長い夜が、明けようとしていた。
一人の少女はその命を失い、一人の少女はその片腕を失った。
失ったものはあまりに多く、得たものは果たして何だったのか。
ただ確かに、夜は明けようとしていた。
明けない夜は無いのだから。
だが、少女たちは知らなかった。
夜が明けるその
※
光も死ぬような陰鬱な洞窟の奥、ガラガラと
『――あれ、わたし』
たしか、自分がどうして死んだのか確かめたくて、山に行って、……お父さんの死体を見つけて。それから、それから、
『どうしたんだっけ……』
幽霊になってから、どうしようもなく記憶が曖昧だ。
辺りを見回すと、どこか見覚えのあるような無いような光景が広がっていた。
何か大きなモノが暴れでもしたみたいな、割れた岩の破片。
何かが大量に降ってきたのか、赤い染みがそこら中にこびりついていた。
来たことがあるのか無いのか、どちらにせよ、あまり長居したい場所ではない。
ほんのわずかに明るい方向に向かって歩くと、右手に何かが絡みついていた。
糸だ。赤い糸。
すこし前にも見えていた糸だが、なんとなく張りが無くなっているように見えた。まるで、切られてしまったみたいに。
進む当ても無かったユイは、その糸を辿ることにした。
触れられない糸を辿って、歩いて、その先はすぐに見つかった。
『うっ……』
白くて細い、小さな腕が落ちていた。
糸は、その左腕につながっていたのだ。その指に、手首に、何重にも雁字搦めに絡みついている。二の腕の半ばで断ち切られた断面からは、まだ鮮血が流れていた。
恐る恐る触れてみると、触れたその場所から、白い肌が一気に黒ずんでいく。
『ひっ』
思わず尻もちをついて見ている間に、その腕は腐り落ちて、骨だけになって、その骨も塵になって消えてしまった。
そこに繋がっていた糸も、端から透明になって消えていく。その消滅がユイの右手にまで達した時、ユイの中で、何か大事なものが消えてしまった気がした。
『なんなの……』
ひどく胸が苦しくなった。何か、何か、絶対に失くしちゃいけないものが……。
結局なにもわからなくて、仕方なく立ち上がると、今度は何歩か先に、鮮やかな赤が見えた。
その辺の赤い染みとは違う、とても鮮やかな、つい今しがたできたような、血痕。
血痕を、辿る。辿って、歩いて、そして……。
『――――ハル!』
どうして、こんなに大事な親友のことを忘れていたのか。駆け寄って、無事を確かめようとして、絶句した。
ハルは、左腕が無かった。さっき落ちていた腕と無関係なはずもない。
『ハル! ハル! しっかりして!』
倒れていたハルを抱き起す。今度はちゃんと触れることができて、心底安心した。
だけど体勢が変わったせいか、ハルの腕からボタボタと血が落ちてきて、ユイは青ざめる。
血を止めないと。でも
なんとかハルの肩口をきつく縛ると、肩をかして歩きだす。
その時、ハルの口がすこしだけ動いた。
『……ごめんね……ユイ』
いつも通りのハルで、ユイはすこし安心した。
ハルは、すぐに謝る。ユイが何かしてあげるとすぐに「ごめん」と言ってしまう。そういう時は、他に言うことがあるといつも言っているのに。
とにかく、ハルを安全な場所に運ぼうとして、
――あれ、前にも、こんなことが。
すぐ目の前に現れた、灰色の
お父さんの遺書。
お父さんの死体。
お父さんは死んじゃって。
お母さんは壊れてしまって。
わたしも幽霊になって。
わたしがなにをしたの。
どうして、わたし達ばかり、こんな地獄を味わうの。
ハル。
ねえ、ハル。
ずっと一緒だって、言ったよね。
ずっと友達だって、言ったじゃない。
なのに、どうして引っ越すなんて言うの?
ハルまで、わたしをおいていくの? うらぎるの?
