遠い、遠い、
遠い、遠い、
其処には、二つの “ 手 ” があった。
右の手は、縁を切り。
左の手は、縁を結ぶ。
故に。
右の手には、赤い “
左の手には、赤い “
一つずつ、握られていた。
※
アルバイトの男たちを見送り、ユウジを
まず目指すは、山の頂上付近。ユウジが蜘蛛神の目を引きつけている間に到着する、はずだったのだが……。
「はあ、はあ、ひい……」
「ハルー、がんばってー、ほらー」
ハルは山登りに音をあげ始めていた。
朝の元気はいったい何だったのか。ユイに手を引かれ、時に背中を押されながらようやく山道を登っていく。
元よりハルは運動が得意ではない。むしろ苦手だ。更に“ 前回 ”より幼い体は脚力にも乏しく、ついでに言えば中身も90歳の老女であった。
そして何よりも、
「重いぃ……!」
「ちょっと入れすぎじゃないの、これ?」
二人がかりで運ぶ荷物のせいだった。大きな袋に詰められたのは、大量のぬいぐるみ。その全てが、頭と手足を持つ人型だった。一つ一つは軽くとも、塵も積もれば何とやら。数十個のぬいぐるみを詰められた袋は結構な大荷物と化していた。
「ひい、ひい、ふう……」
「あーもう、ハルはいいよ。ほら貸して」
ついには変な呼吸を始めるハルを見かねたのか、ユイに荷物を取り上げられた。その大荷物をひょいと担いだ上でスタスタ進んでいく親友の姿を見て、ハルは自身との体力差に絶望すら覚える。もっとも、ユイの身体能力は同年代の女児と比べて、明らかに突出してもいたのだが。
当のユイは、スキップでもしそうな軽い足取りで先を行き、くるりと振り返った。
「ね? わたしがいて良かったでしょ」
悪戯っぽい笑みで言われれば、もはやぐうの音も出ない。実際、これを一人で運ぶのが本来のプランだったのだ。見通しが甘かったとしか言いようがない。
「はーい、頼りにしてまーす……」
「ん、よろしい」
実に嬉しそうな顔のユイは、更にハルの手も引いて山道を進む、ユイの力も加わって、さっきよりも楽に登ることができた。
――かなわないなぁ。ほんとうに……。
またユイに甘え始めていることを自覚しながらも、それも悪くないかと心のどこかで思ってしまってもいた。
ユイに手を引かれながら、もう片方の手で背負った物の
元々ユイが使っていたナップサックを自ら改造したらしい。ボタンの目と、フェルトの大きな耳をしっかり縫い付けられたそれを、今日の出発前に渡された。ユイの指にいくつも絆創膏が貼ってあるのが見えて思わず目が熱くなったのも、ついさっきのことだ。それを見ていたアルバイトの男たちも何故か泣いていた。
ユイの手。ユイの鞄。力強いことこの上ない。ユイと力を合わせて、今度こそ皆で帰るのだ。それで良い。
だからこそ。
――コトワリさま……。
あの縁切りの神の力を、なんとしても借りなければならない。
プランが全て上手くいけば、人の力だけでも蜘蛛神を追い詰められるだろう。だが最後の詰めだけはあの神の力を借りる必要があるというのが、ハルの考えだった。
その為にハル達は、山の頂上から下山する形であの神社を目指しているのだ。この大荷物も当然、かの鋏神への供物である。そしてまた一つ、大事なことをハルは思い出した。
「ユイ、何度も言うけど、
「わかってるよ、アレでしょ。“もうい――」
「ダメだってば!」
冗談なのか本気なのか、あっさりと例の
モガモガ言わなくなったのを確認してから、ユイの口を開放した。
「ぷは。……それでなんだっけ、そのハサミお化けにお参りするんだっけ?」
「お化けじゃなくて神様だよ。でも今はちょっとおかしくなってて、良いお化けみたいになっちゃってると言うか……」
「良いお化け」
「見た目は怖いけどね。でも良くも悪くも容赦が無いから、やってる事は悪いお化けになっちゃってると言うか……」
「悪いお化け」
「うん」
「……」
ユイは口を尖らせた。
「……いま、わたしのこと体力
「お、思ってないよぉ!」
ようやくたどり着いた神社は、記憶の中の通りに荒れ果てていた。
「……ひどいね」
「うん……」
この惨状を初めて見たユイも、前回のハルとまったく同じ感想を漏らした。怨みつらみに満ちた願いを書かれた絵馬を横目に、改めてハルはかの鋏神に思いを馳せる。
ここまで穢されてもなお、あの神は慈悲深くあろうとした。己に助けを求める
ハルが境内を清めた後は、本来の姿に近い在り様となっていた。ハルを助け、その力を貸し、そして最後にハルとユイを……救ってくれた。
左手を胸に当てて祈る。かつて、鋏神に断ち切ってもらった左手を。
――もう一度、お力を借ります。
「……よし! じゃあユイ、まずはこのゴミを――」
ユイの背後に “ ソレ ” がいた。
「っ!」
叫ぶ間すら無い。全力でユイを押し倒し、その上にかぶさる。すぐ頭上で、金属音が通り過ぎて行った。
「――な、ハ、え?」
「ユイっ! 立って!」
目を上げれば、金属音の主は再び迫っている。今度はユイを引っ張り起こして突き飛ばし、袋からぬいぐるみをつかんで放り投げた。
ジョキキキキキンッ!
