二夜廻   作:甲乙

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04:父親(おとうさん)

 娘の様子がおかしい。

 

 その日、私が仕事から帰ると、留守番していたはずの娘――ハルがいないのだと妻から聞いた。

 娘も今年で8歳。最近よく友達のユイちゃんと外で遊びまわっていることは聞いていた為、また外に遊びに行っているだけだろうと思っていた。

 妻が帰った時、玄関は開けっ放しで靴も置いたままだったというが、世間は夏休み。それもまあ、すこしはしゃぎすぎただけだろうと思っていた。

 

 しかし、辺りが暗くなり始めても帰ってこない娘に、私もさすがに冷静ではいられなくなった。

 大人たちは皆、知っている。夜になるとこの町は、その姿を変えるのだと。

 

 愛する娘の為に覚悟を決めるしかないと、懐中電灯と塩を手に探しに出ようとした矢先、娘は帰ってきた。いったい何があったのか、体中に絆創膏やらガーゼやらが貼られており、見慣れない服まで着ている。

 変わり果てた娘の姿に卒倒せんばかりの妻をなだめつつ、門限を破った不良娘に対し、ここは心を鬼にしていざ愛の鞭を振るわんと決心を固めた瞬間、

 

『お父さん、お母さん……っ!』

 

 涙目の愛娘に抱きつかれて、何を決心しようとしていたのか忘れた。私はわるくない。

 「おひさしぶりです……」とか言っていたが何かの遊びだろうか?

 それはともかく。

 曰く、ユイちゃんの家に遊びに行ったが転んでしまい、傷の手当と着替え、更には帰り道のために懐中電灯まで貸してもらったとのこと。なんという心遣いか。今度、菓子折りを持っていかねばなるまいと心に決める。

 とはいえ、妙な話でもある。あの怖がり屋の娘が、ましてや物心ついた時には「見えて」いた娘が、この夜道をひとりで帰ってきたのだ。娘が泣き止んだ後、何か変なモノは見なかったか、それとなく聞いてみたが、

 

『――()()()()()()()()()?』

 

 にこり、と笑いながら答えた娘に、何故か背筋に寒いものを感じた。私にそんな趣味はない……はずだ。

 その娘はというと、今は2階の自室で机に向かっている。学校の成績はともかく、生真面目な娘だ。夏休みの宿題も早々に終わらせているはずだが、一心不乱に何かをノートに書いている姿には、どこか鬼気迫るものがある。

 もしや反抗期かと、なるべく足音を立てないように階段を降りる。しかしそんな私の努力を嘲笑うように階段はギシギシと音を響かせるものだから、更に憂鬱になって溜息をついた。

 やはり、そろそろ引っ越すべきか。これもハルのためだ。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ガリガリと、鉛筆を走らせる音だけが響く。書かれている文字も、達筆と言って良いほど。しかし、それを書いているのが幼い少女で、書かれているのも子ども用の自由帳というのは、ある種の異様な光景でもあった。

 ハルは、帰宅してから両親との再会と夕食と入浴を手早く済ませ、自室で机に向かっていた。しかし宿題を片付けているわけでも、絵日記を描いているわけでもない。

 自由帳にはびっしりと文字が並んでいる。更には簡単な年表や人物の相関図まで書かれており、さながら警察の捜査資料のごとき様相であった。

 ハルは情報を整理していた。

 ここ数時間で起きた理解不能の現象について、ユイの一家に起きた出来事について、あの夏について。かつての経験と記憶、調べ上げた事実を元に、思い違いや記憶違いが無いよう確認していく。

 それらの要点を大まかに分ければ、以下のようになっていた。

 

・自分はタイムスリップに似た何らかの現象に巻き込まれ、若返った姿で過去に戻ってきた。

・今は、あの夏のちょうど2年前である。

・ユイの一家はまだ全員が無事である。

・ただし、ユイの父親はすでに「あの声」を聞いている。危険な状態。

 