つらかった。
さみしかった。
いっしょにいたかった。
いっしょにきてほしかった。
ひとりにしないでほしかった。
だから、
だから、
ハルを、ころそうとした
ざわざわと、視界の端に黒い触手が蠢いていた。
これは、自分のものだ。見下ろした自分の手は、真っ黒に染まっていた。
自分は、お化けになっていた。
ユイは、すべてを理解した。
孤独に、苦痛に、ハルとの別れに、クロの死に心を弱らせた自分は、あの「声」を聞いてしまい、自殺した。
幽霊になって、記憶を失くして、町をさまよって、お父さんの死体を見つけて、絶望して、お化けになった。
お化けになって、ハルを、道連れにしようとした。
だからハルは、自分との縁をコトワリさまに切ってもらったのだ。その左腕と引き換えに。
『――――ッ!』
ユイは叫ぼうとした。
でも、ハルをこれ以上苦しめたくなくて、……この姿を見られたくなくて、叫びを抑え込んだ。
歩きながら、なんとか心を落ち着ける。なんとか、元の姿に戻れた。
……元の姿?
……こんな、親友を殺そうとした「
自虐と呼ぶにはあまりに凄惨な考えを振り払い、洞窟を出る。ほどかれたハルの薄い色の髪が、光に照らされて輝いていた。
夜が、明けようとしていた。
自分の手が朝日に透けているのを見て、ユイは足を速める。名残を惜しんでいる間は無かった。
――ごめんね……ハル
ハルと山道を下りながら、ユイは泣いていた。泣きながら、ハルに謝り続けた。
――いっぱい怖がらせて、ごめんなさい。
――道連れにしようとして、ごめんなさい。
――わたしのせいで手を失くしてしまって、ごめんなさい。
――こんな。こんなお別れになって、ごめんなさい。
山道の入り口に、チャコが待っていた。
ピンク色の舌を覗かせながら、大きなしっぽをぶんぶんと振っている。
自分の姿が見えているのかどうかは、もう分からなかった。
ここが終わり。
手を、はなさないと。
やだ。
やだ。
やだ!
こんなのやだ。ひどい。あんまりだ。なんでわたしが。どうしてわたしばかり。
ハル。ハル。ハルと別れたくない。いっシょがイイ。このマまいっシょニキテホシイ
“わんッ!”
チャコの鋭い鳴き声に、ハルに絡みつこうとしていた触手の動きが止まった。
また自分がやろうとしていたことに気付き、思わずその手を離した。
どさり、と。道路にハルが倒れる。チャコが、その頬をペロペロと舐めていた。
『――ダメだなぁ。わたしって』
ユイは絶望した。
絶望しすぎて、かえって清々しい気分ですらあった。
『本当に、ダメな……悪いお化け』
こんなお化け、縁を切られて当然だ。
もう、ハルと関わるべきじゃないんだ。
これで、よかったんだ。
その内に、完全に夜が明けて、朝が来る。
通りがかった車から人が降りてきて、すぐに救急車が来た。
ハルが、車の中に消えて、サイレンといっしょに、遠ざかっていく。
『さよなら……ハル』
――こんな、悪いお化けで、ごめんなさい。
あとは、自分が消えるのを待つだけ。ふらふらと、意味もなく山の中をさまよった。
だけど、いつまでたっても、ユイは消えなかった。
どうしようもなくなって、ユイは山を下りた。
そして結局は、ハルの家に来た。
でも、ハルはいなかった。
夜になっても窓は真っ暗で、ハルのお父さんもお母さんも帰ってきていないみたいだった。
家の前でハルを待って、待ちくたびれたら町をさまよう。それに疲れたら、またハルの家に戻る。
そんなことを何度か繰り返している内に、自分がひどく希薄な存在なんだと気付いた。
他のお化けも、自分のことはまったく見えていないみたいだった。たまに夜道を歩いている人と出くわしても、何の反応も無かった。
元々こういうものなのか、それともコトワリさまに縁を切られたせいなのか。
どちらにせよ、もうどうでもいいことだった。
ハルの家で待ち、町をさまよい、ハルの家に戻り、そしてある日の夕方、ハルが帰ってきた。
でも、帰ってきたハルは、もうユイの知っているハルじゃなかった。
ハルの体は傷だらけだった。夜の町をあちこち走り回っていたんだから当然だ。
おでこに、自分とまったく同じような包帯が巻かれていて、ひどく胸が苦しくなる。
当然、その左腕は無いまま。中身のない袖が、むなしく揺れていた。
そして何よりも、その目が。
