『人生は後悔の連続である』とは、誰の言葉だっただろうか。
それなりに苦難の多い人生だったと自覚している。
そして、その中で精いっぱい生きてきたと自負している。
それでも、思うのだ。
もしも生まれ変われるならば、私は――。
※
祖母は時々、変なことを言う人だった。
『夜道を出歩いてはいけません。どうしても行くなら、必ず明かりを持ちなさい』
『夜道でマンホールを踏んではいけません。中にいるモノが出てきてしまうから』
『夜道で赤ちゃんの泣き声を聞いても、近づいてはいけません』
『夜道には、夜を見張るナニカがいるの。もし出会っても、ぜったいに目を合わせてはダメ』
すべて、
あまりにも恐ろしいのだ。不気味で、醜悪で、残酷で、
大人になった今でも、夜は恐ろしい。新素材ライトが町をくまなく照らす、この時代になってもだ。
『――様の病室は、401号室です』
病院の受付AIに住民コードを読ませると、親族と認証され病棟へのゲートが開放された。私と同じ見舞い客、滑るように動く無輪車イス、丸いフォルムの看護ロボット、それらとすれ違いながら病室を目指す。エレベーター前で、しばし黙考。もう珍しくなった手動ドアを開けて、階段を使うことを選択した。祖母曰く「足腰は鍛えておきなさい」だ。
すこし息が上がってきたあたりで4階に辿りつく。季節は夏、天井のセンサー付き冷房が、私という熱源を見つけて冷風を吹きつけてくるのがありがたい。汗が引くのを待ち、祖母ゆずりで色素の薄い髪を整えてから病室に入った。暖色系の調度品で統一された個室の奥、窓際のベッドに、祖母がいた。
こちらを見て微笑む、柔らかな相貌。
ゆるく編まれた、長く真っ白な髪。
そして、存在しない左腕。
私は、祖母よりも美しく老いた女性を知らない。その顔にも手にも、年齢と苦労の数だけ皺が刻まれているというのに、内側から淡く輝くような美しさ。欠けた左腕ですら、かの女神像のような神秘性を感じさせた。まるで月のようだと、私は常々思っている。
祖母は、夜が似合う女性だった。
「いらっしゃい。また来てくれたのね」
すすめられた椅子に座り、今日もとりとめの無い話をした。仕事のこと、流行っている映画のこと、太ってきた父が運動を始めたこと、母が犬を飼おうと思っていること、伯父が旅行に行ったこと、従妹に恋人ができたこと。そして、私も秋になったら結婚すること。
「あら、じゃあ来年には、また
でも間に合うかしら? などと冗談めかしながら、片手を口に当てて祖母は笑う。祖母は先月に卒寿、つまり90歳を祝ったばかりだ。目立った病気もなく、痴呆の気配もない。それでも、祖母は病院にいる。
「大丈夫よ。まだまだ元気だもの」
……私が逆に励まされてしまった。努めて笑顔をつくり、話を再開しようとすると、ベッド脇の置時計がチャイムを鳴らした。午後5時。面会時間が終わるにはまだ早い。
「そろそろ帰りなさい。これから日が落ちるのも早くなるわ。夜道には――」
はいはい。夜道には気を付けます。ちゃんとまっすぐ帰ります。あいかわらずな祖母を見ると力が抜け、今度は自然に笑えた、と思う。そのまま病室を出ようとすると、祖母に呼び止められ、振り返った。
祖母は、じっと私の目を見てから、すこしうつむき、顔を上げて、
「またね」
と、手を振った。
※
夜半に、目が覚めた。
ずっと霞んでいた視界がやけに鮮明で、耳鳴りも聞こえない。
暗い天井をしばし眺めた後、片腕の老女――ハルは、ベッドから起き上がった。ひどく、体が軽い。
「……」
孫から贈られた肩掛けを羽織り、愛用の杖を右手に握る。私物の入った鞄を探り、三つの物を取り出した。
一つは、骨董品のような懐中電灯。二つは、青と赤のリボン。
それらをひとしきり指で撫でた後、懐中電灯を首から下げ、リボンは杖ごと握りしめて、病室を後にした。
そろそろ、その時がくる。
エレベーターで1階に降り、無人のロビーをゆっくりと歩く。
いや、無人ではない。
柱の陰に、待合椅子の下に、受付パネルの奥に、そこかしこに、
ソレらは、ただぼうと佇んでいるだけで、かつてのように追ってはこない。やはり、あの町が異常だったのだろう。あるいは、気を使ってくれているのか。
そのまま裏口からこっそりと抜け出し、中庭に出た。
普段はまぶしい程に道を照らしているライトも鳴りを潜め、大きな噴水もさらさらとせせらぐのみ。真ん中に置かれた、もう滅多に見られない木製のベンチに腰掛ける。
ハルは天を仰いだ。大きな満月が、こちらを見返している。
「……いい、夜」
そう、死ぬには、いい夜だった。
それなりに苦難の多い人生だったと自覚している。しかし、決して孤独ではなかった。
父がいた。母がいた。愛犬もいた。
新たな友人も多くできた。心から愛せる伴侶とも出会えた。3人の子と、5人の孫を得た。
2人目の曾孫は、もう間に合わないようだが。
孤独ではなかった。精一杯生きてきた。
だが、それでも。いや、だからこそ。
「……、……ィ」
ぽつりと、何かをつぶやいたハルの耳に、奇妙な音が響いた。
ずりずり ずずず ごりっ
ずりずりずり ごりっ ずりずり
病棟の陰、暗がりに目を向ける。
そこに、なんとも
灰色の闇のような体色。芋虫のような、深海魚のような胴体。
体から生えたミミズに似た何かで、大きな袋を3つ抱えている。
正面にある白い円は顔なのか、目なのか、仮面なのか。
人の想像の範疇を越えたその存在を、ハルは知っている。
怪異の中の怪異。夜を見張るモノ。
「よまわり、さん……」
ハルは、その名を呼んだ。
灰色の怪異――よまわりさんが近づいてくる。あいかわらず、その動きからは何の感情も、意思も感じられない。心など無いのか、あるいはそんな人間の物差しで計れるものではないのか。
『よまわりさんは、夜に出歩く子どもをさらうモノ』
『理由なんて分からない。あれは、ああいうモノだから』
かつて、故郷の隣町で出会った片目の少女はそう語った。だが、ここに子どもはいない。いるのは老いたハルだけだ。いったい何のために現れたのか。ここにハルしかいないのであれば、それはもしかして、
「私を、迎えにきてくれたのですか」
ハルは、そっと微笑んだ。元より、もう逃げる必要などない。手から、足から、力が抜けていく。体のすべてが、命が、終わっていくのが分かる。
思えば、ハルにとって怪異は身近な存在だった。
物心がついた時には、感じていた。あの夏の、あの夜ほど鮮烈な記憶は生涯なかった。あの夜の後も、故郷を去るまで夜廻りを続けていた。
怪異で始まり、怪異で終わる。己を看取る存在としては、ふさわしいと思えた。
よまわりさんは、ただ動いた。2つの袋を、そのミミズのような何かでつかみ、
「――――ユイ…」
最期に、己の生涯でもっとも鮮やかな名前を、大切につぶやき、ハルは、目を閉じた。
※
もしも、生まれ変われるならば――。