 何の為にこんなことをしているのかなど、分かり切ったこと。ハルは今度こそ助けるつもりなのだ。

 ユイと、あの夏に失われた全てを助ける。自分がこの時代に戻ってきたのはその為なのだと信じて疑わなかったし、例えそうでないとしても、自分の意思でやってやる、と。

 故に失敗は許されず、細心の注意を払いながら慎重に事を進めるべきだった。

 だが、しかし。

 トン、と尖った鉛筆の先がユイの父親の文字を指す。あの状態を見るに、彼はすでに「あの声」に取り込まれかけている。もはや猶予は無いように思えた。

 問題はまだある。

 そもそも今のハルは8歳の少女に過ぎない。できることなど、たかが知れている。それであの凶悪な蜘蛛神に対し、いかにして反攻に転じるか。

 ハルは黙考する。トン、トン、トン……、と鉛筆が紙を叩き、最後にトンっと、ある一点を指した。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 深夜、暗い廊下の奥でうずくまっていた男は、のろのろと立ち上がった。ようやく「声」がおさまったのだ。

 一歩、一歩、確かめるように歩く。これは自分の意思だ、「声」ではなく、自分の意思で歩いているぞと、自分に言い聞かせながら階段を上った。

 そっと、一室に入る。

 橙色の常夜灯に照らされた六畳間、その真ん中に敷かれた布団の中で、最愛の娘が眠っていた。

 普段は溌剌(はつらつ)と束ねられた髪は下ろされ、あどけない寝顔をさらしている。特に気に入っているらしい赤いリボンは、勉強机の上で丁寧にたたまれていた。

 買ってあげたばかりの、ウサギ形のナップサックを大事そうに抱えているのを見て、ついに男は耐えられなくなって顔を覆う。娘の眠りを邪魔しないよう、必死に嗚咽(おえつ)を噛みころした。

 わたせない。わたせるはずがない。

 なのにあの忌々しい「声」は、この娘と同じだけ愛している妻も共に、わたせよこせ連れてこいと男を(そそのか)してくる。元より意志薄弱を自覚している男には、これ以上あの「声」に逆らっていられる自信も無かった。

 その内に自分は、それが良い事であると確信しながら妻子を差し出してしまうのだ。最後は、山の中に首吊り死体が三つ仲良く並ぶだろう。

 ふざけるな。

 それだけは絶対に許さない。死ぬのは自分一人で良いはずだ。好奇心に負けて禁忌に触れてしまった愚か者だけで良いはずだ。愛する家族を道連れになどしたら、それこそ死んでも死にきれない。

 

 ――ユイ。

 

 声には出さず、カサカサの唇だけで娘の名を紡いだ。涙を拭い、起こさぬよう亜麻色の髪にだけそっと触れる。

 覚悟を決めなければならない。

 昨日、突然デパートに行こうと妻子を誘ったのも「最後の思い出」にする為だったはずだ。

 男には一つ、切り札があった。

 自分を苦しめる「声」の主とは対を成すとされる「あの神」の力を使えば――。

 

 

 トゥルルルル トゥルルルル

 

 

 階下から鳴り響く電子音に、男の思考は中断された。怪異でもなんでもない、ただの電話だ。慌てて、だが娘を起こさぬよう部屋を後にし、足早に階段を降りる。

 

 ――誰だ、こんな時間に。

 

 どうせ(ろく)な電話ではないだろうが、妻子の眠りを妨げたくない一心で受話器を取った。

 

「……もしもし?」

『このような夜分に申し訳ありません』

 

 高くて錆びの無い、女の声。しかしひどく凛然(りんぜん)とした、よく響く声でもあった。聞き覚えは無いが、どこかで聞いたことがある気もする。

 不審に思った男が電話を切る前に、相手は無視できない言葉を投げかけてくる。

 

『貴方は、山の神の禁忌に触れましたね』

「な……」

 

 ――何故、それを。

 

 動揺した男は、訳もなく周囲を見回す。暗い廊下には、誰もいはしなかった。

 

『そして今、貴方は頭の中で響く声に苦しめられている。違いますか』

「……」

 

