ひらひらと舞う紅葉が、ユイの手をすり抜けて落ちていく。
ユイは、また途方に暮れていた。
この木の下でハルを見送ったあの日から何日たったのか。夏はとっくに過ぎ去り、山の木々は見事に色づいている。
それでも、まだユイは消えずにいた。
――いつまで、こうしていればいいんだろう。
落ち葉の山と同化するように寝ころびながら思う。
何をするでもなく、お化けが眠るわけもなく、ただこうして時間が過ぎるのを待っていた。
……あの家の自室で、ただ朝を待っていた時のように。
がばりと起き上がって、頭を振る。溜息をひとつして、立ち上がった。
結局は、ハルのところに行くことにした。
ハルの家には、誰もいなかった。
当然だ。あの日に引っ越してしまったのだから。ここに来たのは、ただそれを確認する為だ。
玄関をすり抜け、からっぽになった家の中に入る。2階のハルの部屋も、からっぽだった。
天井を見上げれば、大きな染みがある。ハルは、これが怖い顔に見えて寝られなくなったことがあると言っていた。
1階でお父さんたちが歩く時、廊下がキィキィと
……自分が、知らない男の人たちの声から逃げていたように。
また頭を振ってから階段を降りる。壁をすり抜けて道に出ると、ユイは歩きだした。
ハルの引っ越し先は、町の名前しか知らない。詳しい場所や住所を聞く前に、あの夜が来てしまった。
だから、ユイは歩いた。
まさか電車やバスが使えるわけもない。ひたすら歩く。
町の周りをぐるぐると歩き、道路の看板にハルから聞いた町の名前がないか探した。
そして大きな道路の看板にその名前を見つけた時には、雪が降っていた。
あとは看板を辿って、雪道を歩き続けた。
この頃から、ユイの時間感覚はひどく曖昧になっていた。
眠ることはないからずっと歩けるが、ふと意識が途切れると、朝が夜になっていたりもする。
さっきまで桜が舞う木の下を歩いていたのに、気付いたら同じ木で蝉が鳴いていた時は呆然としてしまった。
だから、ユイの体感時間は生前の一割にも満たなかっただろう。
だから、ようやくユイが目的地に辿りつき、ついにハルを見つけた時、ハルはもう、お姉さんになっていた。
中学生なのか高校生なのかは分からないが、当然ながらハルはすごく大きくなっている。
それでも、一目でハルだと分かった。
人目を引く、色素の薄い髪。色白な小さな顔。
青いリボンは頭の上じゃなくて、長い三つ編みの先に結ばれていた。
そして、中身のない制服の左袖。
お姉さんになったハルはびっくりする程かわいくて、きれいだった。
まわりには、親しげな人たちもいる。
人数はそんなに多くないけど、とても仲が良さそうで、みんな優しそうな人達だった。
――新しい友だち、できたんだね。
寂しさを感じなかった、と言えばウソだ。でもそれ以上に、やっぱり嬉しかった。
新しい学校でも、ハルはがんばっていた。
片手ではできないことも多かったけど、そんな時はまわりの人たちが助けてくれていた。
きっと、ハルがとてもがんばり屋で、とてもいい子だってことも、みんな分かってくれていた。
なにせユイの自慢の親友だ。すこしだけユイも得意げな気持ちになった。
チャコも、一緒に引っ越していた。
あいかわらず小さいままだったけど、もう子犬ではなかった。
お休みの日はいつもハルと散歩に出ていて、甘えん坊な仕草だけは変わらない。
ハルとチャコの散歩についていくのは、ユイにはそれなりに大変だった。
なにせ歩幅が違う。ユイの姿は10歳のまま止まっているのだから当然だ。
そんな自分に今さら不満があるわけでもないが、不安に思うことならあった。
――わたしは、いつ消えるんだろう。
お化けになってから、もう何年もたっている。
ユイのおかしくなった時間感覚はアテにならないが、季節はどんどん変わっていくし、ハルもどんどん変わっていく。
気が付けばハルは大学生になって、チャコは動きがよぼよぼしだして……死んでしまった。
大きくなってもハルは泣き虫のままで、動かなくなったチャコを抱いて泣いていた。
ユイもそれを見ながら、久しぶりに泣いた。視界の端で、黒い触手がざわざわ動いていた。
でも、ハルは強くもなっていた。
泣きはしたけど、ふさぎ込むことは無かった。ハルのお父さんがチャコのお墓を掘るのを、片手だけで手伝った。
右手を胸に当てて、チャコにお祈りした後のハルは、ちゃんと笑っていた。