恐るべき速さだった。金属音がほぼ一度に聞こえる程の、まさに
ハルと共に、ようやく立ち上がったユイも、その姿を見た。
まず何よりも先に見えたのは、巨大な赤い
一本ではない、太さも大きさも異なる何本もの腕が、我先にと鋏を掴んでいる。
腕たちの根本には赤い霞が塊を成し、そこにまた巨大な口があった。
鋏を持つ手。それをこの上なく恐ろしげに描けば、このような姿になるだろうか。
「コトワリさま……?」
ハルが、その神の名を呼んだ。
元よりこの神への助力を乞いに来たのだ。ここにいるのは当然であり、いてもらわなければ困る。だが。
――なんで? なんで現れたの?
この神に助けを求める
何かがおかしい。
“
考える間もあればこそ。金属音と雄叫びを同時に響かせ、鋏神がみたび突進してくる。
「うわぁっとっと!」
対してユイは俊敏な動きでこれを回避。代わりに、落ちていたタイヤのゴミがきれいな半円になったのを見て顔を引きつらせた。そしてまた金属音。切っ先がユイを指す。
そうはさせじと、ハルがぬいぐるみをばら撒いた。鋏神を囲むように3つ投げられた供物は、その全てが地面に落ちる前に裁断、計18の残骸となって降り注いだ。あまりの手際に拍手でも送りたくなる。こんな状況でなければの話だが。
金属音。その切っ先はやはりユイに向いている。これはもう明らかに、
「ユイを狙ってるの……?」
「だね」
見れば、ユイはナップサックを下ろし、袋からぬいぐるみをいくつか取り出す。どこか不敵な笑みを浮かべ、つま先をトントンと鳴らした。
「あの神さま、わたしと遊びたいってさ」
「な……、ダメだよユイ! そんな」
「へーきへーき、鬼ごっこじゃ負けなしだよ? わたし」
ユイの声は、わずかに震えていた。その手も、足も。
ユイは無敵のヒロインなんかじゃない。容易に傷つく。容易に、死ぬ。
だが、それでも。
「……わかった。絶対つかまっちゃダメだからね!」
「はいはい。ほら神さま! こっちだよ!」
ユイが駆け出し、鋏神がそれを追う。ハルはもうそれを見ず、境内に走った。
ユイを信じる。信じて、一秒でも早く境内を清める。それがハルの役目だ。
命がけの鬼ごっこと、命がけのゴミ拾いが始まった。
――これは鬼ごっこ! ただの鬼ごっこ!
半泣きで境内を走りまわりながら、ユイは必死にそう繰り返していた。
ハルにはああ言ったが、もちろん強がりだ。あんなモノを見て、怖くないはずがない。追いかけられれば尚更だ。
捕まれば鬼を交代するどころの話ではない。どうなってしまうかなど、あのハサミを見ればイヤでも分かる。
だが捕まらなければ、捕まりさえしなければ。
「いよっと!」
神さまが間近まで迫っていたのに気付き、ぬいぐるみを投げる。2秒ともたずにバラバラにされたが、2秒は2秒。その間に距離を稼ぐ。
いったい、どういう
「変な神さま!」
置かれた袋から素早くぬいぐるみを補充。休む間もなく、ユイは駆け出した。
――はやく! はやく! はやく!
境内のゴミをかき集めながら、ハルは必死にそう繰り返していた。
境内の中央に敷かれた石畳、よく見ればそれは人の形をしている。特殊な石材で作られたそれ自体が巨大な
だが大量のゴミが、その輝きを隠してしまっていた。だからハルは、今こんな状況でゴミ拾いなどしているのだ。
「ひとつ!」
ようやく一つ目、右手にあたる部分の石畳が輝きを取り戻した。息つく間もなく次のゴミ拾いに取りかかる。
両手に抱えて運ぶなど時間がかかりすぎる。もはやなりふり構わず、ゴミをつかんで石畳みの外に放り投げた。掃除どころか逆に境内を荒らしているような有様だが、それはそれ。
あの鋏神とて問答無用で襲ってきたのだ。後で改めて掃除するので勘弁してもらいたい。
「ふたつ!」
右足が輝いた。あと、3つ。
ユイは、神さまの奇妙な動きに気付いた。
ふわふわと浮かぶあの神さまは、足音など当然しない。後ろから迫られれば、近づいているかどうかすら分からないはず。なのに。
金属音。そして雄叫び。ユイは横っ飛びで回避。やっぱりだ。
あの神さまはユイに突進してくる前に必ず、ハサミをジョキジョキと鳴らす。そして雄叫びをあげながら突っ込んでくるのだ。そういう癖なのか、それとも何か理由があるのか。
ユイは何故かその時、予防接種の注射を思い出していた。「チクッとするよ」と心の準備をさせてくれるお医者さんの声。まさかあれも、そうなのだろうか?