 電話口の向こうからは、わずかに風の音が聞こえた。外からかけているのだろうか。近くの窓を覗いてみるが、外は真っ暗で何も見えない。

 

『単刀直入に言います。私は、貴方を助けたい』

「待ってくれ。君は誰だ。いったいなぜそんな」

『これ以上は、会ってお話を。南の公園で待っています』

 

 切られた。呆然と手に下げた受話器から、ツーツーと虚しい音がわずかに聞こえる。

 

「何なんだ……」

 

 ――しかも外で会うだって? 今から? 冗談だろう。

 

 この町の大人たちは、決して夜に外出しない。その理由は、男も当然知っている。常ならば一顧だにしない悪戯(いたずら)電話。だが、

 

「……ああ、くそ」

 

 玄関に向かい、懐中電灯を探すが見つからない。夕方、娘の友達に貸してしまったことを思い出す。

 そういえば、あの子は無事に帰れただろうか。送っていくと言ったのに固辞されてしまった。

 仕方なく、予備のペンライトだけを持って外に出た。目指すは、町の南の公園。

 

 助かりたいと、思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()

 自販機の陰に、横断歩道の中に、塀の上に、車の下に。

 人に似たナニカから、まるで似ていないナニカまで。悪意に満ちた姿のナニカから、まるで理解不能な姿のナニカまで。

 

 ――勘弁してくれ。

 

 電柱に張り付きながら、男は早くも後悔し始めていた。

 これこそが、大人たちが夜を恐れる理由。

 変質した町中を我が物顔で闊歩する「人でないナニカ」の群れだ。

 公園までは、昼間であれば徒歩で5分もかからない距離。それが今や果てしなく遠い。

 痩せた体を活かして電柱と同化している男の脇を、犬のようなナニカが通り過ぎていく。はっきりとは見えなかったが、犬じゃないことだけは確かだ。

 そういえば、娘が犬を飼いたいと言っていた。ポメなんとかとかいう犬種がいいとかなんとか。……などと、頭はすぐに現実逃避を始めようとする。

 なかなか次の一歩を踏み出せない男の目に、古びた公衆電話が映った。時代に取り残されたような電話ボックス。特に根拠もなく、電話の主はあそこからかけてきたのではないか、と思った。

 とにかくあそこまで行こう、と決める。根が生えそうな足をなんとか動かし、歩き始めた男の背に「わんっ」と鳴き声がかけられた。

 犬のような鳴き声。しかし犬じゃないことだけは確かだ。

 振り返りたくもなかったが、振り返らないわけにもいかない。背後には案の定、巨大な頭で、一つ目の、犬じゃないナニカがいた。

 

「……勘弁してくれ」

 

 今度は声に出た。

 さてどうしたものか、と半ば思考を放棄し始めている頭を回す。そして自分が丸腰であることに今更気付いた。こんなことなら塩か骨付き肉でも持ってくるんだった。

 走るしかないと無謀な決意を男が固めたあたりで、不意に小石が落ちる音を聞いた。見れば、犬のようなナニカはどこからか飛んで来た小石を(くわ)えて走り去っていく。

 なんだか分からないが、助かった。

 気を取り直して進もうとした矢先、今度は道の向こうから(なた)を振り上げながら迫ってくる白いナニカがいた。分かりやすすぎる凶悪な姿。その数、3体。

 

「勘弁、してくれ……っ!」

 

 もはやアレが人だろうと人じゃなかろうと逃げるしかない。来た道を戻ろうとする男の手を、誰かがくいと掴んだ。

 

「え――」

「走って!」

 

 言われるがままに走りだす。誰だ、とか。電話の主だ、とか。背が低い、だとか。なんであの凶悪そうなのにつっこむんだ、とか。状況に思考が追いつかない。

 対して、男の手を引く誰かは冷静に対処した。3体が持つ鉈の間合いに入る2歩前で、紙飛行機を放る。見事なフォームと軌道で飛ばされたそれを追いかけていくナニカを尻目に。男と誰かは夜道を駆け抜けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 辿りついた公園もまた、不気味な夜に包まれている。遊ぶ者のいない遊具はどれも、意味不明な形状のオブジェのように見えた。