あの笑顔を見れば、チャコだって迷わず天国にいけただろう。クロと、またいっしょに遊べたに違いない。
ハルは、どんどん変わっていく。
ユイは、なにも変わらなかった。
ユイも、ずっとハルばかりを見ていたわけではない。
変わっていくハルを見ていると、なんとなく心がざわつくことがあった。そんな時はあえてハルのそばを離れて、新しい町をぶらぶら歩く。
夜はたまに他のお化けも見たが、あの町とは比べものにならないぐらい少なかった。散歩に飽きるとまたハルのところに戻る。その頃には、またハルも変わっていた。
気が向いた時は、物に触る練習をしていた。
地面を足でふむように触る。ユイ以外にはきっと分からない感覚だ。コツをつかめば、すこしだけなら物を動かすことだってできた。
――今ならハルに何かできるかもしれない。
――手紙を、書くとか。
正直、すごく迷った。
迷って、結局は、出さないことにした。
あの時ハルは、ちゃんとユイにさよならを言った。さよならを言って、ハルは前に進んでいる。進み続けている。
それを邪魔してはいけない。
……一歩も進んでいない自分なんかが、邪魔してはいけない。
拾ってきた紙をクシャクシャと丸めて、公園のゴミ箱に投げた。
――わたしは、なんで消えないんだろう。
大人になったハルがお仕事に行くようになった頃から、ユイはそればかりを考えていた。
よくテレビなんかで言われていたのは、死んだ人に何か未練があると、お化けになってしまうという話だった。
ユイの未練。
まず思いつくのはハルだ。
自分の死がハルに大きな傷を残してしまった。その心にも、体にも。ハルには幸せになってほしいと、ユイは心から願っている。
……あの時、道連れにしようとしたくせに。
このまま、ハルの人生を見守ることが、ユイの未練なんだと思った。ハルがその命を終える時、ユイもまた消えるのかもしれない。
……本当に?
ハルは、ひとりの男の人と仲良くなっていた。
優しそうな顔の、すこし気が弱い男の人。なんだかお父さんに似ているな、とユイは思っていた。
……お父さん。
真っ白なドレスを着たハルは、本当に絵本から飛び出してきたお姫様みたいで、ユイは感動してしまった。
ハルのお腹はすぐに大きくなって、ハルはお母さんになった。
……お母さん。
本当は、ずっと分かっていた。
ずっと、目をそらしていた。
ユイの未練。
それは。
ハルが3人目の子どもとして女の子を産んだ後、ユイは決心した。
小さな女の子が、両手をハルとお父さんに引かれて歩く。かつての、ユイの一番古い記憶そのものの姿。
それを見て、ユイはようやく自分の過去を直視できたのだ。
ハルは忙しい毎日に疲れたのか、イスに座ったままうつらうつらとしている。その髪を、そっと撫でた。
きっと、長い旅になる。
もしかしたら、ハルの命が終わるまでには間に合わないかもしれない。それでも、ユイは行かないといけない。
ハルは前に進み続けている。ユイも、進まないといけない。
『いってくるね。ハル』
あの日とは逆に、ユイがハルに背を向け、走り出した。
ユイは走った。
人も、車も、家も、全部すりぬけて走った。目的地に向けて一直線に、ただ走った。
あの時に辿った道を、逆に戻っていく。
朝がきて、昼がきて、夜がきて。
桜が咲いて、蝉が鳴いて、紅葉が舞って、雪が降って。
ユイは走り続けた。
ユイの未練の場所。
自分が生まれ育った、あの町へ。
故郷の町は、ずいぶんと小さかった。
新しい町を歩いた後だからか余計にそう思う。
この道はこんなに狭かったのか。何度も通った道も、ぜんぜん違う道に見えた。
建物もいくつか減っていた。
ユイがいつもご飯を買っていたスーパーも、シャッターが下りたまま。ハルとよく行った本屋も、文房具屋も。
寂れた小さな町を、歩く。
ユイの家は、まだあった。
あったけど、もうボロボロだった。
雑草だらけになった小さな庭を横切り、玄関をすり抜ける。実に数十年ぶりの帰宅だった。
家の中は、きれいなものだった。
きれい、というより、何もなかった。何も無くなった上で、ボロボロになっていたのだ。
砂で汚れた廊下を歩き、中を進む。
かつては、家族みんなでご飯を食べていたキッチン。その後、ただ千円札だけが置かれていたキッチン。
かつては、ハルも招いたことがあるリビング。その後、ゴミに埋もれていたリビング。
