を持った悪魔が、力を制御できないとどうなってしまうのかを子供たちに教える。教育目的の物語だったような気がしますわ」
「……詳しい内容ってわかりますか?」
「ゴメンなさい。一度しか読んだことないので、流石に詳しい内容までは憶えていませんわ」
俺の質問に姫島先輩は申し訳なさそうな顔で答える。
「いえ、わからないんならいいんですよ。それだけわかっただけでも十分ですから、ありがとうございます」
俺は姫島先輩にお礼を言って、その御伽話のことを考える。
確かにメルゼーは制御できないと、自分だけではなく、周囲も全て喰らい尽くしてしまう危険性がある。
これはなにかの偶然なのか……?
そう言えば、ライザーと戦ったときにもあいつはメルゼーの名前を聞いた瞬間に明らかに表情が変わったな。ということは、冥界にメルゼーのことを知る鍵があるのか?
でも、冥界なんて人間である俺が行く機会なんてないよな……。
メルゼーの正体を知る手掛かりを失った俺は気を落として溜息を吐いてしまう。
「どうやら、余計ことを言ってしまったみたいですわね」
「いやいや、姫島先輩に無理を言って聞いたのは俺ですから、気にしないでください」
少し悲しそうな顔をする姫島先輩に安心させるように声をかける。
「まあ、わからないものは仕方ありません。力の制御方法自体はもうわかってるんですから、自分なりにメルゼーのことを知っていくしかないですね」
俺が笑いながらそう言うと、姫島先輩は信じられないものを見るように俺の顔を見て驚いている。
「どうしたんですか? 俺、なにか気になることでも言いましたか?」
「えっ、いや、なんでもないですわ……」
姫島先輩はそう言うとなにかを考えるように俯いてしまう。
どうしたのか少し気になるが、無理に聞きだすのもあれなので、残っていたお茶を飲んで一息吐く。
「……私は楠緒くんのようにはなれませんわ」
姫島先輩はそう呟くと静かに立ち上がる。
「俺のようにって、それはどういう――」
姫島先輩の言葉の意味がわからない俺、その意味を聞こうと姫島先輩の方を向いて言葉に詰まってしまう。
立ち上がった姫島先輩は俺の方に身体を向け、背中から二枚の翼を出現させていた。
片翼は前にも見たことある悪魔の翼だが、もう片方の翼は悪魔の翼ではなかった。同じ黒い翼だが、あれは堕天使の翼じゃないのか……?
「私の母は、この国のとある神社の娘でした。そして父は、堕天使の幹部バラキエルです」
姫島先輩は少し震えながらも話を続ける。
「母はある日、傷つき倒れていた堕天使の幹部であるバラキエルを助け、そのときの縁で私を身に宿したと聞きます」
姫島先輩の話す出生のことに驚きながらも、俺は姫島先輩から決して目を逸らさず、静かに姫島先輩の話を真剣に聞き続ける。
「穢れた翼……悪魔の翼と堕天使の翼、私はその両方を持っています」
姫島先輩は堕天使の翼を憎々しげに手に持っている。
「この羽が嫌で、私はリアスと出会い、悪魔となったの――でも、生まれたのは堕天使と悪魔の羽、両方もっとおぞましい生き物。ふふふ、穢れた血を身に宿す私にはお似合いかもしれません」
自嘲する姫島先輩に俺は悲しくなる。
おぞましい? 穢れた血? この人はなにを言っているんだ?
「……それを知って楠緒くんはどう感じます? 堕天使は嫌いよね? あなたを襲い、親友でもあるイッセーくんとアーシアさんを一度殺し、この町を破壊しようとした堕天使にいい思いを持つはずがないわよね」
姫島先輩の訴えに俺は偽りなく答えて、俺は構わず続けて口を開く。
「そうですね。俺はその堕天使たちのことは嫌いです」
俺の言葉を聞いて、姫島先輩は悲しそうな表情になる。だが、俺はそんな姫島先輩に構わず続きを口にする。
「で、それがどうしたんですか?」
俺は姫島先輩の話をばっさりと切り捨てる。
「どうしたんですか? って、楠緒くんはなんとも思わないの? 私は堕天使の血を引いているのよ? 許せるの? 悪魔に転生しているとはいえ、堕天使の血を引いているのは変わらないのよ?」
「許せるもなにも、俺には関係のない話ですからね」
姫島先輩は俺の言葉を聞いて、より一層悲しそう表情になってしまう。
……あれ? 姫島先輩、もしかしてなにか誤解をしてないか?
「そうですわよね。こんな穢れた私のことなんて……関係ないわよね」
自嘲しながら顔を伏せる姫島先輩を見て、俺は言い方を間違えたのに気づいてしまう。
だから俺は姫島先輩の誤解を解くために、その場から立ち上がると、姫島先輩の顔を真っ直ぐ見てできるだけ優しく声をかける。
「……だって、姫島先輩は姫島先輩じゃないですか」
「えっ……」
姫島先輩が少し驚きながら呟いて俺の顔を見つめてくる。
若干、俺自身がなにを言っているのかわからなくなってきたが、今は素直に思ったことを口にする。
「だから関係ないんですよ。姫島先輩が堕天使の血を引いていようと、俺の中にある姫島先輩への気持ちは変わりませんから」
「どうして……? 楠緒くんはこんな穢れた私を受け入れてくれるんですか?」
「なに当たり前のことを言ってるんですか? そもそも、先に俺を受け入れてくれたのは姫島先輩の方じゃないですか?」
「先に私が?」
姫島先輩は俺の言葉の意味がわからないのか、俺の言った言葉を復唱する。
「はい。こんな人間なのに超能力なんて異能な力を持った俺を嫌な顔一つせず受け入れてくれたのは、姫島先輩を含めたオカルト研究部のみんなですよ。だから今度は俺の番です。俺は、たとえ姫島先輩が堕天使の血を引いていようと関係ありません。ありのままの姫島先輩を受け入れます」
俺の正直な気持ちを聞いた姫島先輩は目から涙を流していた。
……えっ? どうして、姫島先輩は泣いているんだ?