 かわりにナニカ達の気配は無い。見れば公園内には点々と、盛り塩が施されている。誰がやったのかなど、考えるまでもない。

 

「ここまで来れば、ひとまずは安全です。危なかったですね」

「まあ……、その……、とりあえず……、ありがとう……っ」

 

 息も絶え絶えな男に対し、誰かは平然と「どういたしまして」と(うそぶ)く。流れるように差し出された水のペットボトルを受け取り、中身を半分ほど流し込んでようやく、男は一息ついた。

 

「……それで、これはいったいどういうことなんだい。……ハルちゃん」

 

 普段は下がっている眉毛を申し訳程度に吊り上げながら凄んでみせるも、誰か――ハルは泰然(たいぜん)とした態度を崩さない。

 

「驚かないんですね」

「まあ、ね」

 

 正確には、驚きすぎてかえって冷静になっている。

 深夜にかかってきた奇妙な電話の奇妙な相手が、まさか娘の友達でもある幼い少女だったなど、いっそ全部が悪い夢だった方がまだ現実味があるだろう。

 しかも、雰囲気がまるで違う。

 直接会ったことは少ないが、いつも娘に引っ張られているような大人しい子だったはずだ。少なくとも、この夜の町であのナニカ相手に大立ち回りした目の前の少女と同一人物とは思えない。

 ましてや、ほんの数時間前には娘に抱きついて大泣きしていたというのに、この変わり様はいったい何なのか。

 まるで別人。特にその目が、少女らしからぬ異様な輝きを放っていた。

 

「……言いたいことは山ほどあるけど、とりあえず僕に何の用なのかな」

「電話でお話した通りです。私は、貴方を助けたい」

「助けるって……」

 

 ――君は、まだ子どもだろう。

 

 しかし、何故かその一言が出ない。出せない。

 この少女が、少女の姿をした得体のしれない何者かに思えてならない。夢と現実の境を曖昧(あいまい)にするこの夜のせいか、どうにも思考が地に足をつかない。

 

「普通は、逆だろう」

 

 結局は、そんな陳腐な一般論しか口から出てこない。

 

「普通、ですか」

 

 笑いを含んだような声でハルは言う。言いながら、手元も見ずに折った紙飛行機をつい、と飛ばした。

 男の顔を掠めるように飛んだそれを目で追うと、巨大な顔と目が合った。

 もはや悲鳴すらあげられずに尻もちをつくと、道をふさいでいたその巨大な顔のようなナニカは、無数の足を(うごめか)かせながら暗い道に消えていく。

 

「こんなモノを見てもまだ、そのような言葉が出せるのですね」

 

 ハルが、男の正面に立つ。視点は、ハルの方が少し上。

 街灯を背後にするハルの顔は闇に塗りつぶされ、眼光だけが爛々(らんらん)と輝いていた。彼女もまた怪異の一員だとでもいうように。

 

「貴方達は皆、知っているはずです。この町は、普通ではないモノで満ちている」

「お化け、幽霊、妖怪、化け物、なんと呼ぼうが、怪異であることに違いは無い」

「それでも貴方達は、貴方はそれを受け入れている」

「アレは “そういうもの” なのだと受け入れている」

 

 畳みかけられる。夜の闇が、怪異の群れが、ハルの声が、ぐらぐらと男から現実感を奪っていく。

 

「だから、そうやって私のことも受け入れれば良い」

「私は貴方の娘の友達で、まだ子どもで、しかし貴方が山の神の禁忌に触れたことを知っている」

「貴方の力になりたいと言っている」

「ならば、深いことなど考えず、力を借りれば良い」

 

 だって、“そういうもの” でしょう? ハルは、そう締めくくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダメだ」

 

 数秒か、数分か、自分でも分からない長さの黙考の末、男はなんとかその言葉を発することができた。

 流されそうになる自分を叱咤するように立ち上がり、ハルを見下ろした。これが “普通” の関係だと。

 

