私は、いつ間違ったんだろう。
私は、何を間違ったんだろう。
私は、どうするべきだったんだろう。
ねえ、ユイ。
私は、いつ、何を、どうすれば、あなたと一緒にいられたの?
あの時、手を放さなければよかったの?
――いいえ。放さなくても、朝になれば、きっとあなたは消えていた。
あの時、あなたとの縁を切らなければよかったの?
――いいえ。私がお化けになっても、一緒にはいられなかった。お化けは
あの時、もっと早くあなたを見つければよかったの?
――いいえ。離れ離れになる前にはもう、あなたは幽霊になっていた。
あの時、私が引っ越さなければよかったの?
――いいえ。引っ越しが決まる前から、あなたの心と体は傷だらけだった。
あの時、私がもっと強ければよかったの?
――そうかもしれない。でも、私は弱虫だった……。
あの時、あの時、あの時……。
私と、あなたは、こうなる運命だったの?
どうしようもなかったの?
もう、分からないよ。ユイ。
※
ハルは、柔らかなベッドの上で目覚めた。
コチコチと、ベッド脇の置時計の音がする。窓から、赤くなりかけた光がさしこんでくる。薄汚れた天井の、大きな染みが怖い顔で見返してくる。
手足のたしかな重み、シーツから香る自分自身の匂い、カーテンを揺らす風の涼しさ。
生きているという、実感。
「……」
どうやら、死に損なってしまったらしい。
落胆と、安堵が入りまじった溜息をひとつこぼし、両手で目を覆った。
最期は夜の中で逝こうと中庭に出たが、そのまま眠ってしまったのか、あるいは警備ドローンにでも見つかったのか。どちらにせよ無断で病室を抜け出したのだ、主治医と子と孫に説教される未来が目に見え――。
「…………」
待て。今なにか、ひどい違和感を覚えた気がした。
そっと目を開けて、両手を離すと、ふたつの小さな手のひらが見えた。
「………………」
ぎゅっと目をつぶり、目頭をもむ。もう一度目を開け、じっと
「……ッ!?」
ベッドから転げ落ちた。
「ぶえッ!」
鈴の鳴るような声で、まるで可愛らしくない悲鳴が出た。しかし無理もない。
目覚めたら失くしたはずの左腕が復活していたなんて、誰が想像できるだろうか。
「な、に……これ」
しかも、なんだこの小さな手は。何度も断ったのに、無断で生体義手を移植されたのだろうか。ならばせめて普通の手をつけてほしかったと思う。
ふらふらと立ち上がっても、ハルの混乱は収まらない。
そもそも、ここは病室ですらなかった。青い花柄のシーツが敷かれた子ども用ベッド。開かれっぱなしのノート。勉強机。赤いランドセル。
忘れもしない。ここは、80年前に去ったはずの、生家の子ども部屋だ。
「冗談、でしょう……?」
冗談であってほしかった。それとも悪戯好きな次男の娘がしかけたサプライズだろうか? 遠い昔に取り壊されたはずの生家を、わざわざ復元したというのか?
痛み始めた頭を抱えながら、ふと、棚に置かれた手鏡に目が留まる。
頭に揺れる、空色のリボン。
皺ひとつ無い、色白で、小さな丸い顔。
色素の薄い髪で編まれた、ふわふわの三つ編み。
もう古い写真の中にしか無いはずの、少女ハルの姿がそこにあった。
ハルは気絶した。
※
よまわりさん……孫……看護ロボット……主治医……。
私は、夢を見ていた。新しい記憶から古い記憶へと、逆回しで流れていく風景を見ていた。
夫の葬式……母の葬式……父の葬式……。
お父さん、お母さん、あなた、私はやっぱり死んだようです。でももう十分に生きたはずです。決して早くはないでしょう?
長男の結婚式……次男の結婚式……長女の結婚式……。
子どもたちはみんな立派に育ちました。みんなひとり立ちして、自分の家族を持ちました。もう私の役目は終わったんです。
結婚式……入社式……卒業式……チャコのお墓……。
チャコとのお別れは悲しかったけれど、愛する人と出会えました。不自由な体では苦労もいっぱいしたけれど、私は幸せでした。
新しい町……新しい家……新しい学校……新しい友達……。
こんな体でも、みんな良くしてくれた。こんな私でも、ひとりでがんばったんだよ。新しい友達だってできたんだよ。
蜘蛛神……コトワリさま……お化け……お化け……お化け……。
あの夏の夜は今でも、こわくて、つらくて、さみしくて。
ユイ……ユイ……ユイ……。
ねえ、私は、あの時、どうすれば。
※
「――ユイっ!」
再び、ハルは飛び起きた。
そのまま転げ落ちるように階段を降り、何も持たないまま外に飛び出す。考えるより先に、走り出した。思い出すまでもなく、体が道を覚えていた。
黄昏に沈もうとする町並みが見える。ジグザグの水路。夕日に温められたアスファルト。錆びついた標識。魔法陣のようなマンホール。退屈そうな電信柱。何もかもが記憶通り。
いったい何が起こっているのかなど、ハルにはまったく分からない。死ぬ直前によまわりさんに会って、目覚めたら子どもの姿になっていて、80年前の故郷にいて……。
過去に戻った? そんなバカな。
でももしかしたら。もしそうだとしたら!
「ユイ……!」
遠い昔に失くした親友と、もう一度会えるかもしれない。その思いだけが、ハルを突き動かしていた。
しかし、視点が低く、歩幅の短い体をうまく動かせない。そして左腕が重い。長年を片腕で生きてきたハルにとって、五体満足であることの方が平衡感覚を狂わせていた。そのくせ体は軽いのだから、加減を誤って何度も転んだ。
それでも、すり傷だらけになりながら、夕日の町をハルは走り続けた。
そして、辿りついた。
赤い屋根の一軒家。かつてはよく遊びにいったのに、いつからか招かれなくなった、ユイの家。
息も絶え絶えになりながらインターホンに飛びつく。1回、2回、もどかしくなって一気に5回連打するが、錆びた電子音が聞こえるだけ。
返事は、無い。2階の窓も、開かない。
「ユイ! ユイっ! 私よ! ハルだよ! いないの!?」
たまらなくなったハルは、小さな手で玄関を叩きだした。ドアを開けようとするが、鍵がかかっている。ガチャガチャと固い音だけが響くだけ。
玄関を離れ、家の周りをぐるぐると歩いてもユイはいない。狭い庭の片隅に、古びた赤い三輪車を見てやけに不吉な気分になった。
窓枠に手をかけて中をのぞきこんでも、家の中は
ここに来て、ハルの脳裏に最悪の可能性が浮かんだ。
――過去に戻っているとして、
――左腕がある以上、あの夜よりは過去のはずだ。
――ならば何故ユイはいない?
――もしかしたら、ユイは、今まさに、あの木で、首を……。
一瞬で血の気が引いた。半狂乱で山に向かって駆け出すハルの耳に、
「ハル?」
あまりにも懐かしい声が響いた。