俺が姫島先輩の涙に内心慌てていると、姫島先輩は微笑みを浮かべて、涙を拭った。
「……殺し文句、言われちゃいましたわね……そんなこと言われたら……本当の本当に本気になっちゃうじゃないの……」
殺し文句って、俺は当たり前のことを言っただけなんだけど……?
姫島先輩の言葉の意味を考えている俺に、いきなり姫島先輩が抱きついてくる。
「ひ、姫島先輩。どうしたんですか……?」
「うふふ、ゴメンなさい。少しに間でいいですから、このままでいさせてくださらないかしら?」
反応に困って戸惑う俺の耳元で姫島先輩が微笑みながら囁く。
しかし、その姫島先輩の声は少し震えていた。
「……わかりました」
俺はそう言って、姫島先輩が満足するまで待つことにした。
少しの間抱きつかれていると、姫島先輩がその状態のまま、俺の耳元で囁いてくる。
「決めましたわ。私、決めました。楠緒くんはリアスの眷属ではないのですから、遠慮する必要ないですわよね」
姫島先輩はそう囁くと、さらに力強く俺に抱きついてくる。
遠慮する必要はないって、それと部長の眷属でないことをなんの関係があるんだろうか?
「ねぇ、楠緒くん」
「なんですか?」
「私を楠緒くんの女にして」
「えっ……」
女にしてというのは、つまりそういうことだよな?
俺は突然の姫島先輩の告白に驚く。
俺の耳元で囁く姫島先輩は本気だ。
だからこそ、俺も本気で答えないと姫島先輩に失礼だよな。
「姫島先輩の気持ちは嬉しいです。だから、考える時間をくれませんか?」
「……やっぱり、私では駄目なの?」
姫島先輩は悲しそうな表情と不安そうな声で呟く。
自分に告白してくれた女性にこんな表情をさせてしまった罪悪感に駆られながら続けて口を開く
「違います。姫島先輩が本気で言ってきてくれているからこそ、俺も本気で姫島先輩の思いに答えたいんです。だから、本気で考える時間を俺にくれませんか?」
相手が本気だからこそ、こっちも本気で答えたい。
少し考える時間が欲しいのも、この場の空気や勢いだけで答えるのは、姫島先輩の告白に失礼だと思ったからだ。
「……うふふ、わかりましたわ。でも、その代わりに――」
「んっ!?」
少しの沈黙のあと、姫島先輩が微笑みながら俺の身体を放したと思った次の瞬間、眼前一杯に姫島先輩の顔が迫り、柔らかい感触のなにかが俺の唇に重なった。
なにが起こったのか理解できない俺が呆然としていると、すぐに姫島先輩が俺から離れる。
も、もしかして、今、姫島先輩にキスされたのか?
「うふふ、私の初めてを楠緒くんにあげちゃいましたわ」
姫島先輩は嬉しそうな笑みを浮かべて、そんなことを言う。
……俺も初めてだったんだけど。
口に出すのが恥ずかしい俺は、手で口を隠すように覆ってしまう。
「うふふ、やっぱりこういうときの楠緒くんはかわいいですわね」
姫島先輩はそう言うと、再び抱きついてくる。
「……言っておきますけど、ファーストキスを貰ったからって理由じゃあ絶対に答えを出しませんからね」
「あらあら、それは残念ですわね」
姫島先輩は全然残念そうではない声で俺の耳元で囁いてくる。
「ねぇ、楠緒くん。答えを待つ代わりに一つお願いを聞いてくれる?」
「……なんですか? 答えを出すのに関係のないことならいいですよ」
「私のこと、姫島先輩ではなく朱乃って呼んで」
姫島先輩の願いは自分のことを名前で呼んでほしいということだった。
「別にいいですけど、流石にいきなりは恥ずかしいんで、まずは朱乃先輩でいいですか?」
「……じゃあ、一度でいいから、お願い」
俺の言葉に姫島――朱乃先輩が潤んだ瞳で懇願してくる。
その瞳に耐えきれなくなった俺は、意を決して口を開く。
「……朱乃」
「……うれしい。楠緒」
いつもの凛とした朱乃先輩ではなく、普通の女の子のような声で俺の名前を呼んで、ぎゅっと、さらに力強く俺を抱き締める。
「ねぇ、これから二人のときは朱乃って呼んでくれる?」
「……検討します」
そう言う朱乃先輩の姿は、部活での『副部長姫島朱乃』ではなく、一人の女子高生姫島朱乃だった。
それぐらいのお願いなら問題ないのだが、流石にいきなり呼び捨てで呼ぶのが恥ずかしい俺はそう言って誤魔化してしまう。
「うふふ。では、答えに期待してますわ」
最後に朱乃先輩は俺の耳元でそう囁いた。