暗い、夜のように真っ暗な、闇色の目がそこにあった。
ハルの、泣いたり笑ったり、また泣いたりしていたあのキラキラした目は、どこにも無かった。
無言で車から降りてきたハルは、隠れることも忘れていたユイをすり抜けて、ただいまも言わず玄関に入っていく。
一緒に帰ってきたハルの両親は、それをつらそうな顔で見ていた。
ユイの視界の端で、また黒い触手が蠢いていた。
どれぐらい、そうしていただろう。
ハルの家の前で、抱えた膝に頭を埋めていたユイは、玄関の扉が開いた音に顔を上げた。
玄関から出てきた小さな影は、モタモタと右手の懐中電灯を持ち直して、スイッチを入れる。
小さな影――ハルは、当然ながらユイには目もくれず、夜の町へと進んでいった。
『ハル? どこに行くの。もう夜だよ』
声は届かないと分かっていても、声をかけずにいられなかった。もう触れることはできないから、ただ後をつけることしかできなかった。
やがて、ハルの前にお化けたちが現れる。
ハルは何か投げようとしたみたいだけど、手が懐中電灯でふさがっていることに気付いたのか、表情を歪めた。そのまま、お化けの間をすり抜けて走っていく。
『危ないよ。帰ろうよ』
逃げ切ったハルは息を切らせながら、傷が痛むのか左腕を押さえる。まるで、無くなった左手を探すように、右手が宙を掻いていた。
そんな状態で、いったいどこへ向かおうとしているんだろう。
ユイが途方に暮れた頃、チャカチャカと爪がアスファルトを叩く音が近づいてくる。
『……チャコ』
久しぶりに、ハルの声を聞いた。
夜道を駆けてきた茶色の子犬――チャコも、久しぶりに会うハルに嬉しそうな様子だった。大きな尻尾を振りながら、ハルの足に頭をすりつけている。
茶色の毛並みを撫でていたハルの顔にも、すこしだけ笑みの影がかすめた。
『チャコも、いっしょに探してくれる?』
チャコは、その言葉を分かっているのかいないのか、クゥーンと鳴くのみだ。またハルは歩きだし、その後を、チャコとユイがついていく。
お化けから逃げ回りながら、ハルは町中を徘徊した。
田んぼ、神社、図書館……。目についた所にそのまま向かうように、ハルは進んでいく。懐中電灯をぐるぐると巡らせ、自販機の裏をのぞき込み、茂みの中をガサガサと探る。
いったい、何を探しているのか。
そのまま、ハルは空が白み始めるまで歩き続けた。
もともと色白な顔は真っ白になって、暗い目の下に濃い隈ができていた。ずっとついてきたチャコも、どこか元気がない。
最後に、ハルはあの場所に向かった。
夜が明ける直前の空が見せる、ひときわ暗い青。
その下に、ポツポツと明かりが目立ち始めた町並みが広がっている。
この町を見渡せる、あの山の、あの木の下に、ハル達はいた。
大振りの枝――ユイが首を吊ったあの枝を、じっと見上げていたハルは、木の下に何かを置く。
ちぎれた、赤い
ついさっき、ハルが町で拾ったものだった。
『――ユイ』
思わずハルを見るが、ハルの視線はこちらには向いていない。ただ、その木を見つめていた。
まるで、そこにユイがいるとでもいうように。
『赤い色が好きだって、言ってたよね』
もう一度、置かれた赤い組み紐を見る。まさか、これを探していたのだろうか。
だがそれは、ユイの物ではない。
眠くなってきたのか、目を細めていたチャコを撫でると、ハルは木に背を向けた。
『明日は、
当たり前のように、ハルはチャコに言って。ユイは、凍りついたように足を止めた。チャコは、困ったように首をかしげる。
ふらふらとお化けみたいに山を下りるハルを、ユイは不揃いな両目で見つめていた。
きっと聞き間違いだと、自分に言い聞かせながら。
『ユイ、今日も見つからなかったね』
次の夜も、その次の夜も、その後の夜も、まったく同じように夜廻りをしたハルは、またチャコにそう言いながら山を下りていた。
昼の内は家からまったく出ず、夜になると家を抜け出して、チャコをつれて町中を探索する。
拾い集めた赤いガラクタを持って、明け方に山に登り、あの木に供える。
ハルは、ずっとそれを繰り返していた。
『どこに行ったんだろうね』
『また、きれいな赤が見つかったよ。ユイ』
『ここにもいなかったね。明日はきっと見つかるよね』
『すごいでしょこのスカーフ。高そう』