――「今からジョキンとするよ」って?
優しいんだか怖いんだか分からない。まったく本当に、
「変なっ、神さ、まっ!」
酸欠寸前の体を必死に動かし、ユイは走り続けた。
「みっつ!」
幸い、左足の部分はゴミが少なかった。これで6割はおわり。左手の部分に取りかかる。
汚れた空き缶、片っぽだけの長靴、割れたバケツ、もうよく分からない何か。手あたり次第に掴んで放り投げていく。それがいけなかった。
「痛っ……!」
割れたビンを、左手で掴んでしまった。柔らかい掌から血が流れる。ドクドクと、傷が脈打つ。深い。
――知るもんか!
視界の端で、ユイが転んだ。すかさずぬいぐるみを投げて囮にし。その間に立ち上がって走りだす。その足はガクガクと震えていた。
左手がなんだ。元より80年前に失ったもの、欲しいというならもう一回くれてやる!
「よっつ……!」
痛みを無視し、血まみれになったゴミを放り投げる。ついに頭の部分に辿りつき、そして絶句した。
「嘘でしょ……」
いったい誰がこんな物を捨てたのか。墓石のように聳え立つ、大型冷蔵庫がそこにあった。
あれだけあったぬいぐるみが、無くなった。
ここからは、もう自分の足だけで逃げ切らないといけない。でも。
「はあ……、はあ……っ!」
足が痛い。胸も苦しい。息をするたびに喉で血の味がする。頭まで痛くなってきた。
もう、走れない。
神さまは、当然というか疲れた様子なんてない。ずるいと思う。
「はあ……、はーっ」
神さまが、ジョキジョキ鳴らしてから、ハサミを向けてくる。
まっすぐじゃなくて、
雄叫び。
「……ほっ!」
左足だけを、ひょいと上げる。靴のすぐ下で赤いハサミが閉じた。
神さまがハサミを引く。律儀に、またジョキジョキ鳴らしてくれている。こんどは、右。
右手だけを上げる。ジョキジョキ。
次は左手。ジョキジョキ。
また左足。
右手。
左足。
右手。
左手。
左…。
……。
……。
首!
仰向けに倒れて避けた。後ろ向きにでんぐり返って立ち上がる。神さまが、ハサミを開く。
ほんのすこしだけ、体力も戻ってきた。だから、口をひんまげて、悪そうな顔で言ってやった。
「どう? うまいでしょ」
“ ………… ”
「……なんか言ってよね」
あんなに大きな口があるのに、全然しゃべらない。本当に変な神さまだ。
その変な神さまの向こう側で、ハルが変な声を出していた。
「ふんぬうぅああぁっ!」
乙女の恥らいもかなぐり捨てたような声をあげながら、ハルは冷蔵庫と格闘していた。
両手を広げてがっぷりと組みつき、がに股になろうと構わず、両足に全霊を注いで押し出そうとする。
しかし、ビクともしない。
中に何か詰まっているのか、明らかに異常な重さだった。扉を開けようとするも、錆びついていてまったく開かない。
散乱したゴミの中から使えそうな道具を探したが、そんなもの都合よく落ちてはいなかった。
「うごいてえぇ……っ!」
こうしている間にも、ユイは追い詰められている。バラバラになった親友の姿を頭から振り払いながら、ひたすら押して、押して、押し続ける。
左手の出血が止まらず、白いシャツの左半分は真っ赤に染まっていた。それでも、動かない。
はやくしないとユイが、ユイが。
「ユイぃ……!」
「ハル――っ!」
目を開ける。
ユイが、こちらに走ってきた。
その後ろには当然、鋏神が追ってきている。既にジョキジョキと鋏を鳴らし、雄叫びをあげていた。
「
まるで意味不明の、ユイの叫び。だが、ハルは動いた。
その場でうずくまり、丸くなる。
大股で、跳ぶように助走する。
頭を抱えて、衝撃に備えた。
踏み台となったハルを、遠慮なく踏みつけ、
予想以上の衝撃に耐えきれず、
冷蔵庫の上に両手をつき、
「ぐえ!」と潰れたカエルのようになり、
見事な開脚飛びを披露し、
その頭の上を、
その足の下を、
金属音と共に、鋏神が通り過ぎて行った。
真っ二つになった冷蔵庫の上半分は、なんと神社の外まで飛んで行ってしまった。
残った下半分の断面からは、雨水であろう汚水がバシャバシャとあふれ出てくる。
ハルは、潰れた体を石畳から引っぺがすように立ち上がり、
ユイは、猫のように軽やかに着地するとすぐに反転し、
全身全霊の押し出しを、
全速全力の飛び蹴りを、
「「 せえ―――のっ!! 」」
重さが激減した冷蔵庫にお見舞いした。
いつつ。
形代が、完成した。