「君はまだ子どもなんだ。確かに君はお化け達のことに詳しいみたいだし、何故か僕の事情も知っているようだけど、だからと言って君を巻き込むわけにはいかないんだよ」

 

 気持ちは嬉しいけどね。申し訳程度に謝意を付け足すも、案の定ハルは不服そうだ。

 

「ご自分でどうにかできる、と」

「方法が無いわけじゃ、ない」

 

 自分の左手を見ながら、絞り出すように答えた。薬指に光る指輪。この手でつないだ小さな手。未練など山ほどあるが、それでも――。

 

 

「 “()()()()()()” 」

 

 

 またしても、ハルの言葉に意識を揺るがされる。

 

「あの山の神と対を成す “縁切りの神” の力。それを使って家族との縁を切り、貴方ひとりで死ぬ。……そういうことですか」

「……本当に、なんでもお見通しなんだね」

 

 もはや驚きもできない。どこまでも底のしれないこの少女に、しかし男は別の希望を見出し始めてもいた。

 

「なら話が早い。ハルちゃん、君が何者なのかは分からないけど、僕がいなくなった後、どうかユイの力に――」

 

 

「それで家族を救ったつもりですかっ!」

 

 

 裂帛(れっぱく)の怒声。

 ギラギラと地獄の炎のような輝きを放つハルの目に射貫かれ、男はつい「ひゃい!」と情けない返事をしながら再び尻もちをついてしまう。

 ハルも、どこか芝居じみていた態度は消え、今や本気としか思えない怒りを露わにしている。

 

「何も言わずいなくなって! ひとりで死んで! それで満足ですか!」

「残された人が、それで幸せになると思うんですか!」

「ユイが! ユイのお母さんが、そんなに薄情だとでも思ってるんですかっ!」

 

 更に「ユイが、」と何かを言いかけ、ハルは男に背を向ける。荒ぶる感情を抑えるように肩を震わせているその後ろ姿だけは、年相応の少女に見えた。

 男もうつむき、沈黙だけが夜の公園を流れる。

 数秒か、数分か、ようやく男が声をかけようとした時、

 

「ハルちゃ――」

「断言します」

 

 背を向けたまま、ハルは決然と告げた。

 

「貴方がひとりで死んでも、誰ひとり幸せになんて、なりはしない」

 

 今度こそ、男はかける言葉を無くす。

 わかっているのだ。自分がやろうとしていることが、家族を不幸にすることなど。しかし、だからといって。

 

 ――じゃあ、どうしろって言うんだ。

 

 持ったままのボトルが、くしゃりと音を立てて歪む。

 男とて、死にたいわけではない。もっと生きたい。愛する妻と添い遂げたい。愛する娘の成長を見守りたい。今この場に来たのも、もしかしたらと(わら)にも縋る思いだったからだ。

 しかし現実は、自分ひとりが死ぬか、他の誰かも巻き込んで死ぬかの二択を迫ってくる。ならば前者を選ぶしかないと、毒を(あお)るような心地で決断したのだ。

 全ては、禁忌に触れてしまったが故。あの時、好奇心に負けなければ。あの蜘蛛のような神さえ、いなければ。

 ……あいつさえ、いなければ。

 

 

「そもそも」

 

 

 男が後悔と自身への怒り、そして「声」の主への憎悪に沈もうとした時。それを感じとったように、ハルのぞっとするような声が耳に流れ込んでくる。

 目を落としていた左手に、小さな手がするりと絡みつく。白い蛇のように。

 そして男の耳元で、ハルは囁いた。

 

 

()()が、ユイを生かしておくとでも思うのですか?」

 

 

 男が、顔を上げた。

 

 

「――――なんだって?」

 

 

 火の点いた顔だった。

 カサカサに乾き、枯れた落ち葉のようになっていた心に、その火は容易に燃え広がっていく。あとは、煽るだけとばかりにハルは続けた。

 