言っている事もやっている事も滅茶苦茶だ。
ユイを探すと言いながら、あの木の下にユイが眠っているかのように赤い物を供える。赤い物はすべて、ユイの物だとでもいうように。
ハルの首には、改造された懐中電灯がぶら下がっていた。
片手を失くしたハルにあんな工作ができるわけがない。きっと、夜廻りを止めないハルを見かねて、ハルのお父さんが作ったんだろう。ハルの心を守るためにはそれが必要だと。
ハルに甘いあの人は、どんな気持ちであれを作ったんだろうか。
『ねえ、ユイを知らない?』
何回目かの夜から、ハルはお化けに話しかけるようになった。
昼間、玄関をすり抜けてハルの家に忍び込んだ時に知ったのは、あれ以来、ハルが誰とも口をきいていないということだった。
あの夜にいったい何があったのか、どうして左腕を失ったのか、警察の人にも、お医者さんにも、両親にも、一言も話さなかったと。
退院してからもそれは変わらなくて、昼はずっと部屋で寝て、夜になると外に抜け出す。そんなハルに、ハルの両親は頭を抱えながら、泣いていた。
『あなたたち、わたしの友達を知らない?』
ハルが口をきくのは、チャコと、木の下のユイと、お化けだけ。
話しかけられたお化けはそれに答えるわけもなく、ただハルにその手を伸ばす。答える様子がないと見たのか、ハルは紙飛行機を投げてから、別のお化けに向かう。
『ユイを見なかった? 赤いリボンをしている女の子なの』
『あっち行ってよ! ハルに近づかないでっ!』
『あなたは知らない?』
『来ないでよ! 来ないでったら!』
ハルは知り合いにでも話しかけるみたいに、無防備にお化けに近づいてしまう。
ユイは必死にお化けを追い払おうとするが、その手はハルにもお化けにも触れられない。
どんなに止めようとしても、ハルは自分から死に近付いていく。
あまりのもどかしさに、ユイは頭がおかしくなりそうだった。
『見てよユイ。やっと完成したよ』
暗い空の下、あの木の前で、ハルは大きな画用紙を広げた。
それは、この町の地図だった。あの夜より前、ユイと二人で作りはじめた手描きの地図。
ハルの家、ユイの家、田んぼ、神社、図書館……。二人で遊んだ場所が記され、その周りには二人の落書きが散らばっている。
たしか、半分ほど出来た後で、あの夜が来た。ユイも、地図のことは忘れてしまっていた。
ハルは、それを一人で完成させたのだ。
『この町ぜんぶ、まわっちゃった』
ハルの真っ暗な目は、ただあの木と、山積みされた赤いガラクタしか見ていなかった。
ユイも、チャコも、ただそれを見ていることしかできない。
やがて、カサカサと地図が震えはじめる。それを持つハルの右手が震えているからだ。
『――――っ!』
ハルが、何かを叫んだ。
何を叫んだのかは聞き取れなかった、もしかしたら、言葉ですらなかったのかもしれない。
グシャリと右手で地図を握りつぶし、左手のかわりに口で地図を噛んで、破り捨てていく。
紙クズになったそれを、手で叩いて、叩いて、足で踏んで、次は赤いガラクタも蹴り飛ばす。
虫の声すらしない山の中で、ただハルが暴れる音と、荒い息遣いだけが響いた。
チャコは怯えたように草むらに隠れてしまった。
ユイは、ただ見ていることしかできなかった。
朝日が顔を出す頃、散乱した紙クズとガラクタの中で、ハルはうずくまっていた。
死んだように動かないハルの右手は、暴れた時に切ったのか、血が滲んでいる。それを、草むらから出てきたチャコが小さな舌で舐めた。
ハルが、顔を上げる。
『はげましてくれるの?』
真っ暗な目で、ハルは笑った。お化けみたいな笑顔だった。
『がんばらないとね。ユイを探さなくちゃ』
赤い残骸を踏みつぶしながら、ハルは山を下りていく。チャコは尻尾を下げながら、それを追った。
ユイは、ざわざわと黒い触手を蠢かせながら、黒い両手で顔を覆っていた。
ユイは、ただ見ていることしかできない。狂気に、心の夜にのまれていく親友の姿を、ただ見ていることしか。
誰か。
誰か、助けて。
神さま、誰でもいい。お化けでもいい。
助けて。
わたしは、もうどうなってもいいから。
ずっとひとりぼっちでもいいから。
だから、だから。
ハルを、たすけてあげて。
だれか……。
『あぶないよ』
ハルが、ついに隣町まで夜廻りに行った夜、その子は現れた。