かつては、両親が眠っていた寝室。その後、知らない男の人たちがいた寝室。
かつては、ユイが大好きだった家。その後、ユイが帰りたくなくなった家。
ざわざわと、黒い触手をゆらめかせながらユイは不揃いな両目を閉じた。落ち着かないと。
なんとか人の姿に戻った後、階段を上って自室に入る。
ユイは、息をのんだ。
ユイの部屋だけは、そのままだった。
勉強机。赤いランドセル。本棚。畳まれた布団。壁のカレンダーも、あの年の8月のまま。
すべてが、あの時のままだった。あの時のままで、すべてが朽ち果てていた。
虫食いだらけの畳を歩き、黄ばんだカレンダーに触れる。ただそれだけで、紐がちぎれて落ちてしまった。
時が止まったような家の中で、この部屋の時間は完全に止まっていた。
まるで、ユイのように。
誰が家を片付けたのか。誰がユイの部屋をそのままにしたのか。
一人しかいない。
その人に、ユイは会いにきたのだ。
家を出て、ユイはその人を探しはじめた。
手がかりなんて何も無い。ただ、歩く。
家を中心に、ぐるぐる、ぐるぐると円を描くように歩き続ける。
他の人の家の中だって探した。ほとんどの家は空き家になっていた。
ハルの家はもう無かった。ただ草がすこし生えているだけの空き地になっていた。
この町は、もう無くなろうとしているのかもしれない。
生き物がみんな死んでしまうように、消えない物なんてないのだ。
急がないといけない。このままでは、ユイだけがすべてに置いていかれてしまう。
それだけは、イヤだった。
そのまま、この国すべてを探す覚悟もしていたが、その人はあっさりと見つかった。
元々、近くにいたのだ。ただ、ユイが探そうとしなかっただけで。
町の北側。
あの山の麓。
真っ白な木の下に、その人はいた。
『……お父さん』
父の死体は、あの日のままだった。
左手のない父の白骨死体は、今も自分の頭蓋骨を胸に抱えている。
あれから何十年もたっているのに、誰にも見つけてもらっていなかった。あの時にはもう骨になっていた父は、今もそのまま。
だが、その横に。
『……お母さん?』
死体が、増えていた。
父と同じく骨になっているその死体が、母だという証拠は何もない。
だが、他に誰がいるというのか。
父に寄り添うような死体の近くには、もう読めないほどに朽ちたノートが置かれていた。
父の死の真相が書かれた、遺書。
ノートに、ぽつぽつと、水滴が落ちる。雨ではなく、ユイの涙が。
だが、その涙がノートを濡らすことはない。
『お母さん……』
母が、このノートを読んだということは、その真相を知ったということ。
父は不貞などしていない。最後まで妻子を愛し、それを守るために一人で死ぬことを選んだ。
それを、知った。
『お母さん……っ!』
――仲直り、できたんだね。
母がどうやってここに来たのかは分からない。自分で探したのか、何かに導かれたのか。
母がなぜここで死んだのかも分からない。自殺だったのか、そうでなかったのか。
確かなのは、母が、父を許すように、父に謝るように、寄り添って死んだということ。
それで、充分だった。
充分、だったのに。
母が大きな旅行鞄を抱えていることに、ユイは気付いた。
大きな、ちょうどユイと同じぐらい大きな鞄。
その中を、見る。
『……ぁ』
ウサギのナップサックが顔を出した。唯一の父の遺品が。
『……あぁ……』
あとは、服がぎっしりと詰まっていた。子ども用の、女の子の服が。
『ああぁ……っ!』
すべて、ユイの服だった。
まるで、ユイの抜け殻を集めて、ユイの代わりにしたみたいに。
母は、ユイを抱いて、死んでいた。
『――――――っ!』
ユイは、両親に抱きついた。
甘えるように、縋るように、しがみついた。
泣きながら、ただただ感情のままに、言葉が流れ出てくる。
おとうさん
おかあさん
ありがとう
ごめんなさい
よかった
あいたかった
だいすき
だいすき
その言葉を、慟哭を、聞く者はここにはいない。
いたとしても、そこにあるのは、ただ2体の白骨死体でしかない。
だが、それでも。
死体と、死体と、幽霊となっていたとしても。
それは確かに、ひとつの家族が、再会を果たした瞬間だった。
――おかえり、ユイ。
それはきっと、ユイの願望が生んだ幻の声。死体が喋るはずもないのだから。
『ただいま……っ!』
それでも、ユイはそう答えた。
答えて、また泣き続けた。
これも、喜びの涙だったと、ユイは思う。