「これも断言します」

「あの蜘蛛のようなナニカ、山の神、縁結びの神。なんでも構いませんが、あの悪辣(あくらつ)なアレが、貴方ひとりの命で満足するはずがない」

「たとえ家族の縁を切ろうと、一度目をつけた獲物を見逃すなどありえない」

「貴方がひとりで死んだ後、守る者のなくなったユイと奥様を、ゆっくりと、」

「殺すでしょう」

 

 男は、ただハルの言葉を待った。

 もはや選択肢など無かった。自身の死が何の解決にもならないというなら、道は一つしか無かった。そしてその為には、この少女のようなナニカに縋るしか無かった。

 

 

「あの山の神を倒す。その為にどうか協力してください、()()()()()

 

 

 男は、ユイの父親――ユウジは、その手を取った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――上手くいった。

 

 ユウジを家まで送り届けた後、ハルは塀に背をもたれ、ほっと息をついた。

 元より交渉事に秀でていたわけでもないが、そこは年の功。長年の人生で培った口八丁(くちはっちょう)でなんとかなった。

 依頼か、脅迫か、あるいは煽動か。とにもかくにも、ユウジに協力の約束をとりつけることができたのだ。

 

 ハルは早々に、独力での戦いを諦めていた。

 元より、ハルには何の力も無い。“前回” にしても、あの蜘蛛神を打倒できたのは偶然と幸運がいくつも重なり、更にあの縁切りの神の助力を得られたからでしかない。もう一度同じ道をたどったとして、また上手くいく保障などなかった。

 武器となり得るとすれば、ハルの知識。

 時間逆行か、繰り返しか、この奇妙な現象で生まれた優位性(アドバンテージ)。過去の調査で明らかにした、あの事件に関する全ての情報と、己の90年の人生という後ろ盾だけ。

 しかしそれでも、今のハルはただの少女、しかも前回より更に2歳も幼い。もはや幼児と言っても差支えの無い少女にできることは、そう多くない。

 協力者が必要だった。

 そこで目を付けたのがユウジ。親友の父親という間柄、大学教授というそれなりに力のある立場、この町の住人特有の怪異への理解、そして何より事件の当事者でもあるという、この上ない適任であった。

 そもそもユイを襲った悲劇の多くは、ユウジの死が起因するものだ。仮にハルが独力で蜘蛛神を打倒したとして、結果としてユウジが死んでは意味が無い。

 ユウジを協力者とし、監視下におくことで同時に護衛する。それがハルの出した結論だった。

 

 その為にハルは迅速に行動した。

 ユウジが「声」を既に聞いている以上、悠長に作戦を練っている時間も、気長に説得する時間も無い。だから、あえて夜に呼び出した。

 この町の危険な夜を体験させ、ハル自身の正体をさらし、見るモノ全てが異常という状況を作り上げて、冷静さを奪った。

 ユウジがしようとしていることを予見し、その結果を暴露し、後悔を憎悪にすり替え、蜘蛛神への敵愾心(てきがいしん)を煽った。

 ユウジへ語ったことも、全てが嘘ではないが真実でもない。家族の縁さえ切れば、彼の妻も命だけは助かっただろう。前回ユイは確かに蜘蛛神に殺されたが、それはユウジでなくハルとの縁によるものだった。

 半ば騙したようなものだが、致し方なし。謝罪なら、全てが終わってからいくらでもすれば良い。ハルは開き直った。

 

 ――帰ろう。これから忙しくなる。

 

 顔を上げ、空を見上げる。新月の暗い空の中、北に(そび)える山の巨影を睨んだ。その影に、左手を重ねる。かつて失ったその手で、山を握りつぶすように。

 それは、静かな、ひとりだけの宣戦布告だった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 暗い夜道、ひとり、はるか遠くに左手をつきつける少女。

 

 それを、その “お化け” はただ見つめていた。

 

 その黒い触手をゆらめかせながら。

 

 ただ、見つめていた。

 




ユイパパの名前は捏造です。

ユイ父 → ユイヂ → ユウジ(この間3秒)
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